縣居門 その七。日下部高豐翁 

 本日は、西郷南洲會が毎年行なつてゐる「西郷南洲翁銅像清洗式」に出席。
 雨天にかゝはらず、上野公園はおほくの參加者で賑はつてゐた。
     
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◎道堅 日下部高豐翁(縣門十二大家)


●『泊洦(山水+百)筆話』に曰く、
日下部高豐、通稱今藏貞右衞門、家集一卷、序校正して、近刊す

●『慶長以來 國學家略傳』に曰く、
高豐は、通稱を、今莊貞右衞門といふ。賀茂眞淵の門に入りて、古學を學び、詠歌に妙なり。妻もなく、子もなく、年六十あまりにして歿せり。其の著す所の書は左の如し。
山の幸
此書は、高豐の歿せんとする時、瀧川一生と、いへる人にやきすてよとありしを、一生をしみて、祕藏せしを、源道別、撰びて、山の幸と名づけたるものなりといふ
』と。


 <栗田土滿翁の主なる著書>
    日下部高豐家集 一卷
    山の幸




 高豐翁も又た、その人物及び功績を識るに六ケ敷きお一人だ。
 「縣門の十二大家」として數へられる一人であることから、精しい人は翁を御存じであらうけれども、これから知らうとする野生のやうな者では、先づ資料の蒐集からどうにもかうにも難儀してしまふ。實に惜しまれることである。本當にかうした分野を專門的に扱つてゐる人でなければ折角の尊名も最早、尊名のみとなつてしまふ惧れ、無きにしも非ず、だ。
 とは云へそれでも、インターネツトの檢索に頼れば、辛うじてその名を見られぬこともない。この點に就てはネツト普及による一つの恩惠として數へ上げなばなるまい。
 備中處士樣が「九段塾」で、なき相原修兄の年譜を事細かに記されてゐる。
    http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t24/1
 未見の同志にとつて、或は後々相原兄を知らむと欲する後進の有志にとつて、かうした資料が殘存されることはまことに難有いことなのである。曩の土滿翁、今度びの高豐翁を記するにあたり、人物事蹟の保存が如何に後人にとつても大切なことであるか改めて思ひ知らされた次第である。    

    
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by sousiu | 2013-04-21 14:16 | 先人顯彰

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