大橋訥菴先生に學ぶ。十一  『責難録』 九 をはり。 

 今日で『責難録』はおしまひである。
 本書は「君道雜論上」であり、下卷もあることは間違ひなからうが、前記したとほり、殘念乍ら「全集」にはこの續きが收録されてゐない。
 その爲め、ちと、消化不良の感あるを覺えるが、通讀するに訥菴先生の思想の一端を知ることが出來る。
 それ決して西洋罵倒一點張りの盲目漢などではないのである。


承前。

●大橋訥菴先生、『責難録』前編卷之一に曰く、
○『後世の官吏は、動(やゝ)もすれば威光と云ふことを唱へて、兔角に下民を恐嚇し、聊かの事も權高(けんだか)に構へて、只管ら民を畏縮せしめ、それを以て上位の道ぞと思へるは、甚だしき謬なり。元來國家を治むる道は、恩威の二つを兼用すること、古よりの明訓なれども、恩と威とは等分の物にはあらず。恩を以て主腦となして、威をば輔翼となすべきなり。そは古より君たる者を、民之父母と稱するを見て、父母の二字を玩味すべし。父母の其の子を養ひ立つは、時として威を用ひて、或は叱り懲しもし、又は鞭撻(うつ)こともあれども、それは人並の人になれかし、不正の筋には入らせまじと愛する心の親切なるより、威をも用るに至るのみ。豈、只管らに威を主として、其の子を畏縮せしむることを、得意に思ふ父母あらんや。故に上位に立てる者も、恩愛仁慈を心の主として、萬民を視ること我子の如く、凡そ封内に在ん者は、馬天轎卒に至るまで、何とぞ無事に生育せよかし。困窮飢渇には迫らせまじと、日夜朝暮に忘るゝことなく、痛々しく思ふ心を本として、それより政事に施してこそ、民之父母と稱する所の、名目の意にも恥ざるべきなり。されば君道は廣しと云へども、仁を第一のこととなして、易には 禮仁足以長人(仁を體すれば以て人に長たるに足り) と言ひ、何以守位曰仁(何を以てか位を守る、曰く仁なり)とも言ひ、大學には 爲人君止於仁(人の君と爲つては仁に止る)と言ひ、家語には 人君先立仁於己(人の君は先づ己に仁を立す)など言へるを見ても、君たる道の本領は、恩愛仁慈に限りたること、彰然として明白ならずや。扠、上位に立てる者が、右の如く恩愛を主として、それを以て民に臨む時は、其の情自然と下に感じて、民も必ず上を戴き、有り難し忝けなしと、眞實の心より慕ひ懷きて、其の君上の爲めならば、骨を微塵に破碎するとも、決して厭はじと思ふ物が、自から生じ出して、已めんと欲するも已むこと能はず。かくてこそ上下の心が合體して、撃ても衝ても離れぬ故に、社稷は磐石の固きが如く、何つも安泰になり行くことなり』と。

 前項は税制に就て述べ、民の苦情を陳列した。本項では、主たる者の必須として「仁」を要す、と説く。


曰く、
『されども、數萬の民の中には、往々上を侮り犯して、不正をなす者もあるを以て、法律を設け刑典を立てゝ、威を示して糾さゞることを得ず。是れは右樣なる不正の民を、其のままに容(ゆる)し置ては、良民の害をなすが故に、已むことを得ず懲らす迄にて、畢竟良民を護せんと欲する、恩愛の方が根本のみ。且つ夫れ不正を威(をど)して懲らすも、要するに亦恩より發して、微罪の時に懲創さすれば、再び大罪を犯すことなく、首領を保全するに至るべければ、そが爲に威をも施すことなり。加之(しかのみならず)他の衆民どもが、それを見て恐懼の心を生し、不正の筋を犯す事は、互に深く警戒して、愼しめかしと願ふ所の、懇惻仁慈の情に本づき、威を示すにも至る義(わけ)ゆゑ、全く罪人のふへぬ樣に、源頭を塞ぐと云ふ者にて、何れも恩愛の術に非すや。~中略~

されば恩と威の二つの筋は、本來輕重の辨別ありて、決して等分の物にてはなく、恩より威をば生じ出せども、威より恩を生ずることなし。そは恩を以て主腦となして、慈愛の心が親切なれば、其の心を達せん爲に、威をも用ひざることを得ず。威を以て專主とすれば、必ず親愛の情を傷なひ、只管ら下民を畏縮せしめて、嚴刻苛察になり行くことは、古よりして然ることなり。思はずんばあるべからず。~中略~

然るに後世の官吏などが、威光威光と唱へ立てゝ、總て己れを權高に構へ、下民を遇待(あしらふ)こと牛馬の如く、瑣細の事をも必ず罵詈して、肱を張り肩を怒らし、矜伐誇張を專主とすれば、威光を増すの道にはあらで、威光を損する所行なるに、自から得たりと思へるは、憫笑すべきの甚だしきなり。元來恩愛仁慈を主として、民を吾が子の如く思へば、民は皆亦心より親しみ懷(なつ)きて、上を慕ふの情日々に深く、遂には家をも身をも忘れて、君上を守護せんと欲する心が、一統に固く凝結して、他よりは指をもさゝせぬ樣に、何つか自然となり行くことは、既に上にも云へるが如し。かゝれば威光を求めずとも、國の氣■(焔の右側+炎)は熾盛になりて、四鄰を動かすのみに非ず。天下に敵なきにも至る者ゆゑ、豈又かほどの威光あらんや。故に仁愛を主とする處が、即ち威光を増すの道にて、別に術とてはなきことなるに、後世の人は其の理を悟らず、恐嚇を事とし倨傲を務めて、一點も惻怛の心はなく、只管ら威光を貪り求めて、畏縮させんとするが故に、民みな不平の情に勝へず、陽(をもて)には命を聽て、服從するが如くなれども、陰には怨恨の心を懷(いだ)きて、竊に誹謗の惡言を發し、他邦の人などに對すれば、あらはに上位の非を數へて、敢て復た憚らず、或は君上に災禍ありても、手を袖にして傍觀して、そを憂るの心はなく、反てそれを愉快として、猶も事あれと思ふが如き、不實の民心にもなり行くことなり。かく民心が離れては、平生は命令のまゝになりて、威光あるが如くに見ゑても、國家の元氣と云ふ物は、漸くに敗れ盡すを以て、一旦緩急の時に臨めば、敢て一人も力を出さず、彼方(あち)へ避け、此方(こち)へ遁れて、己れを保全することを時務となし、君の大難を度外に見捨てゝ、絶て貧著せぬ者なり。されば民心既に離れては、泰平無事の時に當りて、縱ひ遽に滅亡せずとも、それは譬へば朽たる木などの烈風迅雷に遇ざる間は、暫く顛覆せざると同じく、聊も恃みのなきことなれば、誠に危殆の至りに非ずや』と。

 仁なく威光を笠に着る主の愚を述べる。仁あらば國運は益々隆え、則はちそれが眞なる藩主の威光と思へ、と。
 時は過ぎ、軈て明治四年の廢藩置縣が實施されたるを思へば、やはり日本及び日本人は、天皇を中心とした一君萬民の在り方が最も自然に即したものとして了知せられるのである。爲政者は百姓を胡麻の油と同一視する。天皇は民を大御寶と目され給ふ。


『~上略~ 古へ嬴(えい=所謂る「秦の始皇帝」)秦の始皇も、我朝の豐太閤なども倒山翻海(山を倒し海を翻す)の威力ありて、民の怖るゝこと霹靂の如く。天下惴々として命を奉じて、頭を擧げ得る者もなかりしかども、墳土の未だ乾かぬ中に、民は悉く離れ叛きて、忽ち亡滅したるを見よ。二公の如き威力ありても、二公ほどの富ありても、惻怛仁慈の情と云ふもの、民心に感孚せる所なければ、少しく釁隙が開くと其のまゝ民は悉く寇讐の如くになりて、亡滅を救ふこと能はざるなり。[後世の儒者には、富國強兵の二項を以て、治道の根本の如くに言ふ者あれども、そは未だ大道に達せざるなり。秦の始皇も豐太閤も、富と強との二項に於ては、千古に比倫を得べからず。されども脆く滅亡したるは、全く威力を以て天下を馭して、民の心に徹する所の、惻怛仁慈と云ふものは、一點もなかりしを以てならずや。故に治道の根本は、仁慈の筋に限れることにて、民心果して上を親しみ、子弟の父兄を衞るが如くに、固結して離れざれば、富強は其の間に存する者ゆゑ、古の人も盛衰強弱之分不在兵力、而在國勢、不在財用、而在人心(盛衰強弱の分は兵力に在らずして國勢に在り、財用に在らずして人心に在り)と言ひたるなり。さるを富強の二項を以て、根本第一著と唱ふるが如きは誠に淺陋の見と云ひつべきのみ]況て二公の雄圖もなく、二公の富強もなき者が、威光威光と言ひ立てゝ、妄りに民を嚇(をど)し付け、畏縮さすることを能事とするは己れが天職を知ざるのみならず我より國脈を弱ませて亡滅を促がす筋なれば、愚駿と云はざることを得ざるのみ。されば萬民は輕きに似たれども、明者は民を重んじ畏れて、尚書には罔咈(口+弗=たがふ)百姓以從己之欲(百姓に咈て己れの欲に從ふ罔れ)と言ひ、民可近不可下(民は近く可し、下す可からず)と言ひ、可畏非民(畏る可きは民に非ずや)とも言ひ、載記には君以民存、亦以民亡(君は民を以て存し、亦た民を以て亡ぶ)と言ひ、荀子にも孔子の言を引いて君者舟也、庶人者水也、水則載舟、水則覆舟(君は舟なり、庶人は水なり。水は則はち舟を載せ、水は則はち舟を覆す)など言ひたるにて、凡そ國家の盛衰安危は、民心の叛服に由て分れ、民心叛服の分るゝ所以は上位の恩威如何にあれば、深く其の理を精究して辨澤せざれば叶はぬことなり。世の羣侯と諸有司と此の理を眞知せられたる者果して多くありや否や』と。

 秦の始皇も豐太閤も、如何に威力あり財力あつたにせよ、彼れらの逝くや、やがて民心は離反した。
 彼れらの實力に遠く及ばぬ者が、どうして未來永劫、その威光を保てる理由があるのか。領地の平定、自己の保身を求め彼れらの眞似をしたところで、いづれにせよそれは果敢無きものに過ぎない。
 秦はやがて滅亡した。日本では大阪冬夏の陣で豐臣家が籠絡しても、征夷大將軍、所謂る役人が代はるだけにとゞまり、戰爭も一部地域に限定された。皇國ならぬ地の霸者と、皇國の地に於ける霸者とを比較したのは、訥菴先生の思慮によるものであると推量する。


 『責難録』をはり。


 備中處士樣から宿題、あ、いや、參考として、いくつかの遺文に就て御提示があつた。
 されど解讀するに少々のお時間を頂戴し、訥菴先生は一旦、休んで、出直してみたいと思ふ。
 次囘の登場人物は、まだ未定だ。
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by sousiu | 2013-02-28 21:43 | 先人顯彰

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