縣居門 その十四。鵜殿餘野子刀自 

◎鵜殿餘野子刀自(縣門三才女)


○『國學者傳記集成』(明治卅七年八月廿五日「大日本圖書」發行)所收。

鵜殿 餘野子

生歿
(生) 二三八九年  中御門  享保一四年
(沒) 二四四八年  光  格  天明八年 
(年) 六〇


●『慶長以來 國學家略傳』に曰く、
『餘野子は幕府の麾下鵜殿左膳[名は孟一、號は士寧、漢學を能くして、當時に名あり]の妹なり。幼にして學を好み、兄に從ひて漢籍を學び、殊に詩に巧なり。後賀茂翁の門に入りて古學を修め、遂に縣居門の三才女[茂子しづ子とともに]と稱せらるゝに至る。元來漢學の力あるを以て、詠歌文藻世に比なく、千蔭、春海の諸輩も、此の人をば心にくしといひあへるとかや。餘野子若き時より、紀侯の殿中に奉仕して、名を瀬川といへり。後仕を辭して他に嫁せず、尼となり風月を弄して、身を終へぬ。其の老後住居せしところを凉月院と云ふ。天明八年、年六十にして歿す。遺稿あり凉月遺艸と云ふ。梓行して世に行はる』と。

●清水濱臣翁、文化十年『泊洦(山水+百)筆話』に曰く、
『縣居翁の門人、いとおほかりし中に、女の歌よみすくなからざりき。殊にすぐれたりしは、よの子、茂子、しづ子の三女なりけり。餘の子[紀伊殿に仕へて、瀬川と呼ばれ、のちに凉月院と申されき]は、鵜殿孟一[字 士寧、通稱 左膳、南郭門人]の妹にて、漢學にさへたどゝゞしからず、からうたよくつくられけり。兄おとゝのざえを、其身ひとつに集めたりと、孟一つねにいはれしとぞ。翁あるやむごとなき御方より、女房の手本ともすべき、十二月の消息文かきてよと、おほせごとかうぶられたるをり、よの子にかかせられしが、いとめでたくつゞけたりければ、やがて其まゝにて奉られけりとぞ。近き此、芳宜園のあるじ、此消息を自から筆とりて、かき清めて、板にゑられしもあれば、大かた人もしれり。歌もよきがいといとおほく、岐蘇路記といふ、旅日記をかしうつゞれるあり』と。

●小山田與清翁、文化十一年『松屋叢話』に曰く(昭和三年四月卅日「日本隨筆大成」第二期卷一、所收)、
『よの子といへるは、紀の殿につかへまつりて、瀬川とぞ呼ける。さほ川と號し、歌集一卷有り。そは初に水上月と云る題にて、
    古里の、佐保の川水、流れても、世にもかくこそ、月はすみけれ
といふうたあるによれる名也。また木曾路の記とて、寛保八年五月、紀ノ國へまかりける時の紀行一卷あり。江戸を出たつ時、人のもとより、ことにしたはしうおもひて、
    君がゆく、わかの浦わに、ゐるたづの、たづきもしらず、我やなりなん
といひおこせしに、その返し、
    世の中の、たづゝゞしくは、思ひやれ、雲井のよそに、ひとりなく音を』と。

●村田春海翁、寛政五年八月『凉月遺草』に曰く、
『昔縣居の翁に、物まなべりし女房、あまた有しなかに、志氣子、余野子との二人をば、其頃、ふる事しのぶ人々の歌がたりに、たれゞゝも、心にくきかたになん、いひあへりける。さるはやむごとなきあたりの、をすのうちにて、花紅葉につけつゝ、いどみ事あるふしなど、歌人のえらみには、翁もつねにこの二人をしもぞ、とりいてられたりける。又よの子は、から學びのかたも、たどゝゞしからで、唐歌をもよくつくりてなんありける。そはそのせうと、鵜殿の孟一のぬしは、世に名高き博士なりければ、をさなきほどより、かたはらにありて、まねびたりとなん。おのれわらはむりし此、文よむとて、つねに鵜殿のぬしの家にゆきかひたれば、余野子のつくれるから歌など、をりゝゝ見しこともありき。なまゝゝの博士は、はづかしかりぬべき口つきとぞおぼえし。この此、縣居の翁の集どもより、しらぶるついでに、ほうごの中より、此二人の言葉どもの、かつゝゝ散殘りたるをみいでたれば、いかでふくつめおかんとするに、茂子か集はもたる人ありといへば、そを得たらんとき、かさねてものしつべければ、先よの子のをとりて、二卷とはなせり。文も歌も猶あまたありつらんを、その家集などいづちいにけんとは、もとむべきよしのなきこそをしけれ。さてよの子、又の名は瀬河ともいへり。わかゝりける時より、紀の殿につかうまつりて、つかへをしぞきてすみける所をば、凉月院とぞいへる。天明八とせの秋、よはひ六十あまりにもなん、身まかりける』と。


 <鵜殿餘野子刀自の主なる著書>
    岐蘇路記
    さほ川
    凉月遺草

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by sousiu | 2013-04-28 01:03 | 先人顯彰

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