「辯道書」と、「呵妄書」及び「辯辯道書」 その九 

 一昨日は「時對協」定例會。
 議題は『西洋型民主主義』に就て。上京した宮城縣の鈴木達也兄から提起された議題だ。
 野生は遲刻した爲め一部の意見しか聽くことが出來なかつたが、盛義一先輩の熱の籠つた意見あり、到着以前の活氣あつたことが自づと知られるのである。毎度のことながら熱氣だけは賣るほどあるのが時對協だ。
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     ↑↑↑↑熱辯をふるふ盛先輩。話はそれるが野生はいつも同じ服だ。


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○太宰春臺、『辯道書』(享保廿年)に曰く、
『中華にて周の代の末に、墨翟(羽+隹=てき。※ぼく-てき=墨子のこと)が道盛に行はれて、孔子の道と並ぶほどになりし故に、其世には孔墨、儒墨と稱し候。其後墨氏の道廢れて、漢の代に黄老の道興り候。黄老といふは老子の道にて候を、其道を尊くせんとて古の黄帝を祖として黄老の道と申候。東漢の時より佛法中華に入て世に弘なりし故に、それより後は孔子の道に、釋老の道を並べて儒佛道と稱し候。道といふは老子の教を道教といふによりて儒佛道と申候。此三つを三教と申候』と。

 支那にて老子、孔子、墨子などが登場し、やがて佛教が輸入されたことを説明してゐる。


 續けて曰く、
『我國には道教は行はれず、近來神道世に行はれて是を我國の道と思ひ、此神道は巫祝の傳ふる所にて、極て小き道なることを人知らず、儒は唐土の道、佛は天竺の道、神は日本の道なれば、此三道は鼎の三足の如く同等にして、偏廢すべからざる事と心得候は、口をしき事にて候。佛道は釋迦の教にて候。釋迦は天竺摩竭陀國の淨飯王といふ王の太子にて、幼き時は悉達と申候。耶輸多羅といふ女人を妻として、羅睺(目+候=ご)羅(※らごら=釋迦の子)といふ子をもたれ候が、年十九にて發心出家して道を學ばれ候。國王の太子にて王位を繼べき人なるが是を厭ひ、父母をも妻子をも棄て、出家遁世せられたる意は、人間に居ることを桎桔の如くに思ひて、身一つを自任にせんとおもひ、浮世の情欲を病苦の如く思ひて、是を離れて心一つを安樂にせんとおもひ付たる物にて候。出家とは父母の家を出て山林に入り、身を浮世流水の如くにするを申候。釋迦の道を學ぶ者を僧と申候。釋迦の道は國王の位を棄て、身一つになりたる道なれば、此道を修する者は士農工商の業をなさず候。上に君なく下に臣なければ君臣といふこと無く候。男女の交はり無ければ夫婦といふことなく候。父母なければ兄弟も無く候。世を離れて人間の交はり無ければ朋友といふことなく候。士農工商の業をなさゞれば、衣食を得べき樣なき故に、乞食を業とし候。乞食とはすなはち只今の乞丐人の如く、食を人に餬て命をつなぐにて候。僧は家なく、食物をも作らぬ掟なる故に昔の僧は鉢を持出て辻に立候へば、其邊の人家より殘飯を持來りて鉢に入れ候。又施食の志ありて新しき食物を施す者も有之候。鉢中の食物、其日の命をつなぐほどなれば、それより歸りて其食を食して、明日又その如く出候。衣服も作りて着る事は無く候。天竺の人は清淨を好み、不淨を惡むが故に、凡病人、死人、産婦の着たる物、又は火に燒け、水に濡れ、其外何にても汚るゝ事有たる衣服をば持出て、糞壤に棄る習なり。僧たる者は人の糞壤に棄たる衣服、布帛を拾ひ取て、歸りて皂角水に洗ひ淨めて、錦繍、綾羅、布帛の嫌なく、種々の物を綴り集て袈裟に作る、是を糞雜衣(ふん-ざふ-え)とも、納衣(なふ-え)とも申候。人の棄たる物にて主なき物なる故に、僧の衣服には是を最上第一の法服と定候 ~下略~ 』と。

 この一節は佛僧、延いては佛道を批判するものだ。
 だがしかし佛道批判を掲げむとするのであれば、野生は太宰春臺の持論ではなく、篤胤大人の『出定笑語』を紹介するであらう。だがしかし、それは後日のことゝせねばならない。


 曰く、
『 凡天下國家は聖人の道を捨ては一日も治まらず候。天子より庶人まで是を離れては一日も立申さず候。佛法はいかほど向上に廣大に説候ても、畢竟一心を治て獨身を自在に、安樂にするのみの道にて、天下國家を治むる道にあらず。僧はいかほどの學問、いかほどの知慧ありても、天下國家の政にあづかることを得ず、却て天下の法制を受け、士民の末に列する者にて候。聖人の道はすなはち天道にて、天地の間に行はれずしてかなはざる道にて候を、只佛者の高遠なる事をいふを聞しめして、儒者の道と同等に御心得候さへ御誤にて候に、儒者の道より上なる樣に御心得候はゞ、天道に背きたまふと申にて有べく候。

 儒者の道は聖人の道にて候。聖人の道は聖人の聞きたまへる道にて候得共、天地自然の道かくあらで叶はぬことを知しめして、かく定置たまひし故に、是すなはち天地の道にて、聖人少も私意を加へたまふことは無く候。道を開くといふは、道なき野山に始(※初、乎)て道を開く樣なる物にて候。譬へば日本の名山に、昔役小角(えんの-せう-かく)が道を開たりといふを、今の人其道を履て其山に往來し候。別に近き道も有り、易き樣なる道も候へども、其近き道、易き道を行候へば、何かは知らずよからぬ事有て害にあひ候。只昔の達人の開たる道を行候へば、迂遠なる樣なれ共、危きこと無く、迷ふことも無く、安隱に往來し候。何故ぞなれば役小角は天性の靈智にて、山路を知り、後人の爲に宜き道を開置たる故にて候。聖人も其如く聰明睿智を以て天智萬物の理を知て、天下の爲に常行不易の道を開たまひ候。惣じて天地開闢の初に人の生ずる所は、久しき池に魚の生じ、腐たる物に蟲の生ずるが如く、自然の氣化にて生じたる者にて候、さる故に其時の人は貴賤上下の品も分れず、皆同輩にて候、是を平民と申候。形は人にて候へども心は禽獣に異ならず、男女一處にこぞり居て日を送り候。其内に衣食の求め無くて叶はざる故に、誰教るともなく、人々天性の智慧にて、飢を助け、寒さを禦ぐ計略をなし候。然るに人の性さまゞゝにて、賢き者あり、愚なる者あり、強き者あり、弱き者あり。賢き者は能く飢寒を免れ、愚なる者は飢寒を免るゝことあたはず。強き者は弱き者の衣食を奪ひ、弱き者は強き者に衣食を奪はる。是より平民の中に爭鬪といふこと出來候。此時幾億萬人の中に聰明睿智とて、神妙なる智慧の人生れ出て、彼愚なる者に衣食の道を教へ、爭鬪する者をばそれゞゝに教訓して暴虐をなさざらしむ。

 是より其邊の人漸々に歸服して、何にても分別にあたはぬ事をば持出て尋問ひ、爭鬪する者は其事を告訴て裁斷を乞求む。其體今の世に郷里の子弟たる者、其所の父兄長老に從ふが如し。かやうに近邊の人歸服すれば、其化漸々に遠きに及で遠方の人も歸服する故に、いつとなく諸人こぞりて君長と仰ぎ奉る。上古の盤古燧人などいふは是にて候。其後伏羲、神農、黄帝といふも亦聰明睿智、仁徳の至れる人にて天下の君となりたなふ。自己より高ぶりて民の君長となり給へるにては無く候。此聰明睿智、仁徳の至れる人を聖人と申候。此聖人上に立て天下の人に仰がれたまふを天子と稱し、大君と申候へば、天下の人はみな臣にて候。是君臣の始にて候。上に大君あれば、下にも亦大小それゞゝに君長を立て其下を治しむ、皆君臣の道にて候』と(改行は野生による)。


 佛道批判に轉じて儒者の道を説きたるもの。つまり聖人の道である。吾人はこの鹿爪らしく力説する春臺のこの一節にも又た注目を要さねばなるまい。
 さて人、かくなる『辯道書』の一文に首肯する者である乎、首肯せざるもの乎。而、後者であれば何と反論するべき。
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by sousiu | 2013-09-30 06:08 | 大義論爭

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