縣居門 その四。加藤美樹翁 

 縣門四天王の最後の一人は加藤美樹翁だ。

 縣門四天王に就ては、『近世三十六家集略傳』に以下のやうに記されてゐる。
 『賀茂翁の門に入りて、古學を研究し、詠歌また妙所に至る。當時江戸にして、千蔭、春海、美樹、魚彦の四翁を、縣居の四天王と稱す。しかして多く、其詠歌の躰、異に一風をなせり。千蔭は詞姿はなやかに、艶なるを好み、春海はさびたるさまの、こまかなるを意となし、魚彦はひたすら、古調を好みて、古語を自由にせんことを修す。此翁(※美樹翁のこと)は、また賀茂翁の晩年の口調の秀■して、絶て及ぶべからざる風致を志して竟に其妙を得たりと謂ふべし』と。

 美樹翁に就ては、魚彦翁よりも更らに資料が少ない。少なくとも野生の所持する書物に於ては。
 當面、必要と思はれる箇所を抄記するにとゞめ、後々機あらば書き加へていくことゝする。

 
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◎靜廼舍 加藤美樹翁(縣門十二大家、縣門四天王)


○『國學者傳記集成』(明治卅七年八月廿五日「大日本圖書」發行)所收にみるに。

加藤 藤原 美樹[ウマキ] 宇萬伎

生歿
(生) 二三八一年  中御門  享保六年
(沒) 二四三七年  後桃園  安永六年六月一〇日 
(年) 五七

姓名
(姓)藤原氏、(通稱)大助、(名)美樹、又 宇萬伎、(號)靜の舍、(法號)了嚴院義洞勇徹居士

住所
江戸淺草三筋町、京都、(墓)京都三條三寶寺

學統
眞淵 ―― 美樹 ―― 上田秋成』


●小澤政胤翁、『慶長以來 國學家略傳』(明治卅三年十一月十日「國光社」發行)に曰く、
『美樹姓は藤原、通稱は大助、美樹は其名にして、或は宇萬伎に作る。靜の舍と號す。幕府の大番騎士にして、祿二百苞を領し、淺草三筋町に住す。賀茂翁の門に入りて學び、特に古風を唱へて和歌に妙なり。縣門の巨擘と稱せらる。美樹多くの著述ありけれども、多くは祕して人に示さず。毎に京攝に勤番せしとき、門に入りて教を受くるもの甚だ多し。上田秋成は、其高足弟子なり。寶永九年大阪の勤番の時官金を盜みしものありしかば、その嫌疑を受けて、美樹も公廷にめされて審理せられしが、後其犯人發覺しければ、美樹は全く青天白日の身となりきとぞ。
後安永六年、京師二條城勤番の時、偶病を得て此歳六月十日、溘焉として二條の客舍に歿す。年五十七、三條三寶寺に葬る。法諡を了嚴院義洞勇徹居士といふ。養子正樹(通稱善藏)家を繼ぐ。父の志を繼ぎて和歌に名あり』と。

 又た曰く、
『ある日、一人の法師(或は建部綾足なりと)美樹の門を叩き喋々、五十音反切を以て、古言延約の説をなして曰く、彼の「きり」と「かきろひ」とは、もと同じ語なるべし。そは「かき」を約むれば「き」となり、「ろひ」を約れば「り」となるなりと。さもしたり顏にいひければ、美樹笑を忍びながら曰く、もし君の説の如く、語の延約をなすならば、「たか」は「つばくら」と同じ鳥となるべし。如何となれば、「つば」を約むれば「た」となり「くら」をつゞむれば「か」となればなりといひしかば、法師も、詞なくしてやみしとぞ。以て其古言に明らかなりし一斑を知りぬべし』と。

●皆川淇園翁『日本諸家人物志』(寛政十二年三月改刻)に曰く、
『本姓は加藤、稱は大助、或は静舎と称す。東都の人。業を真淵に受く。近来浪華の某氏、此人の咏を■(※「竹冠」+「日」+「大」+「水」)めてしづやの家集と題して、真淵のあがたゐの家集とゝもに合刻す』と。




 <加藤美樹翁の主なる著書>

    雨夜物語だみ詞(安永六年) 上下一卷
    靜舍歌集[志都屋のうた集](寛政三年) 一卷
    靜舍雜著 一卷
    假字問答 一卷
    土佐日記注 上下一卷


         春がすみ 立たるを見れば くゞもりし
               神代の昔 思ほゆるかな


    

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by sousiu | 2013-04-18 19:53 | 先人顯彰

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