縣居門 その九。村田春郷翁 

 昨日は、幼馴染みの宅へ伺ふ。彼れに芽出度く長男が誕生した爲めだ。
 名前は「寛(かん)」君。くしくも野生が地元で呼ばれてゐるあだ名と同じだ。
 早速抱つこさせていたゞいたが、まだ誕生から九日。どのやうな精密機械に觸れるよりも愼重ならざるを得ない時期だ。
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 いつも思ふのことは、生命誕生の神祕だ。十月十日、母は生まれ出づるその子を腹に宿して生活する。その身體は一つでありながら二ツの魂となつてをり、やがて二人となるのだ。固よりかの魂も、ひとり母ありて宿れるものではない。平田篤胤大人は生命の誕生を『人の生るゝ事は、天津神の奇妙[クスシクタヘ]なる産靈[ムスヒ]の御靈に依て、父母の生なして、云々』(鬼神新論)と述べてゐる。
 寛君の今後の成長が樂しみである。

 
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◎顯義堂 村田春郷翁(縣門十二大家)


○『國學者傳記集成』(明治卅七年八月廿五日「大日本圖書」發行)所收にみるに。

村田 春郷[ハルサト]

生歿
(生) 二三九九年  櫻 町  元文四年
(沒) 二四二八年  後櫻町  明和五年九月一八日 
(年) 三〇

姓名
(名)平氏、(通稱)長藏、(名)始 忠何(タヾナリ)、後 春郷、(字)君觀、(號)顯義堂

住所
江戸、(墓)深川本誓寺



●小澤政胤翁、『慶長以來 國學家略傳』(明治卅三年十一月十日「國光社」發行)に曰く、
『春郷、姓は平氏、字を君觀といひ、顯義堂と號す。江戸の豪商なり。曾祖忠之は佛學を好み、祖忠友は儒學を信じ、父春道は神道を崇み、且詠歌を巧にす。春郷少くして賀茂翁の門に入りて學び、和歌をよくし、特に長歌に妙を得たり。春郷に及びて、四世皆世に著はる。春郷家甚だ富み、家僮數百人、邸宅數十弓。然れども、以爲らく、富貴は浮雲の如し。自ら恃むに足らざるなり。身を市井より避け、閑處に就きて以て、靜に我が道を樂まんには若かずと、是に於て、父母宗族に謀り、弟春海(※「縣居門 その二。村田春海翁」http://sousiu.exblog.jp/19227944/)をして家を繼がしめ、自ら別業に閑居し、專ら和學に心を潜め、又漢書を讀み、經史に博覽たり。兼て一貴人之れを見んと欲して招く。春郷辭して行かず。曰く、吾れ此技を以て、名をなすを欲せざるなりと。春郷人となり淡雅温厚、父母に事へて至孝なりきと云ふ。
明和五年九月十八日、年三十にして歿す。賀茂翁其死を惜み墓碑を撰し、平生を叙す。春郷家集あり世に刊行す。其のよみ歌は、よく師翁の體を得たりと云ふ』と。

●「村田春郷墓碑」全文(原文は眞名にてかけり)
村田春郷墓碑

玉川にうまし玉あり。人得がてにす。世の中に人あり。うまし人またすくなし。こゝに氏は村田、名は春郷といふ人あり。其さが高くして、へりくだり、おもひがねなごやかなり。そがつねはや、とほつおやをまつるに、いぐしのみてぐらをそなへ、春秋の花をつくし父母につかふるに、やとりのつくゑ(机)ものをさゝげ、朝夕のうるはしみをなせども、すべてたらはぬことをおそれ、うからやからにうるはしく、とも(友)がきにうるはし。家人けだしもゝ(百)たりにちかし。事あるにおよべと見直しいひなほす。神つならはしもてすれば、いへ(家)人もうつしき青人くさ(草)にならはず、とゝのひなごびにたり。このめる事は、いにしへの書[フミ]をよみ、いにしへぶりの歌をよくす。ことに長歌を得たり。また鞠[マリ]こゆるわざを得て、其すがたうるはしく立居みやひ(雅)かなり。其わざこのめる人、皆世にすくれたり(優れたり)といへり。しかはあれど、うま人のめしある時は、ゆゑをまをして(故を申して)まゐらず。左は業[ワザ]もて名をなさんことをはぢてなり。かれ曾祖父[オホオホヂ]忠之[タヾユキ]佛の法[ノリ]に入り、租(※マヽ)父[オホヂ]忠友[タヾトモ]聖のをしへをたふとみ、父春道[ハルミチ]神の道を傳へ、春郷いにしへのみやびをえて、今に四世[ヨヽ]つぎ世にたゝへられたり。こゝにして春郷おもへらく、われ市のほとりに居て、世々とめり。富はやかで(※マヽ。愚按、やがて)うかべる雲なり。うつろふさま、なにかさだまらん。今つとむべき時なりとて、市の外のなりどころにうつろひて、なりはひをながくせんことをはかり、父母にとひ、おい(老)人にはかりて、もろゝゝうつなひてのち(後)、とほつおやをまつり(祭り)、かたやきしてさだめぬ。其ふかきおもひはかり(其の深き思ひばかり)あることかくの如く。時に明和のいつとせ(五ツ年)さ月やまひ(皋月病)ありて、なが月(長月)までおこたらず、みそぢ(三十路)のよはひ(齡)にしてみまかりぬ。をちこち人、みな、いへらく、うまし玉こゝにして、しづきぬと。かなしきかも、この人。をしきかも、この玉。あはれ、いろと春海、なきていへらく、いにし人、子なし。たゞことのは(言の葉)ののこれるあり。名代[ナシロ]となすべし。其常のありさまをば、おきな(翁)がふること(古言)をもて、しるさんことをこそといへり。かれ賀茂眞淵むつましき友がきのゆゑをもて、なみだにひぢてしるす
』(寛政三年十一月『賀茂翁家集』卷之四 雜文二、所收)※括弧及び句讀點は野生による。



●河喜多眞彦翁、『近世三十六家集略傳 卷の下』(嘉永二年)に曰く、
父春道、大いに 皇國の道を尊尚[たつと]び且、謌を好み、賀茂翁の江戸に出(いで)しより直ちに翁を私邸に招堤し、これに就て教を授、頻りに作文詠哥を勉強して学ぶに、元より性、穎悟敏捷にして、大に妙を得て時に鳴。ことに長歌を能(よく)して時輩に超越す』と。

又た曰く、
翁、爲人(人と爲り)温厚にして父母に仕へて孝なり。一年父春道病(やむ)ることあり。翁、甚(はなはだ)これを慨歎して氏神に誓文を捧げて曰く、我命は朝の露夕の霜と消果(消え果て)、骸を蒼海に沈め、田野に曝すとも、さらにこれを厭はじ。唯、父の病ひ治せん事を祈誓す。人これを感嘆す。且、家に從事[つかへ]る奴婢[をとこをんな]に至るまで、能(よく)愛憐して、微[すこ]しも怒[いかりの]色を見せず。故に手足の如くに仕事して家内親族大いに和せり』と。

又た曰く、
明和五年九月十八日、三十にして歿すせり。深川本誓寺に葬る。文詞を以て追悼す。墓碑は賀茂縣居翁、これを作りて能(よく)其爲人(其の人となり)を述たり。後、弟春海竝びに濱臣等、はかりて遺稿を刻して村田春郷家集とし、世に行はる』と。



 <村田春郷翁の主なる著書>
    春郷家集 (文化八年七月、清水濱臣翁序) 一卷

       http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he02/he02_04380/he02_04380.html


     
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by sousiu | 2013-04-23 12:31 | 先人顯彰

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