荷田春滿大人を知る その三 『創學校啓』坤  

承前。

○荷田大人、『創學校啓』に曰く、
今や洙泗の學(※孔子の學なる由)、處に隨ひて起こり、瞿曇の教(※釋尊の教、乃はち佛教なり)、日を逐うて盛んに、家々仁義を講じ、歩卒廝養も詩を言ふことを解し、戸々誦經を事として、閹童壺女も空を談ずることを識る。民業一たび改まり、我が道漸く衰ふ。紀土州(紀貫之のこと也)嘗て嘆ぜり。田園競ひ捨て、資産傾き盡す。善相公深く痛めり。臣竊かに以(おも)ふ、是亦以て太平日久しきの象を見るに足れりと。唯爲めに痛哭長太息すべきものあり。我が  神皇の教へを在(み)るに、陵夷一年は一年より甚しく、  國家の學廢墜して十一を千百に存す。格律に書氓(亡+民=びん)滅して復古の學誰れか云(こゝ)に問はん。詠歌の道敗闕して大雅の風、何ぞ能く奮はん。今の神道を談ずるもの、是皆陰陽五行家の説。世の詠歌を講ずるもの、大率(おほむね)圓鈍四教儀(※天台宗のことなり)の解、唐宋諸儒の糟粕に非ざれば、則ち胎金兩部の餘瀝。鑿空鑽穴の妄説に非ざれば、則ち無證不稽の私言。曰く、祕、曰く訣と。古賢の眞田何(いづく)にか有る。或は蘊、或は奧と。今人の僞造是多し』と。

 文運の興隆せることを云ふ。とは云へ、儒教、佛教が家々、民心に擴がり、それは到底 神皇の教へであるとか、國家の學であるとか、復古の學であるとか、詠歌の道であるといふに及ばない。たとひ之を論ずる者あつたとしても、それ儒佛に支配せられ、神道は儒佛と習合し、互ひに祕傳といひ、祕訣と稱し、妄説横行、古典の精神は減ぜざる能はざることを指摘する。


臣少(わか)きより寢となく、食となく、異端を排撃するを以て念と爲し、以て學び、以て思ひ、古道を興復せざれば止むことなし。方今設(も)し臂を振ひ、膽を張り、是非を辨白するに非ざれば、則ち後必ず耳を塗り、心を塞ぎ、邪正を混同するに至らん。退かんと欲すれば、則ち後必ず耳を塗り、心を塞ぎ、邪正を混同するに至らん。退かんと欲すれば、則ち文已に漂ひ、已に晦(くら)く、進まんと欲すれば則ち老い、且つ病み、且つ憊(つか)る。猶豫決する所なく、狼狽爲す所を失ふ。伏して此に請ひ望む。或は京師伏陽の中(うち)、或は東山西郊の間、幸ひに一頃の閑地を賜はり、斯(こゝ)に  皇國の學校を開かんことを。然らば則ち臣少(わか)きより蓄ふる所の祕籍奧牒少からず。老に至りて訂する所の古記實録も亦多し。盡(ことごと)く皆(みな)此(こゝ)に藏めて、他日の考索に備へん。僻邑の士絶えて及び難しと爲すもの或は有らん。寒郷の客(かく)志(こゝろざし)有りて未だ果さざる者間々(まゝ)多し。之を借して之を讀ましめ、才(わづ)かに一書に通ぜば、百王の澆醨(西+漓の右側=げうり、澆漓)此に知らん。千古を洞覽せば、萬民の塗炭拯(手偏+丞=すく)ふべし。幸ひに命世の才あらば、則ち盡敬王の道地に委ちず。若し啄玉の器出でなば、則ち柿本氏の教へ再び邦に奮はん。六國史明かならば、則ち豈(あに)翅(たゞ) 官家民を化するの小補なるのみならんや。三代格起こらば、則ち抑も亦  國祚悠久の大益ならんか。萬葉集は國風の純粹、學ばば則ち面牆の譏なからん。古今集は歌詠の精選、知らずんば則ち無言の誡めあらん』と。

 愈々翁の素志であり素願が披露される。それ云ふまでもなく、古道の復興だ。その爲めには異端邪説を排撃するを念と爲さねばならない。今にしてこれを行はざれば古道は荒廢するあるのみ。然るに今や老い、病み、憊ると云ふ状態である。茲で遂に意を決し、倭學校の創建を幕府に嘆願するに至る。そこで即はち京都、或は東山近郊に於て、一頃の閑地を賜はり、皇國の學校を開かむと願ふのである。されば茲へは大人が、所藏せる祕籍や奧牒、古記や實録などの書籍を備へ、廣くその學問を傳へ、名世の才、啄玉の器の出現を後世に待ち、以て復古の學を興さんとする抱負を披瀝したものである。


夫れ本邦學校を設け施こすことは近江の  朝廷に權輿し、文道を主張することは  嵯峨天皇に濫觴す菅江家に分彰院あり。源、藤、橘、和、繼いで起こる。太宰府に學業院あり。足利、金澤延及す。然れども藏する所は三史九經、俎豆を雍宮に陳ね、其の講ずる所は四道六藝、蘋(草冠+頻)薠(草冠+煩)(※蘋も薠も浮き草の意。清潔にして神祭の供物とされる)を孔廟に薦む。悲しいかな先儒の無識なり、一も  皇國の學に及ぶことなし。痛ましいかな後學の鹵莽なる、誰か能く古道の潰(つひ)ゆるを歎かん。是の故に異教彼が如く盛んに、街談巷議至らざる所なし。吾が道此(かく)の如く衰へ、邪説暴行虚に乘じて入る。臣が愚衷を憐み、業を國學に創め、世の倒行を鑑み、統を萬世に垂る。首(はじ)めに成し難きの功を創む。經國の大業に非ずや。繼ぐに用ひ易き力を續く。眞に不朽の盛時なるかな。臣の至愚なる、何ぞ之を知らん。敢て自ら讓らざる所のものは語釋なり。國字の紕■(糸偏+繆の右側=びう)多き、後世猶之を知るものあらん。典籍猶存す。古語の解釋少き、振古之に通ずるものあるを聞かず。文獻足らず。國學の講ぜざる實に六百年なり。言語の釋ある僅かに三四人のみ。其の巨擘たる、新奇是競ひ、極めて超乘なし。骨髓何ぞ望まん。古語通ぜざれば則ち古義明かならず。古義明かならざれば則ち古學復せず。先王の風迹を拂ひ、前賢の意荒(すさ)むに近し。一に語學を講ぜざるに由る。是臣が終身、精力を古語に用ひ盡くす所以なり。伏して以(おもん)みるに斯(こ)の文の興ると廢ると、固(まこと)に此の擧の取ると捨つるとにあり。願はくは、閣下意を留めて幸ひに察したまへ。臣東麻呂誠惶誠恐。頓首謹言』と。

 これは大人の復古の學に對する一家言を述べ、古語研究の必要を強調して趣旨を結んだものである。
 乃はち、皇國に於ける學校の創建は、天智天皇の近江朝に始まり、大寶令の大學、國學の制度となり、奈良朝を經過して平安朝に至り、文運益々興隆。ことに 嵯峨天皇は深く詩文の學を好ませられ、大學はその組織を完備し、經學・詩文の學等、漢學の隆盛は未曾有の状態に到達した。大學の完備と相俟つて、各氏族がその子弟の教育を競ふやうになつた。和氣氏の弘文院、菅江兩氏の文彰院、藤原氏の勸學院、橘氏の學館院、王氏の獎學院など相前後して興る。貴族の子弟はこれらの學問を以て教養を積んでゆく傍ら、地方では古く太宰府に學業院があり。學問が衰微したと云はれる武家時代でも尚ほ足利學校、金澤文庫あり。併しながらこれらの學校に於て講じ學ぶものは悉く漢學であり、漢籍であつて、皇國の學を講ずるものが一つとして存在してをらぬ。
 その結果、國學振はず、古義は失はれ、異端邪説は横行するに至つた。これを打開する爲めには 皇國の學を復興せねばならない。皇國の學を復興する爲めには、古義を明らかにせねばならない。而して、古義を明らかにする爲めには、古語に通じなければならない、といふことである。

 以上、これが荷田大人の終身、努力を捧げた所以であり、大人にとつて畢竟、語釋は復古の學に於ける重大な一つの分野であらねばならなかつたのである。
 これより後、復古の學問は多くの碩學によつて大いに唱道せられ、益々闡明となり、皇國なんたるかを世に弘めるに至つた。

◎大壑 平田篤胤大人『入學問答』(文化十年正月)に曰く、
『さて契冲は。元祿十四年正月廿五日。行年六十三歳にて。身まかりたるが。其著書凡(すべ)て二十五部。卷數百二十卷餘あり。此人に追(おひ)すがひて荷田東麻呂。[通名は羽倉齋宮。]と云ふ翁の出られ候て。大きに。
皇國の學問を弘められ。既に   公の御免を蒙り。御國學びの學校を。京都東山に建むと。其地を卜せられ候に。其事果さず。病に依て身罷られ候。
此翁も著書五部。百卷あまりこれ有り候。
此翁の著書は。故有りて。世に傳
(つたは)れる者少けれども。凡て吾が古學の規則は。此翁にて相立初(そめ)申候』と。
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     ※平田篤胤大人『入學問答』↑↑↑

 荷田春滿大人歿して二百七十七年。今尚ほ仰慕される、國學の一大恩人である。
 
 そこで改めて思ふのことがある、相原修神主を。
 相原兄は平田篤胤大人の歿後門人の一人として、篤胤大人の識見と功績を平成に再び露はさむと、勞力と私財を惜しまず『伊吹廼舍先生及門人著述集』として復刻、同志への配布を行なつた。
 五册を一卷として三卷、計十五册を以てして幽界へと旅立つたのであるが、最初に復刻した書は、この日乘でも紹介した『荷田大人啓』であつた。
 彼れの眼識、奈邊に存したかを想ふ可し矣。
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     ※相模圀御民相原修謹編『伊吹廼舍先生及門人著述集』卷一↑↑↑ 

 參考までに、『春葉集』に收められる啓文と、野生の稚拙な説明を省いた訓み下し文を掲げておきたい。

◎刊本『創學校啓』、「春葉集」(寛政十年刊行)所收
『謹ンデ請フ蒙リ  鴻慈ヲ創造センコトヲ國學校ヲ啓

        荷田東麻呂

誠惶誠恐頓首頓首。謹聞。伏惟。
神君勃興シテ山東。霸功一タビ成リ。平章ス天下ヲ。艸上之風。孰カ越エン君子之志ニ。維新之化。始メテ建ツ弘文之館ヲ。庶アリ且富メリ。又何ヲカ之ニ加ヘン。
明君代々作リ。文物愈々昭ニ。光烈相繼ギ。武事益々備レリ。濟々焉タリ。蔚々焉タリ。鎌座氏之好ム儉ヲ。庸何ゾ及バン于斯ニ乎。郁々乎タリ。斌々乎タリ。室町氏之尚ブ文ヲ。豈同日之談ナランヤ哉。應ジ此昇平之化。天生ジ寛仁之
君ヲ。以テ其天縱之資ヲ。國ニ見メス不嚴之教ヲ。野ニ無キコトハ遺賢。傚ヒ陶唐之諫鼓ニ。朝ニ多キコトハ直臣。擬ス有周之官箴ニ。
上尊ビテ
天皇ヲ。專ニシ不譎之政ヲ。下懷ケテ諸侯ヲ。而來タス包茅之貢ヲ。道齊ヒ有レバ暇。則チ傾ケ心ヲ於古學ニ。強化不レバ周。則チ深ク治ヲ於先王ニ。贖フ奇書ヲ於千金ニ。天下聞達之士嚮ヒ風ニ。探リ遺篇ヲ於石室ニ。四海異能之客結ブ軾ヲ。
臣嘗テ遊ブ都下ニ之日。幸ニ蒙リ射策之捷ヲ。忝クス不顧ミ謭(言偏+剪=せん)劣ヲ之義ヲ。偶有リ校書之  命。浴ス于忘ル布衣ヲ之恩。誰ガ爲ニカ爲サン之ヲ。誰ヲシテカ令聽カ之ヲ。子遷氏之言深ク有リ取ル焉。雖モ有リト智慧。不如カ待ツニ時ヲ。鄒孟子之意。良ニ有リ以ユエ也。當時既ニ有リ意於頼リテ
幕府之威靈ニ。起シ此大義ヲ借リテ
大樹之庇蔭ヲ。達セントスルニ臣素願ヲ。而ルニ不ル敢テセ者ハ。私心竊ニ以フ。跬(足偏+圭=き)歩不レバ已マ。跛鼈モ千里。犬馬之年。未ダ滿タ六十ニ。今日之美。安ンゾ知ラン不ルヲ爲ラ異日之醜。後進之知。豈識ラン不ルヲ如カ先輩之能ニ。愚ニ而シテ自ラ用レバ。難ク免レ蟷斧向フ車ニ之謗ヲ。賤クシテ而自ラ自ラ專ゼセバ。似タリ忘ルルニ燕石衒フ人ニ之羞ヲ。有リテ志而不遂ゲ。千里遲々トシテ歸ル。豈圖ランヤ率ニ有リ採薪之憂。騏■(馬偏+冀=き)徒ニ伏ス槽櫪之間。何ゾ意ハンヤ爲ニ造化小兒ノ苦ミテ。鴻鵠長ク繋ル樊籠之中ニ。口不能ハ言フ。同ジ陳仲子之居ルニ於陵ニ。脚不能ハ行ク。似タリ卞和氏之在ルニ楚山ニ。爲ラバ世ノ廢人ト。噬ムトモ臍ヲ何ゾ及バン。遇ヒ時ノ窮阨ニ。嚬(口偏+頻=ひそ)メテ眉ヲ獨リ泣ク。天之將ニ喪ント斯文ヲ也命也。天之未ダ喪サ斯文ヲ也時也。時之不可カラ失フ。不ル敢テ不ンハアラ告ゲ也。今也洙泗之學。隨ヒテ處ニ而起リ。瞿曇之教。逐フテ日ヲ而盛ニ。家々講ジ仁義ヲ。歩卒廝養解シ言コトヲ詩ヲ。戸々事トシテ誦經ヲ。閹童壺女識ル談ズルヲ空ヲ。民業一タビ改リ我ガ道漸ク衰フ。紀ノ土州嘗テ嘆ゼリ。田園競ヒ捨テ。資産傾キ盡ク。善相公深ク痛メリ矣。臣竊ニ以フ。是亦足レリ以テ見ルニ太平日久シキ之象ヲ。唯有リ爲ニ可キ痛哭長太息ス者。在ルニ我ガ
神皇之教ヲ。陵夷一年ハ甚シク於一年ヨリ。
國家之學。廢墜シテ存ス十一ヲ於千百ニ。格律之書氓(亡+民=びん)滅シテ。復古之學誰カ云ニ問ハン。詠謌之道敗闕シテ。大雅之風何ゾ能ク奮ハン。今之談ズル神道ヲ者。是皆陰陽五行家之説。世之講ズル詠謌ヲ者。大率ネ圓鈍四教儀之解。非レバ唐宋諸儒之糟粕ニ。則チ胎金兩部之餘瀝。非レバ鑿空鑽穴之妄説ニ。則チ無證不稽之私言。曰ク祕。曰ク訣。古賢之眞田何ニカ有ル。或ハ蘊。或ハ奧。今人之僞造是レ多シ。臣自少キ無ク寢ト無ク食ト。以テ排撃スルヲ異端ヲ爲シ念ト。以テ學ビ以テ思ヒ。不レパ興復セ古道ヲ無シ止ム。方今設非レバ振ヒ臂ヲ張リ膽ヲ。辨白スルニ是非ヲ。則チ後必ズ至ラン塗リ耳ヲ塞ギ心ヲ。混同スルニ邪正ヲ。欲スレバ退ント則チ已ニ漂ヒ已晦ク。欲スレバ進マント則チ老且病ミ且憊ル。猶豫無ク所決スル。狼狽失フ所ヲ爲ス。伏シテ此ニ請ヒ望ム。或ハ京師伏陽之中。或ハ東山西郊之間。幸ニ賜ハリ一頃之閑地ヲ。斯ニ開カンコトヲ
皇國之學校ヲ。然ラバ則チ臣自リ少キ所蓄フル。祕籍奧牒不少カラ。至リテ老ニ所訂スル。古記實録モ亦多シ。盡ク皆藏メテ于此ニ。備ヘン他日之考索ニ。僻邑之士。爲ス絶エテ難シト及ビ者或ハ有ラン。寒郷之客。有リテ志而未ダ果サ者間々多シ。借シテ之ヲ讀シメ之ヲ。才カニ通ゼバ一書ニ。百王之澆醨(西+漓の右側=げうり)此ニ知ラン。洞覽セバ千古ヲ。萬民ノ塗炭可シ拯(手偏+丞=すく)フ。幸ニ有ラバ命世之才。則チ盡敬王之道不委チ于地ニ。若出テバ啄玉之器。則チ柿本氏之教再ビ奮ハン於邦。六國史明ナラバ。則チ豈翅
官家化民之小補ナルノミナランヤ乎。三代格起ラバ。則チ抑々亦
國祚悠久之大益ナランカ。萬葉集者國風之純粹。學バヾ焉則チ無面牆之譏。古今集者謌詠ノ精選。不ンバ知ラ則チ有ラン無言之誡。夫
本邦設ケ施スコト學校ヲ。權輿シ于近江ノ
朝廷ニ。主張スルコト文道ヲ。濫觴ス於
嵯峨天皇ニ。菅江家ニ有リ分彰院。源藤橘和繼イデ起ル。太宰府ニ有リ學業院。足利金澤延及ス。然レドモ所ハ藏スル三史九經。陳ネ俎豆ヲ於雍宮ニ。其所ハ講スル四道六藝。薦ム蘋(草冠+頻)薠(草冠+煩)ヲ孔廟ニ。悲イカナ哉先儒之無識。無シ一モ及ブ
皇國之學ニ。痛イカナ矣後學之鹵莽。誰カ能ク歎カン古道之潰ヲ。是ノ故ニ異教如ク彼カ盛ニ矣。街談巷議無シ所不ル至ラ。吾ガ道如ク此ノ衰ヘ矣。邪説暴行乘ジテ虚ニ入ル。憐ミ臣ガ愚衷ヲ。創メ業ヲ於國學ニ。鑑ミ世ノ倒行ヲ。垂ル統ヲ於萬世ニ。首ニ創ム難キ成リ功ヲ。非ズ經國ノ大業ニ邪。繼ニ續ク易キ用ヒ力ヲ。眞ニ不朽ノ盛時ナルカナ哉。臣之至愚何ゾ之ヲ知ラン。所ノ不ル敢テ自ラ讓ラ者ハ語釋也。國字之多キ紕■(糸偏+繆の右側=びう)。後世猶有ラン知ル之ヲ者。典籍猶存ス。古語之少キ解釋。振古不聞カ通ズル之ニ者ヲ。文獻不足。國學之不講。實ニ六百年ナリ矣。言語之有ル釋。僅ニ三四人耳。其ノ爲ル巨擘。新奇是レ競ヒ。極メテ無シ超乘。骨髓何ゾ望マン。古語不ンバ通セ。則チ古義不明ナラ焉。古義不ンバ明ナラ。則チ古學不復セ焉。先王之風拂ヒ迹ヲ。前賢之意近キハ荒ムニ。一ニ由ル不ルニ講ゼ語學ヲ。是レ所以臣ガ終身精力ヲ。用ヒ盡ス古語ニ也。伏テ以ミルニ斯文之興ルト與廢ル。固ニ在リ此擧之取ルト之與ニ捨ツル。願クハ
閣下留メテ意ヲ幸ニ察シタマヘ。臣東麻呂誠惶誠恐。頓首謹言。』


◎『創學校啓』 「春葉集」所收、啓文訓み下し
『謹みて鴻慈を蒙り、國學校を創造せんことを請ふ啓。

荷田東麻呂

誠惶誠恐頓首頓首。謹みて聞す。伏して惟みるに、神君山東に勃興して、霸功一たび成り、天下を平章す。艸上の風、孰れか君子の志に越えん。維新の化に、始めて弘文の館を建つ。庶あり、且つ富めり。又た何をか之に加へん。明君代々作り、文物愈々昭らかに、光烈相繼ぎ、武事益々備はれり。濟々焉たり。蔚々焉たり。鎌座氏の儉を好む。庸何ぞ斯に及ばんや。郁々乎たり。斌々乎たり。室町氏の文を尚ぶ。豈同日の談ならんや。此の昇平の化に應じ、天寛仁の  君を生じ、其の天縱の資を以て、國に不嚴の教へを見めす。野に遺賢なきことは陶唐の諫鼓に傚ひ、朝に直臣多きことは有周の官箴に擬す。上  天皇を尊びて、不譎の政を專らにし、下諸侯を懷けて、包茅の貢を來たす。道齊ひ、暇有れば、則はち心を古學に傾け、強化周からざれば、則はち治を先王に深くし、奇書を千金に贖へば、天下聞達の士、風に嚮ひ、遺篇を石室に探ねれば、四海異能の客、軾を結ぶ。

臣嘗て都下に遊ぶの日、幸ひに射策の捷を蒙り、謭(言偏+剪=せん)劣を顧みざるの義を忝なくす。偶々校書の命あり。布衣を忘るゝの恩に浴す。誰が爲めにか之を爲さん。誰をしてか之を聽かしめむ。子遷氏の言深く取る有り。智慧有りと雖も時を待つに如かず。鄒孟子の意、良に以有るなり。當時既に 幕府の威靈に頼り、此の大義を起こし 大樹の庇蔭を借りて、臣が素願を達せんとするに意あり。而るに敢へてせざるものは、私心竊かに以(おも)ふ、跬(足偏+圭=き)歩已まざれば跛鼈も千里と。犬馬の年未だ六十に滿たず。今日の美、安んぞ異日の醜たらざるを知らん。後進の知、豈先輩の能に如かざるを識らん。愚にして自ら用ふれば、蟷斧車に向ふの謗りを免れ難く、賤しくして自ら專らにすれば、燕石人に衒ふの羞を忘るゝに似たり。志有りて遂げず。千里遲々として歸る。豈圖らんや率かに採薪の憂ひあり、騏■(馬偏+冀=き)徒らに槽櫪の間に伏す。何ぞ意はんや、造化小兒の爲めに苦しみて鴻鵠長く樊籠の中に繋がる。口言ふこと能はず、陳仲子の於陵に居るに同じ。脚行くこと能はず、卞和氏の楚山に在るに似たり。世の廢人と爲らば、臍を噬むとも何ぞ及ばん。時の窮阨に遇ひ、眉を嚬(口偏+頻=ひそ)めて獨り泣く。天の將さに斯の文を喪はんとするや命なり。天の未だ斯の文を喪はざるや時なり。時の失なふ可からざる、敢へて告げずんばあらざるなり。

今や洙泗の學、處に隨ひて起こり、瞿曇の教、日を逐うて盛んに、家々仁義を講じ、歩卒廝養も詩を言ふことを解し、戸々誦經を事として、閹童壺女も空を談ずることを識る。民業一たび改まり、我が道漸く衰ふ。紀土州嘗て嘆ぜり。田園競ひ捨て、資産傾き盡す。善相公深く痛めり。臣竊かに以ふ、是亦以て太平日久しきの象を見るに足れりと。唯爲めに痛哭長太息すべきものあり。我が  神皇の教へを在るに、陵夷一年は一年より甚しく、  國家の學廢墜して十一を千百に存す。格律に書氓(亡+民=びん)滅して復古の學誰れか云に問はん。詠歌の道敗闕して大雅の風、何ぞ能く奮はん。今の神道を談ずるもの、是皆陰陽五行家の説。世の詠歌を講ずるもの、大率圓鈍四教儀の解、唐宋諸儒の糟粕に非ざれば、則ち胎金兩部の餘瀝。鑿空鑽穴の妄説に非ざれば、則ち無證不稽の私言。曰く、祕、曰く訣と。古賢の眞田何にか有る。或は蘊、或は奧と。今人の僞造是多し。

臣少きより寢となく、食となく、異端を排撃するを以て念と爲し、以て學び、以て思ひ、古道を興復せざれば止むことなし。方今設し臂を振ひ、膽を張り、是非を辨白するに非ざれば、則ち後必ず耳を塗り、心を塞ぎ、邪正を混同するに至らん。退かんと欲すれば、則ち後必ず耳を塗り、心を塞ぎ、邪正を混同するに至らん。退かんと欲すれば、則ち文已に漂ひ、已に晦く、進まんと欲すれば則ち老い、且つ病み、且つ憊る。猶豫決する所なく、狼狽爲す所を失ふ。伏して此に請ひ望む。或は京師伏陽の中、或は東山西郊の間、幸ひに一頃の閑地を賜はり、斯に  皇國の學校を開かんことを。然らば則ち臣少きより蓄ふる所の祕籍奧牒少からず。老に至りて訂する所の古記實録も亦多し。盡く皆此に藏めて、他日の考索に備へん。僻邑の士絶えて及び難しと爲すもの或は有らん。寒郷の客志有りて未だ果さざる者間々多し。之を借して之を讀ましめ、才かに一書に通ぜば、百王の澆醨(西+漓の右側=げうり)此に知らん。千古を洞覽せば、萬民の塗炭拯(手偏+丞=すく)ふべし。幸ひに命世の才あらば、則ち盡敬王の道地に委ちず。若し啄玉の器出でなば、則ち柿本氏の教へ再び邦に奮はん。六國史明かならば、則ち豈翅 官家民を化するの小補なるのみならんや。三代格起こらば、則ち抑も亦  國祚悠久の大益ならんか。萬葉集は國風の純粹、學ばば則ち面牆の譏なからん。古今集は歌詠の精選、知らずんば則ち無言の誡めあらん。

夫れ本邦學校を設け施こすことは近江の  朝廷に權輿し、文道を主張することは  嵯峨天皇に濫觴す菅江家に分彰院あり。源、藤、橘、和、繼いで起こる。太宰府に學業院あり。足利、金澤延及す。然れども藏する所は三史九經、俎豆を雍宮に陳ね、其の講ずる所は四道六藝、蘋(草冠+頻)薠(草冠+煩)を孔廟に薦む。悲しいかな先儒の無識なり、一も  皇國の學に及ぶことなし。痛ましいかな後學の鹵莽なる、誰か能く古道の潰ゆるを歎かん。是の故に異教彼が如く盛んに、街談巷議至らざる所なし。吾が道此の如く衰へ、邪説暴行虚に乘じて入る。臣が愚衷を憐み、業を國學に創め、世の倒行を鑑み、統を萬世に垂る。首めに成し難きの功を創む。經國の大業に非ずや。繼ぐに用ひ易き力を續く。眞に不朽の盛時なるかな。臣の至愚なる、何ぞ之を知らん。敢て自ら讓らざる所のものは語釋なり。國字の紕■(糸偏+繆の右側=びう)多き、後世猶之を知るものあらん。典籍猶存す。古語の解釋少き、振古之に通ずるものあるを聞かず。文獻足らず。國學の講ぜざる實に六百年なり。言語の釋ある僅かに三四人のみ。其の巨擘たる、新奇是競ひ、極めて超乘なし。骨髓何ぞ望まん。古語通ぜざれば則ち古義明かならず。古義明かならざれば則ち古學復せず。先王の風迹を拂ひ、前賢の意荒むに近し。一に語學を講ぜざるに由る。是臣が終身、精力を古語に用ひ盡くす所以なり。伏して以みるに斯の文の興ると廢ると、固に此の擧の取ると捨つるとにあり。願はくは、閣下意を留めて幸ひに察したまへ。臣東麻呂誠惶誠恐。頓首謹言』

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by sousiu | 2013-03-05 21:05 | 先哲寶文

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