人気ブログランキング | 話題のタグを見る

贈從三位 賀茂眞淵大人 その七。 『國意考』その五 

 承前。
●賀茂眞淵大人、『國意考』に曰く、
○凡(およそ)世の中は、あら山、荒野の有か、自ら道の出來るがごとく、こゝも自ら、神代の道のひろごりて、おのづから、國につけたる道のさかえは、 皇いよゝゝさかへまさんものを。かへすゝゝゝ、儒の道こそ、其國をみだすのみ、こゝをさへかくなし侍りぬ。然るをよく、物の心をもしらず。おもてにつき、たゞかの道をのみ貴み、天が下治るわざとおもふは、まだしきことなり』と。

 この一項は、廿二日冒頭に記載した清原博士の文章に分明だ(赤字)。


●仝、曰く、
○さて歌は、人の心をいふものにて、いはでも有ぬべく、世のために用なきに似たれど、是をよくしるときは、治りみだれんよしをも、おのづから知べきなり。孔子てふ人も、詩を捨ずして、卷の上に出せしとか。さすがにさる心なるべし。凡物は理にきとかゝることは、いはゞ死たるがごとし。天地とともに、おこなはるゝ、おのづからの事こそ、生てはたらく物なれ。萬のことをも、ひとわたり知を、あし(惡し)とにはあらねど、やゝもすれば、それにかたよるは、人の心のくせなり。知てすつるこそよけれ。たゞ歌は、たとひ惡きよこしまなるねぎこと(祈事)をいへど、中々心みだれぬものにて、やはらいで、よろづにわたるものなり。
                歌のいさほしはすでにいへり
』と。

 さて。歌などといふものは、自分の心に思うたことを詠むものであるから、心に誠がある人ならば、詠まずとも宜く、國の爲め世の爲めには無用に似たり、といふ人がある。けれども決してさうでは無いのだ。
 歌は本當に心に思つたことが、歌となつて露はれるのである。然るに世の中が治まつてゐたか否か、人の心が眞つ直ぐであつたか否か、その時代に詠まれた歌をみれば察することが出來るのである。(※上記「萬葉考 卷六序」參照)

 よつて歌と云ふものを輕々しく、又た無用のものと考へてはならない。
 それであるから理窟ばかり云ふやうな支那にあつても、孔子といふ人は、詩といふものを捨てることなく、昔から傳はる詩を集め、これを遺した(詩經)。さすがに孔子といふ人は考への深い人であつたのだらう。

 凡そ何事も理窟責めにして書かれると、それは死んだものゝやうになつてしまふものだ。それよりも天地と共に行なはれる自然の道といふものを能く辨へてゆけば宜いのだ。天地自然の道は絶えず生成化育されてゐるものであるから、理窟に拘泥するのではなく、この自然の道と共にあれば自づと活きたものとなる。

 とは云へ、凡ゆることを知るといふことは、決して間違つたことではない。だが動もして人といふものは何事にも理窟を付けなければ承知しなくなり、世間が徒らに混亂するのである。どうもこれは人の心の癖であるらしい。であるから、學問などに勵む人は、このことに留意して、知つて捨てるやうに、一通りの理窟を學び之に拘泥せぬやうにすることが大事なのである。

 但し歌といふものは、たとへその者が自分勝手で邪な願ひを抱いてゐても、それを歌にしようと思ふと、やはり人間である以上、人の情といふものを離れられないものであるからして、心が和らいで、歌を詠み交はすうちに人間の眞面目が養はれてゆくものなのだ。
 この「歌」の素晴しさは既に他の著述にしたゝめてゐる。

 と。

  * * * * * * * * * * * 
  

 餘談ながら、江戸中期、歌論に就て大きな論爭があつた。
 それは荷田春滿大人の養子となつた存滿翁の著『國家八論』(寛保二年)を巡るものであつた。
 在滿翁は『國家八論』に於て「歌は貴ぶ可きに非ず、言葉の遊戲に過ぎない」とした説を述べた。
 これに對して田安宗武公(第八代將軍吉宗の次男。在滿翁、縣居大人に國學や和歌、有職故實を學んだ)が『歌體約言』(延享三年)を著して反論。縣居大人も田安公と同じく、和歌は人の眞心が其のまゝ詠歎の聲となつて表はされたもので、自づから人を化するの徳あるが故に國を治むる道にも通ずる、といふことを力説してゐる。

 言葉の遊戲と眞心の發露とは、全く違ふものだ。眞淵大人は『歌意考』その他の著書に於て、平安時代の『古今集』は、儒佛の影響を受けてをり、技巧を懲らしたものであり、之を「手弱女振り」と批判し、古代の『萬葉集』に心高く雅びあり、「丈夫振り」が示されてゐると述べる。


◎賀茂眞淵大人、『萬葉考 卷六』(『賀茂眞淵全集 第三』明治卅九年三月卅日「國學院編輯部」編輯、「吉川弘文館」發行)所收、序に曰く、
『掛まくも恐こかれど、すめらみことを崇みまつるによりては、世中平らけからんことを思ふ。こを思ふによりては、いにしへ(古)の御代ぞ崇まる。いにしへを崇むによりては古へのふみ(文)を見る。いにしへのふみを見る時は、古への心言(こゝろことば)を解んことを思ふ。古への心言を思ふには、先いにしへの歌をとなふ。古への歌をとなへ解んには萬葉をよむ。萬葉を凡(おほよそ)よみ解(とく)にいたりて、古へのこゝろ言を知り、古へ人の心まことに言なほく(直く)、勢ひをゝしく(雄々しく)して、みやび(雅)たることをしる。こを知てこそいにしへの御世々の事は明かなれ』と。


◎明和元年、大人、『歌意考』(『日本古典全集第二回 賀茂眞淵集』昭和二年四月廿日「日本古典全集刊行會」發行)所收に曰く、
あはれ、あはれ、上つ代には、人の心ひたぶるに直くなん有りける。心しひたぶるなれば、爲す業も少なく、事し少なければ、云ふ言の葉も多(さは)ならざりけり。然か有りて、心に思ふ事ある時は、言に擧げて歌ふ、こを歌と云ふめり

◎仝、
『斯くて掛けまくも畏き吾が皇神の道の、一つの筋を崇むに付けて、千五百代も安らに治れる、古の心をも、心に深く得つべし。次いでには、言噪(ことさへ)ぐ國國の、上つ代のさまを善く知れる人に向ふにも、直き筋の違はぬも多かりけり』

◎仝、
古は丈夫(ますらを)は、猛く雄雄しきを旨とすれば、歌も然かり。然(さ)るを古今歌集の頃となりては、男も女ぶりに詠みしかば、男(をとこ)女(をみな)の分ち無く成りぬ。然(さ)らば女は、唯だ古今歌集にて足りなんと云ふべけれど、其(そ)は今少し下(くだ)ち行きたる世にて、人の心に巧み多く、言(こと)に誠は失せて、歌を作爲(わざ)としたれば、自ら宜しからず、心に煩(むつか)しき事あり、古人(いにしへびと)の直くして心高く雅びたるを、萬葉に得て、後に古今歌集へ下りて學ぶべし。此理(このことわり)を忘れて、代代の人、古今歌集を事の本として學ぶからに、一人として古今歌集に似たる歌詠み得し人も聞えず。はた其の古今歌集の心をも、深く悟れる人無し。物は末より上(かみ)を見れば、雲(くも)霞(かすみ)隔たりて明らかならず。其の上へ昇らん階(はし)をだに得ば、いち早く高く昇りて、上を明らめて後に末を見よ。既に云ひし如く、高山(たかやま)より世間(よのなか)を見わたさん如く一目(ひとめ)に見ゆべし。物の心も、下(しも)なる人、上なる人の心は計り難く、上なる人、下の人の心は計り易きが如し。由りて學びは、上より下すを善しとする事、唐國人(からくにびと)も然か云へりき』と。


◎明和二年、大人、『にひまなび』(仝)に曰く、
抑も上つ御代御代、其の大和ノ國に宮敷きましし時は顯(おもて)には建(た)けき御威稜を持て、内には寛(ひろ)き和みを成して、天の下を服(まつろ)へまししからに、いや榮えに榮えまし、民もひたぶるに上を貴みて、己れも直(なほ)く傳はれりしを、山背(やましろ)の國に遷しまししゆ。畏き御威稜のやや劣りに劣り給ひ、民も彼れに附き是れに阿りて、心邪(こゝろよこしま)に成り行きにしは、何ぞの故と思ふらんや。其の丈夫(ますらを)の道を用ひ給はず、手弱女(たをやめ)の姿を親(うるは)しむ國振と成り、其れが上に唐の國ぶり行れて、民、上を畏まず、奸(よこ)す心の出で來(こ)し故ぞ。然かれば、春の長閑に、夏のかしこく、秋のいち早く、冬の潛まれる、種種(くさゞゝ)無くては、萬づ足らはざるなり。古今歌集出でてよりは、和(やはら)びたるを歌と云ふと覺えて、雄雄しく強きを賤しとするは、甚(いみ)じき僻事(ひがこと)なり』と。
贈從三位 賀茂眞淵大人 その七。 『國意考』その五 _f0226095_15423545.jpg


 曾て「歌意考」「にひまなび」などを拜讀したことがあるのだが、正直申せば何が何だか解らなかつた。
 しかし歌道の同窓であり、時對協の先輩である福田議長が述べられてゐる通り、↓↓↓
    http://sinkou.exblog.jp/19689719/
 「歌道講座」では言辭の虚飾よりも眞心などを大事として御教示いたゞいてゐる。この講座で扮飾することは、即、自ら晒者となるを望むやうなものだ。知らず野生も、おぼろげながら微心をあらはせるやうになりつゝある(氣がする)。
 はからずも前囘の「講座」の直會では、古今和歌集と萬葉集の相違に始まり、樣々御高話を賜はつた。講座の諸先輩もさすがに能く理解されてをられ、迚も興味深く拜聽した。
 二ケ月に一度の講座ではあるが、お蔭で今では少しづゝ、「歌意考」も理解出來るやうになつてきた。

by sousiu | 2013-03-25 15:28 | 先哲寶文

<< 贈從三位 賀茂眞淵大人 その八... 神奈川有志の会  >>