大川周明博士 

 今日まで國學者に就て記するに、荷田春滿大人→賀茂眞淵大人に止まつてゐるが、折をみて續けて行かねばならない。何故ならばそれ、今日ほど、否、詳しく云へば今後ほど、近年に於て「國學」を大事にせねばならない時代は無い、と考へてうたがはないからである。

 日本人は明治時代の開國政策以降、急速度に流れる時代のなかを生きた。新らしき時代に於て、對外に於ける鎖國から開國、對内に於ける政治制度の刷新には充分愼重に歩を進める可きが穩當であつたにも拘らず、國内外の迫りくる事情がそれを許さなかつた。
 その爲め、時にその意志に拘らず、或は意志に反して、時代に流されるあるの感さへ少なくなかつた。
 明治以降の、實に奔流よりも速い時勢の推移も敗戰を經て六十年を過ぎ、漸く落ち着きつゝある。何故ならば國際社會の舞臺に於て日本は現在、半獨立國家としての機能しか有してをらず、好ましからぬことではあるけれども、完全に自立してゐない分だけ(皮肉を籠めていへば)氣樂な立場にあつたわけだ。北朝鮮が經營の爲めに腐心を抱き、日々せはしき状況より脱せられないことゝ比較すれば能く分かる。
 已むを得ず、かくなる立場に立たされた爲めに、日本は戰後、經濟活動を最優先として力を傾けることが出來た。それが良かつたのか惡かつたのか、功罪兩つながらあると思ふがこゝでは問はない。復興が成し遂げられ、それ以上を望み「金滿大國」などと揶揄されながらも經濟大國の地歩を占めたが、これまた頓挫した。
 そろそろ、明治以降の激流から、少し冷靜になる期間が必要であると思ふ。明治以降のせはしき状況に迫られ、つひ忘れてしまつたものを再び取り戻さねばなるまい。即はち「日本的大自覺」だ。それには「國學」が必要だ。

 開國にも功罪の兩つが存した。罪の最たる可きは、御一新以前に存在し得なかつた儒佛以外の多くの思想が流入してしまつたことだ。野生は今日直ぐ樣これらを追放せよ、とまで云ふではない。但し、かれらの流入により動搖してしまつた日本人の大自覺を取り戻す必要があるとは云ふ。

 これに關して、以下、大川周明博士の好例を擧げたいと思ふ。些か長文となるが、閑暇ある御方の御一讀を賜はりたい。


●大川周明博士、『日本的言行』(昭和五年十一月廿日「文録社」發行)「太宰春臺と本居宣長」に曰く、
『異邦崇拜は今日の日本に於ても甚しくある。而もキリストを崇拜し、マルクスを崇拜し、レニンを崇拜し、ガンデイを崇拜する當今の日本人と雖ども、恐らく太宰春臺が徹底して堯舜を崇拜せるには比ぶべくもないと思はれます。ひとり春臺のみならず、徳川時代の儒者は、若干の例外を除けば、概ね春臺と五十歩百歩の支那崇拜者であつたのであります。
 是くの如き時に當り、賀茂眞淵・本居宣長・平田篤胤等の國學者が、一代の中華心醉に宣戰して、日本思想の闡明、日本精神の確立に心碎けることは、吾等をして雄風を今日に仰がしめるものであります。わけても異邦崇拜のこゝろ、深く國民の魂に巣くひつゝある今の世に、日本主義を奉じて屹立せんほどの者は、常に感激の泉を此等先賢の精神に汲むのことを忘れてはなりませぬ

『(本居宣長大人の)警告は移して直ちに今日の歐米心醉者に加へられるべきものであります。徳川時代に學問と言へば漢學のことなりし如く、今日に於ては横文字のみが眞理の庫を開く鍵なるかの如く考へる者が居る。歐米の事とさへ言へば、巴里の横町の小料理屋の話までが、誇るべき知識とされて居る。而して神武紀元何年なるかを知らなくとも、些かの恥ともされて居ない。西洋の社會史は研究されるけれど、日本社會史の研究は少數專門家の手に委ねて顧みようともしない。社會の進化乃至改造を論ずる者も、西洋の社會と日本の社會との異同をさへ明かにせんとせず、直ちに西歐學者の唱ふる原理を日本にも適用せんとする。マルクスの思想を眞理なりとして、之を立證するために引用し來るものは總て西洋の歴史であります。試みに「マルクスの原則に從つて日本史を説明せよ」と設問すれば、日本の歴史は之を知らずと答へて平然たる爲態であります。外交上の論議に於ても、例へば米國の邦人移民排斥を論ずるに當り、ひたすら同胞の米國に於ける行動の非を擧げて、米國の立法にの止むを得ざるを辯護する學者が少なくありませぬ。まことに「皇國をばよその國の如くもてなさんとする」者であります。吾等は斷乎として此の主客顛倒を改めねばなりませぬ。而して總て日本的に思ひ且行はねばならぬと存じます』と。


 かく述べる大川周明博士をして、若年乃至壯年は、樣々な信仰及び思想を彷徨うたのであつた。博士の魂の遍歴を、順を追うて窺つてみよう。
●大川周明博士、『日本精神研究』(昭和十四年十一月廿五日「明治書房」發行)に曰く、
『精神多年の遍歴の後、予は再び吾が魂の故郷に復り、日本精神其者のうちに、初めて予の求めて長く得ざりし莊嚴なるものあるを見た』

 曰く、
『吾が心の至深處に沸き、徐ろに全我を潤ほし去れる要求に動かされ、予の若き魂は、其の一切の矛盾と撞着と熱情とを抱きつゝ、みだりに先賢古聖を思慕し、彼等の辿れる登高の一路を予もまた辿りて、親ら精神的高嶺の絶巓を摩すべく、實に踴躍して郷關を辭した』

 博士は先づ、基督教を信奉した。曰く、
『此路の嶮難は、之を蹈破したるもの等しく知る。そは深き疑あり、長き悶あり、多くの涙がある。予は小禍に頓挫し、微憂に懊惱して、救を基督に求めたこともある。何者を以てしても赦さるべくもなしと信じたる道徳的苦惱を感じたる時、而して其爲に心遲れ眼闇みて、向上の氣力盡き果てんとしたる時、基督予に來りて懇ろに教へた――「如何に微かなりとも汝の心裡に尚ほ一脈の光さへあれば、如何に困憊しても汝の精神に高きを思慕する心が聊かでもあれば、而して最後の教の叫びを擧げさへすれば、神は汝の爲に其の餘燼をして炎々と燃え立たしめ、沈み行く夕陽を轉じて新しき生命の曙たらしめる」と。予は此教に力を得て、幾多の難關を事もなく過ぎた。此時に當りて予は思つた、基督の神こそは、予の爲に寂しき時は友、傷く時は母、過つ時は師、弱き時は父、是くの如き高貴なる先達は他に求めて斷じて得られないと。
 後に至りて、予は予が其時に猶太人から與へられた丁度其ものを、法然親鸞の宗教に於て見た。遠くは印度の世親、近くは南北朝の曇鷲・道綽の淨土思想を繼ぎ、之を鮮明なる一個の宗教たらしめたる善導の信仰が、滅後五百年にして一朝法然上人の宿願を滿足せしむるや、機縁忽ち熟して日東さながら一個の淨土教國となり、南無阿彌陀佛の稱名はいろはより先に耳馴れたるものなりしに拘らず、却つて先づ基督によつて教へられたと云ふことは、予の魂が夙く故郷を出でて遍歴の旅路に出たからである』と。

 而、博士は敬天思想をも尊んだ。曰く、
『而して更に後には、儒教の見えざる根柢となりて、孔孟以來一貫脈々たる天の信仰其者に、また實に神往禁じ難い宗教意識の潛めるを見た。また其源を上代日本の信仰に發し、儒教佛教と共に國民精神の裡に鎔造化育せられ、武士の魂によつて百練千磨せられたる士道――道義と宗教とを渾一したる實踐的規範其者に於て、眞に莊嚴偉烈なる信仰を見た』と。

 然るに博士はこれらに絶望をみる。而して博士は博士を絶望せしめたる、その因を探した。曰く、
『登山半ばにして予は越しかたを振返り、山の麓に遑々如として奔馳する多くの人々あるを見た。而して彼等が更に精神的高嶺を仰ぎもせず、從つて向上登高の志なきを悲しんだ。予は其の重大なる原因が、彼等の貧苦に在るを見、彼等の貧苦の重大なる原因が、制度の缺陷に在るを見た。予は教會の牧師が壇上より肉に死して靈に活きよと説教しつゝある間に、予の背後より醵金箱が順次に廻り來るを見て、如何にして斯かる矛盾に平然たり得るかと怪しんだ』と。

 而して、博士はマルクスを仰いだ。曰く、
『予は總じて物質を偏輕する道徳の虚僞に憤を發した。名手は鈍刀を揮つて銕尚ほ斷つ可し、而も是れ凡夫の企及すべき所ではない。現代に於ける黄金の萬能は、動かすべくもなき事實であり、宗教と言はず政治と言はず文藝と言はず、世にある總てが黄金の爲に左右されるのを目の當り見て居る者に、財寶を卑むべしと教へたところで、何の效果を期待し得るか。仁義五常の道を蹈めと人に迫る者、世の悖徳亂倫を嘆く者は多い。さりながら彼等が言ふ通りの路を進めば、忽ち貧苦の淵に陷るか、又は奸譎なる小人の乘ずる所とならねばならぬ。かくて予は社會制度の根本的改造を必要とし、實にマルクスを仰いで吾師とした』

 次いで博士は古代のギリシヤに傾倒した。曰く、
『予の魂は、或時はまた希臘の古へに旅して、プラトンと共に住んだ。予はプラトンが、皎々たる善の理想を仰ぎつゝ、之を「國家」に實現せんと勇み立てる姿に於て、基督とマルクスとを一身に兼ねたる偉人を見出だせる如く感じた。彼の國家理想を知り得たる時、予は基督もマルクスも最早吾師に非ずと思つた。
 プラトンの國家は、吾等の精神の情欲に相當する農工商、意志に相當する武士、理性に相當する統治者の三者より成る。農工商は國家の經濟的基礎をなし、其の健全なる基礎の上に、國民は安らかに善の理想を辿り行く、武士は、外・劍を執つて外敵を防ぎ、内・統治者の命令を奉じて國家の安寧に任ずる。彼等は武を練りて有事の日に備へるのみならず、心を哲學に潛めて其魂を鍛え(※マヽ)、一點私利私欲の念を抱かず、全我を擧げて公に奉ぜねばならぬ。而して統治者は、理性の體現者として、善と理想に從つて國家を統率する任務を帶ぶ。彼等は渾身の力を擧げて精神至高の努力に從ひ、實在常住の理想たる善の理念を把握せねばならぬ。其の選ばれて治者となれば、願はしき事としてに非ず國家の爲の必然の義務として主權を帶び、任滿つれば去つてまた哲學的思索に沈潛する。
 予はプラトンの國家論を讀んで、若年漢學者の塾に在りし頃、漠然と揣摩したる「王道は文を以て始まる」の深意が、初めて明瞭に會得せられたる如く感じて堪え(※マヽ)なかつた。而して予は後に儒教殊に「大學」の中に、プラトンと同一なる思想の流れを見、更に熊澤蕃山・横井小楠の思想が、其の據つて立つ所の根本精神に於て、全く符節を合するが如くなるを見た』と。

 更らに博士はアメリカの思想家やドイツの神祕主義者に釘付けとなつた。曰く、
『登山者が淋漓たる血汗を流せる後、岩角に腰下して四邊の絶景に我を忘れる時ある如く、予の魂も亦屡々同樣の歡喜を味はつた。
 予の魂は先づヱマソンに惹付けられ、ヱマソンより獨逸の神祕主義者に惹付けられた。予は彼等と共に住む間に、一切の個人を貫く一個の心あるを知り、此心の源頭に溯れば、古賢の思索せる處を思索し、古聖の感じたる處を感じ、時と處との如何を問はず、苟くも人間界の事、總じて了解せられざるなきを知つた。千の森は一個の檞(「木」+「解」=かしは、柏)の實の裡に在るが如く、一個の人間は一切を藏するを知つた。個人は實に宇宙に普遍なる心が一人に體現したるもの、從つて普遍なる心の一切の屬性は、個人の裡に在る』と。

 而して曰く、
『さり乍ら、此の道理は、既に陸象山・王陽明が道破して居た。しびれを切らしつゝ昔教はつた孟子の中にも、萬物我れに備はると書かれて居たのである。而して斯かる心裡の風光は、蘇東坡が殆ど歌ひ盡して居た。今にして思ふ、日本在來の思想信仰と縁遠かりし歐米思想、予の祖父などは言ふにも及ばず、父すらも其名を知るまじき亞米利加人や獨逸人の思想が、千年以來日本精神に浸透せる儒教思想よりも、一層以前に予の魂を動かしたのは、思想其者に非ず唯だ其の表現の清新巧緻なるに心惹かれたる故であると。
 而も此點に於て、禪門幾多の文藝が、實に花は蜀江の綿を織りて予の來るのを待つて居た。唐宋六百五十年に亙る禪門の詩文は、此種のものとして恐らく世界に比類なき文献と言はねばならぬ。中古以來吾國に弘通[ぐつう]したる以後、諸多の高僧知識が遺したる語録乃至頌古も、其の思想の深奧、文字の清新、表現の自在、氣韻の溌溂に於て、ヱマソン其他に比して些の遜色ない。乍併(※しかしながら)予の是を知つたのは後のことである』と。

 然るに今度はイタリアの哲學者、博學者に惹かれた。曰く、
『予の魂は美しき伊太利を訪ひ、わけてもダンテとダヰンチに惹付けられた。ダンテが、基督に叛けるユダと共に、シーザーに叛けるブルータスを地獄のどん底に投げ入れ、此世の王國と靈の王國とを等しく重んじて、基督とシーザーとを同功とし、ユダとブルータスとを同罪とせる思想、又は彼れの雄渾なる世界帝國建設の理想は、深刻なる暗示を予に與へた。~中略~
 または往くとして可ならざるなきダヰンチの、絢爛にして豐麗なる天才は、予をして人間精神の偉大複雜なるに驚嘆せしめ、自家の心裡、また一朝にして百花繚亂の春に遇へるが如く感ぜしめられた。そのころ東京帝國大學文科大學に泰東巧藝史を講じ、予も亦其の聽講生の一人たりし岡倉覺三師、明治年間を通じて異類の天才なりし師の風格に、ダヰンチの俤ありとして獨り喜んだこともある』と。

 さらに博士の魂はオランダを遊歴した。曰く、
『予の魂はまた和蘭に往きて「聖なる破門のスピノザ」を訪ひ、其の「倫理」を熟讀して、ゲーテと共に「かほどまで明かに此の世界を見し事なし」と思つたこともあつた。去つて近代獨逸を遍歴しては、偉大なる哲學者の群、林の如く聳ゆるを見、崇敬にも近き心を抱いて彼等の書に就いた。わけてもヘーゲルとフイフテとは最も深甚なる感激を予に與へた。予は實に日本に思想なしと思つたことさへある』と。

 やがて心は印度を放浪した。曰く、
『予の魂はまた幾年となく印度を遍歴した。殊に聖薄伽梵歌の思想信仰は、予に取りて今日尚ほ神聖なるものである。予はアンニ・ベサントが梵英對譯して出版せる掌に隱れるほどの小册を、肌身離さず持ち歩いた時代もあつた。而して其の薄伽梵歌が、予に下の如く教へたのである――「假令劣機にてもあれ、自己の本然を盡すは、巧に他の本然に倣ふに優る。自己の本然に死するは善い、他の本然に倣ふは恐るべくある」と。
 予は當初この教訓を個人の上のみ解して居た。道徳は模倣を許さずと云ふ倫理的原則、カントによつて其の精細なる論理を闡明せられたる此の原則が、逸早く此の古典に於て確立されて居たことは、予の最も會心事とせる處であつた。然るに其の後に至り、これまで專ら内にのみ向けられたりし予の眼が、漸く外にも向けられ初め(※マヽ)、政治的現象に深甚なる關心を覺へ(※マヽ)るやうになつてから、予は此の原則が個人の上のみならず、實に國民の上にも同樣に適用せられねばならぬことを切實に感じた。予をして多年の精神的遍歴より、再び魂の故郷に歸來せしめたるものは、他なし此の自覺である』と。

 大川周明博士の魂は、つひに 皇國に歸來した。曰く、
『此時より以來、予の魂は專ら祖國を跋渉した。而して其の名山大川に初めて全我の滿足を得た。げに假令劣機にてもあれ自己の本然を盡すは、巧に他の本然を倣ふに優る。如何に況んや日本の本然が、啻に劣機に非ざるのみならず、實に森嚴雄渾なるを知りたる以上、予は勇躍して予の全心身を日本其者の爲に献げねばならぬと感ぜざるを得なかつた』と。

 こゝに云ふ「自己の本然を盡すは、巧に他の本然を倣ふに優る」の「自己」とは、云ふまでもなく日本的自覺のことを差してゐる。「予は實に日本に思想なしと思つたことさへある」とまで思ひ遲疑しなかつた大川博士が日本的大自覺を抱いたとき、その信仰と思想は、これまで仰慕した凡ゆる國々の思想を遙かに凌駕してゐたことを識るのである。
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●『日本的言行』に曰く、
試みに問ふ、いづれの處にか櫻に非ず、梅に非ず、牡丹に非ざる「花」があるか。花は一個の理念としては存在する。而も此の理念は、必ずや櫻・桃・梅・菊等の特殊の花として咲き出づることによつて、初めて實在となるのである。それ故に梅花は、梅花として咲く以外に、決して花たることが出來ない。梅花として咲くことによつて、花の理念が初めて實現せられ、花の花たる所以が發揮される。こは正しく人間の場合に於ても同然である。
 拒むべくもなき事實として、一切の人間は必ず孰れかの國家又は民族の一員として生れて來る。日本人に非ず、支那人に非ず、米國人にも非ざる「人間」は、實在としては決して存在しない。そは唯だ一個の理念として存在するだけであり、而して此の理念は必ず民族又は國民として實現される。故に日本人は日本人として、米國人は米國人として、それゞゝの面目を發揮することが、取りも直さず人間の面目を發揮することゝなる。從つて眞個の國民となりてこそ、初めて眞個の人間となり得る道理である。此の順序を誤るのは抽象的論議より來る顛倒の見である。吾等日本國に生れたる者は、第一に日本人であらねばならぬ
』と。


 これ啻に大川周明博士その人ひとりのみを特例とするでなく、民族總じて斯くあらねばならず、又た、有志の立志獻身如何によつては斯くなるものと信じていさゝかも疑はない。乃はち、天竺崇拜、唐國崇拜、天國崇拜、西洋崇拜、而、個人崇拜、權利崇拜、黄金崇拜などの錯覺、醉夢、動搖より目覺め、魂 皇國の許へ歸らんことである。その爲めにも、固有にして神聖たるの思想と信仰を學び、且つ、傳へてゆかねばならぬのである。
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by sousiu | 2013-05-07 02:03 | 先人顯彰

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