「辯道書」と、「呵妄書」及び「辯辯道書」 序 

◎皆川淇園翁、『日本諸家人物志』(寛政十二年三月改刻)に曰く、
太宰春臺
諱ハ純、字ハ徳夫、俗稱弥右衞門、紫芝園ト号ス。本姓ハ平手氏ナリ。太宰、謙翁ニ養レテ太宰氏ヲ冒ス。信州ノ人ナリ。初メ中野撝謙ニ性理ノ學ヲキク。徂徠、復古ヲ唱ルニ及ンテ、就テ業ヲ受テ徂徠ノ説ヲ主張シテ書、數部ヲ著ス。晩年、古文辭ヲ喜バズ、ヤヽ見識、徂徠ノ右ニ出ルコトアリ。
~略~ 卒スル年六十八』と。

◎徳富猪一郎翁、『近世日本國民史 第廿卷 ~元祿享保中間時代~』(大正十五年二月十七日「民友社」發行)に曰く、
當時は固より幕府全盛時代で、誰一人將軍が、事實上に於ける、日本の統治者であるを、否定するものはなかつた。されば學者の中には、名實共に然かせんことを希うたものは、決して少くなかつた。中には彼等自身に、斯く信じ、斯く言ひ、斯く行うたるものさへあつた。例せば、太宰春臺の著と稱する、三王外記などには、將軍を稱するに王を以てし憲王は即ち綱吉、文王は即ち家宣、章王は即ち家繼 ― 日本全國の統治者であることを表現し、天皇を稱するに、山城天皇を以てし、單なる山城なる一地方の部分的の君主であるかの如く唱へてゐる。而して其の勅使を稱するに、聘使を以てし、將軍と 天皇とを、對立のものとしてゐる』と。


 かくも征夷大將軍が「國王」である、と力説し已まぬ當時に於ける儒者・經世家の大家たる春臺は、享保廿年『辯道書』を上梓し、その反響頗る大であつた。

 ところがこの『辯道書』を巡り、草莽の學士が黙過座視するに忍ぶ能はず。これに斧鉞を下したらむと、筆劍を取るに到つた。

 主なる一人は大壑平田篤胤先生だ。當時篤胤大人は織瀬刀自を迎へて三年目、苦學を續ける傍ら享和三年、長男常太郎、突然の夭折(享和二年五月廿日生)の不幸事に遇ひながら、大人の處女作と云ふ可き『呵妄書』を世に呈し、之に筆誅を加へた。
 他の主なる一人は佐々木高成翁だ。佐々木翁は山崎闇齋先生を師事する、崎門三傑の最硬派たる淺見安正先生の系譜に連なる一人だ。翁、忿懣やる方なきことこの上なく、春臺の『辯道書』に抗じて『辯辯道書』を著し世に之を呈した。


 以下、略しつゝこの『辯道書』を掲載し、併せて『呵妄書』及び『辯辯道書』を抄録してゆくことゝする。茲でこの二書を撰んだのは、『呵妄書』と『辯辯道書』に於ても、必ずしも見解が一致してゐるものでなく、當然ながら生ずるべき筈の國學者と儒者との見解の相違が少なくない。それゞゝの立場から彼の惡書を迎撃せむとしたる、その相違も又た後學の一助として戴ければ幸ひである。

 又た、『辯道書』本文に青色及び(■)を付けたものは、二人に批判されるべき主なる箇所だ。「平」は篤胤先生のことなり、「佐」は高成先生なり。諸賢また、批判する可き立場として一考しつゝ本文を御一讀賜はるならば尚ほ野生の幸ひとす可きものなり。
 猶ほ、文中に「純」とあるは「春臺」その人のこと也。

※※又た、「辯道書」本文は主に候文なり。苦手な人は、下記サイトが懇切叮嚀に説明してあるので御參考にされたし。↓↓↓
http://homepage1.nifty.com/~petronius/kana/saurahu.html


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○太宰春臺、『辯道書』の冒頭に曰く、
『儒佛神道の同異、度々面上に論辯候所、大略御領解候へども、其の事、繁多にて、逐一御記憶なりがたく、再三御工夫候へば、又た御疑惑起こり候て御難義に候間、純、平日論辯候趣を、委しく紙上に書紀候て御目に懸候へとの御所望、其の意を得候』と。

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○太宰春臺、『辯道書』(享保廿年)に曰く、
『聖徳太子の言に、儒佛神道は鼎の三足の如くなる物と有之候由、此の事甚だ心得がたく候。鼎の三足と申すは一つを缺れぬ事の喩にて候。太子は佛者にて候へば佛道を重く思ひたまひ、儒道と對せられ候は、さる事にて候。神道を一つの道に立る事は後世に起こり候て、太子の時に無き事にて候。然るに神道を以て儒佛の二道にならべて、三道は鼎の三足の如く天下に無くて叶はぬ物とし給ふ事信じがたく候。

 先本朝の古を考へ候に、神武天皇より三十代欽明天皇の此までは、本朝に道といふ事未だ有らず(■佐一)、萬事うひゝゝしく候處に、三十二代用明天皇の皇子に、厩戸といふ聰明の人生れたまひ、書を讀み學問し給ひて、三十四代推古天皇の時、攝政の位に居たまひ、官職を定め、衣服を制し、禮樂を興して國を治め、民を導き文明の化を天下に施したまひ候。本朝に於て廏戸の功は制作の聖ともいふべき人にて候。されば聖徳太子と諡せられたるも虚名にあらず候。然れ共、太子の學問佛に精しく、儒に粗く候故、釋氏(※釋迦のこと)道をば深く知りて好まれ候へども、中華の聖人の道をば未だ明らめ給はずと見え候。其上述作の書も多くは傳はらず候へば、後世其の是非を申しがたく候。今の世に太子の説とて申しならし候事は、多分後の人の誣罔杜撰にて信じがたく候。近比ろ、舊事本紀といふ書を太子の著述とて珍重する人有之候。其の書を見候に近世の人の僞作なる事、證據明白に候(■平一■佐二)。  ~略~ 前に申し候如く、儒佛神道を鼎足に譬へ候事も、決して太子の言にてあるまじく候。若し實に太子の言にて候はゞ、太子の妄説にて候。~略~

 凡そ今の人、神道を我國の道と思ひ、儒佛道とならべて是れ一つの道と心得候事、大なる謬りにて候(■平二)神道は本聖人の道の中に有之候(■平三)。周易に、觀天之神道。而四時不忒(「弋」+「心」=たが、不忒=たがはず)。聖人以神道設教。而天下服矣と有之、神道といふこと始めて此の文に見え候。天之神道とは、日月星辰、風雨霜露、寒暑晝夜の類の如き、凡そ天地の間に有る事の人力の所爲にあらざるは、皆、神の所爲にて、萬物の造化、是れより起こり、是れを以て成就するを天の神道と申し候。聖人以神道設教とは、聖人の道は何事も天を奉じ、祖宗の命を受けて行なひ候。されば古の先王天下を治めたまふに、天地山川、社稷宗廟の祭を重んじ、祷祠祭祀して鬼神につかへ、民の爲に年を祈り、災を禳ひ、卜筮して疑を決するが如き、凡そ何事にも鬼神を敬ふことを先とし候は、人事を盡くしたる上には、鬼神の助を得て其の事を成就せん爲にて候(■平四)又た士君子は義理を知りて行なひ候へ共、庶民は愚昧なる者にて、萬事に疑慮おほき故に、鬼神を假りて教導せざれば其の心一定しがたく候。聖人是れを知ろしめして、およそ民を導くには必ず 上帝神明を稱して號令を出され候。是れ聖人の神道にて候。聖人以神道設教とは是れを申し候(■平五)近世理學者流の説に、君子は理りを明らめて鬼神に惑ふ事無しといひて、一向に鬼神を破り、或は聖人の民を治める術にて、假りに鬼神を説くといふは皆神道を知らざる者にて候(■平六)。君子三畏の第一に、畏天命と孔子の仰せられ候も、天命は天の神道にて、人智を以て測られぬ故に、君子是れを畏るゝにて候。周易の繋辭に、陰陽不測之謂神といひ、説卦に、神也者妙萬物而爲言者也といふ。皆鬼神の妙にして測られぬことを説かれ候。されば天の命、鬼神のしわざは何の理り、何の故といふことを聖人も知りたまはず、只畏れて敬ふより外のこと無く候(■平七)。下民を教へたまふも此の心にて、少しも民を欺き、方便して鬼神をいひ立てるにては無く候。此の義は理學者の知る所にあらず候、よくゝゝ御勘辨候て御得心あるべく候。然れば神道は實に聖人の道の中に籠り居り候。聖人の道の外に、別に神道とて一つの道あるにてはなく候。今の世に神道と申し候は、佛法に儒者の道を加入して建立したる物にて候。此の建立は眞言宗の佛法渡りて後の事と見え候。吉田家の先代卜部兼倶より世に弘まり候と見え候(■平八)。兼倶は神職の家にて、佛道に種々の事あるを見て羨ましく思ひ、本朝の巫祝の道の淺まなるを媿(「女」+「鬼」=はぢ)て、七八分の佛法に、二三分の儒道を配劑して、一種の道を造り出し候。いはゆる牽強博會と申す物にて候。聖徳太子の時に決して有まじき事と申し候は是れにて候。此の道、太子の時に有べき事にあらず候』と。(以下、一旦閣筆す)

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                ↑↑↑↑太宰春臺


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 記事の締め括りに、兩先生の著述に就て、それゞゝ先人の筆をお藉りし之を紹介しておかねばなるまい。

◆◆呵妄書
◇伊藤永之介氏『傳記文庫 平田篤胤』(昭和十八年四月十五日「偕成社」發行)年譜に記すに、
『太宰春臺の「辯道書」にわが國體をけがす言辭の多いのを見て大いに憤つて「呵妄書」を書く。これ最初の著述なり』と。

◇文化元年三月、源朝風翁、『呵妄書』序に曰く、
『これの呵妄書はよ、我友平篤胤、かの漢學者太宰純が著せる辯道書の、いともすべなく、こちたきみだりごとゞもを、世人のさとるよなく、さることゝしも、思ひをれるもあるなどを、うれひなげかして、そをわきまへ、ことわりかゝせる書になもある、はやくより論らへる書どもゝ、これかれ有めれど、皆いまだしきまなびのともの、なまさがしらにおほゝしく、あげつらへるのみにして、中々にめとゝむべうもあらざりけるを、今はさるなほゝゝしきたぐひにはあらで、なにくれといとこまやかに、わきまへことわりてものせられつるは、こよなうめでたく、まこと、からやまとの書ども、うまらによみあきらめでは、いかでかうはと、になくたふとくおむかしくこそ。さるはすべての論どものをゝしきに、人その心をもえずて、ひたぶるに、あらそひごゝろとな思ひそよ。そのあげつらひのおごそかなるは、彼書のみだりごとゞもの、けやけかるによれゝばぞかし。抑かくつばらかに、ものせられしことのいそしさを、うづなひめづるあまりに、卷のはじめにそのよし書付ぬるは、文化元年三月』と。


◆◆辯辯道書
◇國學院大學教授、佐伯有義先生『大日本文庫 神道篇 垂加神道 下』(昭和十二年一月廿九日「春陽堂書店」發行)に曰く、
『辯辯道書は二卷あり、佐々木高成の著で、享保二十年(紀元二三九五)太宰春臺の著せる辯道書に對する辨駁である。元文二年(紀元二三九七)正月江戸より歸つた人が、春臺の辯道書を携へて來たのを讀んで憤慨し、此の辨駁を作つたのである。春臺は徂徠の門人で古學派に屬する儒者であるが、辯道書を著して世に儒佛神道は鼎の三足の如しと稱するも、鼎は一足を缺けば立つことが出來ぬが、神道や佛道が無くても儒道だにあらば、人倫は明かに國家は治まる、神道は易に天の神道を觀れば四時にたがはず、聖人神道を以て教を設けて天下服すとあるのが、神道といふことの文に見えた始めで、神道は聖人の道の中に存し、我が國は上古には道といふものは無かつた。今日の神道は吉田兼倶などが佛教を加味して造つたものであると放言して居る。著者之を見て大に憤り、之を辯難抗撃したものが此の書である。佐々木氏は垂加派の神道家で、儒學は淺見絅齋の門人で朱氏學である。それ故に殊更に憤慨して、此の書を著したのである』と。

◇元文二年丁巳端午日、留守友信翁、『書辯辯道書 後』に曰く、
『物壞(やぶる)れば則蟲育(いく)し、木朽れば則蠧(と)生ず。人少ければ則禽獸繁く、氣衰ふれば則邪沴入る。世の異端邪説あるや亦た然り。文教宜しきを失してより而下(この-かた)、老佛の説、肆(ほしいまゝ)に行はれて遏(とゞ)むべからず。近世、伊藤荻生二氏、專ら儒を以て世に鳴る。老佛を闢(ひら)き聖學を隆んにす、是なることは則ち是也。然して其の經(けい)を治るや、傳會(ふ-くわい)して以て之を文(かざ)り、穿鑿して以て之に逆ふ。栩々然(くゝ-ぜん)として自ら聖人の室に入ると謂ふ。而して其轍砥柱(てつ-し-ちう)の杪(せう)を望んで背馳(はくち)するを知らざるなり。頃(このごろ)荻生氏の徒、辯道書を著し、掌靜翁(しやう-せい-をう)人の需(もとめ)に應じて之を辯ず。曰く、敢て辯を好むに非ず。深く我國古先神王の道を謗議し、且つ漢土の聖學に於て、亦記問詞藻を以て主本と爲し、操存省察を以て鄙陋と爲す、其害又復(また)甚しき者あり。友信因て辯道を讀み、卷を掩て浩歎す。嗚呼、智を暴(あらは)して世に耀かし、遂に規矩を離れて、恣睢(“唯”の右側が「目」=じ-すい)に到り、罪を神聖に獲(う)る。悲しむべきのみ。蓋し耳目口鼻四支百骸、各其の用を一にして、之を統ぶる者は心なり、其心虚明の頃(あひだ)、事物の來る、是々非々明かならざるなき也、少(しばらく)すれば昏(くら)し、久しければ怠る、此(これ)形氣の私(わたくし)之に溺るゝ也。人能く諸(これ)を本心に反求し、猛省して私累を擺脱すれば、天下の理を得、是に於て仁義行はれ、人道立つ。蓋し古聖賢の人を教ふる、千變萬化、人の心上に就て之を説く、故に曰く、學問の道他無し、其の放心を求むるのみ。若し求めざれば心に管攝なく顛倒眩瞀(上左「矛」+上右「攵」+下「目」=ばう。げん-ばう)す。安(いづく)んぞ能く知る所あり行ふ所あらんや。彼以爲らく、心上全く功夫無し、情中に炎(さかん)にして、人欲鬪進すと云へども、徳の累(うれひ)と爲る無き也。徒らに禮以て貌(かたち)を飾れば、則徳を成すと。是れ何ぞ■(獸偏+彌=び)猴をして周公の服を衣せしめ、獸に非ざるなり聖人なりと曰ふに異ならんや。辯書既に其の巣穴を擣(う)ち、其の病根を砭(石+乏=へん)するもの、精確詳的なり。或は曰く彼の喋々たる瑣議浪説、譬へば尺霧の天に障るも、其の大を虧かざるが如し。何ぞ必しも齒牙に挂けんや。曰く豪傑の士、固より辯を待たず、特に其の庸俗を惑す尤も劇(はなはだ)しきを悼む。後人をして流に沿て源を求め、是非炳然として知る可らじめんとす。此れ辯を作る所以なり。然れば則ち此の篇の世に行はるゝ、亦安んぞ梨棗(り-きう)の冤を含むを得んや』と。




 
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by sousiu | 2013-07-18 03:09 | 大義論爭

<< 短氣はやはり損氣なのだなア・・・。  御無沙汰です(^^;)  >>