縣居門 その十。三島景雄翁 

 愈々懸門の十二大家も十人目に至つた。
 人物紹介に始まり人物紹介に終はり、何ら資料として價値あるものではないけれども、先進を偲ぶの心もて、記述を試みることに就ては強ち無價値ではあるまい。少なくとも野生にとつて、かく云ふことが出來る。
 
 
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◎自寛 三島景雄翁(縣門十二大家)


○『國學者傳記集成』(明治卅七年八月廿五日「大日本圖書」發行)所收。

三島 景雄 自寛

生歿
(生) 二四〇五年  櫻  町  延享二年
(沒) 二四七二年  光  格  文化九年四月二六日 
(年) 六八

姓名
(通稱)吉兵衞、(字)子緯、(號)方壺、三樂庵、自寛

住所
江戸、(墓)淺草新堀善照寺



●『慶長以來 國學家略傳』に曰く、
『景雄は、江戸の人なり。字は、子緯、吉兵衞と稱す。方壺又三樂庵と號し、後薙髮して自寛と號す。賀茂眞淵の門に入りて學び、其名時に秀づ。文化九年四月廿六日歿す。年六十八。淺草新堀善照寺に葬る』と。

●『泊洦(山水+百)筆話』に曰く、
『三島景雄、有栖川家の御門人にてありし此、都へのぼりしに、某の大納言とかの御元へ、したしう召されて、御膝元ちかう御物語しつゝ行きかひしに、常のおましのかたへに、文車をおかせ給ひて、いろゝゝの歌書ども、多くつみ置き給へるを、ゆかしう思ひをりしに、殿しばし立ちて、おくつかたに入り給へる程、やをら、ゐざりよりてみれば、大かたは見なれし書どもなり。中に八百日集とうはがきせる書あり。いかなる公卿の御集にかあらむ。誰人のうち聽にかと、いとゆかしうてひらき見れば、はやく濱の眞砂といへる、詞寄の書なりけり。(萬四、笠女郎は、百日行、濱の眞砂も、我戀に、あにまさめれや、おきつ島守。この詞をもとにて、替名となし給へるなり)景雄あきれて、こは有賀長伯がうひまなびのあげまきらが爲にとて、物せし書にて、いさゝかも歌の事、わきまへたる人だちは、まだ見るものともなさぬ、まことあけまきのための書なり。此殿いかでかたへはなたぬ文とは、かしづき給ふらん。それだにあるを、八百日集とうはぶみの名をかへおき給ふは、長伯らが物せし詞寄の書を、かたへ、はなさずおき賜はんは、人めはづかしうおぼし給ふなるべし。いと品おくれたる御心かな。濱の眞砂をあたひなき玉と思ひ給ふ事、またこれを誠よき寶とおぼさば、うはがきも其まゝにてありぬべき事なるを、書きかへ給へるは、まけじ魂の心せばさよ。今よりは參りこじと、獨言いひてすなはち、まかり出でゝ、また參りよることあらざりしとぞ』と。



 <三島自寛翁の主なる著書>
    烟經 一卷


     
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by sousiu | 2013-04-24 00:12 | 先人顯彰

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