大橋訥菴先生に學ぶ。九  『責難録』 七 

 さて。氣を取り直して、『責難録』の續きを記さねばならない。


 承前。

●大橋訥菴先生、『責難録』前編卷之一に曰く、
○『人君の大患は、下民の艱苦を知らずして、下民の情に通達せられざるにあり。總じて淫佚驕奢になり行くも、放僻柔惰に流るゝも、其由來する所を云へば、下民の艱苦を知ざる故にて、下民の艱苦を知ざるは、人君百病の根原なれば、扠こそ周公は無逸を著はし、又七月の篇を作りて、成王に進め玉へるなり。古より國を興して、創業の元祖と言はるゝ人は、大率ね微賤に生長して、千辛萬苦を備さに嘗められ、飽くまで知慮を磨ける上に、下民の艱苦を知り盡して、下情に明らかなりしかば、明君賢主と仰かれて、美名を遺すに至れるなり』と。

 諺に曰く、「若い時の苦勞は買つてでもせよ」と。訥菴先生は、創業の元祖は概ね微賤に生まれ育ち、世の千辛萬苦を嘗め、下の者らの艱苦を自ら經驗することによつて會得し、明君と仰がれて美名を遺した、といふ。
 なるほど、今日の政界には探すも困難至大であるが、嘗ては學歴すらなき大臣あり。溯れば明治新政府の要人と雖も出自を辿れば、必ずしも惠まれた者達ばかりでは無かつたのである。更らに溯り木下藤吉郎をみよ。
 逆に今日の政界をみれば。二世三世などてふ者が、如何に信を託せぬか。如何に愚物なるか。
 凡家の一に生まれたる吾人にとつて、忘れてはならぬこと、それ貧乏も苦勞もみな、毒にも藥にもなるといふことである。願はくは艱苦を藥とし、希望持つて家名を興されんことを。


『扠、其の子孫の君となれば、幼稚の時より深宮に長じ、婦人女子に介保せられて、著る所は綾羅綿繡(糸偏+肅=しゆう、ぬひとり)食らふ所は珍膳美羞、起ても居ても不自由なくして、饑餓凍餒の艱苦を知られず、況て君たる位に即けば、見る所は膝行頓首、聞く所は唯々諾々四方八面諂諛のみにて、困心衡慮の事などには、毫髮ほども逢ひ玉はず。故に開くべき知も開かずして、渾沌の人とならるゝは、歎すべきの至に非ずや

 藥とす可き貧困も勞苦も辛酸も嘗めずして、人の頭に立ちたる者の見るは概ね膝行頓首、聞くは概ね阿諛追從。如何でか渾沌の人とならぬ道理やあらん。


『或は偶々心ありて、下民の状(さま)を臣下に問ふても、臣下は大率ね諛諂に熟して、敢て藥石の言をば進めず、必ず巧みに辯を飾りて、下民は山野に心を遊ばせ、身を勞して飽食すれば、長壽を享る者多し。長壽は人の志願なるに、彼れ等は其の志願を得れば、幸福の者と云ふべしなどゝ、君の前にて説き立てゝ、君も其の言に惑はされ、實に然りと思はるゝは、言語道斷の愚騃(馬偏+矣=おろかの意)なり。大厦高堂雕牆は、人情の樂しむ所なれども、人君は常にそれに居れば、敢へて亦た樂しみとせず。珍膳美味膏粱は、人情の悦ぶ所なれども、人君は常にそれを食へば、敢へて深く悦びとせず。是れは平生馴れ過ぎて、珍らしきことに非ざる故なり。綿衣玉食廣堂すら、馴(なる)れば樂しみとはならぬを以て、下民の情を推て見たまへ。平生晝夜山野に在て、雨にも雪にも休まぬ者が、豈、其風色を樂んや。人君平日深宮に居て、偶々山野の間に遊び、其風色を喜て、それを以て下民の心を見るは、大に戻れりと云ふべきのみ。況んや下民は霜雪を冒し、山岳を攀て薪を採り、風雨の日にも露體(はだか)にして、曠野に出でゝ、草を刈り、或は馬に秣ふなど、其艱苦の甚だしきこと、一朝の筆舌には盡すべからず

 その臣下も亦た、主の耳目に優しき言動を扮飾する者多かりしかば、一層、主は改心を得るに難し。飽食煖衣はいつの間にやら當然の如く思ひ違へ、山林に生活する下民の情を知る能はず。民を愛撫するの心を失せん、哀れなる哉。


『~略~。且つ夫れ下民の勤勞は、生計に驅(から)るゝ故にてあれば、三伏の暑にも泥土に坐し、三冬の寒にも氷雪に立ちて、手足胼胝(あかぎれ)、百體疲憊し、日夜昏且休息せざるは、毫釐も養生の道には適(かな)はず、況て彼れ等が食する飯は、麥、稈(ひえ)、菜葍の葉などを糅(まじ)へて、米粒は甚だ少なく、湯茶の類をそれに灌ぐも、温むるに暇を得ざれば、多くは冷ゑたるを用る如きを、飽食などゝは云ふべからず。かくまで終歳勤苦しても、賦税或は給せざれば、忽ち官吏に笞抃せられ、或は囹圄(ろうや)に繋がるゝことあり。是に於て慟哭しつゝ、田畝を賣り妻子を鬻ぎて、纔に苦しみを免るゝも、憂悲哀戚心を攻て、往々命期を縮むれば、民は必ず長壽なりと云ふべけんや。縱ひ幸にして長壽なりとも、右の如き憂悲に遇ふては、只其の早く死せざることを遺恨とするのみ。豈、其長壽を喜ばんや。人君是れ等の情状を深察せられず、下民は氣樂なる者などゝ、妄に思ひ玉ひなば、俗に所謂る冥理を知らぬと云ふ者にて、皇天の誅罰を免るべからず。天の誅罰は目立たぬ者ゆゑ、世の人多くは悟らざれども、人君の兔角に短命なるも、或は肝症の病を發して、遂に廢人とならるゝも、或は妻妾に實子なくして國家を他人に附屬するも、恐らくは 皇天の罰を與る所ならん。能く々ゝ思ひたまふべきことなり』と。

 前述の如くある藩主は、皇天の誅罰を免る可からず。そは短命なるか、廢人となるか、或は子寶に惠まれず他に禪讓せざるを得なきことゝなるか、いづれにせよ訥菴先生にしてみれば、それらは 皇天の誅罰にあらざるはなし。
 時代は、全盛期と云はざるも未だ幕威少々ならず。徳川幕府は天下の爲めに存してゐるものではなく、天下は徳川幕府の爲めに存するものと自認してゐた。少なくとも幕府側の者に於ては。
 當初から幕府は、旗下八萬騎の勢力を笠に着て、宇内を壓した。幕府に忠誠を誓ひ心服する者には氣前良き反面、一毛ほどの不安を與へてくる者には容赦無きこと、家康以來の家憲と云うても宜い。
 かくなる時代の渦潮にあり、恐れる可きは將軍の逆鱗に觸れるが爲めに被る減封・轉封・改易にあらず、皇天の懲罰であると幼君に説諭したことに、訥菴先生の眞面目を垣間見るべきである。
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by sousiu | 2013-02-21 00:18 | 先人顯彰

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