縣居門 その二。村田春海翁 

 昨日、廿一時ころ、北海道より歸宅。
 夕方から夜にかけて見る飛行機からの眺めはロマンチツクで最高であつた。・・・隣が山口會長でなければ。吁。
 歸つて暫くして就寢。いつの間にか十二時間も寢てしまつた。
 今度びの北海道行きでは、山口夫妻に頗るお世話になつた。只管ら、御禮を申上げたい。
  
 
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◎錦織齋 村田春海翁 (縣門十二大家、縣門四天王)

○『國學者傳記集成』(明治卅七年八月廿五日「大日本圖書」發行)所收にみるに。

村田春海

生歿
(生) 二四〇六年  櫻町  延享三年
(沒) 二四七一年  光格  文化八年二月一三日
(年) 六六

姓名
(姓)平氏、(通稱)平四郎、(字)士觀[サチマロ]、(號)琴後翁[コトジリノオキナ]、錦織齋[ニシゴリノアルジ]


住所
(墓)江戸深川本誓寺』

●河喜多眞彦翁、『近世三十六家集略傳 卷の下』(嘉永二年)に曰く、
『初め服部仲英に從ひ、後、鵜殿士寧に就き、また京師に出てゝは皆川淇園にも就て疑ひを問ふ。普く有名の儒家と交りて、博學淹通、和漢に通ず。故に文章を作るにいたりては、趣意を漢土に取り、詞を 皇國にもとめて、別に一体を闢[ヒラ]きたり
 又た曰く、
『伯、春郷(※春海翁の實兄)と倶に縣居の門に入り、古學を勉め、また歌に妙なり。其文詞においては、實に近世に超出して、一家の妙を究む』と。
 又た曰く、
『翁、家に一の古琴を藏して、これを珍とす。依て琴後の號あり』 と。



●小澤政胤翁、『慶長以來 國學家略傳』(明治卅三年十一月十日「國光社」發行)に曰く、
『春海、姓は平氏、字士觀[サチマロ]、通稱を平四郎といひ、錦織齋、又琴後翁と號す。春道の第二子なり。兄春郷と同じく、賀茂翁の門に入りて古學を修め、歴史、律令、文辭の學に長じ、和歌、文章に妙なり。兄、春郷の家を避くるや、春海代て家道を督す。性豪放にして財利に澹なり。家世々江都の富豪を以て稱せられしも、竟に之れを蕩盡す。然れども恬として顧慮するところなく、心を文事に委ね、老年に至りて益々其の精を極む』と。
 又た曰く、
當時加藤千蔭と名を齊うし、並に江都和學者の泰斗と稱せらる。從學の徒、甚だ多し。東國に和學の盛なるに至りしは、實に春海と千蔭の力なりと云ふ』と。

 こゝに出てくる村田春道とは、春海翁の父のことである。
 通稱、平四郎、後に次兵衞といふ。初名を忠興、後に春道に改める。號を尚古堂とす。子に春郷、春海あり。江戸の人なり。
○『家世々商を以て業とす。家道甚富む。春道幼より文雅を好み、賀茂翁の江戸に來るや、之れを居宅に招きて、自身及び子弟をして、國學を學ばしむ』(「慶長以來 國學家略傳」)

 これによつて春海翁の、縣居門を叩いた經緯は分明だ。つまり父・春道によるものである。
 縣居翁が江戸で遊んだ當初、縣居翁は村田春道宅に寄寓した。そこで感化を受けた春道は自身と、子息を縣居門生となつたのである。
 餘談であるがこの頃、古學を教へ説く縣居の名聲頗る盛んとなるにつれ、當時の町奉行は、幕府が禁物としてゐる新規の説を流布する學派としてこれを警戒。與力であつた加藤枝直をして入門者に化けさせ、その説を伺はしめた。謂はゞ今でいふ潛入搜査である。ところが與力・枝直は忽ち、縣居翁に心服、その説にも敬服し、搜査としてではなく本當に入門してしまふ。枝直直ちに、眞淵翁を自分の家(北八丁堀)の附近に移らせ、その子をも入門せしめた。その子が先日、記した千蔭翁である。
 春海、千蔭兩翁は、それゞゝの父によつて眞淵門となつたわけである。それにしても案外なる思想及び學問との出會ひによつて、意外なる人生の方向轉換となる例は決して少なくない。思想や學問とは實に面白い。


 さて。春海翁の性行に就ては豪放磊落とする見方と傲慢無禮であるとする見方の批評がある。
 序でながら之れも資料として加へたい。
●河喜多眞彦翁、『近世三十六家集略傳 卷の下』(嘉永二年)に曰く、
『性、豪放にして、財利に淡く、竟に家産を失ふ。しかれども和漢の學、文章に富み、其名を天下に振ひ、猶千載の後葉に傳へん。されば家産を失ふもまた非ならずと、人稱すと』と。

●『琴後集』(文化七年刊)緒言に曰く、
『翁若くして、なりはひの道にうとく、遂に家をはふらかして、百千の寶を失ひ、はては事たらぬがちに、年月を送られしかど、老てのち、言の葉にとみ、學に富まれたり。いでや、百千の寶は、只しばし生けるが程の富なり。言の葉と學とは、とこしへになき跡なでの富なり。翁たからに貧しく、おはせしかど、言の葉と、學とに富まれたり。誠に天の下の寶の玉とは、翁をこそいふべけれ。誰かはうらやまざらむ。誰かは慕はらざらむ。今此言の葉のふみ、世にあまねく、廣ごりてあひだおかず、學の書ども板にしられゆかば、我翁を天の下の寶の玉なり。といふことの僞ならぬこと知られぬべし』と。

●清原貞雄翁、『國學發達史』(昭和二年十一月廿五日「大鐙閣」發行)に曰く、
『元來春海は其才に任せて幾分か氣を負ふ風があつたやうで、泊洦(山水+百)筆話(※下記參照其の一)に春海が常に、契冲真淵を其當時の人々が非常に偉い人のやうに云ふが、彼も人なり吾も人なり、自分は必ずしも之等に比して其才が劣つて居るとは信ぜぬ、只身體が虚弱であつたために之等の人々程根氣よく勉強する事が出來なかつたためであると云つた、と云ふ事が見え、又太(※)田晴軒の訓蒙淺語(※下記參照其の二)に、晴軒の父錦城の所に遊びに來た春海は畫家芙蓉と共に盛に人を譏り、二人共「人の惡口は鰻驪の蒲焼よりも好物なり」と云つたと云ふ事が見えて居る』と。

※參照其の一
清水濱臣翁(春海門)、『泊洦(山水+百)筆話』に曰く、
『吾師の常にいはれしは、契冲阿闍梨、縣居翁などを、今の人の心よりは、四目兩口もありし人のやうに思へど、さらに今の人にことなるにはあらず。彼も人、我も人なり。みづからほこるにはあらねど、契冲阿闍梨、縣居翁、まのあたり本居氏などの如き、その才氣をたくらべば、われも此三人におとれりと思はず。絶えておよばぬ事は、三人のひとだちは、精神すくやかにして、若きより、老の身にいたるまで、學の道にうむ事をしらず、きはめて、つとめし人だちなり。われは幼よりほしいまゝに、おひたちて、酒色にふけるのみにして、物につとむるといふ事をなさず。~中略~ これ身のおこたりとはいひながら、まことは生れだちのかよわく、病におかさるゝ事、常にして、物をつとむるにたへぬが故なり。此三人の人だちは、つねに文机のもとをはなれぬ身なればこそ、人はさもおもはね』と。

※參照其の二
太田晴軒翁、『訓蒙淺語』に曰く、
『我十五六歳の頃、和歌師春海、畫工芙蓉の兩人、亡父(※太田錦城のこと)と懇意にて、毎度宅へ來りしが、兩人共に、舌は轆轤の如しとも言ふべき辯者にて、至極面白き人物なり。併し、兔角譏話は好物にて、兩人共に人の惡口は、鰻驪の蒲焼よりも旨しと言はれしに付、亡父跡にて、あれは散散不徳の事と云へり。我等も亡父の傍にて、毎々兩人の興に乘じて、譏話するを聽きしに、人の陰私までも、一々披露に迨(之繞+台=およ)び、聽くにも聽きにくき事共あり』と。



 そして、肝心なる、春海翁の學風とはこれ如何に。
●『慶長以來 國學家略傳』に曰く、
『春海又心を漢學に潛め、好みて詩文を作る。初め服部仲英に師事し、仲英死して後は、鵜殿士寧に從ひ、中ごろ京師に如きて、皆川伯恭(※淇園のこと)に就きて學び、後吉田學儒、安達文仲と友とし善し、博雅淹通にして、學和漢を該ね、其國文を作るや、法を漢文に取りて、別に一派を開く(葛因是、琴後集叙に其文を評して唐宋八家の風ありと云ふ)。當時の和學者推して及ぶべからずとなす(本居翁曾て曰く、京師に歌人蘆庵あり、江都に文人春海あり、余が企て及ぶ所にあらずと)。春海曾て道を論じて曰く、我邦の道とする所は、周公孔子の道なり、周公孔子の道を舍きて、別に道を我太古に取るは、吾れ未だ之を聞かざるなり。故に和字は、我字にあらず。漢字を假りて、我が音に充てたるなり。衣服、冠冕は皆隋唐の制度なり。百官、有司は、皆唐制を學びて、稍や是れを變更したるものなり。律令、格式も、亦皆唐制を■(「莫」の下に「手」)倣したるものなり。博士は明經文章、天文、陰陽、律、算、音の諸科を立つれども、和學、歌學の博士をたてず、いはゆる和歌博士と云ふ者は、大江匡房の戯稱より出でたるものにして、和學、歌學の名目は、之れを古に考ふるに、いまだ之れあるは聞かざるなり。和學者は、儒者の、本朝の典故、言辭に通ずるものなるのみ。 ~中略~ 本朝、制度文物己に皆周公、孔子の遺法を奉じて、而して、其の佛を信ずるものも、亦多し。本朝の俗、少うして儒、老ひて佛を信ず。中世より以來盡くしかり。是に由りて之を觀れば、儒にあらざれば、則佛なり、此の二道をすてゝ、而して別に道を建つ、吾れ未之を聞かざるなり。今の和學者、我邦の別に道なきを耻ぢ、牽強附會して、妄に我古史を引き、人を欺き、己れを欺く、吾れいづくんぞ、之を辨ぜざるを得んや』と。
 同樣のことは、九華山房 角田簡翁の『續近世叢語』、河喜多眞彦翁、『近世三十六家集略傳』にも書かれてゐる。
 さらば縣居の高弟と稱されるを疑はしいと感じるだけでなく、その門人であつたことさへ疑はしく思はれるのである。
 それ春海論では、啻に縣居の古道思想を承け繼がなかつたのみならず、寧ろ之れに反對の立場を取つてゐる。縣居大人はおろか、當時その萌芽を見せつゝあつた國學者一般の思想に反する。以爲らく、春海翁が初めに儒學を深く學んだことに由るものと思はれる。
これを河喜多眞彦翁は、春海翁は、先人があまりにも異國を貶しめ、聖賢を卑しめてゐることを憤つてのことであると解釋する。

 では春海翁が江戸で、或は縣門として名を馳せた理由は他にあらねばならない。

●松屋 小山田與清翁(春海門)、『松屋叢話』(文化十一年)に曰く、
『賀茂眞淵のは力山をゆくばかりに、打見るまゝに、眼ひらかるれど、古きに過ぎてことばおだやかならず。はた體のおきてかなはざるも見ゆ。この外、かしこにことばをおこし、こゝに筆を下すものあまたなりと雖もまさしきすぢを思ひあきらめしはたえてぞなかりける。わが師、村田春海、ひとり此むねを得て詞を古へにとり心を今にもうけ體をからくにゝかりて錦をおり繡(糸偏+肅)をさへよそほへて、文かく道のはしだておこされしは今むかしにたぐひなき功なりけり』と。

●棠陰 清宮秀堅翁、『古學小傳』(安政四年)に曰く、
『博雅淹通にして和歌及和文に堪能なりき、其和文をかけるや、法則を唐宋八家にかり、詞をこゝにとりて一家の體をなせり、時人及ぶものなし、紀氏以來の能文なり』と。

 畢竟、春海翁は、眞淵大人の門人として、古道思想ではなく、その文學の後繼者として師を辱めなかつたものである。
 これに就て、清原貞雄翁は『國學發達史』でかく論じてゐる。曰く、
『國學發達史上、何れの點から云つても眞淵は劃期的の地位を有するものであつて、其門戸の盛なる事に於ても亦其以前の何人も到底眞淵に比すべきものは無い。而して眞淵は才氣縱横、一方には萬葉の語學的研究を遂げ、又それに依つて古道の論を立て、他の一方に於ては其豐かな文才を以て盛に擬古文を綴り、萬葉風の和歌を詠じ、夫々一家の風格を備へたのである。自然其門弟等には主として其文の側を傳へたものと、主として其學の側を傳へたものとの二樣の別がある。
 江戸に於ける諸門弟は多くは其文藝の側を嗣ぎ、上方地方に於けるものは大抵其學の側、特に其古道の精神を承け繼いだ事は、故藤岡(※東圃藤岡作太郎翁のこと也)博士が既に指摘したやうに、繁榮を極めた江戸の城下に於て皷腹撃壤して現世に不平なき人々と、上方地方に在つて 皇室の痛ましい有樣を目撃して王朝の盛時を懷しむ人々との間に釀された氣分の違ひから來るものであらう。それは同じ漢學者に在ても江戸の學者が何れも幕府を謳歌して居るのに對して京都の學者――山崎闇齋一派の如き――が勤王の大義を唱へて慷慨悲憤の氣に滿ちて居るのと同一轍であると思ふ』と。

 東西の士に於ける、かくの如き相違は何ぞ。東に於て眼前にある物質、文藝その他の滿足である一方、西に於て眼前に映るは 皇室の式微也矣。
 但し、これを以て千蔭、春海翁を縣居門人として落第と看做す可きではない。それは後世の一方的な價値觀であつて、國學の發達が歌學の發達に決して沒交渉ならざるものたれば、當時に於て兩大人の功はやはりその分野に於て大と申す可きであらう。猶ほ吾人が感嘆す可きは、縣居賀茂眞淵大人の、東西に於ける人士の養育、歌學と國學に關して一級の見識と指導力を兼ね揃へてゐたことに盡きる。
 人を知るにはその師をみよ、と云ふが、人を知るにはその門下生をみよ、と言ひ換へることも出來る。今日の道ゆく人、常、肝膽に銘ず可し矣。





 <加藤千蔭翁の主なる著書>

    五十韻辨誤(寛政五年) 一卷
    假字大意抄(享和元年) 一卷
    雅俗辯の答(享和三年)
    琴後集 (文化七年) 十五卷
    歌がたり(文化五年)
    假字拾要(蔓延元年) 二卷
    椿太詣記 一卷
    歌苑古題類抄 廿卷
    かさねの色合 一卷
    涼月遺艸 一卷
    作文通弊 舊名時文摘批 一卷
    和學大概
    齋明記童謠考後按 一卷
    字合稱呼考 一卷
    神道志 一卷
    與稻掛大平書 一卷
    重與稻掛大平書 一卷
    錦織雜記
    西土國習考 一卷
    不問語 一卷
    字鏡考證 一卷
    わかゝつら 二卷
    明道書 三卷
    歌語 一卷
    怜野集拾遺
    古人贈答歌抄
    仙語記 一卷
    筆のさが 一卷
    織錦齋隨筆



 春海翁の門人には、文學者・清水濱臣、萬葉學者・岸本由豆流、考證家・小山田與清の諸賢が最も有名である。
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by sousiu | 2013-04-16 23:00 | 先人顯彰

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