贈從三位 賀茂眞淵大人 

●小澤政胤翁編『慶長以來 國學家略傳』(明治卅三年十一月十日「國光社」發行)に曰く、
『~上略~ (縣居大人、春滿大人に就きてより)奮勵苦學、大に古學を振起し、風俗の澆季に赴き、人情の浮薄に流るゝを匡救して、敦厚淳美の古道に復し、又歌道の淫靡風をなし、日に益々優柔惰弱に流るゝを慨嘆し、之れを矯正して以て、倜(人偏+周)儻有爲の氣象を養成するの具となさんことを期し、眠食を忘れて苦學勉勵し、螢雪の勞を積むこと殆ど十年、學成りて濱松に歸り、將に江戸に出でて大に爲す所あらんとす』と。

又た曰く、仝
『眞淵曾て曰く、吾が古學の道、契沖法師に開け、我師(春滿)に起る、たとへば稻を作るが如し、契沖師は墾闢に從事して、未挿秧をなさず、我が師は挿秧をなせしも、いまだ、收穫をなさずして逝けり、其の收穫をなして、之れを籾となし米となすものは、當に我々のなすべき所なりと』と。

又た曰く、仝
『~上略~ 世稱して曰く、眞淵翁の前には古人を見ず、後には來者を見ずと、其の詠歌初めは近古の體に從ひしが、中年に至り專ら萬葉を以て宗とし、後竟に萬葉古今の間に出入し、別に一家の體を立つ、又深く意を詩文に留む、故に當時作る所の詩に、文に大に觀るべきものあり、是れ其の國歌、國文の調格、頗る嚴正にして雄渾なる所以ならんか。
明治中興の後、朝廷特に眞淵の斯學に於ける功績の偉大なるを追賞し、正四位を贈られたり』と。


●鈴屋 本居宣長大人『玉勝間 卷六』に曰く、
『あがたゐの大人は、賀茂縣主氏にて、遠祖は、神魂神(かみむすひのかみ)の孫、武津之身命(たけつみのみこと)にて、八咫烏と化(なり)て、神武天皇を導き奉り給ひし神なること、姓氏録に見えたるがごとし。此神の末、山城國相樂郡岡田賀茂大神を以(もち)齋(いつ)く。師朝といひし人、文永十一年に、遠江國敷智郡濱松庄岡部郷なる賀茂の新宮をいつきまつるべきよしの詔を蒙りて、彼郷を賜はり、すなはち、彼新宮の神主になさる。此事、引馬草に見え、又綸旨の如くなる物あり。又乾元元年にも、詔をかうぶりて、かの岡部の地を領ぜる、これは正しき綸旨有て、家に傳はれり。かくて世々、かの神主たりしを、大人の五世の祖、政定といひし引馬原の御軍に功有て、東照神御祖ノ君より、來國行がうちたる刀と丸龍の具足とを賜はりぬ。此事は三河記にも見えたり。さて大人は、元祿十年に此岡部郷に生れ給ひて、わかゝりしほどより、古學にふかく心をよせて、享保十八年に、京にのぼりて、稻荷の荷田宿禰東麻呂大人の教をうけ給ひ、寛延三年に江戸に下り給ひて、其後田安殿に仕奉り給ふ』と。


●吹氣廼舍 平田篤胤大人『玉襷』(嘉永三年序) 「卷の九 古學ノ神等ヲ拜ム詞」に曰く、
『大人の呼名(ヨビナ)參四(サウシ)をも改めて衞士(ヱジ)と稱(ナノ)られ。また實名政藤をも。後に眞淵(マフチ)と改められたり。此(コ)は遠江國の。敷智(フチ)郡の名より思ひよりて。負(ツケ)給へりと聞(キヽ)たり。と村田春海が語りき[銕胤云。この通称參四を。先にサンシと唱へられし由云はれしは。傳聞の誤りならむ。其(ソ)は岡部次郎左衞門の家にて。幼名を參三と書て。サウザウと呼ぶ人あまた有りと。今の次郎左衞門政美の話(カタ)れるよし、草鹿砥宣隆いへり]』と。

又た曰く、仝
『さて享保十八年に京に上りて。荷田翁の教子(ヲシヘゴ)となり給ふ。こは三十七歳になり給へる時なり。然るに元文元年七月に。荷田翁身退(ミマカ)られたり。[享保十八年より。元文元年まで。其ノ間四とせなり。~以下略~]」と。


○平田篤胤大人『入學問答』(文化十年正月)に曰く、
『賀茂眞淵翁[通名を。岡部衞士と称し。家号を縣居と云。]の出られ候て。是は荷田翁の上を。一ト層(カサ)高く見解を爲し。始めて。古の道を明らかに知らむとするには。漢意佛意を。清く捨果(ステハテ)ざれば、其眞を得がたく。歌を詠(ヨム)も。古言を解釋するも。凡て古道を明らむべき梯(ハシダテ)なる由を。言ひ誨(言偏+毎=サト)され候
此事は。萬葉集の大考。またにひまなび。また國意考などを見て知らるべく候。
後に。田安中納言に召出され。皇國學の御師範を申上られ。世に普く古學の弘まり候は。全く此翁の力にて候。明和六年十月晦日に。七十二歳にて身まかられ候。其著書すべて四十九部。卷數百卷ほど有之候』と。


○平田篤胤大人著、矢野玄道翁訂『氣吹舍筆叢 下』(明治十七年四月)に曰く、
縣居翁、鈴屋翁、ともに萬の國に比なく、世にありがたき老翁だちなるを、さは知らで、たゞに歌よむ事を教へたる人とし、或は古辭をとく事を得たる人々とのみ、思ひ居る人のみ多きは、此は譬へば、櫻の花のうるはしきを、めづるものとも思ひたらで、たゞに其枝葉を愛たしと見るに均しく、漢人のいはゆる、不賢者其ノ小ヲ識ルとかいふ類か。あはれ愚に、あさましき人々になむ』と。



●村田春海翁門、泊洦(山水+百)舍 清水濱臣翁、文化十年『泊洦(山水+百)筆話』に曰く、
『一、縣居翁、東都へ來られて、門人あまたありけるが、入門のをり、鳥計非言(ウケヒゴト)といふものをかゝせしめられき。そは世にすなる、入門の誓詞なり。その文は、

賀茂宇志廼教賜倍婁(カモウシノヲシヘタマヘル)
皇御國廼、上代乃道遠(すめらみくにの、かみよのみちを)、己痛願斯奴倍里(おのれいたくねぎしぬべり)。故、名簿乎進良氐(氏+下に「一」=て)(かれ、なつきをまゐらせて)、其道爾赴比奴(そのみちにおもむかひぬ)。伊摩由後、教賜敞留言(いまゆのち、をしへたまへること)、遂爾遠里氐(氏+下に「一」)、許流時爾之毛有受波(つひにとほりて、ゆるるときにしもあらずば)、安駄志人爾私言勢自(あだしひとにさゝめごとせじ)。且宇志爾對比氐(氏+下に「一」)、爲耶無久異之伎心遠思波自(またうしにむかひて、ゐやなくあだしきこゝろをおもはじ)。都氐(氏+下に「一」)、此烏計比爾違波婆(すべて、うけひにたがはば)、言麻久毛恐伎 天津神 國津神多知(いはまくもかしこき あまつかみ くにつかみだち)、知志食奈毛、穴畏(しろしめさなも、あなかしこ)

                年號 月 日
                         通稱      姓      名花押
賀茂縣主大人 爾上
』と。

 先ちて入門者へ對しその心を求める、上記意を垣間見るに、縣居大人の本志いづこに存するか以て識る可し矣。



●擧樹園 河喜多眞彦翁、嘉永二年『近世三十六家集略傳 卷の上』に曰く、
『今に至りて古學の徒、其忌日には、肖像をまつり、神の如く尊尚す。英才俊傑の學士、其門に輻湊して、其學を補翼す。宣長、久老、千蔭、春海、美樹、魚彦、春郷、土滿、古道、常樹、高豐、自寛等、これを縣門の十二大家と世に稱す。又倭文子、餘野子、茂子、これを三才女といふ』と。

 こゝでいふ、「縣門の十二大家」とは、本居宣長、荒木田久老、加藤千蔭、村田春海、河津美樹、楫取魚彦、村田春郷、栗太土滿、小野小道、橘常樹、日下部高豐、三島自寛の碩學だ。
 又た、三才女とは、油谷倭文子、鵜殿餘野子、進藤茂子刀自のことだ。



 春滿大人然り。國學四大人をはじめ、かの時代を生きた國學者の學問業績は、野生の如き淺學の何萬語を以て論じても、到底、説明し盡くし得るものではない。
 こゝ最近の流れからすれば、このまゝ縣居大人、鈴屋大人、氣吹廼舍大人へと續く可きであらうけれども、無念、野生にその力なきをうらむ。
 よつて、それゞゝの高識、卓見、思想などは他に讓るとして、先人の言を拜借し、謹みて彼れら前哲の輪廓に觸れるにとゞめる。
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by sousiu | 2013-03-07 16:45 | 先人顯彰

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