贈從三位 賀茂眞淵大人 その廿二。松坂の一夜 

 賀茂眞淵大人と本居宣長大人の會見は、後の國學發達に寄與せしめること大であつた。
 この模樣は、佐々木信綱博士の筆にお委せするが賢明であらうと思ふ。
 全文を掲げむが爲め、長文となるが、大體を知る上に於て有益となるであらうから、御一讀を請ふ次第である。

●佐々木信綱博士『松坂の一夜』(昭和九年十二月二日「弘文社」發行『賀茂眞淵と本居宣長』所收)
『時は夏の半、「いやとこせ」と長閑やかに唄ひつれてゆくお伊勢參りの群も、春さきほどには騷がしからぬ伊勢松坂なる日野町の西側、古本を商ふ老舖柏屋兵助の店先に「御免」といつて腰をかけさせたのは、魚町の小兒科醫で年の若い本居舜庵であつた。醫師を業とはして居るものゝ、名を宣長というて皇國學の書やら漢籍やらを常に買ふこの店の顧主[とくい]であるから、主人は笑ましげに出迎へたが、手をうつて、「ああ殘念なことをしなされた。あなたがよく名前を言つてお出になつた江戸の岡部先生が、若いお弟子と供をつれて、先ほどお立よりになつたに」といふ。舜庵は「先生がどうしてここに」といつものゆつくりした調子とはちがつて、あわただしく問ふ。主人は「何でも田安樣の御用で、山城から大和とお廻りになつて、歸途[かへり]に參宮をなさらうといふので、一昨日あの新上屋へお着きになつたところ、少しお足に浮腫[むくみ]が出たとやらで御逗留、今朝はまうおよろしいとのことで御出立の途中を、何か古い本はないかと暫らくお休みになつて、參宮にお出かけになりました」。舜庵、「それは殘念なことである。どうかしてお目にかかりたいが」。「跡を追うてお出でなさいませ、追付けるかもしれませぬ」と主人がいふので、舜庵は一行の樣子を大急ぎで聞きとつて、その跡を追つた。湊町、平生町、愛宕町を通り過ぎ、松坂の町を離れて次の宿なる垣鼻[かいばな]村のさきまで行つたが、どうもそれらしい人に追ひつき得なかつたので、すごすごと我が家に戻つて來た。
 數日の後、岡部衞士は神宮の參拜をすませ、二見が浦から鳥羽の日和見山に遊んで、夕暮に再び、松坂なる新上屋に宿つた。もし歸りにまた泊られることがあつたならば、どうかすぐ知らせて貰ひたいと頼んでおいた舜庵は、夜に入つて新上屋からの使を得た。樹敬寺の塔頭なる嶺松院の歌會にいつて、今しも歸つて來た彼は、取るものも取あへず旅宿を訪うた。同行の弟子の村田春郷は廿五、その弟の春海は十八の若盛で、早くも別室にくつろいでをつた。衞士は、ほの暗い行燈の下に舜庵を引見した。
 賀茂縣主眞淵通稱岡部衞士は、當年六十七歳、その大著なる冠辭考、萬葉考なども既に成り、將軍有徳公の第二子田安中納言宗武の國學の師として、その名嘖々たる一世の老大家である。年老いたれども頬豐かなるこの老學者に相對せる本居舜庵は、眉宇の間にほとばしつて居る才氣を、温和な性格が包んでをる三十四歳の壯年。しかも彼は廿三歳にして京都に遊學し、醫術を學び、廿八歳にして松坂に歸り醫を業として居たが、京都で學んだのは啻に醫術のみでなくして、契沖の著書を讀破し國學の蘊蓄も深かつたのである。
 舜庵は長い間欽慕して居た身の、ゆくりなき對面を喜んで、かねて志して居る古事記の注釋に就いてその計畫を語つた。老學者は若人の言を靜かに聞いて、懇ろにその意見を語つた。「自分ももとより神典を解き明らめたいとは思つてゐたが、それにはまづ漢意を清く離れて古へのまことの意を尋ね得ねばならぬ。古への意を得るには、古への言を得た上でなければならぬ。古への言を得るには萬葉をよく明らめねばならぬ。それゆゑ自分は專ら萬葉を明らめて居た間に、既にかく年老いて、殘りの齡いくばくも無く、神典を説くまでにいたることを得ない。御身は年も若くゆくさきが長いから、怠らず勤めさへすれば必ず成し遂げられるであらう。しかし世の學問に志す者は、とかく低いところを經ないで、すぐに高い處へ登らうとする弊がある。それで低いところをさへ得る事が出來ぬのである。此むねを忘れずに心にしめて、まづ低いところをよく固めておいて、さて高いところに登るがよい」と諭した。
 夏の夜はまだきに更けやすく、家々の門[かど]のみな閉ざされ果てた深夜に、老學者の言に感激して面ほてつた若人は、さらでも今朝から曇り日の、闇夜の道のいづこを踏むともおぼえず、中町の通を西に折れ、魚町の東側なる我が家のくぐり戸を入つた。隣家なる桶利の主人は律儀者で、いつも遲くまで夜なべをしてをる。今夜もとんゝゝと桶の箍をいれて居る。時にはかしましいと思ふ折もあるが、今夜の彼の耳には、何の音も響かなかつた。
 舜庵は、その後江戸に便を求め、翌十四年の正月、村田傳藏の仲介で名簿[みやうぶ]をさゝげ、うけひごとをしるして、縣居の門人録に名を列ぬる一人となつた。爾來松坂と江戸との間、飛脚の往來に、彼は問ひ此[これ]は答へた。門人とはいへ、あおの相會うたことは纔かに一度、ただ一夜の物語に過ぎなかつたのである。
 今を去る百五十餘年前、寶暦十三年五月二十五日の夜、伊勢國飯高郡松坂中町なる新上屋の行燈は、その光の下に語つた老學者と若人とを照らした。しかも其ほの暗い燈火は、吾が國學史の上に、不滅の光を放つて居るのである。

 附言   余幼くて松坂に在りし頃、柏屋の老主人より聞ける談話に、本居翁の日記、玉かつまの數節等をあざなひて、この小篇をものしつ。縣居翁より鈴屋翁に贈られし書状によれば、當夜宣長と同行せし者[尾張屋太右衞門]ありしものゝ如くなれど、ここには省きつ。
     以下、「和泉和麿の宣長評」まで十篇は、大正六年四月以前の執筆にかかる』
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 次に、大人を訪ひたる、鈴屋大人御本人からお訊きせねばなるまい。

●鈴屋 本居宣長大人『玉勝間』(寛政五年起筆)卷二「おのれあがたゐの大人の教をうけしやう」に曰く、
『宣長、縣居大人にあひ奉りしは、此里に一夜やどり給へりしをり、一度のみなりき。その後はたゞしばゝゞ、書かよはしきこえてぞ、物はとひあきらめたりける。そのたびゝゞ、給へりし御こたへのふみども、いとおほくつもりにたりしを、ひとつもちらさで、いつきもたりけるを、せちに人のこひもとむるまゝに、ひとつふたつと、とらせけるほどに、今はのこりすくなくなんなりぬる。云々』と。

●  仝  「あがたゐのうしの御さとし言」に曰く、
『宣長、三十あまりなりしほど、縣居大人のをしへを、うけ給はりそめしころより、古事記の注釋を物せむとのこゝろざし有て、そのことうしにもきこえけるに、さとし給へりしやうは、われも、もとより、神の神典[ミフミ]をとかむとおもふ心ざしあるを、そはまづ、からごゝろを清くはなれて、古のまことの意をたづねえずばあるべからず。しかるに、そのいにしへのこゝろをえむことは、古言を得たるうへならではあたはず。古言をえむことは、萬葉をよく明らむるにこそあれ。さるゆゑに、吾はまづ、もはら萬葉をあきらめんとする程に、すでに年老て、のこりのよはひ、今いくばくもあらざれば、神の御ふみをとくまでに、いたることえざるを、いましは、年さかりにて、行さき長ければ、今よりおこたることなく、いそしみ學びなば、其心ざしとぐること有べし。たゞし世中の物まなぶともがらを見るに、皆ひきゝ所を經ずて、まだきに高きところにのぼらんとする程に、ひきゝところをだにうることあたはず。まして高き所は、うべきやうなければ、みなひがことのみすめり。此むねをわすれず、心にしめて、まづひきゝところより、よくかためおきてこそ、たかきところには、のぼるべきわざなれ。わがいまだ、神の御ふみをえとかざるは、もはら此ゆゑぞ。ゆめしなをこえて、まだきに高き所をな、のぞみそと、いとねんごろになん、いましめさとし給ひたりし。此御さとし言の、いとたふとくおぼえけるまゝに、いよゝゝ、萬葉集に心をそめて、深く考へ、くりかへし問たゞして、いにしへのこゝろ詞をさとりえて見れば、まことに世の物しり人といふものゝ、神の御ふみ説る趣は、皆あらぬ漢意のみにして、さらにまことの意ばえ、えぬものになむ有ける』と。

 これは古今にしてゆめ忘れる可からざるの金言だ。固より我れらもしかと銘記す可き戒言だ。
 何事も理解せず、固まらぬまゝにして「敬神尊皇」てふスローガン、熟語さへ世人に訴へ出れば良とする、果して之を啓蒙と云ふ可きであらうか。先づ、己れの勤王、殉皇の精神を固めること、これが大切であり、必須たる可きことがらであるのだ。


●  仝  「師の説になづまざる事」に曰く、
『おのれ古典[イニシヘブミ]をとくに。師の説とたがへること多く、師の説のわろき事あるをば、わきまへいふこともおほかるを、いとあるまじきことゝ思ふ人おほかめれど、これすなはち、わが師の心にて、つねにをしへられしは、後によき考への出來たらんには、かならずしも、師の説にたがふとて、なはばかりそとなむ、教へられし。こはいとたふときをしへにて、わが師のよにすぐれ給へる一つなり。大かた、古をかむがふる事、さらに、ひとり二人の力もて、ことゞゝくあきらめつくすべくもあらず。又よき人の説ならんからに、多くの中には、誤もなどかなからむ。必わろきこともまじらではえあらず。そのおのが心には、今はいにしへのこゝろ、ことゞゝく明らかなり。これをおきては、あるべくもあらずと、思ひ定めたることも、おもひの外に、又人のことなるよきかむがへも、いでくるわざなり。あまたの手を經るまにゝゝ、さきゞゝの考のうへを、なほよく考へきはむるからに、つぎゝゞにくはしくなりもてゆくわざなれば、師の説なりとて、かならず、なづみ守るべきにもあらず。よきあしきをいはず、ひたぶるにふるきをまもるは、學問の道には、いふがひなきわざなり。又おのが師などの、わろきことをいひあらはすは、いともかしこくはあれど、それもいはざれば、世の學者、その説にまどひて、長くよきをしるごなし。師の説なりとして、わろきをしりながらいはず、つゝみかくして、よざまにつくろひをらんは、たゞ師をのみ尊とみて、道をば思はざるなり。云々』と。

 縣居大人は、鈴屋大人に學問の方向のみならず、その姿勢に就ても教ふること多大であつた。
 その主なる一つとしては、我が説に誤りあらばそれを師の説であるから面目を穢すまいとして無理強ひして肯定するでなく、その誤りを天下後世に傳へよ、といふものであつた。
 「ルカによる福音書」(第六章四十節)には『弟子は師に勝るものではない。しかし誰れでも十分に修行を積めば、その師のやうになれる』と書かれてあるが、我が國學の先達は、弟子に「師を越えよ」と申してをるのだ。
 この度量の廣さ、志の高さが後の國學者に活力を與へ、又た、國學は大いに進歩發展を遂げることが出來たのである。
 然もこの發想は啻に學問のみに對して云ふでなく、廣汎なる、道に生くるべき後進に對して云ふ可きことばだと野生は思ふ。
 而して縣居門の鈴屋大人、いかでか己れの門人に我が説を泥むやう諭すべき。

●  仝  「わがをしへ子にいましめおくやう」に曰く、
吾にしたがひて物まなばむともがらも、わが後に、又よきかむがへのいできたらむには、かならず、わが説にな、なづみそ。わがあしきゆゑをいひて、よき考へをひろめよ。すべておのが人ををしふるは、道を明らかにせむとなれば、かにもかくにも、道をあきらかにせむぞ、吾を用ふるには有ける。道を思はで、いたづらにわれをたふとまんは、わが心にあらざるぞかし』と。


 最後に、鈴屋門の氣吹廼舍大人の言を抄録す。

●大壑 平田篤胤大人『玉襷』卷の九に曰く、
『(前文省略)江戸より上れりし人の、近き頃出たりとて、冠辭考といふ書を見せたるにぞ。縣居の大人の御名をも始めて知りける。かくて其ふみ、始めに、一とわたり見しには、更に思ひもかけぬ事のみにして、餘り事とほく異しきやうに覺えて、更に信ずる心は有らざりしかど、猶あるやう有べしと思ひて、立ちかへり、今一とたび見れば、まれゝゝには、實に然もやと覺ゆるふしゞゝも出來ければ、又立ちかへり見るに、いよゝゝげにと覺ゆること多くなりて、見るたびに、信ずる心の出來つゝ、終に古ぶりの心ことばの、實にさる事を悟りぬ。かくて後に思ひくらぶれば、彼の契冲が萬葉の説は、なほ未だしき説のみぞ多かりける。己が歌學びの有しやう、大かたかくの如くなりき』と。

●  仝、
『偖、また道の學びは、まづ始めより、神書といふすぢの物、古き近き、これやかれと讀みつるを、二十ばかりの程より、わきて心ざしありしかど、取りたてゝ、わざと學ぶ事は無りしに、京に上りては、わざとも學ばんと、志は進みぬるを、かの契冲が歌よみの説に准へて、皇國の古への意を思ふに、世に神道者といふ者の説く趣きは、みな甚く違へりと、早く悟りぬれば、師と頼むべき人も無りし程に、吾いかで、古へのまことの旨を、考へ出むと思ふ心ざし、深かりしに合せて、かの冠辭考を得て、かへすゞゝゝ讀み味はふほどに、いよゝゝ心ざし深くなりつゝ、此の大人をしたふ心、日にそへて、切なりしに、一と年此うし、田安の殿の仰せ事をうけ賜はり給ひて、此いせの國より、大和山城など、こゝかしこと、尋ねめぐられし事の有しをり、此の松坂の里にも、二日三日、とゞまり給へりしを、然ること露しらで、後にきゝて、いみじく口惜かりしを、歸るさにも、また一と夜、やどり給へるを伺ひ待て、いとゝゝ嬉しく、急ぎ宿りにまうでゝ、始めて見え奉りたりき。偖つひに名簿を奉りて、教をうけ賜はる事には成たりきかし、とあり。かくて、其の始めて見給ひし時に、古事記の注釋を物せむと、思せる志しを述られけるに、縣居の大人の諭し給へる御語は、既に上に記せるが如し(※上=前文は省略)。なほ玉がつまに、おのれ縣居の大人の教を受しやう、師の説に泥まざる事。などある條々、また鈴屋集なる、縣居の大人の御前にのみ申せる詞。とあるなどを見て、縣居の大人に教を受られたる趣と見るべし』と。
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by sousiu | 2013-05-01 19:06 | 先人顯彰

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