「辯道書」と、「呵妄書」及び「辯辯道書」 その十三 

 木川智青年による『三條の會』會報紙第二號が屆いた。
 本紙は十頁あり、本文に九段塾主人・備中處士樣の蒐集されたる先賢の所論も掲載され、資料的意義も備へてきた。
 木川青年の文章を拜讀すれば、にはかに彦九郎先生顯彰の輪は拡がつてゐるやうだ。
 三條の會に就てのお問ひ合せは →→  satoshi.kikawa@live.jp

f0226095_19104064.jpg


 皇國を興さんとする有志の士、自らをして蟷螂の斧に過ぎずと思ふことなかれ。廣き天下に同志あり。その蟷螂の斧はやがて同志を得て、期を得て、斧鉞と化して隆車の轍をも禦くものぞかし。

  ~ ~ ~ ~ ~ ~ 

○太宰春臺、『辯道書』(享保廿年)に曰く、
『人に父母なき者は無く候。禽獣は乳哺の養を受る時、父母を慕ふのみにて、少(すこし)長じて離別すれば親は子を忘れ、子は親を忘て、後には親と子を食を爭ひ候。人も本は禽獣の如くなりしを、聖人是に親愛の情を示し、孝敬の道を教たまひてより父子の道始り候。

 禽獣には雌雄牝牡の情のみ有て夫婦配偶の道なき故に、父子同産交合して子を生み候。人も本は禽獣の如くなりしを、聖人婚姻の禮を制し、男女の別を立て淫亂を禁じたまひてより、夫婦の道始り候。
 禽獣には同産の子數多あれども兄弟といふ事なし、人も本は禽獣の如く同産なるのみにて、兄を敬ひ弟を愛することなく、爭鬪して相殺すこと有しに、聖人これを憂て長幼の節を制し、兄弟の道を立 給ひ候。
 禽獣には朋友といふこと無し、人も本は禽獣の如く信もなく義もなく、相爭ひ相奪ひ、相殺し相害するのみなりしを、聖人是に信義を教て、朋友の道を立たまひ候。
 君臣、父子、夫婦、兄弟、朋友、此五つは人倫の要道なる故に、是を五倫とも五典とも申候。人間に此五つの道一つも闕ては天下治まらず候』と。(改行は野生による)

 これはまた隨分と聖人を贔屓したものだ。而して、隨分と人を侮つたものだ。
 吾が先進による論駁は後日に譲るとして、今日はもう少し純が主張せることを綴らねばなるまい。

 曰く、
『又人に欲なき者は無く候。欲はすなはち情にて候。財寶を見てはほしく思ひ、食物を見てはくひたく思ふ、皆是欲にて候。此欲心を恣(ほしいまま)にすれば卑劣なるわざをもなし、搶奪、竊盗、殺害の惡をも行ひ候。搶、竊盗、殺害は禽獣の行ひにて候。聖人これを愍(あはれ) みて義といふことを立て教たまひ候。惣じて人の身にすべき事と、すまじき事と有るを、上古の愚民これを知らずしてすべき事をばせず、すまじき事をする故に禽獣の行ひになり候。聖人の教に義といふは、すべき事とすまじき事とをわけて、すべき事をば勉てなし、すまじき事をば身死すれどせざるを義と申候。此義すなはち聖人の道にて候。 ~略~』

 曰く、
『日本には元來道といふこと無く候。近き此神道を説く者いかめしく、我國の道とて高妙なる樣に申候へ共、皆後世にいひ出したる虚談妄説にて候。日本に道といふこと無き證據は、仁義、禮樂、孝悌の字に和訓なく候。

 凡日本に元來有る事には必和訓有之候。和訓なきは日本に元來此事無き故にて候。禮義とい ふこと無かりし故に、神代より人皇四十代の此までは、天子も兄弟、叔姪、夫婦になり給ひ候。其間に異國と通路して、中華の聖人の道此國に行はれて、天下の萬事皆中華を學び候。それより此國の人禮義を知り、人倫の道を覺悟して禽獣の行ひをなさず、今の世の賤き輩までも、禮義に背く者を見ては畜類の如くに思ひ候は、聖人の教の及べるにて候。日本の今の世を見るに、中華の書に及ばずといへども、天下は全く聖人の道にて治り候と存候』と。


 春臺の本音と彼れの信を置くところが垣間見える一文だ。すなはち漢國を“中華”と見做し漢國人にこそ“聖人”と崇め、皇國を“東夷”と見下し 皇國人を“蠻夷”と本氣で思ひ込んでゐるのだ。如何に經綸の志豐富と雖も、如何に學才ありしと雖も、大和たましひのなき經世家なぞ、皇國重大事に際するに、何の益やあらん。

 學問や思想に國を興す力があるとするならば、そは條件があらねばならない。こと國家には各々に個性があることを迂闊にも閑却してはならない。考へてもみよ。逆言すれば、洋の東西を問はず、古今に突出して秀でたるの學者、思想家、經世家が何人も出でながら、諸國を善導し、世界の安治を物した者など未だ聞かないではないか。社會主義は社會主義の馴染む國家に對しては、幾ばくか採用されるであらうけれども、それは宇内の萬國に對して然りではない。畢竟、支那で生じた「聖人の道」も天竺で産せられた「釋迦の教」も、無条件に凡ゆる國を興すほどの力は無いのである。況や 皇國に於てをや。

 大川周明博士は「日本の惡は日本の善で斬らねばならぬ」と云うた。以前にもこの日乘で抄録したが、その博士の『國史概論』から今一度引用したい一文がある。曰く、
『花は一個の理念としては存在する。而も此の理念は、必ずや櫻・桃・梅・菊等の特殊の花として咲き出づることによつて、初めて實在となるのである。それ故に梅花は、梅花として咲く以外に、決して花たることが出來ない。梅花として咲くことによつて、花の理念が初めて實現せられ、花の花たる所以が發揮される。こは正しく人間の場合に於ても同然である。~中略~ 日本人に非ず、支那人に非ず、米國人にも非ざる「人間」は、實在としては決して存在しない。そは唯だ一個の理念として存在するだけであり、而して此の理念は必ず民族又は國民として實現される。故に日本人は日本人として、米國人は米國人として、それゞゝの面目を發揮することが、取りも直さず人間の面目 を發揮することゝなる。從つて眞個の國民となりてこそ、初めて眞個の人間となり得る道理である。吾等日本國に生れたる者は、第一に日本人であらねばならぬ』と。

 思想や學問が國家に眞の益を與するとき、そこにはあくまでもその國家の固有的性格が認められねばならぬのである。當然、日本の學者、思想家も然り。如何に 皇國の碩學偉才と雖も、その者が他國の假りものの思想や學問を據り所とする以上、海を越えて他國を善導するには自ずと限界があり、吾が理想せる八紘爲宇、萬國平和は遂に理想と終はらざるを得ないであらう。では吾が理想はたゞ空しくあるのみか。否、吾人が理想に向かうて進まんとすれば、人工的な思想や學問を超越したものを以てすれば可である。それには何よりもまづ、天地開闢、神代に心を寄せなければならない。脱線してしまふのでこの邊で擱筆する。
[PR]

by sousiu | 2013-10-06 17:33 | 大義論爭

<< 「辯道書」と、「呵妄書」及び「... 「辯道書」と、「呵妄書」及び「... >>