「辯道書」と、「呵妄書」及び「辯辯道書」 その十七 

●佐々木高成先生『辯辯道書』下卷に曰く、
『此書に辯道者、佛道も神道も堯舜の道を戴ざれば世に立ことあたはず候、されば中華の古代も、日本の今も、天下はいつも堯舜の道にて治り候 ~※純が文の引用なり~ などゝいふ事、是亦無體配(た-はいも-なき)いひぶん也。

 凡て辯道書の一篇前後の合ぬ事のみなり。前にながゝゞしく佛戒佛道を説て、釋迦の本意は心の物に繋縛せられず、愛念妄想を斷滅し、心の清淨を行ひ、身に糞壤衣(ふん-じやう-え)を着、口に馬麥を食し、樹下石上に宿するが佛者なりといへらずや。それが堯舜の道をいたゞかざれば叶はざる事とはいかなる兩舌ぞや。勿論今の肉食女犯をなし、金銀をたくはへ、師弟の因を求め、寺院を禪るなど在家に等しき事有故、如斯(※斯くの如く)いふとならば、それは俗人の身持にして釋氏の境界にはあらず、今の世無道墮落の邪僧を見て、堯舜の道を戴くとはかたはらいたく覺え侍る。猶、吾道において堯舜の道を戴ざればとは、さりとは無禮不忠の惡言曲學者は清より來りて吾國を別業(しも-やしき)になせしものゝごとく覺えるは淺まし。上神代より中古人王の始方までは、天下安泰に治り、君臣父子、夫婦兄弟、朋友の道自然に行れて其曲を盡す。儒教の來り行はるゝ事は漸、千有餘年にして、それより始て道のひらくるにあらず。儒書の來らざる以前、神人すでに天道人道を明らかにしめし、耕稼陶漁の術、卜占醫藥、暦軍の道にいたるまで、そなはらざる事なし。古書を考へて其疑をとくべし。

 中古漢土の書わたり來りけるを、神道にかなうて、邪説にあらざる事はこれをすてず、其羽翼となして可なり。應神帝、天智天皇、大織冠鎌足公、此理に明にして儒教を兼用し給ふ。今の腐儒曲儒我道を外にして、儒教ばかりを以て天下を治めんと思ふは、蟷螂が斧を以て龍車に向ふよりも愚也。

 近世我國の儒生を見るに博識多聞なるものありといへ共、實に己を修めて聖賢者となるものはなし。口に聖經を説ども、身心は名利色欲に溺れて無學のものに劣れり。又は一種の學流を立る者ありて、臂をすり、目をいからし、人の惡をせめ、殘忍刻薄至らざる所無く、纔(※わづか)の非を改めて親族離別し、師弟寇讐のごとし。如斯學ばんよりが學ばざるにしかじ、か樣の儒學の害勝て計ふべからず。何を以て堯舜の道ならざれば我國治らずといふや。禮樂刑制ともに異邦の事は一つも用ひずして吾國風の式に隨ふのみ。五刑の類三千も用ひずして吾三百威儀三千も用ひず、大牢の滋味とて牛をも食はず、衣服、法式、家居、器物までも、一つとして用る事なし。其澤をかふむる事、堯舜にうくとせむか、我國日の神にうくとせんか。今日行ふ所の五倫、日用の道みな日の神のたれ給ふをしへなり。

 儒道果して神道に同じくば、神道すでに是を明らかにす。若又神道にたがふ所あらば天道にも戻(もとれ)りといふべし。彼が學ぶ所の道も、訓詁詞章は得る所も有べし。聖學深長の所においては道をとくのみ。復りて本心ひらけなば予が言の金言なるをしるべし。

 又辯道書の最後に學術の事を論じて子思、孟子より以下を棄て、唯孔子より上を學ぶべしとの言、辯道者が邪説の病根なり。孔子は孟子讚せるごとく、生民あつてより以來、孔子のごときはあらず、集て大成の聖なり。孟子もねがふ所は孔子を學ばんといひ、宋に至ても程朱繁詞累言して、孔子の聖徳を讚ず。人もとよりしる所にして、太宰氏が贅言をまたず。又古學を談ずるもの前に述るごとく、心性の事は思孟に始るやうに謂て、古聖經には無きといへる事をば、易、書經、論語等を援て是を辨ぜり。曲學者が古學は根無草(ね-なし-ぐさ)の水上に浮べるごとくにて無禮配固學(※た-はい-なき-古學)なり。儒道に於て論辨し、責べき事は枚擧すべからずといへ共、強て吾道に與る事なければ辨ずる事を得ず。若此辨文、博雅の君子是を見給はゞ、無禮の過言卑陋に思ひたまはんずれども、我國帝王の太祖天照大神の政道を侮り謗り、我國王の恩をかふむりて其洪恩をわすれ、吾國を道なき夷狄とし、吾國王を虜首となし、我身を禽獣と伍をあらそふの位におき、■(立心偏+曹=きう)然として百年を過るも又國賊の魁、無智の甚しき彼が爲めに涕泣するのみ。
 小人天命をしらずしておそれず、吾國神聖の言をあなどる、予ふかく太宰氏がために誦するのみ
』と。(「辯辯道書」をはり)


 『辯辯道書』も終はつた。留守希齋翁の跋文があるのだが、それは既に掲げた。↓↓↓
                             http://sousiu.exblog.jp/20036942/


 ところで平泉澄先生は『闇齋先生と日本精神』(昭和七年十月廿三日『至文堂』發行)に於て、かく述べてゐる。
 曰く、
『中華思想といふのは支那人の尊大傲慢より起り、支那を以て世界の中心、最高の文化國となし、他國を以て偏在の地、卑賤の俗となすもの。もとより其の誤れる事、明白であるが、當時漢學惑溺の輩は之に氣付かず、好んで中華と稱して支那を尊崇し、却つて我が國を賤しむの風があつた。殊に甚だしかつたのは荻生徂徠の一門であつて、徂徠自身東夷物茂卿と署した事は有名今更いふまでもなく、その門人太宰春臺の如きもこの弊頗る著しかつた。
 彼が和漢帝王年表に序して、「我が東方の年紀を以て中華の年紀に合せて之を表す」といひ、又對客論文の中に「夫れ詩は華夏の雅音なり、故に異邦の人といへども、固より當に華夏の正音を以て之を直讀すべし、而して此方の人華夏直讀以て其の意を通ずる能はず、故に方言を以て之を譯す」云々といふなど(春臺先生紫芝園後稿)いづれも主客顛倒の弊に陷つてゐる』と。彼れらの有樣推して知る可し。

 曰く、
『この點について闇齋先生の説を見るに、先生は晩年に至り、俗儒が支那を中華と稱し中國と呼ぶを非として之を排斥し、日本紀が西土といひ、西地といひ、又は大唐と書せるを擧げて之に從ふべしとし、殊に聖徳太子が隋におくられた國書の中に、我が國を日出處といひ、支那を日歿處と名づけられたのを讚歎稱美された事は、隨從した門人澁川春海の詳しく谷秦山に語つたところであり(秦山集)、先生の文集を見るに、或は神國といひ、或は豐葦原中國といひ、或は本朝といひ、少しも自卑の風がない。即ち先生は支那の中華思想に屈服せられなかつた事明瞭である。ひとり華夷の辨のみならず、先生の批判は極めて周到であつて、世間の儒者が京都の事を洛陽又は長安といふを排し、これは異國の地名であつて、我が國に用ふべきでないとし、須らく 皇都と呼ぶべしと説かれた事が秦山集に見えてゐる』と。
 崎門の一派の姿勢をも以て知る可し。『辯道書』の、忽ち筆誅の的となるや必定で無くして何ぞ。
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 抑々崎門の學派の姿勢は、當時の學者間に於て一種の腫れ物の如く見做されてゐた。乃はち、下に掲げたる一文を以て察す可し。
○徳富猪一郎翁『近世日本國民史 第十六卷』(昭和十一年一月廿日『明治書院』發行)に曰く、
『山崎闇齋の朱子學は、直ちにそれが宗教であつた。彼は日蓮が一部の法華經に據り、一天四海皆歸妙法を唱へたる如く、小學、近思録、四書、周易を經文として、朱子學を唱へた。而して其の破邪顯正に於て、勇往、邁進、毫も顧慮する所がなかつた。其の自から是とする甚だ固く、他を非とする甚だ嚴に、而して學問の要は、實行にありとし、實行の要は、持敬にありとし、其の戒律を勵行して毫も假借する所がなかつた

『大攫(おほ-つか)みに分類すれば、林家の朱子學は軟派にして、南學のは硬派であつた。而してその南學が、山崎闇齋を經來りて、更らに硬中の硬となつた。闇齋其人は、必ずしも攻撃せんが爲めに、攻撃するものではなかつたであらう。然も其の攻撃には、決して餘力を剰(あま)さなかつた。彼は朱子の研究的精神や、朱子の博聞審思を學ばずして、直ちに其の辯難駁撃、反對者に向つて、寸毫も假借せざる所を學んだ。彼は自から護道の天職を有する者として、其の一世を相手とした。されば彼は實に、軟派の朱子派に對しては、一種の恐怖であり、脅威であつた』と。

 「朱子の博聞審思を學ばずして云々」のくだりは、ちと極端なる言ひ方であると思はれなくもないが、いづれにせよ、その師ありてその弟子あり、如何に闇齋一門が當時の學者連中に恐れられてゐたか、その一斑は充分に察せられる。

 餘談であるが闇齋先生の、殊に垂加神道は、次囘掲げる平田篤胤先生など、復古神道を提唱する學者からの論爭を餘儀なくされてゐる。

 このやうな學問の庭に於ても、頗る活發な戰ひが展開され、繰り返へされ、而、日本魂は堅固となつていつたのだ。
 公安警察や機動隊の兩側で、互ひに罵聲を浴びせ合ふことを敢へて全く無駄とは云はない。けれども、その繼續をするたゞそれだけで、况やヘイトスピーチを繰り返してゐるだけで、容易に日本魂が恢復するとも野生は思へないのである。
 
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by sousiu | 2013-10-11 01:39 | 大義論爭

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