荷田春滿大人を知る その一 

 今日は、前記した、國學の恩人である荷田春滿大人に就て觸れてみたい。
 荷田春滿といふ人に就て、淺學たる野生やウヰキペデイアなどではなく、こゝはやはり先哲先學に尋ねてみなければなるまい。

●伴蒿蹊翁『近世畸人傳』(寛政二年)に曰く、
『契冲と時を同うして、是は後輩か。彼の説はしるや、しらずや。契冲は佛者なるうへに、其人、綿密に過ぎて、泥滯せるものもまま見ゆるを、此翁は、一層登りて説をたつ。およそ、元祿年間は、諸道復古の運にあたりたる時にして、國學を唱ふるは、契冲と此翁なり。よみ歌は、主とする所にあらざれども、又凡ならず。今おぼえしは、

       けふみれば 昨日の淵は あさか潟 汐のみちひぞ 世のならひなる

など、いとめでたしや。又中世已後、淫靡風をなせるをいきどほりて、生涯戀歌を詠ぜず。その家集を見るに、當坐によせ、こひの題をさぐりては其物を雜になしてよめり。たとへば、虎によする戀を雜によめるは、

       仇むくう おもひ巴提使(はてす)に たぐへては 虎もつたなき ものとこそみれ

日本紀欽明卷の故事によりて、よまれしも、學者のしわざなり』と。


●河喜多眞彦翁『近世三十六家集略傳』(嘉永二年跋)に曰く、
翁ひとゝなり、敦厚にして、其學のみにあらず、人事においてもまた義にかたき鐵心なることは、中年諸國を漫遊し、竟に江戸に出て、あまねく學士を問て研究苦學す。時に赤穗の遺臣大高氏葉と、常に文事風流をもつてまじはる。しかるに子葉子、翁の志氣の常人にすぐれて、ことなるを知り、まじはりもつとも厚く、ゆゑに終にその密事の實を語る。爰に於て、翁其讎の邸中の圖を委かにして付するに、義統大いに益を得たりとぞ。其厚義また見るべし。翁の國學を興すにおけるや、契冲師と相對して、千古の二人とするか。當今天下古學を唱ふの士、翁を以て祖とし、其下風にあらざる稀なり。故に神のごとく敬重す』と。


●吹氣廼舍 平田篤胤大人『玉襷』(嘉永三年序) 「卷の九 古學ノ神等ヲ拜ム詞」に曰く、
『抑この大人、姓は荷田の宿禰にして、氏は羽倉と稱し[東西兩家ありて、大人は東羽倉の方なり]通名を齋宮といふ。初め信盛と云ひ、後に東麻呂と改め[東丸とあるも同じ]また春滿とも書れたり。[東麻呂、春滿ともに、阿豆万麻呂と唱ふ。○遠江の國濱松、諏訪の社の大祝、杉浦比隈滿云く、己が家に、正徳四年八月朔日、東丸漫書、と奥書ある古今集の自筆本あれば、此頃は、既に、東麻呂と改められたりき。又春滿とも書れたるは、享保元年より後の事なるべく所思(おぼゆ)と云へり。 ~中略~

偖その學業の詳なる趣(さま)は春葉集に同族荷田の信郷が後敘(おくがき)せるに、幼より學を好み、篤く 皇道復古の學に志して、國史、律令、古文、古歌、及び諸家の記傳に至るまで、該博(ひろ)く通ぜざる所なし。然れども師尚する所なく。而して其の自得發明する所極めて多し。 ~中略~

享保中に江戸に遊びて聲名あり。特(こと)に内命ありて、侍臣某をして從遊せしめて、古書を校せしめ給ふ。居(をる)こと數年にして、疾(やまひ)を得て京に歸らる。已(すで)にして伏見奉行、北條遠江の守をして、内命を傳へて、銀若干(そこばく)を賜ふ。 ~中略~

大人嘗て、國學校を創立する志ありて、上書して執事に啓するに、未(いまだ)報あらずして歿せり。其志は遂ざれども、其の言は傳ふべし。 ~中略~

大人に子なし。姪(おひ)在滿をもて嗣(よつぎ)と爲す。在滿江戸に在りて、田安の金吾君に仕ふ。學義遇せず。疾(やまひ)をもて辭して、賀茂眞淵を薦めて代らしむ』と。
f0226095_13101278.jpg


●小澤政胤翁編『慶長以來 國學家略傳』(明治卅三年十一月十日「國光社」發行)に曰く、
『春滿は、羽倉氏、通稱は齋宮、初名は信盛、後東丸と改め、また春滿と改む。京都稻荷山の祠官にして、父は從三位信詮の宿禰なり。兄弟四人あり。長は女子、次は春滿、次は信名、次は宗武なり。春滿、夙に古學を、振起せんとするの志ありければ、祠務を擧げて、弟信名に讓り、專ら力を、古學の研究につくす。當時、國書を説くもの、概ね垂加の流にして、或は陰陽五行の説を傳會し、或は、幽冥奇恠の説を、唱ふるものなりければ、春滿、深く之を非として曰く、我古學の道は、古書に正傳あり、何ぞ、牽強附會の假説、寓言を以て、之れを説く事を要せんやとて、憤然興起する所あり、神代卷及萬葉集に於て、發明する所あり、遂に一家の言を立つ』と。
f0226095_13103015.jpg


●山田孝雄翁『荷田東麻呂創學校啓文』(昭和十五年十二月十五日『寶文館』發行)に曰く、
『(春滿大人の)その學は主として獨創に出で、常師なけれど、古語の研究には契沖を敬慕せりと見ゆ。前後三囘江戸に下りしことは既に述べたるが享保八年よりは京に住して教授す。享保十年より十二年にかけて江戸なる下田幸太夫師古との間に學問に關する往復少からず行はれたる由なり。かくて享保十三年にかの啓(創學校啓のこと)の提出あり、享保十五年正月春滿中風症を發せしが弟道員の治療によりて癒えたり。この頃より將軍吉宗の祕藥を贈ることありし由は既にいへり。享保十八年三月賀茂眞淵上京して入門したりといふ。但し眞淵はこれより前に既に荷田家の門に出入してありし由なり。元文元年七月春滿宿痾の中風症再發して卒せり。年六十八歳なり』と。


荷田春滿大人の哥
       ふみわけよ 大和にはあらぬ 唐鳥の 跡をみるのみ 人の道かは
(春葉集) 

f0226095_1433770.jpg

※荷田大人肖像。「荷田全集 第一卷」 官幣大社稻荷神社藏版(昭和三年十二月「吉川弘文館」發行)所收
[PR]

by sousiu | 2013-03-02 13:10 | 先人顯彰

<< 荷田春滿大人を知る その二 『... 「國學」に就て。その二  >>