縣居門 その十五。進藤筑波子刀自 

 本日は、皇國志士連合有志とともに謹みて多摩御陵、武藏野御陵を拜す。
 昨年同樣、都下は青天。嗚呼、時は進みて止らず、とか。既に平成生まれの人達が社會に活躍する現在、有史來、未曾有の激動と困難を乘り越えた 先帝の御宇を、吾人は忘れてはならぬ。而して、吾人は平成中興の歩を僅かでも進め、當時の恐察するもおそれおほき 先帝の御心を安んじ奉るを以て報皇とせねばならぬ。
f0226095_1747465.jpg

f0226095_17474398.jpg


  ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~


◎進藤筑波子刀自(縣門三才女)


○『國學者傳記集成』(明治卅七年八月廿五日「大日本圖書」發行)所收。

進藤 筑波子 茂子

系圖
進藤正幹養女、徳川幕府侍臣土岐頼房妻

學統
眞淵門三才女の一人


●『慶長以來 國學家略傳』に曰く、
『茂子は、又筑波子ともいへり。進藤正幹の養女にして、徳川幕府の侍臣、土岐頼房の室なり。幼より、學を好み、賀茂眞淵の、門に入りて學び、詠歌を、よくするを以て名あり。其筑波子の名は、かの筑波山は山しげ山といへる、古歌によりて、賀茂翁の、つけられしなりと云ふ。歌は、翁の高きふしをうけて、調とゞこほらず、しかも女らしき歌口なりき。故に翁も其歌をめでゝ、天暦の、女房の、調なりといはれき。縣門に、女子の歌よみ、少からざりしといへども、余野子、倭文子、及茂子を稱して、縣門三才女と、稱しきとぞ。其筑波子歌集は、後年、清水濱臣の、撰集せし所にして、縣門遺稿の内に收めたり』と。

●清水濱臣翁『筑波子歌集』(文化九年)序に曰く、
『筑波子、又しげい(茂)子(※愚案。「しげるこ」と讀むは誤りなり)ともいへりき。筑波山は山、茂山といへる古歌の詞によりて、通はしおほせたる名なるべし。進藤正幹ぬしの、養ひ子にて、土岐頼房ぬしの妻なり。縣居の翁に物學びて、歌よむわざをよくせり。限りなく、來れども同じ、とよめる初春の歌に評せられて、天暦の頃の、女房の口つきとおぼゆなど、翁もほめきこえられたりけり』と。

●清水濱臣翁『泊洦(山水+百)筆話』に曰く、
『       はるのはじめのうた
   かぎりなく、來れどもおなじ、春なれば、あかねこゝろも、かはらざりけり


此歌縣居翁の評に、天暦の此の女房の口つきなり。と評せられき。また、

       みつ(三つ)になりけるをさな(幼)子の、なくなれるをり、
   いはけなく、いかなるさまに、たどりてか、死出の山路を、ひとりこゆらむ


たゞ言ながら、心のほど思ひやられて、このうた見るたびに、おぼえず涙ぐまるゝになん。又、
       商人を
   わたらひの、こゝろぼそさも、しられけり、いとうる賤の、たえずくるには


女の歌、誠にさこそおぼゆれ。みづから書きつめおける歌どもに、縣居翁の點合をおかれたるを、故ありておのがもとにもたれば、過きし享和のみとせ、清くかきあらためて、はし書などものし置きしを、文化十年の春、つひには板にもゑらせたりき』と。



       をとこにおくれぬる頃
   歎くとも、こふともしらで、いかならむ、方にのどけく、君は住らむ
   みし夢の、さめぬ程にし、きえもせば、今のうつゝに、物ハ思はじ


      かくいふ程に、雪のうち散れば
   見る程も、あらずなりぬる、雪ならで、消殘るとも、おもひける哉

      いとけなき子のうせし頃
   結びつと、みそむる程も、あらなくに、はかなく消し、草の上の露
   なきたまの、あるをこひしと、思ひせば、夢路にだにも、立歸らなむ
   いわけなく、いかなるさまに、たどりてか、死出の山路を、獨こゆらむ

                    
                             ※『筑波子歌集』所收
[PR]

by sousiu | 2013-04-29 17:47 | 先人顯彰

<< 贈從三位 賀茂眞淵大人 その廿... 縣居門 その十四。鵜殿餘野子刀自  >>