「辯道書」と、「呵妄書」及び「辯辯道書」 その十一 

○平田篤胤先生『呵妄書』(享和三年癸亥十月刊)に曰く、
此神道は巫祝の傳ふる處にして、極く小き道なることを人知らず、儒は唐土の道、佛は天竺の道、神は日本の道なれば、此三道は鼎の三足のごとく、同等にして偏廢すべからざる事と心得候は、口をしき事には云々。 ~※純が文の引用なり~

 皇國の眞の道は、天地の間に充滿て、天地の斯有らんかぎり、動きなき大道にして、儒道は西戎國(か-ら-くに)の古へ人、禽獣と等並(ひとし-なみ)なりしとき、聖人と稱を得たる魁首どもの、さがしらに成れるものにして[斯云ふ故は純が本書にも見えて下に出せり。合せ考ふべし]、甚(いと)も々ゝ小き道なることを知らず、我が國の大道の號(な)を竊(ぬすみ)て、妄説の佛道小き儒道を[斯云ふを狹智の漢學者いぶかることなかれ]取まじへ、理學者佛徒のいと小さく僞り作れる道を、眞の道と思誤りて、漫りに其道の小き事を論ひて廢せんとす。其小き道は、元自(もと-みづから)のとなふる小き道にならひて作れる故に、小きことを知らず。 ~中畧~

 我が國の道の大いなる事は、外國諸戎にとなふる處の儒佛諸子百家の枝葉の裏々參來(まゐ-く)といへども、餘すことなく少しも益有ことは、朝廷(みかど)にも用ひ賜ひて、其體あたかも大海に衆川の流れて、入るを餘さぬが如し[漢籍に大道不器と有るは、此意なるべき歟]。然るを其流入れる枝葉の道々をのみ學ぶ輩、己が據る處の小川をしも、大いなる事に云ひなして、かへさまに大海たる我が國の道を小さしと云ふは、甚(いと)も甚も漫りなり。いかでか佛儒の二道を加へて、鼎の三足に譬ふることあらん。彼二道は便利なることの有る故に、枝葉に取り用ひられたるものにぞある。純がともがら如何に口をしく思へるとも、是はせん方なきことなり』と。


曰く、
凡天下國家は、聖人の道を捨ては、一日も治らず候。天子より庶人まで、是を離れては一日も立申さず候。 ~※ 仝~

 皇國天地初發の時より、儒佛の道渡り來ざりし前、天の下のいと穩に治りしを、儒佛參來(まゐ-き)てより漸くに外國に似たること共の發(おこ)りしを、純は知らざりしなり。朴直順路なりし人の意も、儒佛の道渡り來てより、漸くに戎人(から-びと)意に移りしをも、純は知らざりしなり。然る故にかゝる狂言(たはれ-ごと)も云へるなりけり』と。

 儒佛渡來以前の日本は亂れてゐたかと云へば、決して然ること非ず、寧ろ宜しく治まつてゐたことをいふ。進んで云へば、兩道の渡來をして日本は亂を生ぜしめた。畢竟、純然たるの日本人も、儒佛を輸入し、漢土、西土の風に染められたるを以て、皇國に對する不審とまで云はずんば動揺するに至つたといふものである。


 曰く、
儒者の道は、聖人の道にて候。聖人の道は、聖人の聞きたまへる道にて候得共、天地自然の道かくあらで叶はぬことを、知しめしてかく定置たまひし故に、是則天地の道にて、聖人少も私意を加へたまふことは無く候。道を開くといふは、道なき野山に始て道を開く樣なる物にて候。譬へば日本の名山に役小角が道を開きたりと云ふを、今の人其道を履て云々。 ~※ 仝~

 儒者の道は、聖人の道なること、誰しの人か知らざらん。俗(よ)に我が家の佛尊しと云ふ。譬の如く己が尊く思ふとて、斯いかめしく聲高く呼はりたるこそをかしけれ。
 聖人の道は、聖人開きたれども、天地自然の道とは如何にぞや。天地自然に行るゝ道ならんには、聖人開くべきよしなく、果して聖人ひらきたらんには、自然の道と云ふべきよしなし。すべて聖人の道を天地自然といふは、大概(おほ-かた)の人も、然思ふことなれど、甚しき僻言なり。聖人の道は自然とは異にして、天地の道を強ていとも小く細(こまか)に修制(つ-く)り作(な)したるものなり。其故はまづ自然と云ふは、何事も天地の成しのまにゝゝ、幾千萬(いく-ち-よろづ)の世を經ても變易(か-はる)ことなく、自然(おのづから)に行るゝを云ふ號(な)なるべし。然れば天地をはじめ、禽獣草木蟲魚其外萬物、各古へ生(な)りし容(さま)を易ること無れば、人も其如く自然の氣化にて生れたるまゝ、貴賤上下の品をも別たず。男女別ありなどもいはずして、禽獣と同じさまにて[自然の氣化にて、といへるより以下、こはたゞ次の條に純がいへる趣に依て、しばらくいへるのみなり。皇國の古しへは正しき傳説有て、是とは異なり思ひ混ふべからず]、居たらんにこそ天然自然とは云ふべけれ[自然の字の義をも思ふべし]。また可笑きは、君臣父子夫婦長幼の道、みな天地に則りて制(つく)りたると云ひながら、君臣位を更(かふ)る[受禪弑逆の類]こと有るは如何にぞや。斯云ふを腐儒者(くされ-ず-さ)のきかば、おぼろげならぬ我が大道聖人の御所爲(み-し-わざ)を凡(およそ)の人のいかで知らんなどと、漫りに巧妙にのみ云ふらめど、道理をば違ふことはなるまじきぞ[道理に違ひてはいかで自然の道といはん]。古より天地位を更へ父子位をかへて、父は子の子となり、子は父の父となれる大變をば未(いまだ)きかず。

 兎ても角ても、聖人の道を天地自然の道と云ふは當らぬことなり。少しも私意を加へたることなしと云へれど、みな聖人と云ふものゝ私意ぞかし。すべて天地の生しのまゝの道より外に、自然の道と云はなく、外國の道々、老儒佛諸子百家みな人爲に作(な)れる道なり。
 [或人問ふ、然らば 皇國の道は自然かと。己云ふ、皇國の道も自然にあらず。然れどもまた人爲にあらず。前にもいへるごとく、天地の神の制り賜へる道なり。此道を委曲によく知らんとならば、まづ神を知るべし。其神をしらんことを思はゞ、我翁の書どもを繰返しよく味ひて見よかし] ~以下續く~』(改行は野生による)と。


 篤胤大人の腐儒者痛罵だ。補足するが大人は、徒らに外つ國の學問を排斥せんとするものではない。曩に掲げたる『入學問答』その他の氣吹廼舍刊行本をみてもそれは理解出來るであらう。
 然り乍ら、大和たましひの存せずして、盲目的に聖人聖人と論らひ、つひには支那をば中華と信じ、皇國を東夷と蔑して憚らざる者共へ對して筆誅せんとするものだ。
 末文にある「我翁」とは、云ふまでもなく本居宣長大人のこと。是を以てしても、大人が本書でまづ何よりも急務であるとしたのが、大和魂を固めるといふことであつたことが明瞭だ。而してその、篤胤大人の痛憤といはんか悲痛といはんか、その訴へんとするもの、現代の吾人にも向けられてゐるものと察す可し矣。

 國の爲め、民の爲めと云ふは易し。眞に之を實施せんとせば、まづは尊皇好學、勤皇尚武の志操を感得すべきに非ずや。
 松陰先生の、日本人としてかく信じて疑ふことなき人生觀と、その根據とせる 御國體への讃美を以下に聞く可し。




●吉田松陰先生、『坐獄日録』に曰く、
◆坐獄目録→→http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/995284 (14/27~)
『吾、幼にして漢籍にのみ浸淫して、尊き 皇國の事には甚だ疎ければ、事々に耻思ふも多けれど、試に思ふ所と見聞する所とを擧て自ら省み且は同志の人々へも示すなり。抑、 皇統綿々千萬世に傳りて、變易なきこと偶然に非ずして、即ち 皇道の基本、亦爰(また-こゝ)にあるなり。蓋(けだし) 天照皇太神の神器を 天孫瓊々杵尊に傳玉(つたへ-たま)へるや、寶祚之隆、與天壤無窮(寶祚の隆えまさむこと天壤とともに窮まり無し)の御誓あり。されば漢土天竺の臣道は吾知らず。皇國に於ては寶祚、素より無窮なれば、臣道も亦、無窮なること深く思を留む可し。更に又祈年祭の祝詞に謂へる狹國(さき-くに)は廣く、峻國(さかしき-くに)は平(たひらけ)く、島の八十島墜事無(おつる-こと-なく)、また遠國は八十綱打掛て引寄如事(ひき-よする-ことの-ごとく)などいふこと徒に考ふべからず。臣道いかにぞと問はゞ 天押日命のことだてに、海行ば水づく屍、山行ば草むす屍、大君のへにこそ死なめのどには死なじ、是なん臣道ならん。さて中世以來漢籍大に世に行はれ、殊に孔夫子を道の宗師と仰ぐにぞ、論語は先儒も最上至極宇宙第一の書と稱せられたるが、其旨に感ぜし人も少なからず。 ~以下畧~』と。
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by sousiu | 2013-10-04 22:09 | 大義論爭

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