大橋訥菴先生に學ぶ。十  『責難録』 八 

承前。

●大橋訥菴先生、『責難録』前編卷之一に曰く、
○『古へ周代の租税は、所謂る井田の法にして、十分の一を取れることゆゑ、後世に比すれば甚だ輕く、民の産の饒にして、安樂にありしこと想ふべし。それすら聖人は、稼穡の艱難を知り、民の疾苦を恤れむ事を、人君の要務とし玉ふて、周公は七月無逸等の篇を著はし、武王は康叔を戒めて、若保赤子(赤子を保んずるがごとくせよ)と言(のたは)ひ、孟子の中にも、文王視民如傷(文王民を視ること傷むが如し)などゝ云ひつるなり。然るに後世の租税の法は、古に十倍して、民の貧困甚だしけれども、人君も諸役人も、それを當然のことと思ふて、民を憐れむ心のなきは、誠に不仁の至と云ふべし。本朝の古も、租税の制は極めて輕く、大寶の令の頃は、二十分の一を取りて、[今の令は、文武天皇の大寶元年に定め玉へる所なる故、稱して大寶の令と云ふ。さて令の本文並に義解等を按するに、一段三百六十歩の田より稻五十束を穫ると定め、一束の稻を米にすれば五升になるゆゑ、五十束にては二石五斗の米なり。其中稻にて二束二把、米にしては一斗一升を、田租として上納せしめ、餘りの稻四十七束八把、米にして二石三斗九升は、民の所得とされたる趣なれば、二十分の一を取るよりも輕し。外に調庸とて、後世の夫役人足、小物成、諸運上の類の如きことありしかども、それを合せても、十分の一を税するには至らざることなり。是等の事、愚別に一書を編纂して、詳に古今の沿革を言んとす。○今は三百歩を以て、一段とすれども、そは豐臣氏以後のことにて、古の制に非ず。古は三百六十歩を一段とされたることゆゑ、此々には其の趣に記せり。讀者怪しむこと勿れ]國用とし玉へる事なりしが、皇化の陵威せるに從ひ、大寶の制も次第に頽れて、鎌倉以降に及ては、殊に重斂となりたるなり。そは鎌倉の幕府よりして、守護地頭と云ふ者を悉く諸國に置て、領主と地頭の兩方へ、租税を取ることになりしかば、[領主と云ふは、初より其の地を領し居たる京家の人々なり。守護地頭は、鎌倉より新に置たる所の武家なり]賦斂頗る重くなりて、民の困窮する權輿(はじめ)となれり。かくて室町の中世よりは、領主へ納むべき所の租税も、總て地頭が抑へ取て、將軍の威令も行はれす、凡そ天下の大小名、心まかせに其地を領して、互に戰爭を勤めとせしかば、平生數多の武士を扶持して、城内に集めて置ざることを得ず。數多の武士を養ひ置くには、過分の租税を取り上げざれば、給し難きが故を以て、遂に次第に増し取て、後世の如くになり行きたるなり。されば、後世の租税の制は、戰國の時の餘風にして、極めて重き賦額(とりたか)なるに、人君も諸役人も、古の朝制あることを知らず、税斂の多くなりたる所以をも考へず、只昔よりかく取れる物と心得て、妄りに下民を脧(月+夋)剥するは、慨歎せざることを得ざるなり』と。

 これは當時行はれてゐる租税の制に就て述べてゐる。固より野生勉強不足にして、このあたりのことに就ては十分な智識がない。よつて只管ら抄録しただけに止まる。
 一昨日の記事は、この記事を記するに際して、抄録するだけの野生の腑甲斐なさを慰めむが爲めに敢へて脱線したものだ。御笑恕くだされよ。


曰く、
『扠、古へ王制の行はれたりし時も、民皆富農のみにてはなく、貧民もありつるなれども、租税甚だ輕きが故に、纔かに一二段の田を作れば、後世の一町にも敵する程との、米粟悉く稷を得たるを以て、貧民と云へども凍餒に至らず、生計は立たることなるに、後世の租税は極めて重く、一二町の田を耕稼せざれば、古へ一二段を作れる程との、米粟を收穫すること能はず。然るに一二町の田を作ると云ふこと、小民の力には及ばぬ事ゆゑ、纔かに數段を耕耨して、終歳勤苦勞働するも、獲る所は租賦に供して、一家の口腹を養ひ難く、麥稗芋魁(むぎひゑいもかしら)の類などにて、辛く生命を維(つな)ぎ行くは、眞に薄命の至極と云ふべし。豐年すら既に然れば、一旦水旱饔(上「雍」+下「食」)饉に遇ひ、或は疾病死喪に逢ふては、禦くに術なく、逭(之繞+官=のが)るゝに地なく、兄弟妻子號泣して、溝壑に轉し、離散に至るも、亦是れ必然の勢なるのみ。されば下民と云ふ者は、古よりして艱苦なれども、後世の下民に至ては、其の艱苦の甚だしきこと古來未だ嘗て其の比類を見ず。苟も人君たる者、惻然と心を動かすべき所に非ずや』と。

 往時の税制と現在の税制との相違を述べてゐる。徳川幕府に於ける税制批判と云ふよりも、固より武家政治が行はれたる以後に布かれた税制の批判と思ふのだが、已んぬるかな、智識なきがゆゑに文面の表層を理解するに止まるあるのみ。


曰く、
『但し今日に及では、縱ひ有志の人君ありて、民の貧窶を憫恤し玉ひ、租税を半はにせんと欲したりとも、そは行はるべきことに非ず。何んとなれば、戰國以來數多の兵士を扶持し置かれて、既に常制となりたる事ゆゑ、今さら扶持を取り放して、藩士を減損せられんことは、決して遽に行ふこと能はず。藩士を減すること能はざれば、租税も亦た舊に依て厚く斂めざることを得ざるなり。且や租税の厚くなりしも、一朝一夕の故にはあらで、已に漸く久しきことゆゑ、下民も亦た慣(なれ)熟して、それ程との米粟をば、上納する筈と心得居て、苛政なりとも思はねば、賦額は當今のまゝにして、指置かれんこと勿論なれども、せめては人君たらん者、右の子細を辨へて、後世の農民ほど、苦しき者の者のなきことをば、一日片時も忘れ玉はず、常法の租税の外には、聊かなりとも、取り上げまじく、縱ひ少々づつにても、民の困苦を緩るめてやらんと、絶ゑず心にかけ玉ひ、其の筋の工夫をせられなば、民の父母たるに愧ぢることなく、有司も自然に感化して、下民を勞(いたは)り撫ることを、報效の道と心得て、君の徳を弘むるにも至るべきなり』と。

 異論もあらうかと存じ上げるが、野生は「大鹽平八郎の擧」が、幕府に弓を引くその嚆矢として、或は後に及ぼしめたるその影響必ずしも輕からざるものとしていさゝかの關心ありとするも、「大鹽平八郎」その人とその思想に關しては、然程の關心を有してゐない。かの擧に際して絹袋に入れられた「天より被下候村々小前のものに至迄へ」と題された檄文には、確かに『神武帝御政道之通 寛仁大度の取扱にいたし遣』であるとか頻りに大義を説きたる文言が散見されるが、その本質に於ては「救民」であり、謂はゞ「不條理」に對する決起の域を脱し得ないと感じるからに他ならない。
 愚案。皇國に於て、時代の變革を促しめたるものは、「正義至上主義」や「救民至上主義」ではない。云ふなれば「尊皇至上主義」である。誤解を招かぬ爲めに一言を添へるが決して大鹽中齋翁、その人を貶しめるでなく、過小評價してゐるのではない。固より批判してゐるのでもない。・・・これ以上の脱線は止めておく。いづれにせよ、訥菴先生のこの『責難録』は已にこれまで一讀して明白なる如く、饑饉があらうが無からうが、記されたに違ひなきものだ。訥菴先生は大義名分を正さんとする、その一志あるのみだ。


曰く、
『さて又農民の方に於ても、後世は租税の筋に種々の詐計を運(めぐ)らして、逃れんと欲する者のあるは、憎むべきに似たりと云へども、畢竟上位に立てる者、民を撫育するの心なくして、視ること土芥の如きを以て、下民も亦それに應じて、己れが痛苦を遁れん爲に、上を欺かんと欲するのみ。苟も上位に在る者、赤子を保するの心を以て、民の艱苦を劬(いたは)り行けば、下民のそれに感動して、身をも骨をも惜むことなく、力を其の君に竭すことは、影響よりも捷(はや)き者ゆゑ、反求すべき所なるに、後世の人は其の理に通せず、民を恤れむの心なきより、常法の租税の外にも、種々樣々の事を工夫し、只管ら聚斂を勤めとなして、少しも饜(上「厭」+下「食」)足することを知らず。偶々君に仁心ありてそれを緩めんと欲しても、下なる役人が從はず。或は役人に仁心ありても、上よりしてそれを許されず。只下々の膏血を絞り取るを能事となして、恬然たる國もありと云ふは、嗚呼、亦た如何なる政事ぞや』と。

 是れ又た現在の状況を述べ、憂慮を吐露したるもの。主が民を恤むも役人がそれを喜ばず。役人に仁心ありても主がそれを許さず。當時の武家政體の、最早限界を暴露したる言だ。當初は兔も角、不健康なものが沈着すればやがては血管が動脈硬化を起こし、外力が加はり續ければやがては金屬も金屬疲勞を起こす。焉んぞ政治體制のみ其の弊より免れんや。今日に於てもまた然りと謂ひつ可し矣。


曰く、
『既に上にも論ぜし如く、常法の租税にてすら、仁人は忍びぬ所にして、緩るめんと欲することなるに、後世は増す事のみにて、絶て減すると云ふことなく、且つ樣々のかゝり物など年々に多くなり行けば、民は益々困窮して、逋負(みしん)の積累を償ひ難く、竟に其の家斷絶して、田畝の荒蕪に至る者、處としてあらざることなし。さて其の家は斷絶しても、其の家に附きたる貢賦の額(たか)をば、上より免除することなく、一村の者に割り付けて、必ず上納せしむる故に、餘の農民も亦た窮して、後には耒耜を放擲して、他國の城市へ奔り行き、商賈となる者少なからず。或は其の子多くあれば、一人には業を繼がせて、農夫の家を立さすれども、其の餘は悉く城市に遣はし、工商の家に奉公せしめて、遂に工商になりなどするゆゑ、農民の戸口は日々に減して、廢田荒野次第に多く、郷村年々に衰弊すること、後世各國の通患なり。是に於て法を立てゝ、民の兄弟子孫の類を、他國へ出し遣はす事をば、嚴しく禁制する國もあれども、そは源頭を澄しもせずして、交流を浚(さら)ふに等しきゆゑに、其の禁令も屆き難く、農民の戸口の減することは、依然として改らざる國のみ多し。況てや後世の俗吏の風は、只目前の利のみを計りて、末々の事をば考へざるゆゑ、其の年の租税の類だに、聊も多く收納すれば、それにて事は足れりとして、民の痛む所以んを思はず、其の民痛みて凋弊すれば、國脈それより傾きて、亡滅の根基となることをも、■(立心偏+?)然として、曉覺せざるは、痛哭するにも堪へざることなり。人君果して心ありて、國家を保持せんと欲し玉はゞ、省察せられずんばあるべからず』と。

 解説が疎かならざるを得ぬので、今囘は省略せず全文を記した。
 古賢の遺文に觸れることは決して無駄ならぬと云ふでなく、寧ろ重要視される可きことは、既に申した。
 次は愈々、最終項だ。とは云へ此度び掲げた『責難録』は卷之一に止まり、以下が刊行されたことは言を俟たぬ。しかしながら本稿の所收される『大橋訥菴先生全集』にも、殘念ながらそれ以降が收められてゐないのである。既記したが、『責難録』は偶々平泉先生が卷之一の版本を入手されたことにより吾人の拜讀する機を得たが、それ以下の本は如何なるものか、不明であるとの由。こゝにも又た、尊き先人の遺文が失せるといふ、現代求學者にとつての不幸事をみなければならぬ。殘念至極と云はざるを得ない。
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by sousiu | 2013-02-24 19:52 | 先人顯彰

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