贈從三位 賀茂眞淵大人 その五。 『國意考』その三 

◎清原貞雄博士『國學發達史』(昭和二年十一月廿五日「大鐙閣」發行)に曰く、
『我國が未だ外國文化の影響を受けない以前の有樣を以て理想的であつたとし、其時代に行なはれた國民の道徳を以て完全無缺なるものとする思想は復古國學派の中心思想であつて、此考は既に前から多少其、萌芽があつた。 ~中略~ 所謂國學四大人の第一である春滿にはあまり斯る思想は明瞭に現はれて居ないので、それが最も明瞭に力強く説かれたのは眞淵からである。
 眞淵の所謂國意は一言に云へばおのづからなる道である。自然のまゝに人間の小策を用ゐずして治まる道である。凡そ世の中は、あら山荒野にも自づから道が出來るやうに、我國に於ても亦神代の道が其まゝ擴がつて自然に國は榮えて來た。斯くて我 皇國皇道は愈々榮え行くべきであつたのを、儒教が入つて來て却て之を亂したのである。支那人は人間が萬物の靈長であると云ふ。何となれば天地日月の變らざるが如く、鳥獸草木古のまゝである中に、獨り人間のみ小智が發達して種々の惡心も出で遂に世を亂した。又治まつて居る中にも互に詐き合ふ。鳥獸の目から見れば人の方が惡いと思ふに違ひない』

『我國の古へは詞も少く、事も少く、心も直く、從つてむつかしい教は無用であつた。少しの教があればよく守るが、元來、天地のまにゝゝ行ふ事であれば教ふる必要も無かつたのである。 ~中略~ 或人は又我國の古代には仁義禮智と云ふ事が無かつたからそれに當る國語も無かつたと云つて居るのは一を知つて二を知らぬものである。支那に之等の教を立てそれに違ふを惡いとして居るが、凡そ天下に五常の道は自づから備はつて居る事、恰も四時がある樣なものである。春夏秋冬の名目は無くとも寒暖の移り變りは自然に存する如く、五常の目を立てずとも、五常の道は自然に人に備はる心である。それを支那にばかり道徳が備つて我國に缺けて居る樣に人が思ふのは何故であるかと云ふに、我國の古道は天地のまにゝゝ丸く平らかにして却て人の心詞に言ひ盡し難いから人が氣が附かないのである。此丸いと云ふ事、支那の教の如く稜々しくないと云ふ事が大切である』と。

  ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

 承前。
●縣居 賀茂眞淵大人、『國意考』に曰く、
○それよりのちは、漢の世に、文帝とかいひし時、暫(しばらく)治まりにけむかし。さていやしげなるひとも出で、君をころし、みづから帝といへば、世の人みなかうべをたれて、順(した)がひつかへ、それのみならず、四方の國をば、えびすなどいひて、いやしめつるも、其夷てふ國より立て、唐國のみかどゝなれるときは、またみなぬかづき(額突き)て、したがへり、さらば夷とて、いやしめたることいたづらごとならずや。はた世擧て、いへる語(ことば)には、あらざるべし。如是(かくのごとく)世々にみだれて、治れることもなきに、儒てふ道ありとて、天が下の理りを解(とき)ぬ。げに打聞(うちきゝ)たるには、いふべきことも、ならざるべう覺(おぼゆ)れど、いとちひさく、理りたるものなれば、人のとく聞得るにぞ侍る。先(まづ)ものゝ專(もは)らとするは、世の治り、人の代々傳ふるをこそ貴(たふと)め。さる理り有とて生てある天が下の同じきに似て異なる心なれば(此一章よめがたし ※マヽ)、うはべ聞しやうにて、心にきかぬことしるべし。然るを此國に來たり傳ては、唐國にては、此理りにて、治りしやうに解は、みなそらごとのみなり。猶なづめる人をやりて、唐國を見せばや、浦島の子が古郷へかへりしごとくなるべし』と。


 周の次代は秦だ。されど秦は二代で滅びた。秦に次いで出でた王朝は漢だ。漢の世は四百年ほど續いた。
 この漢では、第五代にあたる皇帝、太宗文帝といふ者が能く治つてゐたと云はれる。
 文帝、性格温厚、人徳も篤く、臣下も隨分歸服してをつた。

 とは云へ、やはり漢の時代にあつても、元々地位も身分も教養も無い、所謂る[いやしげなるひと]が君を弑して、自らが帝であると稱した。すると世間の民は皆、頭を垂れてこの者に從順するといふ有樣であつた。それより後にはこのやうなことは多々あり、臣であつた者が勢力を構築し、君に壓力を加へたり、或は弑して自ら王の位にたつといふことは、殆ど數へ切れない位ある。

 國内がこのやうに力の論理で支配されてゐる傍ら、彼れらは自國以外の國を悉く蔑んでゐた。
 自國を「中華」といひ、或は「中國」といひ、東方にあるものは「東夷」と呼び、西方の國を「西戎」、南方の國を「南蠻」、北方の國を「北狄」と呼び、未開の國と賤しめてゐたのである。
 かくなれば四方の國々がいつまでも支那を崇拜する筈もなく、やがて支那に侵入して領土を占領し、新しく建國するといふことも稀れではなかつた。
 力こそが正義なり、といふことに馴れてしまつた人々は、未開から來た征服者にも額づいて從つたのである。

 結局、支那の歴史は亂れる麻の如きであり、始終混亂で彩られ、本當に能く治つた時代といふものはあまり無い。
 そのやうな支那であるにも拘らず、彼の國には儒といふ道があり、天の道に基いて立てた素晴しきものであるから、これを學びさへすれば正しい道が明らかになるといふのである。
これをば日本に輸入され、日本人までもがこれを重んじてゐる。成程、一寸、これを聞けば尤ものやうに聞こえる。けれども實は儒教のその道理は極めて小さく、狹い範圍で定めた道理であるから、一寸聞いた丈で納得されるものなのである。
 儒教は家を治め國を治めれば、天下は能く整ひ、能く治まるといふ。それ故に先づ身を修めよう、家を齊へよう、國を治めようと云ふ。併しながら如何程に儒教が貴いと云つても、肝心の支那が上記したやうに上手に治つてをらず、始終混迷してゐる所を見ると、自づと儒教は空言であると見做さゞるを得ない。
 若しも日本が儒教に泥みて、崇拜し、當の支那へ行つて支那の樣子をみせたならば、成程如何に鹿爪らしく理窟をこねても、實際の治國平天下には應用出來ないものであることを知るであらう。恰度、浦島太郎が龍宮へ行き、夢の日々を過ごし故郷へ歸へつてみると、現實の世界は殺伐として荒廢し、郷の元の姿すら無かつた、といふことゝ同じである。

 といふことだ。
 儒教批判もちと過ぐるやうに感じるが、儒教全盛期にあつて天下に一大痛棒を喰はさむと欲せば、極論もまた止むなし。吾人はその心事と勇氣、信念と志操を看取せねばなるまい。
[PR]

by sousiu | 2013-03-22 17:49 | 先哲寶文

<< 贈從三位 賀茂眞淵大人 その六... 贈從三位 賀茂眞淵大人 その四... >>