縣居門 その一。加藤千蔭翁 

 昨日は何ともエライ目にあつた。
 野生はグリーンパイソンなる蛇を飼つてゐる。彼れ、野生の膝下に訪れて已に七、八年經つのであるが、これが中々どうにも愛想が宜くない。
 昨夜、餌(餌が何であるか、こゝでは云へない)を與へようとし、ふと他所見(煙草の火を消してゐた)したところ、チクツといふ痛みを感じた。視線を戻すと、彼れはいつの間にやら水槽から身を乘り出し野生の指を噛みついてゐたのである。
 幸ひ直ぐに離してくれて水槽に戻つてくれたから良いやうなものゝ、痛みの割りに案外出血が多い。

 野生も食ひしん坊であるが、彼れも又た相當の食ひしん坊だ。なにせ野生を食べようとしたのであるから。
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↑↑↑野生の蛇だ。いつも野生を見てゐるが、まさか食べようと思つてゐたとは。蛇心圖り難し、だ。
  
 
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 さて冗談は兔も角。(蛇に噛みつかれた話しは冗談ぢやないのだけれどもね)

 三月十三日に記した、徳富蘇峰翁の言を今一度茲に掲げねばなるまい。
 蘇峰 徳富猪一郎翁曰く、『凡そ世の中に、師として大なる成功は、己よりも偉大、優秀なる弟子を持つことだ』と。

 荷田春滿大人に對する、賀茂眞淵大人であるやうに、賀茂眞淵大人も又た、本居宣長といふ國學の一大恩人を輩出した。
 しかしながら、鈴屋 本居大人があまりにも世に聞こえた爲め、本居大人と比し、他の縣居門生をば注目、研究するの機會に乏しく感じられてしまふのは 野生の偏見といふものであらうか。さなくば、頗る遺憾であると申さねばならぬ。實に當時、江戸に於ける縣居門戸は、勢ひ愈々盛んにして、一世を風靡した。所謂る「縣門十二大家」をはじめ、後學に寄與せしめたもの決して少々としない。

 縣居大人の學統を承け繼ぐ御門人を知ることで、より一層縣居大人の理解を深めることも出來るのではないかと、茲に縣門諸賢の一遍をものせむと試みるものである。


 縣門先學を語る前に話しが前後するが、縣居大人の江戸で門戸を構へ、然る後に於ける足跡を簡單に記しておく。

 眞淵大人が京都に上り、春滿大人の門に入つたのは三十七歳(享保十八年)。必ずしも早い方ではない。今日に至つても知られる昔時の學者には、その時勢の自然の結果として、晩成であることが少なくない(餘談であるが、荻生徂徠が古文辭學に目を開き提唱させたのは實に五十歳のころである)。
 然るに春滿大人に師事すること四年が經ち、元文元年、春滿大人は歿した(時に春滿大人おん年六十八、眞淵大人おん年四十)。

 その翌年(元文二年)、眞淵大人は一度郷里に歸へり、翌元文三年、東遊の志を立て江戸に下つた。蓋し當時京都は、學藝の中心を離れ、春滿大人歿してからといふもの殆ど人材に不足してゐる状況であつたらしい。一方、江戸は政治の發源地であると共に、元祿時代を經て、學藝は盛んに發達、今や中心となりつゝあつたのである。
 而、縣居大人は、門戸を構へた。訪れる門人は日に増してゆく。

 延享三年(縣居大人おん年五十)。大人は田安公に仕へる事となつた。一説には、これまで田安宗武公の寵愛を受けてゐた荷田在滿翁が、その著『國歌八論』を巡り田安公と意見を異にし、雙方相讓らず、在滿翁は公に仕へるを辭し、代はりに縣居大人を公に推擧したといふことである(異説あり。在滿翁が『大嘗會便蒙』を刊行し、朝廷の祕事を著はし公の忌憚に觸れたともいふ)。

 いづれにせよ、縣居大人は田安公より信任と寵愛を受け、その後、十五年間仕ふることゝなる。

 寶暦九年。縣居大人おん年六十四、老衰の故以て、致仕す。
 恩師、春滿大人の廿五年祭を齋行。

 寶暦十三年。縣居大人おん年六十八、門人數名を連れて山城、大和、伊勢などを漫遊す。本居宣長大人が入門したのはこの時である。

 縣居大人、再び、江戸に戻り、明和六年十月卅日(おん年七十三。家譜に七十四とあるは誤也)、歿す。晩年は專ら門人指導と著述活動に從事した。『五意考』は全てこの頃上梓されたものである。




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◎芳宜園 加藤千蔭翁(縣門十二大家、縣門四天王)

○大川茂雄翁著、『國學者傳記集成』(明治卅七年八月廿五日「大日本圖書」發行)所收にみるに。

加藤 橘 千蔭

生歿
(生) 二三九五年  中御門  享保廿年
(沒) 二四六八年  光  格  文化五年九月二日
(年) 七四

姓名
(本姓)橘氏、(通稱)幼・要女、後・又左衞門、(字)徳與麿[トコヨマロ]、常世麿[トコヨマロ]。(號)朮園[ウケラゾノ]、芳宜園[ハギゾノ]、耳梨山人、逸樂窩、江翁

住所
江戸、(墓)本所回向院



●河喜多眞彦翁、『近世三十六家集略傳 卷の上』(嘉永二年)に曰く、
『(千蔭翁)年十四にして、加茂縣居翁の門に入らしむ。ここにして千蔭と名を改め、別名を常世丸といふ。こは橘氏によれるなり』
 又た曰く、
『(千蔭翁の)父、賀茂翁とは方外の友たり。翁、その志を嗣いで、日夜賀茂翁に就いて、古學を研究し、詠歌を修し、終に其精妙にいたる。若年の時は、吏務の暇なきも、父の教示をまもりて、學を廢せず、寸暇を索めて、これを勉む。
 ~中略~ 年五十五にして、仕を致してより、ますゝゝ精力を盡し、他事なく、古學詠歌のことを專門としぬ。ここに於て、其名大に振ひ、權門貴族より、下、花街の婦女に至るまで、爭ひて翁の門に入り、教を受くるもの頗る夥し。縣居門の中、詠哥に於ては、翁を以て冠とす。當時、江都に出て、先歌の事を談じ、其人を問へば、童子といへども、千蔭、春海の二翁を稱す』と。

●小澤政胤翁、『慶長以來 國學家略傳』(明治卅三年十一月十日「國光社」發行)に曰く、
『幼より、父枝直に詠歌の業を受け、年十四の時より、賀茂翁に從ひて古學を修め、書は松花堂、又入木堂の風を摸し、畫は建部綾足に學ぶ。後、父の職を承ぎて、町奉行與力となり吏務叢委すと雖も、尚且歌學を研覃して懈らず。人となり温和にして物と競はず。清原雄風、本居宣長、楫取魚彦、小澤蘆菴、清水濱臣、荷田御風、三島自寛、荒木田久老、賀茂季鷹、加藤宇萬伎等と友とし善し。
 ~中略~ 千蔭兼て墨妙を以て稱せらる。其揮洒する所、片紙斷簡といへども、人爭て珍重とす。關東に古學の道の廣まりしは、實に千蔭と春海との力によれりと云ふ。文化五年正月、展墓の時、自ら橘千蔭之墓の五字を書して、寺僧に授け、身後之れを以て我墓と表せよと、是年九月二日、溘焉として逝く』と。


 これらによつてみれば、隨分と、江戸市中でその名が知られてゐたと看做す可きであらう。

 だが一方では、冷靜な意見もある。
●清原貞雄翁、『國學發達史』(昭和二年十一月廿五日「大鐙閣」發行)に曰く、
『(千蔭翁は)歌學に就てはあまり造詣は深く無かつたのであるが、其著「萬葉集略解三十卷は最も名高く、其當時一般にもてはやされ、自然それが將軍家にも聞えて一部獻上を命ぜられ、其賞として白銀十枚を賜つた事は本居大平が千蔭に贈つた書面(帝國文學八ノ六、關根正直氏の萬葉集略解編成の事情所引)にも見えて居り、其歌集「うけらが花」にも見えて居る。然し乍ら之は別に千蔭が萬葉に對して新しい研究を試みた譯では無く、契冲や眞淵の研究を採り、傍ら本居宣長に絶えず書を送つて其説を求めつゝ執筆したので、深切にして温厚な宣長は其度毎に返書を出して一々丁寧に其考を披瀝した結果、畧解が大成したのである。
 ~中略~ 要するに萬葉集略解は、萬葉研究として特に云ふべき程のものでは無いが、萬葉を普及せしめた上に尠からぬ功績を認めなければならぬ。千蔭の門人としては清原雄風、加茂季鷹等何れも歌人として有名である』と。

 清原博士の意見は、千蔭翁が萬葉集を弘めた點に於て大にその功績を認めてはゐるが、研究の成果に關しては御世辭にも高得點を著けてゐるとは云ひ難い。その評價は前二書とは評價内容の懸隔がある。これは一體どうしたものか。
 この理由を知る意味に於て吾人は眞淵翁の偉業を改めて解することが出來ると共に、時代と環境の相違を感じさせられるのである。その理由は次囘、縣門 村田春海翁で説明することゝする。春海翁も又た、江戸の住人だ。
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 <加藤千蔭翁の主なる著書>
    香取日記[かとりの日記] (寛政六年五月) 一卷
    古今和歌集序 (寛政九年序) 一
    大歌所御歌記 (文化十四年刊) 一卷
    東歌 父枝直集 (享和元年) 三卷
    朮花[うけらがはな] (享和二年)、仝 二編 (文化五年刊) 合計八卷
    新百人一首 (享和三年) 一卷
    萬葉新採百首 (享和三年) 一卷
    新撰月百首 (文化元年) 一卷
    月並消息 (文化五年刊) 一卷
    萬葉集畧解 (文化九年刊) 卅卷
    玉霰論 (文化十二年刊) 一卷
    玉川記行 一卷
    ゆきかひぶり 三卷


    むさし野や 花かずならぬ うけらさへ
                つまるゝ世にも あひにけるかな



 千蔭翁の門人として名高くあるのは、清原雄風、加茂季鷹などの諸賢である。



                      ※乞ふ、誤りあらば御指摘下さらむことを。  
 
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by sousiu | 2013-04-12 08:56 | 先人顯彰

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