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所謂る「運動家」でありたいのか「尊皇家」でありたいのか 

 歴史を識ることは國民の一人として、民族の一員としての使命の一つであると考へる。
 殊に日本の場合、歴史を繙くにつれ、その大變革、大變動に際して濃淡の異同こそあれ 皇室の係はらざるものは全く無いとまでは云はぬけれども極めてそれに近いと云つて過言ではない。
 かく考へれば、吾が歴史は常に 皇室と共に重ねられ、詳言すれば、ある時は 皇室が國家を牽引し、之を守護し玉ひ、又た國家の迷妄せる時には 皇室が善導乃至善誘してゐたのである。

 野生の場合は江戸時代を主として歴史を學んでゐる。尤も江戸時代といふ最近の歴史のみでは到底之を知悉する能はざるけれども、何とも現時點に於ける野生の學習能力では仕方ない。野生の學生時代では、公教育による歴史教育などあまり役に立つものではなかつたし、この年になつてしまへば結局獨學に頼らざるを得ない。況して學生時代に勉強した方でも無かつたので、近代から溯つてゆくのが理解し易いのである。

 歴史は一方面から見るだけでは偏狹に陷る。目下、幕末を識る上に於て徳川家、幕府側からの目線で學習してゐるのである。

 餘談をば。時對協の有志と語る話題の一つに、討幕を果たした勢力が「尊皇」であつたからと云つて幕府に尊皇心が無かつたと判別するのは早計であるといふものがあつた。
 今更ら眞新しい意見でも無いが、こは全くその通りで、若し幕末、鎖國乎、開國乎とした當時のあの葛藤が、朝廷對幕府の確執乃至對立に發展したとしよう。その際、野生は決して士民のみならず、大名も朝廷を孤立に陷らしめることは無かつたと確信して之をうたがはないのである。

 「運動する」といふことに心を奪はれ、いつしか知らず識らず焦躁すると、兔角「敵」を欲しがちとなる。「對立」することは手輕な「運動」となり得るからだ。
 だが「尊皇」や「敬神」はスローガンではない。産土神社へ御參拜申上げることや、祭事を執り行なふことを「運動」として考へてはならぬのだ。以前、確か木川智兄だつたと思ふが「運動は見返り(「結果」だつたかも)を求めるものだ」といふ發言を聽いたことがある。その通りであると思ふ。運動が不必要であると云ふのではなく、運動も時として必要であるが、他國ならばいざ知らず 皇國にあつてそれ以上に大切なことがらのあるを忘れてはならぬのである。

 現に賀茂眞淵大人や本居宣長大人は、今日我れらが考へるやうな「運動」らしき運動はしてゐない。
 荷田春滿大人が、今で云ふ「國學の學校」を創らむとしたことはそれに近いが、一般的に云はれる國學者から運動らしき運動を見ることは出來ない。況んや人を斬るに於てをや。
 然るに後々、瑞山武市半平太先生が頼山陽先生の「日本外史」及び平田篤胤先生の「靈の眞柱」を常愛讀し、土佐勤王党を結成、運動を行なつたやうに、時代が開かれるに到つて國學は政治の現象面に作用を及ぼす。別言すれば時代の幕が開かれるまで、國學は大和魂を固むる大效果を齎し、それに觸れた見識者達と、時代の要求が相俟つて運動は展開され、而、國家が盤根錯節の岐路に立たむとする節、彼れらによつて正しき針路を選擇することが出來たのである。逆言すれば、皇國學を修めることなくして啻に自己の不滿や小なる義憤を頼りに起した運動なぞ、大なり小なり「革命」の色彩を含有するものに他ならず、後世正しき識者の登場をみれば、指彈乃至批判の的となるに相違ないのである。

 それを裏付けるかの如く、當時に於て、眞淵大人も宣長大人も討幕などといふ言葉を發してゐなければ、按ずるにその思ひすら皆無であつたことであらう。
●清原貞雄翁、『國學發達史』(昭和二年十一月廿五日「大鐙閣」發行)に曰く、
『一般には、國學者は幕府に對しては強い反感を抱いて居つたやうに考へられて居るのであるが、事實は之に反して眞淵の如きも武家政治に對して反對の態度を示して居らず、殊に宣長に至つては大に其時代を謳歌して居るのである。此事は復古國學思想を考察する上に於ては看過してならぬ問題であると思ふ』

『徳川時代に入つて我國に未だ嘗て見る事の出來なかつた太平の夢を樂しむ事が出來たのである。從つて其初期、戰國時代から生き長らへた武士が殘つて居つた頃、それらの老人は、其昔騷がしく殺伐であつた時代に比較して安らかに治まつた御代の有難さをしみゞゝと感じたのは當然であつて、それらの人々が徳川の政治を徳とし其太平を謳歌する聲は一種の先入主となつて後繼者に傳へられたのである。~中略~
 復古國學の中心思想は 皇朝推尊であるから、常識的に考ふる時は當然此逆流に加はるべきであるが、事實は前にも云つたやうに、純然たる武家政治謳歌、現代讚美の思想の中にあつた。殊に宣長に於て其色彩は極めて鮮明であつた。今其理由を考ふる前に、其時代謳歌の思想其ものを叙して見よう。玉鉾百首には、
     やす國の やすらけき代に うまれ來て やすけくてあれば 物思もなし
 と云つて現代に何等の不滿も無い事を示して居る。即ち「今の世は今のみのりをかしこみて、けしき行ひおこなふなゆめ」と云つて居る。而して斯の如き芽出度き御代となつて居る事も、一に東照神家康の功蹟であると見る思想が「玉くしげ」に見えて居る事は前きに述べた所である。猶、臣道(之は宣長の遺稿にあつて元來無題であつたのを全集を編纂した時に附けたのである)にも、東照神の掟に從ふのが君に事へ國を治むる道であると見えて居る。玉鉾百首には「東照る神の命の安國としづめましける御代は萬代」と云つて其政治と徳川家の運命とを祝福して居る』と。

 淺慮する勿れ。對幕の氣概が乏しいからと云つて、國學者が決して臆病でなく文弱でなく、況んや日和見主義でなく。皇國に對する強い確信あつてのものであり、寧ろその確信が肝の坐つた見解に至つたのであると見て差し支へあるまい。

 曰く、
『然し宣長の徳川政治謳歌には今少し根本的な所がある。それは其一流の神道觀から來るのであつて、世の中の事は只何事も 皇祖の神々の思召に依ると云ふ事である。世の中の事はよきもあしきも只神意のまゝであると云ふ事に就ては既に其古道説を述べた際に述べた所である。又今天下の政を徳川に委任せられてあると云ふ事もやはり 天照大神の神意に出づるものであるとするので、其事は「玉くしげ」の中に見えて居り、之も前に述べた。即ち徳川幕府を奉ずる事は、やがて 天照大神の神意を奉戴する所以である。故に此徳川幕府に反抗して朝廷の御親政に還さうとする勤王運動の如きは、天照大神の神意に逆く事でもあり、無理な人爲を避けておのづからなる勢に任する事を主張する古道にも反する事である。之が徳川の政治に滿足して之を謳歌し祝福して居る所以である

 又た曰く、
『故に神道家は多くは徳川謳歌者である。吉川惟足の如きもさうであつた。眞淵も亦さうであつた。徳川幕府の忌む所となつて遂に郷里に隱退する事を餘儀なくせられた平田篤胤の如きでさへも、其古道大意には、徳川政治の齎した太平の餘澤を謳歌して居るのである。~中略~
 要するに尊王思想即ち倒幕思想であると云ふ風に考へらるゝに至つたのは後の事であつて、徳川氏盛世に在ては尊王と斥霸とは必ずしも繋がつた思想では無くして尊王敬幕とでも云ふべき思想が寧ろ一般であつて、宣長の如きも其思想が極めて鮮明であると云ふ事は注意すべき事實であると思ふ』と。


 餘談のまゝ終はつてしまふことをお許し願ひたい。伊勢の下山君あたりは反論したがるであらうが、これを結論とせずして、更らに續ける積もりであるから、電話は不要である。

by sousiu | 2013-06-03 18:16 | 日々所感

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