贈從三位 賀茂眞淵大人 その九。 『國意考』その七 

 最近、道教に就ても些か關心がある。
 一昨日の夜から、日本道教學會關係者達による『道教 第一卷 道教とは何か』を讀み始めた。
これからは少し集中して、道教關連の本を重點的に讀んでゆく積もりである。

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承前。
●賀茂眞淵大人、『國意考』に曰く、
又云、然れども、此國に文字なし。唐國字を用て、萬つそれにて知るべしと。答、まづ唐國のわづらはしく、あしき世の治らぬは、いはんかたもさらなり。こまかなることをいはゞ、繪のごとくの文字成けり。今按■■(※不明)てふ人の、用ある字のみを擧といへるを見れば、三萬八千とやらむ侍り。譬へば、花の一にも咲散蘂樹莖其外十まり(餘り)の字なくてはた(足)らず。またこゝの國所の名、何の草木の名などいひて、別に一の字ありて、外に用ぬも有、かく多(おほく)の字を、夫(それ)をつとむる人すら、皆覺ゆるかは、或は誤り、或は代々に轉々して、其約(つゞまやか)にかゝれるも、益なくわづらはし、然るを天竺にば、五十字もて、五千餘卷の佛の語を書傳へたり。たゞ五十の字をだにしれば、古しへ今と限りなき詞もしられ、傳へられ侍るをや。字のみかは、五十の聲は天地の聲にて侍れば、其内にはら(孕)まるゝものゝ、おのづからのことにして侍り、其ごとく 皇御國も、いかなる字樣かはありつらんを、か(彼)のから(唐)の字を傳へてより、あやまりて、かれにおほはれて、今はむかしの詞のみのこれり。其詞はまた天竺の五十音の通ふことなどは、又同じ理りにて、右にいふ花をば、さく、ちる、つぼむ、うつろふ、しべ、くき、などいへば、字をもか(借)らで、よしもあしも、やすくいはれて、わづらひなし。おらんだ(和蘭)には、二十五字とか、此國には五十字とか、大かた字の樣も、四方の國同じきを、たゞから(唐)のみ、わづらはしきことをつくりて、代もをさまらず(治まらず)、ことも不便なり。さて唐の字は、用たるやうなれど、古へはたゞ字の音をのみか(借)りて、こゝの詞の目じるしのみなり。其の暫後(しばらくのち)には、字のこゝろをも交へて用(もちひ)たれど、猶(なほ)訓(くん)をのみ專ら用て、意にはかゝは(係)らざりしなり。【萬葉初卷軍王作歌返歌 山越乃(ヤマゴシノ)風乎時自見(カゼヲトキジミ)寢夜不落(ヌルヨオチズ)家在妹乎(イヘナルイモヲ)懸而小竹櫃(カケテシヌビツ)凡四千の歌のうち擧るに堪んやは、見て知べし。今安くおもひ出るをあげりこ、は訓音を專ら用ひたるなり、】』と。

 又た、漢學を主張する人が云ふには、本來、日本には文字がなく、たゞ言葉があつたのみであつた。そのやうな折、支那から文字が輸入されて、いつまでも言葉を後世に遺せるやうになつたのである。さうしてみれば、支那から文字が傳はつたといふことは、非常に感謝せねばならないことなのである。と。
 これに對して大人の答へるに。支那は全く煩はしい國であつて、世の中がいつも能く治まらない。その要因を述べれば色々あるだらうけれども、細かいことを云へば、文字があまりに多過ぎることも影響してゐるのである。支那の文字といふものは繪のやうな文字であつて、山といへば山のやうな形を寫し、川といへば川のやうな形に表はす譯であるが、天地の間の出來事といふものは數限りなくあるのだから、これを一々繪のやうにして表はせるとなると必然的に文字の數は多くなるのである。
 一體、支那にどれほど文字があるかと云へば、その數は非常に多い。その中で日常に使用してゐる文字を擧げてみれば、それだけで三萬八千もあると云はれてゐる。たとへば花に關係する文字だけでも、咲くとか散るとか、蘂とか樹とか莖などあり、その他十以上も無ければ花を文字に表はすといふことが出來ないのである。
 又たその他に、國の名や所の名、草や木などの名にも別々の文字があつて、一々それに相應した文字を用ひねばその草なり木なりを傳へることが出來ない。その他の物にも態々その物の姿を形容して別々の一字を當てがふので、文字を專門に研究する人でも、これらを殘らず覺えることは出來ず、隨分間違つてしまふことも多い。然も同じ文字でも時代に依つて解釋が變はつてしまふものもあるのだから、一般人には到底理解出來ず、實際の人間が生活する上では役に立たない骨折りばかりでたゞ煩はしいだけなのである。
 これは支那獨特のことである。印度では、文字の數は五十であつて、この五十を色々組み合せることによつて五千餘卷の經典を書き今日まで傳へられてゐるのだ。それであるから印度では、すべての智識を得る道が大變簡單であり、五十の字さへ知つてゐれば、古今に亙る限りなき文章も皆が解讀出來るのである。
 成る程、天地の凡ゆる聲を分類してみると五十音といふものになるのであるから、この五十音を一々文字に表はせて組み合せることによつて全てのことを傳へることは出來る筈である。
 皇國にも古へには、如何樣ものであつたかは解らぬが、兔も角文字があつたに相違ない。啻に言葉だけで全ての用が足りたとは思へない。支那と交通を開かぬ以前に於て、皇國は隨分能く國も治まり、整頓されてゐたことを考へれば、必ず文字はあつたに違ひない。
 しかし、支那との交通が頻繁となり、彼の文字が輸入せられて、その文字が便利だと誤解し、愛用してしまふやうに至り。而、到頭それまでの古から愛用せられてゐた文字といふものは傳はらなくなり、たゞ昔の言葉だけが遺り、それを支那の文字で表はすやうになつたのである。
 本來我れらの言葉は、印度の五十字といふものと、大體同じである。例へば先にも云つた花に關係するものでも、「さく」とか「ちる」とか「つぼむ」「うつろふ」「しべ」「くき」などといふことも、皆、五十音の中の組み合せで傳へることが出來るのである。それを態々支那から傳はつたやうな畫の多い、難しい字で表さないでも宜かつたのである。善いにしろ惡いにしろ、凡そ日常生活の事柄は、皆容易に云ひ表はすことが出來るので、畫を色々書き分けるといふやうな煩はしいことは少しも必要ではないのである。
 猶ほ、和蘭では、廿五字で事が足りるさうだ。この廿五文字で日常の言葉をみな表はすことが出來るといふ。これは五十字よりは尚ほ簡單であるが、併し五十字にしたところで、何萬に比べれば簡單である。文字が少ないから國が發展しないなどといふ譯などなく、以上に擧げた國々もそれぞれ開けてゐる。然るに支那では大變に文字の數が多く、その文字の穿鑿ばかりしてをり、畢竟世の中が徒らに複雜になつて、實用ならぬ穿鑿研究ばかり多くせねばならず、不便といふほかない。
 また日本で漢字を使ふのも、今では色々とその字の意味を穿鑿することになつたけれども、昔は漢字の音を借りて言葉の目印としただけである。後にそれぞれの字には意義があるといふやうなことを云ひ出して、その研究が盛んになり、何萬といふ文字を使ひ分けることになつたのだ。然るに日本でも後になつて、文字の穿鑿が始まり、支那同樣、煩はしうなつたのであるが、これは彼の國の弊害を承け繼いだものと見做さねばならぬ。



 ・・・・といふことだ。
 いやあ、備中處士樣仰せのとほり。勉強になつてをります。・・・大變になつてきたけれども。汗。
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by sousiu | 2013-03-28 23:11 | 先哲寶文

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