紀元節  

 本日は、辛酉の年春正月庚辰朔、神武天皇が、橿原宮において御即位の式を擧げさせられたる目出度き日なるぞ。

●第一代 神武天皇 『即位建都の大詔』に宣はく、
自我東征。於茲六年矣。頼以皇天之威。凶徒就戮。雖邊土未清餘妖尚梗。而中洲之地無復風塵。誠宜恢廓皇都、規■(「莫」+下に「手」)大壯。而今運屬此屯蒙。民心朴素。巣棲穴住。習俗惟常。夫大人立制。義必隨時。苟有利民。何妨聖造。且當披拂山林。經營宮室。而恭臨寶位。以鎭元元。上則答乾靈授國之徳。下則弘皇孫養正之心。然後兼六合以開都。掩八紘而爲宇、不亦可乎。觀夫畝傍山東南橿原地者。蓋國之墺區乎。可治之


我れ東に征してよりこゝに六年なり。頼(さいは)ひに 皇天の威を以て凶徒戮につき、邊土(ほとりのくに)いまだ清(しづ)まらず、餘妖なほ梗(たけし)と雖も、中洲の地また風塵なし。誠に宜しく 皇都を恢廓し、大壯(みあらか)を規■(「莫」+下に「手」=ぼ)すべし。而して、今や運は此の屯蒙に屬し、民心朴素にして、巣棲穴住の習俗惟れ常なり。夫れ大人の制を立つるや、義必ず時に隨ふ。苟くも民に利するあらば、何ぞ聖造(ひじりのわざ)たるを妨げむや。且つ當(まさ)に山林を披き拂ひ、宮室を經營し、恭(つゝし)みて寶位に臨み、以て元元(おほみたから)を鎭むべし。上は則(すなは)ち乾靈國(あまつかみくに)を授くるの徳に答へ、下は則ち 皇孫正を養ふの心を弘め、然る後、六合を兼ねて以て都を開き、八紘を掩ひて宇(いへ)となさむこと亦可ならずや。夫(か)の畝傍山の東南(たつみのすみ)、橿原の地をみれば、蓋し國の墺區(もなか)なるか。之に治(みやこ)す可し


○大意(『虔修 大日本詔勅通解』昭和十一年九月十日「龍吟社」發售)
紀元前五年太歳甲寅年日向を立つて東幸の途に上つてからこの方六年、幸ひ 皇天の御威光によつて賊徒もおほむね平らぎ、僻遠の地方には、凶賊の殘徒が尚ほ餘勢を保つてはゐるが、大和地方一帶は土民 皇威に服し、靜謐に歸するに至つた。かくて今や 皇都を建設するべき機運に向つて居ると思はれるので、この地に都をひらき、大規模に 皇都を建設するであらう。幸ひにこの地方の土著民は、平常穴や巣の中に住んでゐて、その性質がすなほでおとなしいから、朕は仁政を布いて、先づ彼等を惠み導くであらう。思ふに大人が制度を立つるに當つては、必ずその時勢に順應した良い制度を立てねばならぬ。かりにも人民の利益になる事であつたならば、たとへ聖人の創造したものであつても、これを變更して、少しも差支へはない。朕は、いま山林をひらき拂つて宮殿を築造經營し、つゝしんで 天皇の位に即き、臣民(おほみたから)の安寧と幸福とをはかるであらう。そして上は 天つ神が、國をお授けになつた御神徳に答へ奉り、下は 皇子孫が、正しい心を養成するよすがとなし、そして後天下を治める爲の都をひらき、國を以て家となし、民を視ること子の如くするであらう。それについて大和國畝傍山の東南にある橿原の地を相するに、國の中央にあたる樞要の地と思はれるので、こゝに 皇都を建設するであらう



◎森清人翁、昭和十一年九月十日、仝書に曰く、
本詔のはじめにある「東征」の語は、古來一般に「東を征(う)つ」と訓まれ、東夷征伐即ち武力行使を第一義とするものゝやうに解されてゐるが、これは 神武天皇御東幸の眞精神を誤るものとして、私はこゝに反對の私見を述べる。この場合の「征」は「征(う)つ」と訓むべきものではなく「征(みゆき)す」と訓むべきものだと信ずる。
 ~中略~ この語を「東征」或は「征つ」と訓むことは、今日學界の常識とされ、誰も不思議とも思つてゐないやうである。現に小學校でも、さやうに教へて居ると聞く、これは國體明徴を叫ばれて居る今日、國體の本義に至大の關係をもつものとして、輕々しく看過すべき問題ではないと信じ、こゝに私見の一端を述べて、識者の教へを乞ふ次第である。先づ字義について述べる。この場合の「征」は「行」と同じく、ゆく、たびだつ、みゆきするの意である。旅行の衣裳を征衣といひ、戴復古の詩に『■(竹冠+「登」)笠相隨走路岐、一春不換舊征衣』とあり、同じく許渾の詩にも『朝來有郷信。猶自寄征衣』とある。旅人のことを征客といひ、その例としては王襃の詩に『飛蓬以征客、千里自長馳』と見えてゐる。これ等の詩の意味によつてもわかる通り、この場合の征には、少しも征伐、征討の意味はなく、いづれも行もしくは旅の義である。その他、渡り鳥のことを征鳥といひ、遠くへ行く舟を征帆といふが如き、何づれもこの例で、伐つといふ意味は少しも含まれてゐない。即ち本詔の「征」も「行」の意であつて、從つて「東征」は、「東(あづま)に征(みゆき)し」と訓むべきものと信ずる』と。

 曰く、
つぎに「東征」を直ちに「東夷征伐」と解し、征伐即ち武力行使を以て第一義的のものだとする見解は、少くとも霸道主義的なみかたであつて、わが國體精神に反するものである。わが國は、いふまでもなく霸道建國の國家ではない。道義肇國の國家である。劒を以て建てた國家に、天壤無窮はあり得ない。ローマを見よ。古代ローマ人が『世界の道はローマに通ず』といひ『ローマは一日にして成らず』と誇り、永遠のローマと信じてゐた大ローマ帝國は、ゲルマンの一庸兵の將たるオドアケルのために、もろくも亡ぼされたではないか。それはなぜか。ルードルフ・イエーリングが言つたやうに『劒を以て征服し、法律を以て統一した國家』であるからである。また秦の始皇は、從來の諡法を用ひず、自ら始皇帝と稱し『二世三世以て萬世に至り、皇統を無窮に傳へん』と豪語したが、僅かに秦は二世十九年にして亡びたではないか。劒をもつて建てた國家が、また劒によつて亡ぼされることは、古今東西、歴史の事實が示す通りである。霸道國家には、斷じて天壤無窮はあり得ない。東征の「征」を「うつ」と訓み、武力行使を第一義的に解するのは、わが國を霸道國家に自ら顛落せしむるものであつて、論理的にいつても天壤無窮の神勅と矛盾するものである。神武天皇が、日向をたつて東に征(みゆき)されたのは、明治天皇も軍人勅諭において、はつきりとお示しになつて居るやうに、中國のまつろはぬものを、まつろはせるために、征したまうたのである。すでに前にも述べた通り、まつろふはまつりあふ(祭り合ふ)の約で、同一の神を祭り合ふこと、言葉をかへていへば同一理想を奉ずることである。即ち 神武天皇は、東國の先住民族に、大和民族と同じ信仰理想を奉ぜしめ給ふべく(まつろはすべく)、征(みゆき)されたのである』と。

 曰く、
『この御詔勅には、わが肇國の大精神がはつきりと示されてあるが、これを要約すれば(一)國家の經營は 皇祖の威靈と御徳との援助の下に之を行ふとの御信念 (二)その時代々々に適應した政治を行ふべきこと (三)苟くも民のためになることは必ず實行せねばならぬとの利用厚生の御精神 (四)民に君臨するには正を養ふの心を以てすること (五)皇化を六合八紘に及ぼし 皇道精神の普及により人類を救はんとの廣大無邊の御思召し等が含まれてゐる。實に言辭莊重にして雄偉、しかもわが 皇道の根本精神が明快に説かれてゐる。この詔勅は前掲 皇祖の三大神勅(※「天壤無窮の神勅」「齋鏡齋穀の神勅」「天孫奉齋の神勅」、下記す)と共に、最も重要な詔勅で、わが國百政の根本精神をお示しになつたものであり、以後列聖の御詔勅は、いづれもこの聖旨を繼承宣明あらせられたものと拜することが出來る』と。





※三大神勅
「天壤無窮の神勅」
葦原の千五百秋の瑞穗の國は、これ吾が子孫の王たるべきの地なり。宜しく爾皇孫、就いて治らせ、行矣。寶祚の隆えまさむこと、天壤と與に窮りなかるべし


「齋鏡齋穀の神勅」
吾が兒、この寶鏡を視まさむこと、まさに吾を視るが如くすべし。與に床を同じくし、殿を共にして、以て齋の鏡となすべし。
また勅して曰く、吾が高天原に所御す齋庭の穗を以て、また吾が兒に御せまつるべし、と。



「天孫奉齋の神勅」
吾が則ち、あまつ神籬及びあまつ磐境を起し樹てゝ、まさに吾孫のために、齋ひまつらん。汝、天兒屋命、太玉命、よろしく、あまつ神籬をたもちて、葦原の中國にあま降りて、また吾孫のために齋ひまつれ。

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by sousiu | 2013-02-11 00:43 | 今日は何の日

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