贈從三位 賀茂眞淵大人 その四。 『國意考』その二 

 本日は(も)前きの客人から日中着信あり。
 多忙であつた爲め、電話に出る能はず。夜になつてこちらから連絡し、日中の用件は何だつたのか尋ねるに。彼れ曰はく、「今日お邪魔しようと思つて」と。彼れは今、伊勢である。
 彼れはまだ知らない。河原に接近するとロクなことにならないことを。先づ當面のことゝして、南紀のタコ部屋に入れられることも、だ。

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 承前。
●縣居 賀茂眞淵大人、『國意考』に曰く、
○さて周公、政をとりて、殷の諸侯を四十餘りほろぼしけむこと、孟子てふ文にみゆ。此四十あまりの侯、みなわろ人にあらむか。周公にあだなふまゝに、しひてほろぼせしとしるべし。かくするが義といふものにや。そのさかえは、八百年とかいへど、初(はじめ)二代にて、四十年ばかりは、治れりといはんか。やがていと亂て、なかゝゝおとろへにけり。其四十年ばかりの間、周公てふよき人は、弟によこしませられて、外へまかりつるとか。世の中のみだれは、世の中のわざにもといふべきを、兄弟しもよこしませるは、内のみだれにて、亂の甚しきものなり。さらば四十年の間も、治れるには侍らざりけり

 さて。武王が死んだ後の周は何うなつたか。武王の子に成王といふのがあつた。だが成王は未だ幼年であつたが爲め、武王の同母弟である周公(周公旦、文王の第四子)が執政を擔ふことになつたのである。周公は文物、制度を整へ、周の泰平の基は彼れの成績に負ふところ多しとして、文王や武王と竝べて聖人視せられてゐる。
 然るに周公執政の折、殷の時代からの諸侯には、周に服せぬ者が多かつたことから、その中の四十ばかりを滅ぼして領地を奪つたと孟子は述べてゐる。果してその四十餘りの諸侯は全員が全員、惡人であつたのだらうか。
 諸侯たる可き者が揃ひも揃つて惡人であつたとは考へ難く、さうして見るとこれは周公の統治に何某か異議を差挾み、之に服從しなかつたから強ひてこれらを滅ぼしたと見る可きである。それを義とは云はない。周公もまた、聖人とは云はれないのである。

 又た、周の榮えてゐたのは八百年だと云ふけれども、初めの二代、四十年許りは本當に世の中が治つてゐたと云うても宜いが、後では全く亂れてしまつた。所謂る、春秋戰國の亂世となつてゐるのだ。臣は君を弑し、子が父を殺したことも少々ではない。このやうな状態でたとひ八百年續いても、八百年來治國平天下であつたとは云ひ難いのである。

 よし周公が偉き人として、治國平天下に力を盡くしたとする。だが兄である管叔鮮(文王の第三子)と弟、蔡叔度(文王の第五子)に亂を起こされた(所謂る「三監の亂」)、見逃し難き事實がある。周公は亂こそ治めたけれども七年ののち、成王が成人したことを理由にその地位を返上し田舍へ隱匿してしまつたとか。
 後に至つて周公の誠心が理解され、また元の地位に復したといふけれども、いづれにせよ兄弟の力に壓迫せられて結果、自己の地位を捨てなければならなくなつた不祥事は拭へない。周公は平定する爲めに、兄である管叔鮮を殺害し、弟の蔡叔度を流罪に處したのである。萬民を教へ導く筈の聖人が、實の一族兄弟を善導することも出來ず謀反人を出せしめるのであるから、これは「亂の甚だしきもの」といふほかなく、治國平天下を爲し得た聖人と呼んで宜いものなのだらうか疑問を抱かずにはをられない。
 かく考へれば初めの四十年が能く治つてゐた、と云ふが、この四十年も本當に治つてゐたのではない。だとすればその後の春秋戰國時代をみても周は八百年こそ續いたにせよ、手本とす可き事はないのである。これを理想的時代として仰景するのは、畢竟、儒者の誤謬であり、そこから發生した考へ方が、後世に誤れるまゝ傳へられてきたと斷定せねばならないのである。

 とかういふ意だ。

 今囘この項は短文であつたから、樂であつた。

 當日乘を御來訪の客人には、暫く「國意考」にお付き合ひ賜はり、且つ「國意考」を通じ、支那の古へのことを些かでも共に學べればと思ふ次第である。
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by sousiu | 2013-03-21 21:39 | 先哲寶文

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