「辯道書」と、「呵妄書」及び「辯辯道書」 その六 

●佐々木高成先生『辯辯道書』上卷に曰く、

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神道の文字、我書になき事はその筈なり。凡て三部の本記に何の尊、何の神のとあり。其神の行ふ所は皆、道にして神道なり。神の字に心つかざる故、かくのごとくの妄言あり。其上、我國開闢より人王の初迄は、他邦の道、入來(いり-きた)る事なければ皆神の道にして、分て神道と稱すべき事なし。後世儒佛の二教入來て、外國の道を學ぶもの中古より多きゆへ、他道へ對して神道の名あり。漢土に聖道といふがごとし。況や辯道者、所謂易の觀の卦(け)の説は、今世増穗老人(ます-ほ-らう-じん)の八部の書の中にいへる天地一般の神なり。我國の他邦と境を異にし、形體の神明降化の地においては神とさすこと格々(かくゝゝ)の子細あり。寒暑往來、陰陽消長の徳をさして天の神道といひ、聖人則天道治天下(※聖人は天道に則り、天下を治むる)を指(さし)て、其徳を神明にすといへるは、一通り天地一般の神の上にては聞へたるやうなれどもいまだ盡ざる所あり。 ~畧~

 易の本文に齋戒して其徳を神明にすとあり。是異邦の聖人といへども、齋戒の道を以て徳を神明にす。心を神明の舍(しや)といひ心を靈臺といふ。皆吾國秡(はらひ)の徳に似たり。朱子、論語丘が祈る事久しの章の註に、侮過遷善、以祈神之佑(※過ちを悔いて善に遷り、以て神の佑を祈る)とある。是神教三種大秡の意なり。かやうの事も察せずして、かたくなに儒計(※じゆ-ばかり)を尊んで、重むずべき我國の道を知らず、足もとを見ずして淵に落入とは曲學者が事をいふべし。其上我神教に四化の神といふことあり。他邦には曾て知らざる事なり。天地一般の神をいふときは造化(あめのしわざ)神といへり。又、氣化(いきのしわざ)の神といふ時は諾冊の二尊を始め、形體の父母なく、天地を父母として此國へ化生御座(まし-ます)の御神也。又、身化(みのしわざ)の御神といふは一女三男の神の類にして胎中より生給ふ御神なり。又、心の化(しわざ)の御神は住江の三天九神、日神の三女、大己貴の大三輪、是亦心化なり。神代卷の中、此四つの分別を以てそれゞゝに御神徳をわかつ事なり。

 他邦において造化、氣化、形化の説ありといへども、吾國四化の説の詳なるがごときこと更になし。尤、周公旦の禮書に天神、地祇、人鬼の三つを立て、大宗師、大説師等の官あつて鬼神に事(つかへまつ)れる事有り。辯道者我神國の神を祭る事を巫覡(ふ-げき)の業とおとし、天下國家を治るの大道にあらずといへるは狂妄はなはだし。往昔(その-むかし)神代天照大神、天児屋命をして、天下國家を治るの政を執(とら)しめ、又天神地祇を祭るの大宗師を兼て行はせ玉ふ。上の文にも述たる通り不此等(※ふ-び-と)の御子孫は今の五摂家、天下の政務を執り給ふ。卜部は神祇の官領となり、大中臣は伊勢の祭主となり給ふ。是児屋命の御子孫にして、古人の祭政の二つを御子孫へ分て一代不缺の相承となる事、仰(あふぎ)てもあまり有り、萬國に比類なきの神國、日神の勅言綿々として万古に盡(つき)ず。難有事(※ありがたきこと)にあらずや。それを異邦の眞似をして神に事ふるの官を設けたる巫覡といひなし、大道にあらずとはいかなる妄言ぞや。曲學者が著述の書をみるに、子思、孟子より誤り起り、宋に至てその毒甚しく、佛意を以て儒教に合す。唯孔子一人を執るべしといへり。しからば論語の文をば背く事あるまじ。論語に出門如見大賓使民如承大祭(※門を出でては大賓を見るが如くし、民を使ふには大祭に承へまつるが如くす)とある。是孔子、祭りを愼で神に事るの心を民に用ひよといふ事なり。是も児屋命の祭政を一人して執行ひ玉ふの御心に叶ふ教なり。本心にかへり、神敵國敵の罰を蒙らざる樣に悔悟すべし』(上卷終はり)と。



●佐々木高成先生『辯辯道書』下卷に曰く、

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『又、辯道書に、今の神道は佛意を借り、佛語を取て潤色したるものなり。本神道といふ事なきゆへ後人の附會なりと、都(※すべ)て佛語を合せて神道にいふ心の神明は佛家にいふ如來の事にて、唯心の彌陀本覺の如來して候などゝいひ、根の國、底の國といふは死して後の事をいふにて候。内外清淨、六根清淨などいふ事は、佛家に煩腦を除て菩提を求る道にて候、ことに六根清淨といふ事は法華經に出たるを、神道家に其名目を竊(※ぬすみ)て教を立たるものにて候などと、いろゝゝ神佛一致のやうに書なせり。是亦水火、氷炭のごときの誤り、有智のものへは辯ずるに及ばねとも、東西を辨へざる蒙昧の者のために今、爰に辨ず。

 先(※まづ)心の神明を本覺の如來彌陀といふ事大に不當の僻論なり。彼佛道に暗きゆへ、經文の意(こゝろ)をもあやまれり。唯心の淨土、己身の彌陀は淨家三部の得經(ゑ-きやう)の中、雙觀經の文なり。是は理を以て念佛を解するの説にて、彌陀佛は三部の中觀無量壽經に委しく見えて、法藏菩薩十劫の間思惟し玉ふて正覺を遂げ彌陀佛となり、西方に淨土を構へ安樂國といふ。人々佛性を具ふるゆへ、心を淨土とし、身を彌陀とす。去此不遠(こ-し-ふ-をん)の文字にて其意を見る。又吾自己の神明は天御中主の分靈(わけ-みたま)なり。佛といふ事、佛は覺にして煩腦塵砂の無明(む-めう)盡(つき)て本覺の如々たるものをさしていふ。吾神教は無明煩腦といふて嫌ふものさらになし。今日の歡び、怒り、歎き、哀み、是直に神心にして、其事々々に應じて正直質素の御柱立と、怒るべきものをいかるが、神心無明を以て怒るにあらず。惡を戒しめ、邪(よこしま)を罰するは是、曲玉の御徳なり。哀しむべきを哀しみ、悦ぶべきを悦ぶ、則神心なり。それを引つけて佛教と同じ樣にいへるは方蓋圓作の差(たが)ひ也。

 又、根國底國を佛教にいへる迷途(めい-と)地獄のやうにいひなすも大なる差(たが)ひ也。高間原の事は神代卷中臣秡等の神經に明々たり。根國底國も中臣秡及び伊勢五部の書の中に見ゆ。是佛家にいへる中有迷途(ちう-う-めい-ど)の沙汰とは天地懸隔のたがひ也。我所謂根國底國は此国土にあり、天地の外に有(ある)にあらず。神道生死の理を知らず、餘所(よ-そ)目より垣(かき)のぞきするゆへ、曾て室中の事を知らず、想像億度の妄言笑を千歳にのこすのみ。此事は前に所謂八部の書の中にくはしく、清明なるものは其神魄天に昇て、神明となる。邪曲無道のものは其神魂靈ならずして、降て幽谷山野に迷ひ畜身の胎中にも入る。此説を見ば辯道者甚だ笑ふべけれども、彼生死の實理を知らず、今試(いま-こゝろみ)に曲學者に問(とは)ん。

 孔子を祭る事、數千年聖徳宇内に滿て北狄西戎の國もこれを祭る心魂精神なくんば、祭る事虚禮虚僞なり。其靈ありといはゞ、おのづから根國底國あるべし。孔子精氣物をなし、遊魂變をなすと、此語も伊藤氏が古學にては孔子の語にあらずといふ。辯道者も雷同なるべし。是を僞といはゞ、孔子などを祭り、皇天后土(くわう-てん-こう-ど)を祭るは、人を化惑(だます)の教か、此いひわけ一に極めよ』と。
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by sousiu | 2013-08-29 02:20 | 大義論爭

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