縣居門 その五。荒木田久老翁 

 本日は、木川智兄と東京拘置所へ。菊水國防連合・田代厚會長の面會へ伺つた。
 田代會長は頗る元氣さうで、先づは一ト安心だ。

 木川兄と別れた後は、新橋へ。おつさんがおつさんの街へ繰り出す。・・・ありのまゝを云つただけで別段深い意味は無い。

 
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◎五十槻園 荒木田久老翁(縣門十二大家)


○『國學者傳記集成』(明治卅七年八月廿五日「大日本圖書」發行)所收にみるに。

荒木田 久老[ヒサオイ]

生歿
(生) 二四〇六年  櫻 町  延享三年
(沒) 二四六四年  光 格  文化元年八月一四日 
(年) 五九

姓名
(通稱)彌三郎、後 主税、(名)正恭、正董、(號)五十槻園[イツキノソノ]


補足:出典「慶長以來 國學家略傳」
久老、氏は橋村、又、宇治とも云ふ
『文化元年八月十四日歿す。年五十九歳。四男一女あり。長子久守、家學を繼ぎ家聲を墜さゞりき


●河喜多眞彦翁、『近世三十六家集略傳 卷の上』(嘉永二年)に曰く、
常に故郷を出でて、所々を漫遊し、古典を釋きて教示す。從ひ學ぶの徒、頗る多し。凡て其説くところ、古人の跡をふまず、依然として一家の學を唱ふ。時輩、鈴屋の説を肯けざる者は、多く翁に從ひて業を受く。實に縣居門の巨擘、當時の一大家なり。詠歌は其專とする所にあらざれど、又一體の妙を得たり』と。

 又た曰く、
幼より 皇國の古典を研究す。ことに神典に於て、己が職とする所なれば、深くこれに精しからんことを欲し、專ら神代卷を究む。後、賀茂眞淵翁の門に入りて、益精力を盡し、大成す。殊に萬葉集に於いて、大に研究し、縣居翁の萬葉考に次いで、槻の落葉を著す』と。

 又た曰く、
『翁、爲人(※人と爲り)、豪放不覊にして、常に青樓に登りて、遊宴日を經、酒池肉林を以て娯樂とす。しかして其醉中、忽然として、掌を拍て曰く、古今未發の考をなせりと。かくて人に謂て曰く、江湖の學生を見るに、古語の難儀、古典の解しがたきに至つて、これを釋き得んと苦學し、机上若干の書を開きて、沉(三水+按=ちん)按したりとて、いかでか眞面目を得んや。吾學はまた異なり。棲上遊宴なし、妓婦を陪座せしめ、盃盤狼藉、しかして未曾有の奇説を發す。是れ眞の活考たり。世人の學者は、多く死物たりと』と。


●久松潛一翁、『國學 -その成立と國文學との關係-』(昭和十六年三月卅日「至文堂」發行)に曰く、
『荒木田久老は伊勢の外宮の祠官の度會家の出であるが、後に荒木田家をつぎ内宮に奉仕したのである。二十歳の頃江戸に出て眞淵に三年程學んで居る。純粹に伊勢神官に奉仕したのであり、それだけに伊勢の精神をより多く傳へて居ると見られる。文化元年に五十九歳で歿して居るから宣長よりも十六歳の後輩であるが、眞淵の精神、特に、萬葉研究の精神をよく繼承して居るのである。彼の著書を見ると萬葉集卷三の註釋である萬葉考槻落葉はその主著であるが日本紀歌廼解もあり、萬葉集を中心とする上代詩歌の研究に中心を置いて居るのである。さうして眞淵のやうに上代的な歌を好んで眞淵の萬葉研究の精神を最もよく繼承したのは久老ではないかと思はれるのである。宣長とは多少對抗したこともあつて人物は調和的でない所もあつたと見られるが、それだけひたむきな點もあつたであらう。眞淵は萬葉研究に終始して居るけれども、眼目は古事記研究にあつた事は眞淵の自らいふ所であり、その點で眞淵の眞の精神は宣長によつて繼承せられ發展せられたけれども、眞淵の實際の業績から言へばそれをよくうけついだのは久老であつたと見られるのである』と。

●清原貞雄翁、『國學發達史』(昭和二年十一月廿五日「大鐙閣」發行)に曰く、
江戸の國學者(眞淵の門人として)に對して西方を代表するものが本居宣長と荒木田久老とである。前にも云つたやうに(※村田春海翁項、參照。http://sousiu.exblog.jp/19227944/)、同じ眞淵の門人でも、江戸に於けるものは只管學問を學問として或は知識として研究したもので、殊に文學の方面に傾き或は單なる文人として立つて居つたのに對して、西方の人々は何れも眞淵の思想方面を受けたもので、宣長にも久老にも其傾向があつた。
 荒木田久老は延享三年伊勢國山田に生れた人で、元は度會家の出であるが荒木田家に養子に行つたのである。同じ眞淵の流れを汲んでは居るが獨特の見解を有つて居つて宣長とは必ずしも同型で無く自然兩者は相對峙した形であつたので、近世三十六家集略傳にも「凡て其説くところ、古人の跡をふまず、依然として一家の學を唱ふ。時輩、鈴屋の説を肯けざる者は、多く翁に從ひて業を受く。實に縣居門の巨擘、當時の一大家なり(※上記、參照)と云つて居る。然し宣長との交情は決して惡かつた譯では無く、宣長が久老の爲めに作つた「荒木田久老神主の五十槻園の詞」の中にも「四面の國よりみなと入に船こぎそふ事のごとく、あらそひつきつゝ立よりて、これの五十槻の木陰をし、あふがざらめや、頼まざらめやと、おのれはた此あろじとは同じ心に、あがたゐの大人の教をうけて、まなびの道には、はらからなすゆゑよしゝあれば、これもまたおなじこゝろにうれしみなも」とある程である』と。




 <年譜>  出典『國學者傳記集成』
    延享三年、 一歳、 生ル。
    寶暦三年、 八歳、 外祖父秀世ノ嗣子トナリ、權禰宜職ヲ承ギ主殿ト稱ス。後、故
                 アリテ離縁シ、中書ト改ム。
    同十三年、 一八歳、 從五位上ニ叙ス。
    明和四年、 二二歳、 正五位下ニ叙ス。
    同  八年、 二六歳、 從四位下ニ叙ス、齋ト改ム。
    安永二年、 二八歳、 位記ヲ返上シ、職ヲ辭シテ、荒木田求馬久世ノ嗣トナリ、久
                  老ト改ム。内宮權禰宜ニ補ス。
    同  三年、 二九歳、 五十槻と改稱ス。
    同  八年、 三四歳、 從五位上ニ叙ス。
    同  九年、 三五歳、 正五位下ニ叙ス。
    寛政元年、 四四歳、 從四位下ニ叙ス。
    文化元年、 五九歳、 八月一四日歿ス。



 <荒木田久老翁の主なる著書>
    續日本紀歌解 (天明八年) 一卷
    万葉考槻乃落葉 三四五卷附記附 (天明八年序刊) 八卷
    竹取翁歌解 (寛政十一年刊) 一卷
    日本紀歌解槻乃落葉 (寛政十一年) 上中下一卷
    酒之古名區志之考 (寛政十二年) 一卷
    難波舊地考 (寛政十二年刊) 一卷
    校正頭註 豐後風土記 (寛政十二年刊) 一卷
    信濃漫遊 (享和元年) 一卷
    校正頭註 肥前風土記 一卷
    祝詞考追考 一卷
    古言清濁辨論 一卷
    邇飛麻那微 校訂 一卷
    歌意考 校訂 一卷
    文意考 校訂 一卷
    古器考 校訂 一卷
    古事記歌解 二卷
    播磨下向日記 一卷
    播磨漫祿 一卷
    五十槻園集



         天地の 神もうづのへ われなくば
                     誰かとかむよ あたら古語





※江戸時代の書物に関して、刊行年月日の甚だ明確ならざる物が多く、一應、念入りに調べてゐるつもりではあるが、我れながら疑はしい點も少なくない。識者の御指摘を請ふ。
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by sousiu | 2013-04-19 23:56 | 先人顯彰

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