贈從三位 賀茂眞淵大人 その三。 『國意考』その一 

 話題が續いてゐる内は兔も角、一旦別な話題に外れると、戻すのに億劫となる。それは即はち、古書を讀み、調べる億劫を意味する。往時用ひられてゐた假名遣ひや漢文、或いは文體に未だ馴れ親しめてゐないといふことなのか。
 「變體假名」もさうだ。少し期間を空けると、「あれ、この文字は何と讀むのであつたか」と思ひ惱み、文字を調べる作業から始めるのである。
 これを繰り返し、繰り返し、行なふわけだ。でなければ當時の思想や内情など、微細に繙くことは六ケ敷い。木川選手のブログを見ると、目下彼れは古文書の解讀などに專心してゐるやうだ。野生の如きは迚も々ゝ、そこまで挑戰する氣すら起こらない。汗顏。

 かく考へれば「虎の卷」も無かつたころの時代、契冲、春滿兩大人はじめとした先人の努力は想像を絶するものがあつたに違ひない。
 然も當時は儒學隆盛。賀茂眞淵先生をして、文學博士 佐々木信綱先生は、
『當時六十八歳の高齡に達し、幾百人の門下の師と仰がれて、江戸に門戸を張つてをる多くの儒學者の中に一敵國視の觀を爲してゐた』『賀茂眞淵と本居宣長』(昭和九年十二月二日「弘文社」發行)と述べてゐる。
焉んぞ、勞苦を研究のみとせん。吾人は先覺碩學の學恩に只管ら感謝申す可きである。


 さて。話題は『國意考』まで進んでゐた。
 前記抄録の如く、縣居大人は萬葉集その他の古典などの研究に勵んだ(著書「萬葉考」「源氏物語新釋」など)。
 同時に往古の文學を通じて、日本の國體の尊きを闡明したのである。
 この『國意考』は、大人の數ある著述の内では、短い部類のものだ。
 とは云へ晩年の著述といふこともあり、大人の思想を明瞭に著はせてゐると云つて宜い。
 繰り返すが當時は漢學の盛んなりし頃である。家康以來、漢學は殊に獎勵せられ、當然のことゝして、これを研究、發展せしめる學者が隨分あつた。從つて當時語られる賢人は先づ支那の優秀な人物を差し、先哲、聖人なども皆然りであつた。
 かうした時代の風潮下にあつて、自分の國を先づ尊ぶ可しといふ論は中々世間に受け容れ難くあつた。況んや漢心を除くなどてふ論に於てをや。
 他國を無暗に崇拜する前に、自國を尊ぶ可し、とは、今でこそ當たり前のことであるが(一部未だこの誤謬に支配されてゐる者らもあるが・・・)、當時に於ける苦心と孤立を今日の物差しで測つてはならない。

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●縣居 賀茂眞淵大人、『國意考』(『賀茂眞淵全集 第四』明治卅七年十二月十八日「國學院編輯部」編輯、「吉川弘文館」發行)所收に曰く、
ある人の、我(われ)は歌(うた)やうの、ちひさきことを、心とはし侍(はべ)らず、世の中を治めむずる、から(唐)國の道をこそといふ。おのれたゞ笑てこたへず。後にまた其人にあ(會)ひぬるに、萬(よろづ)のことをことわ(理)るめるに、たゞ笑にわらひて、おはせしは故(ゆゑ)ありやなどいふに、おのれいふ、そこのいふは、から國の儒とやらむのことか。そは天地(あめつち)のこゝろを、し(強)ひていとちひさく、人の作れるわざ(業)にこそあれといふに、いとはら(腹)立て、いかで此(この)大道を、ちひさしといふにやといふ。おのれいはく、世の中の治りつるや、いなや承りぬべしといへば、堯舜夏殷周などをもて答(こたふ)。おのれいふ、其後にはなきや。答(こたふ)なしと。また問(とふ)、凡(およそ)から國の傳れる代は、いくばくぞや。こたふ、堯より今まで幾ち云々(しかゞゝ)。また問、さらばなどや堯より周までのさまなる、其後にあらざりけむや。たゞ百千々(もゝちゞ)の世の、いとむかしのみかたよりて、さるよ(善)きことのありしぞ。そはたゞむかし物語にこそありけれ。見よ々ゝ、世の中のことは、さる理(ことわ)りめきたることのみにては、立(たゝ)ぬ物と見ゆるをといへば、此人いよいよはらだち、むかしのこと、しかゝゝと解(とく)。おのれいふ、なづめりゝゝゝゝ。かの堯は舜のいやしげなるに讓れりとか。天が下のためなることは、よきやうなれど、こは 皇御國にては、よしきらひものてふ物にて、よきに過(すぎ)たるや。さるからに、ゆづらぬいやしげなる者の出て、世をうばひ君をころしまつるやうになれり。こはあしきらひ物なり。かくよ(善)きにす(過)ぐれば、わろ(惡)きにす(過)ぐることの出(いづ)るぞかし』と。


 これは問答形式を以て段々と大人の主張を説いてゆくものだ。曾てはこのやうな組み立てを以て書かれたものが少なくなかつた。
 當時、當世に優れた歌人の一人として知られた大人に、或る人が、「歌はたゞ自分の感想を表はすだけで、世の中の役に立たない。歌を詠むなどといふ小さなことよりも、世を治め國を平らかにする爲めお役に立つことが大切だ。それには學問だ。その治國平天下の學問とは支那の國の儒教だ」と批判した。大人はたゞ笑つて答へず。

 後にまたその或る人と會ひ、先日、大人が笑ひて返言せなかつたことを尋ねた。大人答ふるに、貴方のいふ治國平天下の道とは儒教のことであらう、と。儒教といふは天地の道を本にして人の道を立てるものにて、天地の廣大を人智で解釋する寔に小さい、偏狹なものであると返辭した。
 すると或る人は大層に腹立て問ふ、如何にこの聖人の大道を小さいといふ、と。
 大人反問す。その支那の大道を以て世を治めた聖人の事蹟を伺ひたし、と。
 或る人答ふるに、堯舜の事蹟、夏殷周などの聖人賢人を以て説明す。
 大人問ふ。その後に、それらの聖人が出でたる乎、否乎。
 或る人答ふ。無し、と。
 周の代以後に聖人は出現せないのである。であるから、彼れらは、堯舜禹湯文武周などといふ者を聖人として仰いだのである。
 大人問ふ。支那の時代はどれ位續いてゐるのか。
 或る人、堯舜夏殷周の歴史を委細に答ふ。
 大人また問ふ。支那はその後も長い歴史(百千々世)があるのに、人の道を説くに態々堯から周までの事ばかりを持ち出すのはどういふ譯であるか。何故さう昔話ばかりをなさるのか。
 或る人、愈々憤慨す。昔の聖賢の事蹟を本にして、千萬年後までも人の守つてゆく可き道が立つてゐるのだと。而して、古の聖賢の事蹟や偉業などを樣々説明す。
 大人曰く、なづめりなづめり(泥めり)。貴方は支那に泥んでしまひ、支那の古への聖賢のみが偉いと偏つた考へをなされる。

 舜といふ者は行なひも正しく、また親孝行であつたので、時の堯といふ天子が、舜が民間の賤しい出でありながら彼れを引立て政治を一任し、後に天子の位も讓つたのである。これが大變に勝れた事蹟として、又た、世を平らかに治めた手本であると云つて、後世の稱讚となつてゐるのであるが、しかし、どうだらう。そのやうに、賢人があれば後を讓るといふやうなことばかり手本にしてゐると、其の位を讓る可き賢人が出ない場合はどうするのか。必ず力づくとなり、世は亂れる。現に支那は戰亂と支配、策謀と背信が隨所にみられる歴史だ。さうであるから支那では世を奪ふ、又たは君を弑して位を奪ふといふやうな者が出てくるのである。聖人も賢人も出でぬ時代だつてあるのだ。
 又た人間と云ふものはさう完全無缺では無い。なるほど、稀れに聖人であるとか賢人であるとか呼ばれる人もあらうけれども、大概の人は聖人や賢人になる譯にはいかない。それであるから、學問はなくとも、淺慮なるとも、それゞゝの長所を活かし、農業を行なふ者であるとか商業であるとか、林業であるとか、正假名を愛用するとか、假の橋を造るとか、兔に角皆の力を結集し、國は榮えるのである。
 明治天皇の御製に
    山のおく 島のはてまで 尋ねみむ
          世にしらざれる 人もありやと

 とある。
 山奧で働いてゐる人や島の涯で働いてゐる人は、世に知られずその名も傳はらないけれども、そのやうな人々もあつてこそ國威は伸張するのである。かうした難有き御心あらせられるを吾人が常に忘れず、たとへ至つて平凡で、或は割に合はず、世人の好まざる仕事でも、各人が進んで力を打ち込めば、眞の國力發展に繋がるのである。

 上記大人の云はむとするは、支那では聖人賢人を理想とする餘り、つまり古の理想のみを説いてゐる結果として、却つて「惡しぎらひもの」となり、凡てに萬事間違ひが生じるのだといふ意である。



 曰く、
又孟子とかいひけむ人は、堯舜の民は、家をならべて、封ずべしといへり。是をおもふに、舜の父はめくらものとかいふは、子のよきを見知らぬ故にや。この堯の民、舜の父なれど、いかで封ずべき人ならむ。舜の後を禹(う)といふ。此父はわろ人にて、遠き國にながしつるとか。こは舜の民にて、禹の父なるに、また封(ほうじ)がたき人ならずや。然らば、孟子も、今の世にいふ、勸化(くわんげ)の口さきらのみなりけり。また、殷の世はいくらつゞきしにや。其始(はじめ)はよき人にて、禹の世を讓りつるといへり。さらば其(その)つぎゝゞなどや、よき人につたへざりけん。末にたぐひなき紂(ちう)とやらんといふ、わろ人のいづるとか。さらばよきに讓りしは、惟(たゞ)上(かみ)つ代(よ)一代二代にや。それもとほらぬわざなりけり。さて周の文王とやらむは、ひとかたをだも知りたるに、ようせずば、身のわざはひと成(なる)べけれ。紂王のわろきによりて、中々に、人をなづけなどせしはさることなり。武王の時、紂をうちしを、ことわりあるいくさとやらんいへど、伯夷叔齊がいさめしとかいふを、孔子てふひとも、よき人とのたましひとか。さらば武王をいかにいはん。まことに義ならば、紂の後をも立べきを、それが末を、韓などへはふらしやりて、などみづからの子(こ)うまごにゆずりけむ』と。

 昔の孟子といふ人は、支那では曾て、堯舜といふ聖人の徳の非常に優れてゐたことを賞讚し、家を竝べて封ず可し(※どの家の者も皆、領地を與へ大名とするに値する人々ばかりであつたの意)と云つた。これはこのやうな昔の聖人の時代を理想として、みなが進歩し優れた人々にならねばならぬといふことだ。
 ところが堯舜の世に於てみな優れてゐた人ばかりかといへば、決してさうではない。
 例へば、舜は非常に徳の高い人であつたといふことであるが、彼れの父(瞽叟=こそう)は、自分の子である舜を常に殺さうと企てゝゐた盲目者である。
 因みに、「瞽叟」といふのは本名ではなく、「盲目の老人」といふ意味である。瞽叟は堯の民であり、且つ舜の父だ。このやうな名が付けられ、後世に傳はつてゐる者があることを考へれば、堯の時代、聖人が治めてゐた國が「家を竝べて封ず可し」との説を怪しまねばならない。

 又た、舜の後に位を讓り受けたのは禹だ。禹の父は鯀(こん)だ。禹は洪水を治めた爲めに舜の信と寵を受けた。だがしかし、元來その任にあつた者は禹の父、鯀だ。鯀は失敗し、流罪に處せられたのだ。息子である禹がその父の罪を償ふといふことも動機の一つとしてその任を完うしたのだ。かく考へれば、鯀も寔に詰まらない人であつたと云ふことが出來る。何處が聖人の治める世、家を竝べて封ずる世であつたのか。

 世の中に勸化と云うて、神社や寺の由來を説明しては寄付金を集めてゐる連中がある。これは口舌を以て人を欺き、畢竟、自分の糊口を凌いでゐる者らだ。であるから勸化の口先といふものは當てにならぬと世の中の人は云ふのであるが、昔が偉い偉い、優れてゐる優れてゐると云ふけれども、事實にそぐはないことばかりを云ふのであれば、孟子も又た勸化と似てゐるではないか。

 或は殷の世は隨分長く續いたと云ふが、その間に世々の天子が優れてゐたかといふと決してさうではない。
 始祖こそ善けれ、禪讓は賢人へではなく、子に讓つたものであるから、以後世襲となり、やがて隨分詰らぬ者が王の位に就き、終ひには紂王などといふ、暴虐無人な王が出で、結局、武王に誅され革命が起きて滅びてしまつた。
 ところで、武王が紂王を誅したことは如何に解釋する可き乎。
 これを正しい事(※本文中「~さることなり」)、正義の戰さと云つてゐるが、たとひ正義を標榜したとしても、臣が君を弑したことには相違ない。だとすれば本當にそれを「正義」と云つて宜いのであらうか。
 それであるから伯夷(はくい)、叔齊(しゆくせい)といふ二人は武王が兵を出すことを諫めて、臣として君を討つのは正しからざることを説いたのである。しかしながらそれが聞き容れられず、爲めに二人は、斯くなる亂暴な時代に生きてその君主の庇護を受けるのは氣が濟まないとして首陽山に籠り、餓死したのである。
 ところで、孔子はこの伯夷と叔齊の行なひを襃めてゐるのであるが、若し、武王の行なひが善であるならば、これを諫め、結果餓死した伯夷と叔齊は襃められたものではない。伯夷・叔齊を襃めるとするならば、君征伐の軍を發した武王の革命軍は正義軍とは云へなくなるのである。このやうな全く矛盾することを説きながら、これを聖人の教へといはれても、到底認めることが出來ない。

 又た若し、武王が本當に世の爲めに軍を起こして私利私慾は無かつた、といふのであれば、紂は苟も武王の君であり、武王は臣であつたのだから、紂を滅ぼしても、紂の子孫を手厚く取り立て、祖先の祀りを絶やさぬやうにする可きである。しかし何うだ。紂の叔父にあたる箕子(きし)を朝鮮へ追ひ拂つて朝鮮の王とした。態の良い所拂ひだ。而して武王は自分の子孫を繁昌させた。果してこれを聖人とし、世々の人の手本として宜いものであらうか。


 とかういふ譯である。
 このやうな書き方は、ちよつと大變なので失敗だつたな・・・。汗。
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by sousiu | 2013-03-19 23:43 | 先哲寶文

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