大橋訥菴先生に學ぶ。七  『責難録』 五 

 承前。

●大橋訥菴先生、『責難録』前編卷之一に曰く、
○『人君の職は天職なれば、國も私の國にてはなく、悉く皆天の國なり。民も私の民にてはなく、悉く皆天の民なり。天より國と民とを付託て、治安の職を命ぜられ、國家の君となれるなれば、其天職を勤る程との、徳器なくしては叶はぬ筈なり』と。

 繰り返すがこの場合の「人君」とは「藩主」の意なり。云ふまでもなく、當時藩主たるもの藩内で絶對無二の權力を保持してゐた。征夷大將軍は、更らにその頂上たるものだ。民も亦た、天下に將軍あるを知りて 天子あるを知らなかつた。將軍畏れるを知りて、天子尊ぶを知り得なかつた。將軍と云はず、彼れら大名に比ぶれば國家に於ける今日の内閣總理大臣なぞ、權威、實力兩つながら到底足下にも及ばぬ。
 之に對して上記の如き發言は、訥菴先生が能く々ゝ日本の眞相を理解してゐたと認めざるを得ない。


然るに人君其理を思はず、己れが一個の私意に任せて、政事に力を竭くすことなく、天の民を虐げ苦しめ、天の職を曠しくさるれば、天必ず罰を降して、其君の位を奪ひ、更に徳ある人を擇びて、國家を付屬(あづけ)たまふことは、萬古を經ても動かぬ理なり。そは古より國家を興して、始て天の職を受け、祖先祖宗と言るゝ君は、必ず才徳器量ありて、種々の艱苦を經歴せられ、賢者を尊び、能者を聘し、臣を勞(いたは)り民を愛して、天意に背きたる事なきにて見るべし

 これは以前にも述べられたることだ。「徳ある人を擇び國家をあづけたまふ」は「萬古の通理」であるといふ。 果たせる哉、幕府はその後、訥菴先生の言に順へば、天の罰を降されることゝなる。而して、天は「才徳器量あり種々の艱苦を經歴し、賢者を尊び臣を勞り民を愛し、且つ、天意に背かぬ」雄藩に罰の與へんことを命ぜられた。これ皮肉と申す可き乎。
 然るにゆめ忘れる勿れ、訥菴先生の申す、これ萬古に通ずる道理である、と。


『さて其子孫に至ては縱ひ或は凡庸にても、甚しき暴虐なければ、天も俄には罰を降さず。其まゝにして置るゝことゆゑ、才徳器量もなき身を以て、人君の位に居る者多し。是は祖先の功徳にめでゝ、天も憐愍を垂れ玉ひ、姑く寛恕し玉ふにて、豈其君を愛するならんや。故に後世の人君は、能く此の道理を辨へて、我今不徳の身を以て、臣民の上に立ち、數萬石の地を食むは、毫髮も我が力に非ず。全く祖先の餘澤なれば、祖先の法には背くまじ。祖先の意には悖るまじと、寐ても寤ても愼しみ恐れて、萬事に氣を著け玉ふべし

 我にその力なきことを忘れ、いつの間にやら思ひ上がつてしまふ愚をいふ。
 才徳器量なき者の恃むは人の心だ。その者、人心離反せば、榮華は短命ならざるを得ないことを云ふ。
 要するに罰を被り、自滅するは、畢竟、己れにあること。感謝と共に謹愼たる心持ちを決して忘れることなかれの意。これまた下々たる吾人も常、留意す可きことがらだ。文末、注視を要す。


『かゝれば拔羣の才徳なしとも、皇天必ず恤れみて、見離し玉ふこともなく、臣民上を怨みずして、國家も安泰なるに至らん。是れ一つには天に對して、永命を祈るの道。一つには祖先に對して、厚恩を報ずる道なれば、忽(ゆるかせ)にせらるゝ事には非ず。然るを暗昧昏愚の君は、右の道理を悟ることなく、祖先の餘澤を忘れはてゝ、忝じけなき事とも思はず、我れかく無學文盲なりとも、賢者能者に下らずとも、治國安民の道を知らずとも、大名は何つも大名よと、安心して居らるゝ故に、遂には怠惰奢侈ともなり行き、暴政聚歛の筋にも歸して、滅亡の種を蒔きつけらるゝは、嗚呼、亦何の心ぞや。かくて或は僥倖にして、其一生を全くせられ、遽に滅亡には至らざるも、相傳の國を困窮ならしめ、一藩の士氣を懦弱になし、臣民に離畔の心を起させ、祖先の餘澤を削り、減らして、それを我子に與れば、子も亦父の風を學び、孫も亦祖の跡を蹈むゆゑ、國の紀綱は次第に壞れて、緩急遲速の差別ありとも、滅亡せざれば居らぬことなり。こは只、天職を曠癈して、天より咎めを獲るのみに非ず。我が祖先の靈に對して、大不孝の所行(しわざ)なるゆゑ、祖先の神も憤恚せられ、天怒と祖譴と相會して、終には亡國に結果するのみ。恐れ玉はずんばあるべからず』と。

 訥菴先生は、藩主の無學無見識によつて生ぜらるゝ自己過信や怠惰奢侈は、職務を怠りたるがゆゑ、人心離間し、天譴を玉はるだけではなく、祖先の餘澤を潰し、名譽を涜す不孝でもあることから、天譴、祖譴、兩つながらに被るであらうことを云ふ。
 このあたりが訥菴先生の、一般の腐儒者と異なる一つとして見なければならない。啻に職務の名分を正さんと理窟をこねるだけでなく、尊皇、崇祖の念の富めるあることを何びとにも了知せられるのである。
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by sousiu | 2013-02-14 00:40 | 先人顯彰

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