縣居門 その十二。本居宣長翁 

●久松潛一翁、『國學 -その成立と國文學との關係-』(昭和十六年三月卅日「至文堂」發行)に曰く、
『眞淵の國學はその學問のすべての領域にわたり、かつそれを全一的にといたといふことが出來るが、この眞淵の國學の學問的見取圖ともいふべきものが一層精密にまた多少分析的に考察される事によつて、國學の學としての完成を見られるのが宣長の國學であつたのである

『眞淵によつて言語と文學と古道といふ三の方面が萬葉集といふ一の古典を中心としてとかれたのが、古事記と源氏物語といふ二の古典によつてとかれるとともにそれゞゝが一層精密に考察されて居り、また眞淵に於ては「ますらをぶり」もしくは心の直さといふ一の精神によつて「をたけび」と「にきび」とがともにつゝまれて居つたのに對して、宣長に於ては神ながらの道と「もののあはれ」といふ二の精神に分れてとかれたのである

『それだけに精密になつたのであるが、この二の精神の關係は多少分化して居る。ことに神ながらの道と「もののあはれ」とが古道と文學といふ二としてとかれたために眞淵學説のやうな統一が多少離れて來たとも見られるのである。然しこの兩者は彼の國學の體系の上では統一的に見られて居るのであり、この兩者を如何に統一づけ、體系づけようとしたかに彼の國學の完成がありまた眞淵の國學からの發展があるとも言へるのである』と。


●清原貞雄翁、『國學發達史』(昭和二年十一月廿五日「大鐙閣」發行)に曰く、
復古國學に於ける最高峯は前にも云つたやうに本居宣長であると認むべきであらう。徳川時代の末期に澤山に現はれた復古國學反對者、殊にそれは儒學者が主であつたが、眞宗の僧侶等にも少くなかつた。それ等は何れも宣長を目の敵にして居るのを見てもそれが判るのである。違つた意味に於ては宣長よりも篤胤の方が學者として偉大であつた點もある。然し乍ら純正國學と云ふ立場から見る時はどうしても宣長を推す方が正しいと思ふ』と。


 偉大なる國學の恩人、本居宣長大人に就てこれを記さんとするも、野生の如き無知では到底力及ばず。
 よつて大人の眞價に精しく接することは今後に與へられた野生の課題としてしばらく措き、今はともかく、大人の事蹟を追つて行くにとゞめる。

 
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◎鈴屋 本居宣長翁(縣門十二大家)


○『國學者傳記集成』(明治卅七年八月廿五日「大日本圖書」發行)所收にみるに。

本居 宣長

生歿
(生) 二三九〇年  中御門  享保一五年五月七日
(沒) 二四六一年  光  格  享和元年九月二九日 
(年) 七二

姓名
(母姓)村田氏、(幼名)小津富之助、(通稱)彌四郎、後 健藏、春庵、中衞、(名)始 榮貞、後 宣長、(字)君觀、(號)鈴屋、(諡)秋津彦美豆櫻根大人、(墓標)本居宣長之奧津紀

住所
(生地)伊勢國飯高郡松坂本町、(居住)同上、紀伊國和歌山、(墓)伊勢松坂山室山

學統
(儒道)堀    景 山――┐
(國學)賀 茂 眞 淵――┼― 宣長
(醫道)武川幸順法眼――┘ 


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●小澤政胤翁、『慶長以來 國學家略傳』(明治卅三年十一月十日「國光社」發行)に曰く、
『宣長、姓は平氏、初の名は榮貞、小津富之助と稱す。後小津氏を改めて、本姓本居氏に復す。通稱を彌四郎、又健藏と改め、春庵(或は舜庵に作る)と改稱し、更に中衞といふ。鈴の屋は號なり。權大納言頼盛の後裔、本居縣判官武秀四世の孫なり。父を定利といふ。定利子なきを嘆じ、大和吉野の水分神に祈請し、享保十五年五月七日を以て宣長を伊勢國飯高郡松坂に生む。幼にして頴異、群童と嬉戯せず。性至考なり。好みて書を讀む。強記絶倫にして、一たび目を過ぐれば、忽ち之を記す

 又た曰く、
『はやく父を喪ひけれども、母其の才を愛し薫陶怠らず、十二歳の時、初めて四書を學ぶに勉勵衆を超え、加ふるに強記の資を以てし、等儕に秀拔して嶄然頭角を顯はす。故に人以て神童となす。後數年の間自ら詠歌を習ひ、壯なるに及びて、京師に出で、堀景山に就きて儒學を修め、又典樂、武川幸順に從ひて醫道を學ぶ。居ること數年、皆之をよくす。一日友人と相會し誓ひて曰く、吾れ學を以て天下に冠たらずんば、再び足下を見ずと。後伊勢に歸り醫を以て本業とす』

 又た曰く、
『初京師に在りし日、契冲師の著せる百人一首改觀抄、古今餘材抄、勢語臆斷などを見て、こゝに始めて古典を研究するの念を起し、尋ぎて賀茂翁の著せる、冠辭考を見て、益古典を研覃せんとするの念を鞏固にし、翁を慕ふこと切なりしが、偶翁の田安侯の命を奉じて伊勢、大和、山城等を歴游し、歸途松坂に宿するにあたりて、之れに相會し、名簿を送りて門人となり、翁の江戸に歸りし後は、屢(尸+婁=屡、しばしば)書信を通じて古典の疑義を質し、遂に和歌物語より、正史、雜史、記録、律令、格式の類に至るまで、研精琢磨して一も通曉せざることなかりき。されども本業の醫は之れを廢することなく、治療を乞ふものあれば、直に應じ、來診を乞ふものあれば、駕を命じてゆく。駕中亦少時も手に卷を釋てず、餘暇あれば著書に從事し、遠近の門人を教育し、其名次第に世に高くなりぬ』

 又た曰く、
かくて古典の講究に餘念なかりしかば、自ら大に發明する所あり。遂に年三十五の時より、古事記傳の稿を起せり。初め宣長の、賀茂翁に謁するや、翁曰く、予疾くに神典を解釋せんとするの意あり、然れども、之れ至難の業にして、能く、古言に通じ、古意を得ざれば、以て其解をなすこと能はず。故に專萬葉集を研究したり。されども年已に老境に達し、其志業を果すこと能はず。子は春秋に富めり。黽勉以てこの事に從ひなば、これを果さんこと難きにあらざるべし。子其れ勗めよやと、宣長のこの著ある、蓋し翁の此言あるに因るなり。古事記は我が國史中最古のものにして、卷中に古傳、古語を存し、絶えて漢臭を交ふることなし。故に其貴重なること他書の比にあらず。然れども漢字を以て、國音を記載したれば、難解の語甚多くして、容易の釋すべきものならず。先輩も往々其解釋を著はさんとして、中道にして困頓し、遂に其功を竣へざりき。宣長、日夜焦心熟慮して、之れに從事し、或は古書に考へ、或は古傳に徴し、考證の難儀に至りては、寢食を忘るゝこと、數日に及ぶも屈することなく、殆畢生の力を之れに注ぎ、遂に三十五年の星霜を經て、全部四十八卷、全く功を竣れり。其考證の精核なる其識見の卓拔なる、能く千古霽れざるの雲霧を拜し、以て赫々たる天日を仰く事を得しめたる、其功實に偉大なりといふべし。我が古史を研究するの關鍵は、この書の外またあるべからずと云ふも、決して溢言にあらざるなり

 又た曰く、
『寛政六年、年六十五歳のとき、領主紀伊侯の召に應じて、仕途に就き、屡々君前に於て、古典歌道の事等を進講す。侯其の學問該博にして、識見の卓絶なるを喜び、俸祿若干を給し、奧醫師の班に列す。蓋し其の用ゐる所は、文學にあるも、其本業は醫たるを以てなり。初め某侯、宣長の古典に精しきを聞き、俸祿三百石を給して、招聘せんとす。紀侯この事を聞きて召す。宣長遂に之れに從ふ。けだし其の産地松坂は、紀侯の封内にして世々其の澤を蒙むるを以て、敢て祿の厚薄を問ふに遑あらず。直に召に應ぜしなりといふ』

 又た曰く、
『後故郷、松坂に歸り、專子弟の教授と、著述とに從事せしが、門人等の請により京師に上り、四條烏丸の東に寓せしかば、古典に志すもの、四方より來り、其門に集る。是に於て宣長の名、益々重く、當時臺閣縉紳、或は殿内に招して其講を聽き、或は微服し來りて其説を叩くに至る。今其おもなるものを擧ぐれば、中山大納言、三條大納言、園大納言、花山院右大將、日野一位、大炊御門中納言、綾小路中納言、芝山中納言、富小路三位の諸卿にして、其の門墻を望みて赴き趨るもの、前後五百餘人の多きに及べり。故に其門より出でゝ名をなせるもの頗る多し。今世國書を講じ、歌文を學ぶ者、皆宣長の恩澤を受けて、以て其の流を汲まざるものなし

 又た曰く、
『この時に當り、滔々たる天下皆儒學に心醉し大に内外本末を誤り、其弊延いて、遂にわが國体(マヽ)を汚し、大義名分を謬まらんとするを慨嘆し、之れを矯正せんと欲し、直日靈、玉櫛笥、玉鋒百首等の書を著はして、我神國の古道を發揮せしが、江戸の人市川某といへるもの、末我廼比禮といふ書を著はして直日靈を論難す。然れども宣長其の書の説く所、兒戯に類するを以て齒牙に掛くるに足らずとなし、措て顧みずといへども、門人等、大に激昂し、強て宣長に反駁せんことを請求す。依て止むことを得ず二三夜の間に、葛花二卷を著はして、之れを排斥す。又藤貞幹といふもの、衝口發といふ書を著述して、以て宣長の學風を辨難攻撃せしかば、宣長其の説く所の大義名分に關し、施て國家を誤らんことを憤り、忽ち鉗狂人を著はして、以て僻説を打破して、天下の耳目を聳動せり。宣長の京師にあるや、當時の攝政の命を奉じて、馭戎慨言と云ふ書を著はして之を進呈し、以て尊内卑外の意を辨明したりき。この書、遂に攝政の計らひを以て、乙夜の覽に供へしと云ふ。又玉櫛笥別記二卷は、紀侯の國政を諮詢するにあたり、呈せしところの意見書にして、此等諸書は皆其當時の弊風を一洗して、以て我神國の元氣を振起し、世夢を攪破するに必用なる方便なりしなり

 又た曰く、
『然れども爾後漸く國學者と漢學者と、門戸を別ちて互に譏笑するの勢を逞うするに至りしは、甚だ嘆惜に堪へざる事なりき。又古歌古人の解釋をなし或は之れを批評し、又音韻の學を釐正し、文法語格を整正し、其用例等を明示して先人未發の説甚多し。宣長もとより、歌文を以て名をなさんことを欲せしにあらざれども、其文章は快利にして意義明晰なり。和歌雜文は、詞藻富瞻にして語句艶麗なり。實に宣長は、春滿、眞淵の學統を承きて、之れを大成し、以て國學の大道を開きて、後人に嘉惠する所甚多しといふべし。故に世人宣長と、春滿、眞淵とを、併せて國學の三大人と稱するは、決して偶然にあらざるなり

 又た曰く、
宣長、佛に侫するの人にあらずといへども、父定利佛を信ずる事、極めて厚かりしにより、父歿して後、其の命日には、必朝夕靈前に香花を手向け、讀經したりといふ。
又醫を學びしは、母の命に依るを以て、終身此業を廢せず。偶々講堂にありて書を講する時に際して、人の迎ふるあれば、直に講を輟めて之に應ぜしと云ふ。又以て其の孝順の至れるを想ふべきなり


 又た曰く、
『享和元年九月十八日、病に罹り、此月廿九日家に歿す。享年七十二。門人等相會し、禮を厚くして山室山上の墓所に葬る。遺命により、墓標には松櫻の二株を植え(※マヽ)、前に石を植て、本居宣長奧墓と誌す。之れ宣長の自筆に係れり。門人等私に謚して秋津彦美豆櫻根大人と曰ふ。宣長艸深氏を娶り二男、三女を生む。長男春庭、次男春村出でゝ他家を繼ぐ。長女ひだ子、二女みの子、三女のと子、或は他家を嗣ぎ、或は嫁し、或は早世す。而して春庭眼疾を患へて遂に明を失ふに至る。依て門人稻掛大平を養ひて子とし、家を嗣がしむ。宣長不世出の、英才を以て、荷田、縣居の學統を承ぎ、有益の書を著はして、古學を大成し、古道を發揮し、以て尊王愛國の志氣を養成したり。實に其の功の顯著なる天日と光を爭ふべし。宜なる哉、明治十六年二月、朝廷特に正四位を贈りて以て其功を追賞せられたり』と。
(※注。本記事の典據たる『慶長以來 國學家略傳』が發行されし二年後の明治卅五年十一月十八日、鈴屋大人には從三位を贈られたり






 <本居宣長翁の主なる著書>
    石上私淑言 [いそのかみのささめごと]
    手枕 [たまくら]
    古今選 [こきんせん]
    國號考 [こくがうかう]
    紫文要領 [しぶんえうりやう]
    古事記傳 [こじきでん]
    草庵集玉箒 [さうあんしふたまははき]
    國歌八論斥非評語
    直毘靈 [なほびのみたま]
    紐鏡 [ひもかがみ]
    菅笠日記 [すがかさのにつき]
    字音假字用格 [じおんかなづかひ]
    馭戎慨言 [からおさめのうれたみごと]
    萬葉集玉小琴 [まんえふしふたまのをごと]
    詞玉緒 [ことばのたまのを]
    葛花 [くずはな]
    尾花がもと
    於裳飛倶佐 [おもひくさ]
    くれの秋のさうし
    臣道
    鈴屋詩文 [すずやしぶん]
    手向草 [たむけぐさ]
    眞暦考 []しんれきかう
    漢字三音考 [かんじさんおんかう]
    鉗狂人 附水草の上の物語 [けんきやうじん]
    玉匣 [たまくしげ]
    呵刈葭[あしかりよし]
    祕本玉匣 [ひほんたまくしげ]
    神代正語 [かみよまさごと]
    新古今集美濃家苞 [しんこきんしふみののいへづと]
    玉霰 [たまあられ]
    玉勝間 [たまかつま]
    結び捨てたる枕の草葉
    出雲國造神壽詞後釋 [いづものくにのみやつこのかむよごとごしやく]
    紀美の惠 [きみのめぐみ]
    大祓詞後釋 [おほばらへのことばごしやく]
    天祖都城辨々 [てんそとじやうべんべん]
    源氏物語 玉小櫛 [たまのをぐし]
    古今集遠鏡 [こきんしふとほかがみ]
    家譜集撰 [かふしふせん]
    初山踏 [うひやまぶみ]
    鈴屋歌集文集 [すずやかしふぶんしふ]
    吉野百首 [よしのひやくしゆ]
    古訓古事記 [こくんこじき]
    歴朝詔詞解 [れきてうせうしかい]
    神代紀髻華山蔭 [じんだいきうずのやまかげ]
    枕の山(一名櫻三百首) [まくらのやま]
    地名字音轉用例 [ちめいじおんてんようれい]
    疑齊辨 [ぎさいべん]
    眞暦不審考辨 [しんれきふしんかうべん]
    本末歌 [もとすゑのうた]
    仰瞻鹵簿長歌 [ぎやうせんろぼちやうか]
    尾張連物部連系圖
    美濃の家苞折添
    源氏物語年紀考 [げんじものがたりねんきかう]
    言語活用抄稿
    伊勢二宮さき竹の辨 [いせにくうさきたけのべん]
    後撰集言葉の束緒 [ごせんしふことばのつかねを]
    答問録 [たふもんろく]
    本居氏系圖 [もとをりしけいづ]
    家の昔物語 [いへのむかしものがたり]
    御國詞活用鏡 [みくにことばくわつようせう]
    漢委奴國王金印考 [かんのわのなのこくわうのきんいんかう] 他


     
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by sousiu | 2013-04-26 00:10 | 先人顯彰

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