讀書の秋です。 

 讀書の秋といふ。
 實は野生、成人となつてこの道に身を投じるまで、殆ど本を讀んだことが無かつた。あ、いや、漫畫本は別だ。汗。
 小學生のころ、『風の又三郎』といふ本を讀みきつたことがある。最後まで讀んだのは實にこの一册だけだつた。
 人生とは可笑しなもので、今は讀書してゐる時間が野生の仕合はせな一ト時であるのだから、人は變はれば變はるものだ。

 三土忠造氏の『湘南方丈記』に我が意を得たる一文があるので下記したい。少し長くなるが、讀書の秋ならでは、暫しお付き合ひ願ひたい。
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『書籍を繙けば、幾千年も過ぎた昔の人の意見を聽くことも、幾千里も隔てた遠い國の事物を見ることも、意のまゝに出來る。
 王侯といはず、將相といはず、聖賢といはず、我れより求むれば、直ちに來つて我が問ふ所に答へる。
 アレキサンダーでも、成吉思汗でも、ハンニバルでも、ナポレオンでも當年遠征の雄圖を尋ぬれば、勇んで之を説く。韓信でも、諸葛孔明でも、徳川家康でも、ネルソンでも當時の戰略を問へば、喜んで之を談ずる。
 支那へ渡つて、顏回、子夏、子路、子遊などの諸弟子と、孔子の講話に席を同じうすることも、印度に遊んで、伽葉、阿難陀、目連、舍利佛等の諸菩薩と、釋迦の説教に座を共にすることも自由である。
 ギリシヤ、ローマの昔を尋ねて、デモセネスやシセロの雄辯も聽かれる。大和の御所に、中大兄皇子、藤原鎌足等の蘇我入鹿を誅し、咸陽の宮裏に、荊軻の匕首を懷にして、秦王に迫る活劇も見られる。エジプトの宮廷深く、女王クレオパトラの色香に溺るゝアントニーの痴態、朔風身を剪る胡地の空、獨り馬上に泣く王昭君の悲哀も、ありゝゝと目のあたりに現はれる。
 幽玄なる宇宙觀を學ばんとすれば、プラトンや、アリストテレスや、カントや、ヘーゲルや、デカートや、スペンサーを喚べ。神祕なる自然を探らんとすれば、ニウトンや、ダーウインや、ライプニツツや、ヘルムホルツや、アインシユタインを招け。彼等は皆快く我が請ひに應じ、心力を傾けて懇切に説明してくれる。~中略~

 かくの如くにして、我々は心の欲する所に從ひ、東西古今の人類中、最も秀俊なる人々を招いて、自在に之を頤使することが出來る。何たる特權であらうか。何たる通力であらうか。此の絶大無限なる特權と摩訶不思議なる通力とは、獨り讀書の能力を具へ、趣味を有する者にのみ附與されるのである。~中略~

 此の世界に於て、吾々の享有すべき樂しみには殆ど限りがない。されど多くの場合に於て、樂みの後には多少の苦みを伴ふものである。唯讀書の樂みのみは、樂みの後にも更に之に伴ふ樂みの續くを常とする。故に朱子も、「四時讀書樂」と題する詩を作つて、「讀書の樂み、樂み窮まり無し」「讀書の樂み、樂み陶々たり」と叙して居る。

 更に讀書の樂みほど、安價に且つ容易く得られる樂みは、他にその類を見ない。何れの國何れの時代の偉人でも、勝手に喚び寄せて其の教を受けながら、何等の報酬をも捧ぐるの要がない。イタリーの詩人ペトラークの曰へるが如く、「彼等は茅屋の一隅なる書架の上に安置すれば、それで滿足する」のである。

 是れ程の天與の特權と通力を受けながら、之を有難しとも思はず、讀書の樂みを味はない人の多いことは、余の常に怪訝に堪へない所である。

 讀書の樂みは能く之を解すれども、如何せん毎日の業務に追はれて、其の暇がないといふ。是れ多くの人々の唯一の理由とする所である。本居宣長は一首の歌を以て、輕妙に之を反駁して居る。

     折々に 遊ぶ暇は ある人の
            いとまなしとて 書(ふみ)讀まぬかな

 尤も、是等の人々は皆讀書人として、一生を終始したのである。其の讀書慾を以て、一般世人に待つことは出來ない。然し何といつても、知を研ぎ、徳を修め、正氣を養ひ、品格を高むるの道、讀書に如くものはない。而して吾々の如き境遇の者といへども、讀書に深き趣味を有すれば、少閑を見出して此の無上の惠澤に浴すことも、亦必ずしも至難ではない』(昭和十一年十一月卅日『千倉書房』發行)と。
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by sousiu | 2013-10-03 03:35 | 日々所感

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