贈從三位 賀茂眞淵大人 その十二。 『國意考』その十 

 最近、屡ば夢でまで本を讀んだり、話しを聽いたりしてゐる。
 若かりし頃は會つたこともない女性の夢など見てゐたものであるが、近頃はとんと現れない、苦笑。それより以前、幼き頃の夢では、タイガーマスクなど、アニメや特撮の主人公が出て來たり、野生自身がそれらになつたりしたことがあつた。(可愛い過ぎる)
 當たり前だが起きてみるとみな、それは非現實的であり、架空の話しであつた。
 最近みる夢で學んだことがらも、全くアテにしてはいけない。起きてもこれらを信じるならば、病院へ通院せねばならぬからだ。

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承前。
●賀茂眞淵大人、『國意考』に曰く、
○或人、此國の古へに、仁義禮智てふことなければ、さる和語もなしとて、い(最)といや(賤)しきことせるは、まだしかりけり。先(づ)唐國に、此五(いつつ)のことを立て、それに違ふをわろ(惡)しとしあ(合)へりけむ。凡(およそ)天が下に、此五つのものは、おのづから有(ある)こと、四時をなすがごとし。天が下のいづこにか、さる心なからむや。されども、其四時を行ふに、春も漸(やうやく)にして、長閑(のどけ)き春となり、夏も漸にして、あつき夏となれるがごとく、天地の行は、丸く漸にして至るを、唐人の言のごとくならば、春立(て)はすな(即)はちあたゝか(暖か)に、夏立は急にあつかるべし。是(これ)唐の教は、天地に肖て(※「勤王文庫」では「背(そむきて)」と記される。誤字なるか不明也)、急速に佶屈なり。よりて、人の打聞には、方角有て、きゝやすく、ことわりやすけれど、さは行はれざるものなり。天地のなす、春夏秋冬の漸なるに、背ける故なり。天地の中の虫なる人、いかで天地の意より、せまりていふ教を、行ふことをえ(得)むや。凡(およそ)天が下のものには、かの四時のわかち(分ち)有(ある)ごとく、いつくしみも、いかりも、理りも、さとりも、おのづから有こと、四時の有(ある)限りは絶(たえ)じ。それを人として、別に仁義禮智など、名付けるゆゑに、と(取)ること、せばき(狹き)やうには、成(なる)ぞかし。たゞさる名もなくて、天地の心のまゝなるこそよ(善)けれ、さる故に、此國は、久しく治るをしらずや。目の前に、おの(己)がみなれ(見馴れ)たることをのみ、おもひせま(狹)れる、をこ人(嗚呼人)のことは、言にもた(足)らねど、おもひわかたぬ(思ひ分たぬ)、わらはべ(童)のために猶いはん』と。

 又た、漢學を稱讚する人の云ふに。支那では昔に聖人賢人が現はれ、仁義禮智といふことを教へた。けれども日本では仁義禮智などといふ詞が無かつた。この事實から察するに、日本には曾て、人の道を普及させる教へが足らなかつたことは明白である。それであるから支那と交通するやうになつて、彼れらから仁義禮智を學んだ譯である。さうして見れば日本の方が、支那よりも劣つてゐたといふことは出來る、と。
 この説に對して大人が答へるに。それは甚だ考への足らぬことである。確かに日本では、支那の云ふやうな仁義禮智といふやうな詞は無かつた。併し、詞が無いからと云つて、仁義禮智のやうなものが全く無かつたと思ふは間違ひである。
 仁義禮智といふ言葉を教へられると、それまでその言葉を知らなかつたことから、さういふ考へ方そのものがまるで存在しなかつたかのやうに誤解してしまふが、併し人間と人間が存在して社會を構成してゐる以上は、自づと人の道が普及されてあつて然りである。それは恰度、春夏秋冬が自然に備つてゐることゝ同じである。何處へ行つても天地の間には四季が備つてゐるやうに、人間社會の間でも、人の道が備つてゐる可きなのである。
 けれども、春夏秋冬があると云つても、それが巡るには、春にもなるのも段々となり、初めの内は冬の寒さが殘つてゐるが、やがて本當に暖かくなり草も木も芽を出し蕾となる。夏も段々暖かくなつてきて、やがて暑いものとなるのだ。凡て氣候の遷り變はりとはかういふもので、急に暑くなつたり、急に寒くなつたりはしない。
 ところが支那の人らの云ふやうに、聖賢の道を學べば、何も知らない愚ろかな者も仁義禮智を悉く心得ることが出來るといふことが事實ならば、例へば春がくれば忽ち暖かくなり、夏がくれば忽ち暑くなるやうなものである。さういふ考へ方や教へ方は天地自然の道に背いてゐると云はねばなるまい。そのやうに凡ての人に求めて強ひるのは寔に窮屈なことである。所謂る儒者らのいふ事は、理詰めであるから聞き易く、一聽するに理りがあるかのやうに聞こえるけれども、兔角空論となり實行に伴はない事が特徴である。
 人間は天地の間に生きてをり、天地の生んだところの虫の一種に過ぎない。その人間が、天地の心を離れて、自分勝手な理窟を拵へて、その教へを實行しようとしても、結局は行なひ難いものなのである。道理とか、悟とか、色々なことを云ふけれども、そのやうなことを理窟で解釋して普及させようとせずとも、自然に備つてゐることを知らねばならない。然るにそれを人間が態々人だの義だのと種々の名目を付けて、これを片つ端から實行せねばならぬなどと教へるものだから、兔角人間の視野が狹小となり、心が窮屈となり、結局は亂れるのである。
 それであるから強ひてさういふ名目や教へを設けずしても、天地の道を我が心として日々これを忘れずにをれば、人は安らかに毎日を送ることが出來、また國も自ら治つてゆくものなのでつて、それが寔に善いことなのではないか。これは空言ではない、實際に日本の状態をみれば解る筈である。日本は古へから自然の攝理に從つて人心も直き心を持ち、君臣上下一致し分を越えることなく、今日までよく治つてゐる。つまり天地自然の道に適つた國であるからであつて、この事を鑑みれば、何も仁義禮智の名目を立てなければ治らないといふ考へ方に陷らざるとも宜いのである。
 しかし目の前の事といふものは、普段見馴れてゐるものであるから、迂闊にもその素晴しさを見落してしまひがちだ。そこで理窟ばつた教へ方を聽くと、つひ自分も賢くなつたやうな氣がして、自分の習つたことを人に教へたり強ひたがつてしまふ。だがこれは愚ろかなことであつて、特に子供は惑はされてしまふ。それであるから、日本が天地自然の道に適ひ、古へから本當に有難い國であることを、もう少し申してみようと思ふのである。



 愈々『國意考』も後半へと差し掛かつた。
 やはりブログで全文を記載し、説明文を導入する書き方は無理があつたのかも知れない。
 鈴屋大人、氣吹舍大人ともなると更らに國學も發展するので、一書や二書を書き出して足りるものではない。
 どうしよう・・・・。「九段塾」の掲示板を拜借する、か。しかし野生の薄識では、記さうにも、既にあそこではそれ以上に書き盡されてゐるし・・・・。
 取り敢へず、風呂にでも入つてくるか。

 
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by sousiu | 2013-04-01 18:51 | 先哲寶文

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