荷田春滿大人を知る その二 『創學校啓』 乾 

 『創學校啓』は、享保十三年九月、春滿大人が養子である在滿翁を江戸に下向せしめ、幕府に國學の學校を創建せんと上申せしめた啓文である。本書は春滿大人その人が立案したものであることは疑ふべくもないが、この草稿は大人の門人である懦生、山名竹内翁(靈淵と號す)の筆によることからも、靈淵翁が推敲を行なつたものと傳へられてゐる。
 『創學校啓』はこの草稿のほかに、寛政十年に刊行された春葉集にも收められてゐる。
 その後、福羽美靜、長尾武雄、平田篤胤などの碩學によつてそれゞゝ刊行されてゐるが、草稿と刊本とには多少の相違が見受けられることは前記した。

 然るに本稿では、刊本に從ひ、この全譯文を掲載せんとする。

○荷田大人、『創學校啓』に曰く、
『謹みて鴻慈を蒙り、國學校を創造せんことを請ふ啓。

荷田東麻呂

誠惶誠恐頓首頓首。謹みて聞す。伏して惟みるに、神君山東に勃興して、霸功一たび成り、天下を平章す。艸上の風、孰れか君子の志に越えん。維新の化に、始めて弘文の館を建つ。庶あり、且つ富めり。又た何をか之に加へん。明君代々作(おこ)り、文物愈々昭らかに、光烈相繼ぎ、武事益々備はれり。濟々(せいゝゝ)焉たり。蔚々(うつゝゝ)焉たり。鎌座(かまくら)氏の儉を好む。庸何(なん)ぞ斯(これ)に及ばんや。郁々(いくゝゝ)乎たり。斌々(ひんゝゝ)乎たり。室町氏の文を尚ぶ。豈同日の談ならんや。此の昇平の化に應じ、天寛仁の  君を生じ、其の天縱の資を以て、國に不嚴の教へを見(し)めす。野に遺賢なきことは陶唐の諫鼓に傚ひ、朝に直臣多きことは有周の官箴に擬す。上  天皇を尊びて、不譎の政(まつりごと)を專らにし、下諸侯を懷(なづ)けて、包茅の貢を來たす。道齊(とゝの)ひ、暇有れば、則はち心を古學に傾け、強化周(あまね)からざれば、則はち治を先王に深くし、奇書を千金に贖へば、天下聞達の士、風に嚮(むか)ひ、遺篇を石室に探(たづ)ねれば、四海異能の客、軾を結ぶ』
と。
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   ※氣吹廼舍板本『荷田大人啓』

 前段にある「神君」とは徳川家康のことだ。東照宮に祭られて後東照神君と謂はれたるより云ふ。
 餘談ながら、尊皇則反幕、國學則討幕と考へるは甚敷き誤解である。尊皇家や國學者がいつの時代に於ても幕府に敵愾心を懷いてゐた、と云ひ切ればそれは明らかに事實に反する。

○徳富猪一郎翁『近世日本國民史 第四十九巻~尊皇攘夷篇~』(昭和十年「民友社」発行)に曰く、
『尊皇攘夷は此の如く、大義名分の上から、学者の研究問題として宣示せられ、やがては現在の政治問題として討議せられ、遂ひに志士の活動事件となりて実現せられた。之を時代的に云へば、天保、弘化までは、政治問題であつた。而して万延、文久、元治、慶応に至りては、実行問題となつた。尊攘の文句は、何れの時代も同一であるが、その主義と手段とは、亦た時代と共に変化した。而して其の文句が、愈よ実際運動の旗幟となつたのは、文久、元治の間であつた』と。

 尤も、年月を經るにつれ、先哲偉傑による討幕の氣焔は激甚となつていつた。幕府の飽きることなく繰り返される、國内への因循姑息、國外への叩頭平伏は 皇國の面目を汚し、その激甚となるや敬神家尊皇家の憤慨も比例し激甚となるに何ら不思議なことはない。結果、國學者の學恩と尊皇家の赤心とによつて、明治の御一新へと時代は激動した。だがそれにしても『創學校啓』草稿から、尊攘の因を製造したるペルリ來航、乃はち嘉永六年まで百二十五年を待たねばならなかつたことを三思せよ。
 逆言すれば、國學は發達する性質を持つ、といふことに他ならない。さらば尊皇心より發せられたる主張も變化するといふことである。然もそれ、急激な發達であつてはならぬし、固よりさうであらう筈がない。高級なワインであればあるほど、價値ある木材であればあるほど、年月が要せられるものなのだ。荷田大人、寛文の代に生まれ、元祿の代に國學その萌芽を見、享保年間に『創學校啓』を草し、その百二十五年後、俄はかに(あくまでも俄はかに、だ)討幕の志氣あがる、果して現代はいつごろぞ。遺憾ながら野生は未だ現代に於ける『創學校啓』をみず、且つ荷田大人の登場を知らない。

 話頭前に復す。家康、天下を平定して後、漸く戰國の世も終はり、殊に幕府は文治政策を行なひ、學問を獎勵、結果、朱子學の學府である「弘文館」成り、皇室を尊ばれ、文物昭らかなること到底、鎌倉室町の比ではないことをいふ。これにより世は泰平無事となり、加之、學問は四民の間に弘められた。こゝに於て學問は、和漢の書だけでなく、古書古典も蒐集せられ、古學の勃興しつゝあることを大人は述べてゐる。


 續けて曰く、
『臣嘗て都下に遊ぶの日、幸ひに射策の捷を蒙り、謭(言偏+剪=せん)劣を顧みざるの義を忝なくす。偶々校書の命あり。布衣を忘るゝの恩に浴す。誰が爲めにか之を爲さん。誰をしてか之を聽かしめむ。子遷氏の言深く取る有り。智慧有りと雖も時を待つに如かず。鄒孟子の意、良(まこと)に以(ゆゑ)有るなり。當時既に 幕府の威靈に頼(よ)り、此の大義を起こし 大樹の庇蔭を借りて、臣が素願を達せんとするに意あり。而(しか)るに敢へてせざるものは、私心竊かに以(おも)ふ、跬(足偏+圭=き)歩已まざれば跛鼈も千里と。犬馬の年未だ六十に滿たず。今日の美、安(いづく)んぞ異日の醜たらざるを知らん。後進の知、豈先輩の能に如かざるを識らん。愚にして自ら用ふれば、蟷斧車に向ふの謗りを免れ難く、賤しくして自ら專らにすれば、燕石人に衒ふの羞(はぢ)を忘るゝに似たり。志有りて遂げず。千里遲々として歸る。豈圖らんや率(には)かに採薪の憂ひあり、騏■(馬偏+冀=き)徒らに槽櫪の間に伏す。何ぞ意(おも)はんや、造化小兒の爲めに苦しみて鴻鵠長く樊籠の中(うち)に繋がる。口言ふこと能はず、陳仲子の於陵に居るに同じ。脚行くこと能はず、卞和氏の楚山に在るに似たり。世の廢人と爲らば、臍を噬むとも何ぞ及ばん。時の窮阨に遇ひ、眉を嚬(口偏+頻=ひそ)めて獨り泣く。天の將さに斯(こ)の文を喪(うしな)はんとするや命なり。天の未だ斯の文を喪はざるや時なり。時の失なふ可からざる、敢へて告げずんばあらざるなり』と。

 これは大人が、皇國に相應しき(皇國に要せられる可き、といふ可き乎)學校創建の素志を進言するも、未だ達せられずして病を患ふことゝなり、空しく最後の衷情を訴へてゐるものである。
 大人は江戸にあるころ、その才を認めた幕府から屡々恩賞を賜はつた。かくなる關係が構築されるや、大人は素願であつた倭學校創建の時節到來かと考へたこともあるが、結局、それを願ひ出る事なく、志を果たさぬまゝ歸郷したのである。その理由は大人、未だ六十に滿たず、自身の學の未熟を考へたからであつた。歸郷し猶ほ學問と研究に專心し、後に大成を期さんとしたのであつたが、無念なるかな病魔の犯すところとなり、言發する能はず、脚行く能はず。遂に大人の内に宿れる素願を披露し、學校創建の時期を決意せしめたものである。



 續く。
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by sousiu | 2013-03-03 00:12 | 先哲寶文

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