「辯道書」と、「呵妄書」及び「辯辯道書」 その十二 

○平田篤胤先生『呵妄書』(享和三年癸亥十月刊)に曰く、
惣じて天地開闢の始に、人の生ずる處は、久しき池に魚の生じ、腐たる物に蟲の生ずるが如く、自然の氣化にて生じたるものにて候。さる故に其時の人は貴賤上下の品も分れず皆同輩にて候。是を平民と申候。形は人にて候得共、心は禽獣に異ならず、男女一處にこぞり居て日を送り候。 ~※純が文の引用なり~

 爰に西戎國(か-ら-くに)開闢の初に、人の生(な)れたることを云ひて、自然の氣化にて生じたるものにて候と云へるは、決定したる語にて、彼の靈智ありとか云ふ、聖人も未云はざることを目のあたり見たる如く云へるは、實に古人未發の論と云ふべし。純(※太宰春臺のこと)は天地に先立て生れたりし人の心地して甚(いと)めづらし。

 然れども是等はみな漢籍(から-ぶみ)[淮南子三五歴記のたぐひ]の臆度(おし-あて)の妄説のみ、見なれたる癖よりして云へる妄説なり。實は其時に生合(うまれ-あひ)し人にあらざれば知るべき由なく、たゞ古への傳を守るよりほかなきなり。

 皇國の大古は正しき傳説有りて、明に知らるゝことなるを、戎國(から-くに)には早く其傳説をうしなひ、たまゝゝ少しは正しき傳への有るをば、今の事理に遠きをもて妄説なりと云ひけして、取上げざれば、いかで其詳なることを知るよしのあらんや』と。

 曰く、
『彼(か)の聖人と云へ共、其知らざる處に於ては闕如すとは云ひて、西戎國上古の事をいへるも、聖人の説にしては伏羲より以前を云へることを聞かず。然るを純が斯計(か-ばか)り委曲(つばらか)に云へるは、自(みづから)聖人にもまさりたると思ひてならめど、實に説を作れるものなり。孔子も述而不作(※述べて作らず)と云へれば、其據る所の聖人の意にも違ひたる強説(しひ-ごと)にあらずや。天地の初のことは、いかで人の小きさとりもて、量り知ることを得べき。久しき池に魚生じ、腐たる物に蟲の生ずるをもて譬へたるは、一通(ひと-わた)り打きくには實に然もこそと思はるゝ計りなれど、然ることならんには、今の世にも久しき池に魚生じ、腐たる物 に蟲の生 ずれば、希々(まれ-まれ)には自然に生(な)る人も有るべきに、然ること有りしを未(いまだ)きかず。すべて漢學問計りする人は、天地の間にあらゆることの理は、みな知り貌に云ふことなれども、皆大なる空言にて、いとをこがましくいと淺ましき事のみぞ多かる。~以下、畧~』と。


 篤胤大人が、もしもほゞ同世代を生きたチヤールズ・ダーウヰンと會してゐたならば、そはおそらく筆誅丈で濟まされなかつたに違ひない。
 嘗ては漢心に淫し、今日は西歐の思想に淫し。科學萬能の妄想より脱する能はずんば、神代を識ること難しけれ。神代を識る能はずんば、大和心を固むること難しけれ。



 曰く、
其内に衣食の求め無くて叶はざる故に、誰教るともなく人々天性の智慧にて、飢を助け寒さを禦ぐ計略をなし候。然るに人の性さまゞゝにて賢き者あり愚なる者あり、強き者あり弱き者あり。賢き者は能く飢寒を免れ、愚なる者は飢寒を免るゝことあたはず。強き者は弱き者の衣食を奪ひ、弱き者は強き者に衣食を奪はる。是より平民の中に爭鬪といふこと出來候。 ~※ 仝~

 漢國の上古の人は、形は人にて心は禽獣にことならずといへれば、如何にこそ有りつらめ。其亂りがはしき有樣、目のあたり見る心地ぞする。皇國の大古より正しかりしことを西土人にきかせたきわざになん』と。


 曰く、
此時幾億萬人の中に、聰明睿智とて神妙なる智慧の人生れ出て、彼愚なる者に衣食の道を教へ爭鬪する者をば、それゞゝに教訓して暴虐をなさゞらしむ。是より其邊の人漸々に歸服して、何にても分別にあたはぬ事をば、持出て訪往て尋問ひ、爭鬪する者は、其事を告訴て裁斷を乞求む。其の體今の世に郷里の子弟たる者、其所の父兄長老に從ふが如し。かやうに近邊の人歸服すれば、其化漸々に遠きに及で遠方の人も歸服する故に、いつとなく諸人こぞりて君長と仰ぎ奉る。上古の盤古燧人など云ふは是にて候。
 其後伏羲、神農、黄帝と云ふも、亦聰明睿智仁徳の至れる人にて、天下の君となりたなふ。自己より高ぶりて、民の君長となり給へるにては無く候。此聰明睿智仁徳の至れる人を聖人と申候。此聖人上に立て天下の人に仰がれたまふを、天子と稱し大君と申候へば天下の人はみな臣にて候。是君臣の始にて候。上に大君あれば、下にも亦それゞゝに君長を立て、其下を治しむ。皆君臣の道にて候。
 ~※ 仝~

 爰に伏羲神農といふ二人の王ども、西土の酋長(おさ)となれるも、自己より高ぶりてなれるにはあらずと云へる、然もあらんか。然れども此中に黄帝とあるは心得ず。この王が名を軒轅と云ひて、西土にて主を弑して國を奪ふことの始を闢きたる賊王なり。[盤古より下神農氏の興るまでは、弑して奪ひやしけん、禪りやしけん。こは傳へ無ければ知られず。故に是を弑逆のはじめとす] ~畧~


 [西土の世々の制度、始皇がはじめたることを大略は用ひながら、聖人の道をのみ用ゆる貌にて、始皇をば人の如くも云はで、いと穢汚(きたな)きものに識るもをかしきことならずや。是(こ)は彼の穴に埋殘されたる儒者どもの、迯吠(にげ-ほへ)に訕(言偏+山)り初めたるを、一犬ほゆれば萬犬其聲に從ふと云ふ聲への如く、うかと叱り來るにこそあらめ]是等も聖人にや。然は云ふまじ。漢土にて黄帝湯武が類を聖人と云へるは、此賊王ども子孫迄暫し天下をも有(たも)ちたれば、其子孫の王共臣下共より尊みて、然云はんもうべなるを、皇國の人にして渠等に何の辱(かたじけな)きこと有て、諂らふことのあらんや。戎人(から-びと)の潜(せん)稱を曉(さと)らず、 實に善き人と思ひて譬稱(ほめ-たゝふ)るは、豈人の涎に辟たる狂言(たはれ-ごと)にあらずや。故に吾が徒(ともがら)は何事も戎人腐儒の狂言に慣はず、其行の跡に付て漢國人(から-くに-びと)の善惡は定めんとす。漢説(から-こと)に迷へる人ゆめ耳をな驚かしそ』と。


 次囘は又々、純が『辯道書』に注目したい。

 
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by sousiu | 2013-10-05 14:11 | 大義論爭

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