「辯道書」と、「呵妄書」及び「辯辯道書」 その七 

 「男はつらいよ」の寅次郎氏の如く、和歌山やら大阪やら京都やらと放浪し、又たしても『辯道書』に關する記事が滯つてしまつた。

 シブケン氏による「うひまなびのともがら」の「うひ山ぶみを読む」も再開したやうだし、野生も負けじと再開せねばならぬ。
 さういへば秋風之舍・シブケン主人とは、過日紀伊で初めて面交を果たした。彼れとは實に十年以上も前から心交は重ねられてゐたのだが、案外(呵々)、野生の想像を裏切り色男であつた。

 さうゝゝ。シブケンと云へば、一昨日、彦根にてゴトケン氏と面交を果たした。ゴトケンとは後藤健一兄のこと。ゴトケン兄は滋賀縣で活發に運動を展開する一人だ。兄とも心交は長かつたが、面交は初めてであり、想像を超えた強面であつた。

 ん?滋賀??さうゝゝ、滋賀と云へば、京都行きでは大阪の紅葉屋主人・志賀君に大層お世話になつた。・・・あゝさうか、かうして著しく脱線するから『辯道書』は先に進まないのだ。


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※間が空き、何のことだか分からなくなつた方もをられる(當然でせう。蒙御免)であらうので、太宰春臺著『辯道書』の進行具合を下に記す。↓↓↓
http://sousiu.exblog.jp/20289146/

 承前。
●大壑 平田篤胤先生『呵妄書』(享和三年癸亥十月刊)に曰く、
巫祝といふは、鬼神に給事する者にて、國家に有らで叶はぬ者なる故に、周禮の春官に云々。周の代の巫祝の所作は、如何なる禮といふ事を今考ふべき樣はなく候云々。 ~※純が文の引用なり~

 今の世に神社に仕奉(つかへ-まつ)る御巫祝部など、今よりして見れば、如何にも西戎國(からくに)の巫祝の體に大略は似たるものゝ如くなれども、是(こ)は萬に漢國ざまを用ひ給ふことになりて後のことにて、右にもいへる如く、古へは然らず。天皇御自神祇を祭り給ひて、天の下を治め給ひ、神事に預るは臣等といへども、みな官(つかさ)たかき臣等にて有りしなり。後世御政と御神事と斯別れは爲(し)けれど、職員令に神祇令をもて首章とし、延喜式五十卷のうち十卷は神祇式にて、此篇をもて初篇と成し給へるにても、古へは神事を重んじ給へることを知るべし。

 漢國にても 皇國の古へほどには有らざりけめど、殷の代などまでは神をば尊みしを、周の代と成りて、彼の周公旦と云ふさがしら男が、殷人の鬼神を尊むがすきたりとて、己が賢(さかしら)をあらはさん爲、神を輕しめないがしろにして、その仕る巫祝をも王道のいと片端となして、賤しめたることなれど、いと好からぬことなり。すべて何事にも己新しきことを爲(し)出(いだ)して、夫(そ)をたけきことにするは、彼國人のならはし也と、吾翁のいはれき。神は尊むが上にも尊みて其眞心の至らぬを省つゝ、いつき祭るべきことにこそあれ、いかで過ぎたりと云ふことの有らん。されど是(こ)は例の體もなき空名の神をまつることなれば、しか蔑(ないがしろ)に思ふことゝ成れるも、自然の故になんある。道に志しあるきはの人は、ゆめ戎人(から-びと)のさかしらにならひて、神を蔑にな思ひ奉(まつり)そ。

 さて、周の代の巫祝の所作は、如何なる體と考ふべきやうは無れども、大略今の世の阿闍梨、陰陽師、禰宜、神主、神子、山伏などの所作に似たる者ならんといへる。是いたく違へること也。周の代の巫祝は周禮[春官]に考ふるに、大祝小祝の官、もろゝゝの神祇祭祠の事を主り、また喪事をも預かりつかさどるよし云へり。生(いき)たると死(しゝ)たると、清淨(きよき)と穢汚(きたな)きとの差別なくして、皇國の意より見れば、いともいとも穢らはしき國俗(くに-ぶり)なり。皇國のは禰宜神主はさらにもいはず、兩部とか云ひて神と佛とを掌る阿闍梨、或は山伏すら神事と喪事などの別は、いと嚴重(おごそか)にして更に々ゝおなじからぬを、などてかく菽麥をわかつことあたはざるや。知りもせぬ事まで知り顏に呼はりて、漫りに辨説すれども、己が任とするところの經書にさへ、昧(くら)くして是等の差別(けぢめ)をも辨へず、皇國の古などを論(あげつら)はんは、いともをこなわるわざにあらずや』と。(改行は野生による)


 篤胤大人の辛辣なる筆劍は純(春臺のこと)に向かうてなほも續く。

 曰く、
『純は吾が國の事をば知らずして知り貌に云るを、今の俗(よ)にこれとは異にして、をかしき一種の學者と名のり、吾が國のことを問れてもしらずと云ひて恥とも思はず。西戎國の事を問ふに、しらぬことまでを知り貌に言ふこそをかしけれ。もし君の命を承りて、西土人と應對すること有らんに、戎人の吾が國の事を問はゞ、我は自の國の事はしらず。されどそなたの國の事はよくしれりと云ひたらば、戎人は己が國のことをしらぬ痴人よとて、手を打ていたく笑ふべし。是、大いなる國の辱なり』と。

 この一節は今日の吾人をして背筋を伸ばして拜讀すべからざる可からざるのもの。
 「保守派の時代」と呼ばれる一方、自ら 日本に就てくはしくあらぬ始末では、某評論家の云つた現代保守派への苦言と失望も強ち過言ではあるまい。
 而して、偶、日本に就て詳しいかと思へば、それ啻に近代日本の政治やら經濟やらに留まり。日本則 皇國といふことの無理解と云はずんば理解不足であることが憾まれる。微細なところまで申せば英語や支那の言葉の讀み書きが出來て、僅か六十年前の日本の假名が讀めぬとは果たして如何なものか。

 太宰春臺は經世家として一應、當時に名を馳せた一學者だ。彼れをして篤胤大人の認めざる、それ乃はち、日本の眞相に昧きことを以てす。續けて曰く、
『孔子も己を行ふに恥あり。四方に使して君命を辱しめざるを士と云ふべしといへるにあらずや。然れ共、辱しらぬ者は恥とも思ふまじ。この者共に、吾が國の事をいかで學ばぬにかと問へば、假字文のみ多くて俗なりと云り。これ如何なる俗意ぞや。すべて漢籍のみ讀むものは未乳くさき小兒輩に至るまでも、わづかに大學論語やうのから書を讀と、はや我が國のことを學び、我が國の書を讀などは俗なりと云ひてほこる。其上を行て彼の左國史漢やうの物を見かぢれるものなどは、なほさら高ぶり、我が國をば外國のごとく心得、西戎國を我が國の如く思ひて、かの君などゝ云ふ者のかまへをなし、何か人を眼下に見下し、少しのことにも經書などを引出て、漫りにほこらひ貌して、吾が國をあしざまに云ふなど、いとゝゝ胸わろし』と。

 餘談であるが、篤胤大人は決して他國の學問などを排外せむとする狹見の持ち主などではない。

○大壑先生、『入學問答』(文化十年正月)に曰く、
『  問テ曰、御國の學問を致し候へば、外國の事をば、學ばずとも宜シく御座候や。

   答テ曰。随分に御學びなさるべく候。凡て、世の古學者流、儒者、佛者の、吾道をのみ狹く域(かぎ)りて、他を知らざる管見をば、笑ひ居リ候へども、吾もまた、吾が古學をのみ知りて、固陋なる事を顧みず。それ故、わが聞知らぬ、外國説を聞ては、驚き惑ふ者も、間々これ有り。身方より見るに、心苦しく候ゆゑ、拙子(※「私」の意)が弟子を教授いたし候には、その倭心を堅固に致し候上にては、手の及ぶ限り、他をも能く學び候やうにと誨(さと)し候事に御座候。其故は、凡て外國々(とつ-くに-ぐに)の説、また他の道々の意(こゝろ)をも、能く尋ね此考いたし候はでは、我が道の實に尊き事を知らざるにて候へばなり。外の道々をも、よく知り候上にて、信じ候こそ、實に知りて信ずると申す物に候なり拙子は、右の心得に候ゆゑに、他の道々の意及び其説くをも、及ばむ限りは、明らめむと致し候事に候。されば、儒學、佛學、蘭學に依らず、何にても他の道々を御精究なさるべく候』と。

 つまり、日本を學習しただけでは未だ不充分である。他の國々の道や意をも學び、而、はじめて解し得る日本のあるを悟るべし、と。さりながらそれには先づ、大和こゝろを固めることを必須とす。
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 嗚呼、憾むべし矣。大和たましひの軟弱なるを以て、政治を弄ぶ政治家ばかりとなつたが爲め、成る可くして今日の日本は成つた。これを憤慨する國民各自の、大和たましひは果たして奈何。

       續く。



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by sousiu | 2013-09-25 22:15 | 大義論爭

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