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如何なる事にても 朝命に背かざる無二赤心也矣 

 畢竟、右翼而已が、その逞しき尊皇心の所有者ではない。
 若し斯く信じて疑はぬ内堀の住人あるならば、そは傲慢以外の何物でもなく、同時に斯く信じて疑はぬ外堀の者あるならば、そは誤見の甚敷きものである。
 後光明天皇の御代に生きた、正五位 奧八兵衞大人は魚屋であつた。
 魚屋のみならず、討たれる側にも尊皇の志が存したと云うたは昨日の記事だ。
 勿論、今日、右翼と呼ばれる吾人が鐵心尊皇の一團である可きは云ふまでもない。
 但し野生は、一種の傲慢から出でる、生かざる尊皇論を弄ぶ氣にはなれないのである。眞の自尊心は、傲慢からは決して出でるものではない。

 ふとした時代の潮流に際して、敵と定められたる側の、皇室尊崇の心を識りたくなつたのは、かくなる理由と動機に因るものだ。謂はゞ、自身への戒めだ。
 尤も野生は、敵側の擁護者でも辯護人でもない。
 固より、歴史上には、墓に鞭打たずんば氣も休まざるほどの賊も少なくない。
 だがしかし、くどういやうだがそれらが總てではない。對手の側にもその心事に立ち入れば尊皇心あり、商人の中にも尊皇家あり、或は無名の内にも逞しき勤皇家があつたことも、是れ又た動かす可からざる事實である。少なくとも野生は、大和民族みなこれ 天皇の赤子であると信じるがゆゑに、安易に至らざる者を指して、國賊と呼び捨てる氣にはなれないのだ。
 當然、逆も又た然り。歴史上には不屆きなる自稱尊皇家もあり、土蜘蛛神道家さへある。抑も現代に於て、自稱尊皇家ほどあやしむ可き者もない。笑止。
 野生は他を責むるの遑あらず、又たその心もなし。啻に自身が不屆きならざるやう研鑽するあるのみ。

●從三位、勳二等 山岡鐵太郎公、明治十五年、『慶應戊辰三月 駿府大總督府ニ於テ西郷隆盛氏ト談判筆記』に曰く、
『戊辰ノ年官軍。我主徳川慶喜御征討ノ節。官軍ト徳川ノ間(あひ)ダ隔絶。舊主家ノ者如何トモ盡力ノ途ヲ失ヒ。論議紛紜。廟堂上一人トシテ。慶喜ノ恭順ヲ大總督宮ヘ相訴ル者ナク。日夜焦心苦慮スルノミナリ。其内譜代ノ家士數萬人。論議一定不致(いたさず)。或ハ官軍ニ抗セントスル者アリ。又ハ脱走シテ事ヲ計ラントスル者アリ。其勢言語ニ盡ス能ハザルナリ。舊主徳川慶喜儀ハ。恭順謹愼。朝廷ニ對シ公正無二ノ赤心ニテ。譜代ノ家士等ニ示スニ。恭順謹愼ノ趣旨ヲ嚴守スベキヲ以(もつて)ス。(もし)不軌ノ事ヲ計ル者アラバ。予ニ刃スルガ如シト達シタリ。故ニ余(「余」は鐵舟公のこと)舊主ニ述ルニ。今日切迫ノ時勢。恭順ノ趣旨ハ如何ナル考ニ出候哉ト問フ。舊主示スニ。予ハ 朝廷ニ對シ公正無二ノ赤心ヲ以テ謹愼スト雖モ。朝敵ニ命下リシ上ハ。トテモ予ガ生命ヲ全スル事ハ成マジ。斯迄衆人ニ惡マレシ事。返ス返スモ嘆カハシキ事ト落涙セラレタリ。余舊主ニ述ルニ。何ヲ弱キツマラヌ事ヲ申サルヽヤ。謹愼トアルハ詐リニテモ有ンカ。何カ外ニタクマレシ事ニテモ有ベキカ。舊主曰予ハ別心ナシ。如何ナル事ニテモ 朝命ニ背カザル無二赤心ナリト』と。※括弧及び括弧内は野生による。
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by sousiu | 2012-07-28 02:56

「近世日本國民史」より學ぶこと 

 『柳子新論』は十三篇に亙る。
 一氣に御紹介したいのであるが、御來車の方々も、野生も、少し疲れが溜まるころだと思ふので、今日は道艸することにした。


 何やら、日乘に記すやうな内容ではないと苦言されさうであるが(奇廼舍主人、落葉松屋主人は苦言せなからうけれ共・・・)、諸賢が野生の如き凡夫の毎日を識つても仕方あるまい。固より野生、人に向うて披露す可き丈の一日も、過ごしてゐない。單なるオタクなのだから。『楚國先賢傳』に「閉戸先生」と呼ばれた孫敬といふ人物が登場するが、野生の場合は、つまり「閉戸處士」だ。

 題したごとく、此處は一民草のひとりごとを漏らす頁に過ぎぬものであるから、それがたとひ大半の人に讀み流されてしまふとも、野生は殊更ら不滿に思ふ可き理由も資格も無いのだ。

 さて。野生が先人の玉稿を抄録するには理由と動機がある。今日は、その事をひとりごとしたい。

 蘇峰 徳富猪一郎翁は、「近世日本國民史」に對する自己の抱負として下記の如く、申してゐる。
 長文となるが、蘇峰翁の素懷とみて間違ひあるまいと思ふので記載することにした。

●徳富猪一郎翁『近世日本國民史 廿三卷 田沼時代』(昭和二年一月十日「民友社」發行)に曰く、
『翻つて考ふるに、予が大正七年五月、近世日本國民史の筆を著け始めて以來、既に足掛け九年を經過した。此の間には我が身邊にも、國家の上にも、世界の上にも、非常の變化が來つた。予一個としては、大正八年二月には、九死一生の大患に罹つた。然も頼(さいは)ひに予は一切を此の事業に獻げ、且つ獻げつゝある。予は當初十年計畫にて、完成せんと期した。然るに今や漸く第一期の終局に近づきつゝありて、第二期 孝明天皇、第三期即ち編著の大眼目たる、明治天皇御宇史は、尚ほ前途遼遠である。歳月は全速力もて奔るも、仕事は牛歩遲々。

 併しながら斯る大仕掛の仕事は、徐ろに且つ確かに、其の行程を辿るを以て、寧ろ安全と信ずる。されば予は決して一日に百里を行かず、百日に百里を行くの方針を取つた。即ち功を累積に遂げ、勝を全局に制するの方針を取つた。此の如くして今日に至る迄、既刊二十三卷、未完五卷、通計二十八卷を稿了した。而して今や第二十九卷を、逐日著作しつゝある。

 惟ふに今後幾許の歳時を要して、完結す可き乎。又た果して予の一生中、完結の目的を達し得可き乎。それは只だ天に問ふの他はあるまい。併しながら予は人力の及ぶ限りを、此事に盡さんとしてゐる。

 されば苟も事の此の業務と兩立せず、若しくは妨害となるものは、予は悉く之を片附けてゐる。此れが爲めには、世間の義理合、一般の社交、若しくは個人的享樂なども、殆んど全く頓著しないこととしてゐる。さりとて決して全速力は愚か、快速力をも出さない。舊に依りて牛歩遲々。若し遲々たるが爲めに、完成する能はずして止まば、是亦た致し方なしとして、自から諦むるの他はあるまい。~中略~

 予の理想を云はしむれば、司馬温公が、資治通鑑に於ける、水戸義公が、大日本史に於ける如く、當代最も超群の史才を集め、その衆力を以て、茲に不朽の大著作を爲したいのだ。されど予の微力では、到底斯ることは思ひも寄らない。

 然らば寧ろ一人一個にて、啄木鳥が木を穿つ如く、兀々(こつゝゝ)として日又日に、月又月に、歳又歳に、その精力を集中して、此の事業に傾倒するの他はあるまい。予には決して完全無缺の歴史を作らんとする程の抱負はない。されど少くとも近世日本國民史に就て、何物かを貢獻したいと思ふ。而してそれ丈の事は、予一人の微力でも、苟も勤めて怠らずんば、必らず成就し得可しと信ずる。 ~中略~

 世間には予が、くだゝゞしく前人の著作、若しくは文書等を引用するを病む人がある。されど予は前人の功を竊むを欲せず、又た斯る資料はやがて湮滅するの虞あれば、せめて予の歴史中に保存せんとの微意に外ならない。若し斯る資料を咀嚼して、改めて予の文字とせん乎。此れは予に取りても手輕であり、讀者に取りても骨折が少ないであらう。されど歴史は小説ではない。歴史は只だ娯樂の道具ではない。古人の著作や、古文書を、その必要の點だけ、その儘本書に登載するは、只だそれ丈の事としても、大なる意義がある。繰り返して云ふ、予は決して勞を厭ふ爲めに然かするではない。予に取りては自から文字を綴ることが、他の文字を抄録するよりも、如何ばかり氣樂でもあり、且つ面倒も少ないのだ。然も有用なる資料の其儘なる引用は、予の修史上の主張である。

 單に文章として云へば、推敲の餘地は頗る多きを知る。されど予は只だ達意を主として、修辭を客としてゐる。他日若し全史を完了するを得ば、更らに其の總説とも云ふ可き一書を綴らんことを期す。その時には予も出來得る限り、修辭にも力を用ひんことを期してゐる。

   大正十五年十二月十六日午前十時 大森山王草堂に於て
                蘇峰六十四叟    』と。



 若い頃、野生はかうした繼續力を有し得なかつたし、又た、欲し得なかつたが、馬齡を重ねるに從つて、蘇峰翁のこのやうな、志に對する姿勢に共鳴しつゝある。共鳴といふ表現が野生の分を越えたものであるならば、敬意である。
 野生は、翁の道に對して進み行くその嚴格な態度ばかりでなく、歴史の尊さと、併せて文章報告の手法も學んでゐる。野生の、抄録を掲げる微意は、當日乘でもこれまで何度か記したが、やはり如上、翁の主張に影響されたこと少なくない。
 とは云へ、抄録の達人、備中處士樣には、未だ到底、足下にも及ばないのが悲しむ可き現状だ。噫。


 ところで野生と「近世日本國民史」との出會ひには少々ばかりの理由がある。
 蘇峰翁には、長年、祕書を務めてこられた並木仙太郎先生といふ人があつた。
 ふとしたことから、野生はこの並木家方々と邂逅を得、爾來十五年、家族同志の親密な御交誼を賜はつてゐる。(目下、野生は所拂ひの身なので、ひとりぼつちであるが)
 因みに、陣營の人では平澤次郎翁や、虚け者先輩、MOKKOSU選手などと並木家へ伺つたこともある。
 仙太郎先生御愛孫からは、今日に至るまで蘇峰先生に關する書籍は固より、貴重な品々を賜はつた。
 「近世日本國民史」も、並木家御主人より獎められ、今日まで三卷ほどを缺いて、ほゞ蒐集し、ほゞ拜讀した。
 人生に於て、ちよつとした出會ひの齎す影響の大なることに、ただゝゞ、驚くばかりである。



 近世日本國民史に話しを戻さねばならない。
 翁は、昭和廿七年四月廿日、「近世日本國民史」第百卷「明治時代」を以て、遂に脱稿することが出來た。(因みに、翁の祕書、藤谷みさを女史による口述筆記)
 足掛け卅五年。嘸ぞや無上の喜びであつたらう。その時の樣子を御愛孫の徳富敬太郎氏が語つてゐる。
 『その日私は祖父を訪れましたが、奧から祖父がゆつたりとあらはれ「終はつたよ」と呵々大笑、それに從ふ藤谷さんはぼうだと涙をながしてゐました』(『國民史會報 第廿九號』昭和卅七年七月十日「近世日本國民史刊行會」發行)と。


 以下は平泉澄先生の、近世日本國民史百卷完成記念に於ける御講演だ。
 前半は、平泉先生と蘇峰翁の御親交に就て。後半は近世日本國民史に就てだ。
 この時既に、蘇峰翁はこの世を後にされてゐる。

●平泉澄先生、昭和卅七年六月廿六日、「近世日本國民史百卷完成報告會」(於帝國ホテル)に於ける講演會にて、曰く、
『徳富先生の「國民史」が、いよいよ百卷完成いたしました。
 私は、終戰後山へ入つてをりまして、徳富先生にお會ひする機會もほとんどなくなりました後に、先生よりたびたびお手紙をいただき、ご懇切なる激勵の言葉をちやうだいいたしました。やがて段々と追放が解除されてゆきました時分のことでありますが、ある日方々の新聞社から訪ねて參りました。「あなたは今度追放解除になるのだから、感想を聞きたい」私は答へました。「私は、決して解除になりませんから、感想は述べません」するとある朝、ゐろりで火を焚いてをりましたところが、長男がきまして、「お父さん、今ラジオでお父さんのことを言ひましたよ」「何といつた」「徳富蘇峰、平泉澄は追放解除せざることに決定した、といふ發表がありました」「さうだらう」といつて笑つてをりましたが、その直後に、徳富先生から杖を二本ちやうだいいたしました。「しつかりしろ」といふ意味だと思ひます。
 常にさういふふうにして勵まして下さつた徳富先生より、ある日いただきましたお手紙は、「いよいよ、國民史百卷、昨日をもつて書き終はつた。これがいつ發行されるか、見込みはたたぬ。おそらく、自分の生きてゐる間に世に出ることはあるまい。しかし、もし自分の死後において、これが日の目を見るようになるならば、その期にはぜひ頼む」といふお手紙をちやうだいしたのでありました』

『最も困難なる明治初年のところを、あれだけ明確に、また實に躍動するがごとくに書かれましたことを、感謝してやまぬ次第であります。さうしてこれは、私どもは何らかの天意あるものではないか、とまで思ふのであります。
 なぜかといひますと、今日の國情において、信長を思ひ、秀吉を思ひ、家康を思ひ、さらに近く西郷を思ひ、木戸を思ひ、大久保を思ふことは、國民にとりまして非常に力になるものと思ひます。その三傑の終はりをもつて筆を終はりましたことは、殘念でありますけれども、しかしかく餘韻を殘され、言ふべからざる精神の冥々のうちにほとばしるものあるを覺えざるを得ないのであります。さうしてこれら前後三傑を見て非常に不思議に思ひますことは、その前におきましては秀吉、これが朝鮮に躓くのであります。豐臣秀吉は偉大なる英雄でありますが、この人は天正十八年までの秀吉をもつて偉大なりとする。それ以後の秀吉は、すでにその志、くづれてをるのであります。さうして朝鮮に禍ひされまして、この朝鮮征伐が豐臣の命取りとなるのであります。同樣に、後におきましては西郷、あの英傑が朝鮮に禍ひされまして、そのために遂に身を滅ぼすのであります。まことに運命の不可思議なるに、驚きのほかはない次第であります
 この間、かやうにみまして、私はこの歴史の書物(※近世日本國民史のこと)が、今日の時世において、かくのごとき形をもつて(※同書は「織豐時代」を首として「維新三傑」まで描かれてゐる)出たといふことは、非常な意味を持つものと感じまして、これを實に不思議に感ずるものであります。この偉大なる書物、およそ世の中に出てをります歴史の書物にして、これほど驚くべき書物はないと思ひますが、この書物の世に出ます上に、その下働きのお手傳ひをさせていただきましたことを、長谷川社長(※「時事通信社」代表取締役、長谷川才次氏)に對して厚くお禮を申し上げます』と。
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by sousiu | 2012-05-05 01:05

じつは實話 (・・・御免なさい) 

 日乘で書きたいことは少くないのに、何かと急用が相次ぎ、御無沙汰してしまつた。
 かうなつてみるとオタク生活が戀しく思ふのである。
 野生は、ヒキコモリが性に合つてゐるのだな。

 ところで、先日、國信兄が起訴されたといふ。あれきり、國信兄には面會へ行つてゐないのであるがおそらく彼れは元氣にしてゐることであらう。
 このまゝ懲役の實刑ともなれば、彼れとも當分會へなくなつてしまふ。暫く面會にも行つてゐないし、また顏でも見に行かうと考へてゐたところに、『実話時報』『漫画実話ナックルズ』が屆いた。
 開いてみれば、どちらにも國信隆士がゐるではないか。吁。

●『実話時報』五月號(平成廿四年四月十四日「竹書房」發行)
『順調に警部補まで昇進を果した國信會長が民族派を志すやうになつた大きな要因が、その警察官時代にあつたと語つてくれた。
「仕事柄、さまざまな事件に携はるんですが、右翼の事件も擔當しとりました。その際に理論で負けてはいけんので右翼の思想に關する書籍にも目を通すんです。さうしたら日本人であれば當然に考へる事柄が書かれてゐることに氣付きました。それと同時に、日本人として素直に思ひを述べたり、行動すると右翼と呼ばれてしまふことに疑問が沸いたんです
 そこで國信會長は定年まで勤めるか、途中で退職するか分からないが警察官を辭したら直ちに民族派として生きていくと心のなかで決めたといふ。
 しばらくして、それまで事件搜査の第一線で頑張つてきた國信會長は、見事に警部補へ昇進を果たし管理部門に配屬される。しかし、現場こそが警察官としての生きがひと考へてゐた國信會長は辭職する道を選び、民族派として生きて行くことを決意したのである。以降、全身全靈で運動に打ち込んでゐたところに、一昨年の十一月に中井議員の不敬發言が飛び出したのである

●『漫画実話ナックルズ』六月號(平成廿四年四月十六日「ミリオン出版」發行)
『― なぜこのやうな事件を起こしたのか。
國信 「中井代議士へはこれまでも抗議は行なつてきたが、明確な返答はなかつた。憤りが募る中、中井代議士が皇室典範改正に反對する議員連盟の會長に就任したとの報道に接し、不敬發言を曖昧にしたまま 皇室問題に關與する態度に怒りが爆發した」』

 雜誌を御惠投くださるので、各出版社におべつかを使ふわけではないのだが、新聞やテレビでは、國信氏の宿志までをも傳へることはしない。一般の週刊誌ですら、中々取り上げることもない。
 不況に加へ、世間の冷やかな視線に耐へながらも版を重ねる實話系の出版社には、今後もおほいに頑張つていたゞきたいものである。

 『漫画実話ナックルズ』仝、記者、喜連川智氏は、記事を以下に締め括つた。因みに文中に登場したる“熊本の右翼男生”とは、いふまでもなく、MOKKOSU すゞきだ君のことであらう。
 喜連川記者曰く、『過去に中井代議士の發言を受けて熊本の右翼男性が血判を押した抗議文を送り付ける事件が發生してゐる。また中井代議士の選擧區には連日のやうに右翼團體の街宣車が押し寄せて抗議運動を展開してゐるとの情報もある。國信會長は今後の先鋭的な行動を否定してゐるが、中井代議士が眞摯に説明と謝罪を行なはなければ、右翼の抗議はこれまで以上にエスカレートするものと思はれる』と。

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↑↑↑『実話時報』五月號

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↑↑↑『漫画実話ナックルズ』六月號


 いやはや・・・實話誌のお蔭で、面會したやうな氣分になつた。つか、夢にまで出て來られさうで、困る。
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by sousiu | 2012-04-17 00:42

承前。 

●蘇峰 徳富猪一郎翁、『國史より觀たる皇室』(昭和四十三年六月廿日「新日本春秋社」發行)に曰く、
『自由主義では個性の尊重と云ふことを第一の眼目としてゐる。其の個性の尊重は各個人だけのことではなく、國家に於ても、民族に於ても、亦同樣たるべきは論を俟たない。前アメリカ大統領ウイルソンの民族自決と云ふことも、之を意味してのことであらう。然るに日本の國家として又國民としての個性は何處にあるかと云はば、萬世一系の 皇室を有することがそれであり、又それであらねばならぬ。然るに此の個性を滅却して、ことさらアングロ・サクソン人や、若しくはスラヴ人の眞似をなすことを以て、本望となすが如きは、洵につまらない話である。日本に 皇室制が出來たと云ふよりも、皇室が日本を出來したと云ふ方が、寧ろ適當であるかも知れぬ。此の皇室制を取除くに於ては、日本は國家としても、國民としても、全く鹽其の鹹(から)きを失ふものである。他の民族や國家に蹂み躙らるる外はあるまい』と。

 愚案。日本總てが 皇室、とまで云うては異論者も出で來ようけれども、日本即 皇國と云うてみても、そは國史を通覽する何人もこれに疑義を挾む者はをるまい。左翼と呼ばれる者の通病は、殆ど歴史に就て無知であることだ。歴史を顧慮せず、たゞ思想のみに支配されるがゆゑに、現代のみならず未來にも絶望するのだ。加之、その思想も舶來にして、加へて國史を全くまでと云はずとも殆ど閑却するが如きの代物だ。
 偶に左翼の中にも、●●●年●●あり、○○○年○○起こる、などと流暢に語る者ありとするも、そは暗記力に優れてゐることを認めても、さりとて、國史を解するといふことまで認めるわけにはいかない。
 こよなく國史を親しみ、その登場人物を敬ひ、故に今日我れあるを識る者は、左翼や反日に到底甘んず可き理由が無いのである。
 左翼も反日も、唯々批判せんが爲めに批判するといふことの他に、何ら説得力を見出すことが出來ない。
 固より 皇國の威靈は、野生の拙文では固より、殆ど何びとも、言語に盡くす能はざる宏大無邊の規模なれば、迚も是れに及ぶ可からず。我れらとてその説得力乏しくあるも、反日のそれとは天地の差あり。未來に對する希望と絶望との懸隔あり。

 

 さて。前置きが長くなつたが、政界の住民をして、この 皇國の眞相を解さぬが爲め、歴史上、屡々手腕を誤りたる爲政者があつた。
 彼れらの過誤は、直接に間接に國内及び國民に惡影響を及ぼしめ、意外なる方面に意外なる問題を惹起すること決して稀有では無かつた。
 今日も然り。而、三百年前も然りである。
 嘘を取り繕ふ爲めに嘘を更らに重ねるとは、古今、小人の專賣特許と云ふ可きか、さなくば常套手段だ。さらば小人、過失には何を以て之を取り繕ふ可し。この過誤に陷らむとする者、おそれおほくも 天皇の稜威を斥ける爲めに苦心慘憺、苦慮呻吟し過誤を積み重ねんとした。
 徳川幕府も、都度、政治をこねくり廻し、尊皇家には容赦なき鐵鞭を加へ、漸次、皇室中心主義から徳川中心主義を建設し自らの安眠を深らしめた。
 されど、霸道は泰平の世に於て初めて有效たり得る。逆言せば、平和な時間に於てのみ有效であるのだ。一ト度び國難襲來するや、霸道の牙城にも龜裂が生じる。況んや城内の住人力乏しくなるに於てをや。
 その國難と呼べる災ひには樣々あるも、日本に於てその主なる一を擧げれば、やはり外壓であらう。家光は之を能く識り、而、島原及び天草一揆に際して遂に鎖國なる、二枚貝が蓋を閉ぢるかの如く、日本が小日本たる可き道を選擇した。唯一、朝鮮を例外として。

●蘇峰徳富猪一郎翁、『近世日本國民史 元祿享保中間時代』(大正十五年二月十七日『民友社』發行)に曰く、
抑も將軍政治の弱點は、眇乎たる朝鮮との交際に於てさへも、其の破綻を暴露するを禁じ得なかつた。何となれば、將軍は日本に於ける實權者であるも、主權者ではなく、天皇は日本に於ける主權者であるも、實權者ではなく。何となく天に二日あり、地に二君ある如く。爲めに將軍の立場を、明白に對手國に諒解せしむることが、甚だ困難であるのみでなく、將軍自からの立場を、自から確定することが、甚だ困難であつたからだ』と。


 こゝへきて、野生は漸く本題に入ることが出來る。
 家宣の前代綱吉の贅澤、奢侈、濫費からなる財政破綻を挽囘した立役者新井白石が、畢竟、家宣の寵愛を縦にしたことは必然たる趨勢であつた。尤も白石が樣々の建議を呈し、改良を行なつた功績を吾人は認めねばならぬ。
 家光による鎖國から七十年。而して朝鮮使節待遇方法の變革問題が出來した。
 飛ぶ鳥を落とすの勢ひを得た白石が、日本の威信を保たんが爲め一意專心したことは、前日、記した通りだ。

 それまで。室町時代に於て、日本の外交用文書は、威信を示すことに頓著なく、相手國に對して迎合するを以て諒とした。例へば、支那を相手とすれば、支那の流儀に合はせ、朝鮮を相手すれば朝鮮に合はせるといふものである。支那の皇帝に對せば我を「日本國王臣某」と名に冠し、年號も彼れの用ふる年號を愛用した。野生は敢へて亡國とは云はず、頓著しなかつた、と云ふ。されどいづれにせよ、相手國からみれば同じ判斷に行き着く。
○瑞溪周鳳(室町時代の僧なり)『異朝の天子、我國の將相を推し尊れ、王を以て稱せらるゝ事は、さもあるべし。みづから王と稱せらるゝ事は、彼國の封を用るなり。然るべからず。又、臣の字を記さるゝ事、然るべからず。止む事を得ざらんには、日本國といふ字の下に、我國の官位を記して、氏と諱の間に、朝臣の二字をしるさるべきか。又、彼國の年號を記さるゝ事、然るべからず。我國の年號を用ゐらるるか、然らずば年號を記されずして、甲子のみをしるさるべき事か』(新井白石『殊號事略』)

 豐太閤の時代となると、さすがに、王號を廢して、單に官位名稱を用ゐた。
 即はち、朝鮮からは「朝鮮國王 姓某 奉書 日本國王殿下」と記し、此方からは「日本國關白 秀吉 奉復 朝鮮國王閣下」といふ具合だ。

 それが徳川幕府となりて、當初こそ豐太閤の先例に倣うたるも、種々の問題出來し、これを改めざるを得なくなつた。
 これ以上の脱線は許されないであらうから、その理由まで述べることは他日に委ねる。汗顏。
 而も改められたる稱號は、「大君」だ。つまり、徳川は自らを稱するに、「大君」の名を使用するに至つたのである。當時の朝鮮では「大君」の二文字は國王子の嫡孫を意味したさうであるが、日本に於て、かの稱號を使用する能ふ國民の、古今に通じて一人ある可き筈のなかりしことは固より云ふまでもない。
 臣下たる將軍に 大君と稱したる首唱者は、林羅山だ。
 當時の執政者も學問の權威者も、古今に通じて吾人が座右すべき文言『毫釐も君をゆるかせにする心を萌すものは、必ず亂臣となる。芥蔕も親をおろそかにする形有るものは、果して賊子となる。この故に古の聖人、道は須臾も離るべからず、離るべきは道にあらずと説けり』(北畠親房卿)を忘却したることの、後世による指彈を免れまい。

 御用學者の羅山は、雇用者である幕府の意に從ふ可く、將軍尊きを識つて、天皇尊きを識らぬ民の育成に一助を買つて出た。
 果して、白石翁は、如何なる論鋒もて、これを滅却す可し。

 前置きが長くなつたので、更らに、續く。



參考文獻、近世日本國民史 卷八 ~豐臣氏時代 戊篇~朝鮮役 中卷
       仝 卷廿 ~元祿享保中間時代~
       國史より觀たる皇室
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by sousiu | 2012-03-31 22:00

熊本愛郷新聞  

 もつこすずきだ君から、彼れの機關紙「熊本愛郷新聞 創刊號」が屆いた。

 北九州市を據點とした殉國青年塾の林吾朗兄の機關紙は、「福岡愛郷新聞」といふさうだ。これには及ばず乍ら、野生、創刊の御祝ひを寄稿させて戴いた。

 九州の若手民族派は愛郷精神によつて、國民精神の作興をはかり、以て眞正日本の恢復を期さう、との考へなのであらうか。その意氣や宜し。
 幕末では維新運動の前衞的活動を擔つた九州だ。おほくの傑物が輩出され、維新の舞臺に立つた。彼の地に於ける尊皇精神と愛郷精神は、小ならざる潛在力も爆發力も祕めてゐると思ふ。

 もつこすゞきだ編輯長の、「熊本愛郷新聞」に曰く、
 『先の見えない混濁の世だからこそ、目の前の政治問題に鼻息荒く悲憤慷慨するのではなく、我々の先人達がいかにして幾多の困難を乘り切つてきたのか、を歴史から學び、熊本人として、ひいては日本人としての自覺と自信を持つて行動することが必要不可缺です』と。
 こゝ數年、保守系市民團體が我々の後を追つて街頭に出で、見た目では分からぬ程になつてきたかと思へば、我が陣營の若手のある者は書籍を繙き國學に、又たある者は愛郷精神に、どんゞゝ求學求道、試行錯誤の驀進を續けてゐる。まつたく大したものだ。

 熊本愛郷新聞の内容は、熊本のことばかり。要するに熊本自慢だ。苦笑。しかし一顧すれば、自慢出來るほど自分の郷について能く理解してゐない人が多い。
 自分の育つた縣花すら知らぬ人が多いものなア。地方の人が都會に來て、方言や、出身地を恥ぢるなんていふ人も多い。これは御先祖や 産土大神に背する、近代日本の最も恥づ可き風習の一つだ。
 過疎に惱む田舍が、村起こしに頑張つてゐる。村起こしも宜いが、やはり缺けてゐるのは、愛郷精神だ。
 三月大變以降、遺憾にも放射能汚染によつて死地と化した郷がある。この期にあつて、愛郷精神は再び見直されねばならない。自分の古郷を自慢出來るやう、能く識る可きである。

 思ふに、もつこす編輯長は、讀者層を廣範圍としたものではなく、主に熊本縣や近縣の人達を對象としてゐるやうだ。
 とは云へ關東の野生でも讀んでゐて面白い。

 どれだけ宣傳しても、バツクマージンは頂けないやうなので、これ以上の宣傳はしないけれども、十二頁、年四囘發行、年間購讀料一千五百廿圓(送料込)ださうだ。詳しくは、http://gendousha.exblog.jp/16268839/
 を御覽あれ。
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by sousiu | 2011-09-24 01:35

予、日乘死守に餘念なき。

 今日は義信塾發行機關紙「義信」への寄稿を了へた。

 流石にあちらこちらで駄文を披露すると、内容が重複するやうで、頭痛がする。
 似通ふ内容のものを寄稿するのはやはり心苦しくある爲め、必然、遲筆とならざるを得ない。
 抑も、語彙の貧弱なるがゆゑに遲筆の小生である。
 これもそれも兇なる姓名を持つ者の宿命乎。



 おしまひ。


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※誰か小生の手相を譽めて元氣付けてくれ給へ
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by sousiu | 2010-12-15 01:44

“河原博史”

 小生が、將來を期待する後輩の一人に、熊本の鈴木田舜護君なる廿二歳の青年がある。
 彼は元自衞官であつた。福田内閣に義憤を抱き、朝霞駐屯地を脱柵。首相官邸に赴き壯絶なる割腹を致して報道番組を賑はせた。
 勿論、自衞隊は懲戒免職となつた。彼の射撃の腕は素晴しく、オリンピツクの候補生であつたといふことからも、その腕前如何ほどのものであるかを想像するに難しくない。
 全て失ふことを知りながら、破邪顯正に勤めむとした彼の至誠には敬意を表してゐる。彼は實直、且つ、純粹な好青年である。


 扨而。その鈴木田青年が先月、一週間ほど我が家に泊まつたことは既記のとほりだ。
 そこで“河原博史”の話題が出た。
 といふのも、彼は姓名判斷に精通してゐる・・・さうだ。
 早速、小生の名は如何なるかを尋ねた。因みに小生、手相や人相を何人かに見ていたゞいたことがあるが、何れも宜い、とのこと。手相などは感心される。八卦を詳しく學んでゐる時對協の遠藤議長にも、譽めていたゞいたことがある。姓名判斷は初めてであつたので、興味津々だ。面、掌、名の三つが大吉で揃へば、小生の人生、最早太鼓判を捺されたやうなものだ。呵々大笑。

 で、彼の曰く。『惡いです』と。亦た曰く、『何か不吉なことに卷き込まれたり、苦勞することばかりの運勢です』と。
 彼は實直な青年だ。不愉快になつた小生に對して、曰く、『僕の姓名判斷は當たります』と。彼は嘘を吐いてまで、人を喜ばせることに些少の意味をも認めない。


 因みに小生は、神罰を恐れるが、大兇も恐れる。
 そこで問ふ、『ぢやあ、どうすれば良くなるの』と。
 彼曰く、『名前を變へるのです』
 小生問ふ、『ぢやあ、變へた方が良い・・・の』
 彼の曰く、『いへ、そのまゝで良いと思ひます。一般の人として考へれば不幸な名前ですが、明治維新の志士たちの名を調べたところ、殆どの人が良くありません。皆さん、激動の坩堝に身を投じてゐます。普通の生活してゐる人はその樣なことがないでせう?』

 ・・・何だか喜んで良いのか惡いのか、自分のことながら、分からない。

 小生問ふ、『ところで、君の名はどうなの』
 彼答ふるに、『僕も惡いのです。だから、名前の漢字を變へたのです』と。吁。

 彼は實直、且つ、純粹な好青年である・・・・のだと思ふ。
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by sousiu | 2010-12-11 20:54

風邪もまんざらでもありませぬぞ

 まだ風邪が治らない。
 防共新聞社・福田邦宏兄曰く、
『四十になると身體に變調がある。昨年と同じやうに治ると思つたら、それは間違ひだ』と。

 因みにまだ卅九なのであるが(汗)、本當に治りが遲い。今日は大切な會議があつたのだが、不本意にも缺席。
 遲刻は多いが缺席することは殆ど無い小生、何だか落ち着かなかつた。

 機關紙も手付かず。昨日屆いた『日本週報』數册を讀みながら、一日中たつぷりと寢た。

『日本週報』(第四百五十五號「日本週報社」昭和卅三年五月廿五日發行)に興味深い記事が掲載されてゐた。
「大喜劇“極東裁判”」特輯「絞首刑を覺悟の法廷鬪爭」にて。
 終身禁固の判決を受けた鈴木貞一氏(元陸軍中將企畫院總裁)、佐藤賢了氏(元陸軍中將軍務局長)、大島浩氏(元陸軍中將駐獨大使)の鼎談である。聞き手は林逸郎氏(元極東裁判辯護人)。

 鈴木氏『●級戰●は初め横濱にみんな入つた。それから大森に行つたんですが、大森ではずゐぶんひどい生活をやらされたですね。東條さんもけがが治つて入つてこられた。岸(信介)君、井野(硯哉)君なんかもをつたころです。東條さんを中心にして、どういふふうに、この裁判を戰つていくか、法廷鬪爭の研究をやつたんだ。そこで大體の方針は、日本の國體を守るといふことを中心にして、どこまでも自衞戰爭の線で戰はう、みんなさう腹をきめてかゝつた。むろんやられる、といふ腹もきめてをつたのです』
 佐藤氏『私はこゝで、東條さんについて一つ御話ししておきたいと思ひます。まづ東條さんは、戰爭の全責任を一身に引き受けて、だれにも迷惑をかけたくない、これは裁判を通じ終始念願したところでした。特に天皇陛下に御迷惑が及ばないやうにといふことには、ほんたうに一生懸命でした。話はさかのぼりますけれども、逮捕される前に東條さんは自決をはかつたが、死に切れませんでしたね。自殺のしそこないとして世間から非常な嘲笑を買つた。しかしこれも、一切の責任を一身に背負はうといふ考へからだつたのです。このことのほんたうの事情は、世間にまだ出てをりません。東條さんの眞意は、逮捕の前に死んでしまつたんでは、死をもつて責任をのがれることになる。逮捕されてからでは自決の自由はない。そこで、逮捕されるときは生きた東條であるが、生きた東條を日本側から米國に渡す、渡された瞬間に死ぬ、さういふふうに死ねるやうに自殺を計畫したのです
 林氏『大へんな構想ですね』
 佐藤氏『そんなキハドイ自決をするにはピストルでなければならぬ。しかも打ち方が大變難しかつたので、服にしるしをつけて持つてをつた。來たといふことがわかつて、すぐに軍服に着かへて、やつたわけです。まあ米軍の手術も進歩してをつたんでせうが、とにかくそんなきはどい計畫だつたので、たうゝゝ失敗に歸してしまつた』

 林氏『廣田(弘毅)さんが非常に大悟徹底してをられたと聞くんですが……』
 鈴木氏『廣田さんは、全くその通りですよ。初めから豫想されない死刑ですから』
 林氏『これは世間に知られてをりませんけれども、あれは陸軍少將として死刑になつたんでせう?」
 佐藤氏『經歴の中に軍事參議官といふのがありましたね。明瞭な間違ひです』
 林氏『花井君がアツピールしたんです。それを何かの理由で却下してをる』
 鈴木氏『全く廣田さんが、どういふ理由でやられたのか、私は今でもわからないんですよ』
 林氏『死刑どころか、私は大體廣田さんがこんなところへ來たのが、間違ひだと思つてをつたくらゐです。~』
 大島氏『廣田さんが武藤章と僕と一緒の部屋にをつて、だれが死刑になるか話したことがある。結局わからぬナ、といふことになつて、廣田さんがそのとき、「死刑になつたら雷に打たれるやうなものですからね」と言つた』
 佐藤氏『それは、一部世間にも傳はつてをるんですね』
 大島氏『朝日新聞だつたかに出たね』
 佐藤氏『それを世間は取り違へて、豫期してをらぬのに、死刑を宣告されたらビツクリして、落雷に打たれたやうだといはれたやうにとつてゐるんです。
ところがあの人の腹は、要するに、かういふ裁判は向うの勝手にするんだよ、こんな裁判に何を言つたつてだめだ。雷は落ちたい所へ落ちるんだ。避けようとしたつて駄目だといつた考へでした』
 大島『~廣田さんも初めは、「私は何で起訴されてゐるのかわからない。黒龍會關係か、あるいは防共協定のときの總理大臣ですから、その關係なのか、どつちにしてもわかりませんね」と言つてをられた』

 佐藤氏『アメリカの辯護士ですが、よく言うてをつたです。「原告が被告を裁くといふやうなことは、文明國にあるはずはない。中立國が裁くのがほんたうぢやないか」と』
 大島氏『そこで私は一言だけ申し上げたい。戰爭裁判といふものは私自身寸毫の犯罪も犯したとは思つてゐない。しかし國民に對する責任といふものは、きはめて大だと考へてゐる。今日赦免になつて連合國關係はこれで清算されたけれども、日本國民に對する私たちの敗戰の責任といふものは、ほんたうに強く深く自覺してをります。赦免になつても日本國民に對する責任を解除されたとは思うてをりません』


 大分割愛してしまつたが、なかゝゝ興味深い内容が多かつた。今日は一歩も外出しなかつたが、たまには讀書に一日を過ごす贅澤があつても宜いものだ。呵々。
 斯く考ふれば、風邪もたゞ憎々しいだけでもありませぬな。

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by sousiu | 2010-07-10 02:14

早起きで、がんも得した。

 昨日は、靖國會館で行はれた「全有連」東京大會に出席した。
 小林幸子女史による基調講演を拜聽し、急遽横濱に戻らねばならず、懇親會は不參加。
 此の日、廿三時に就寢。
 よつて今日も早朝五時半には起きる事が出來た。

 早朝の散歩・・・・と云つても産土神社までの往復だが・・・・に行くと既に豆腐屋が開店してゐる。
豆腐屋の朝は早いものなのだなあ。

「今、揚げたところだから」とがんもをいたゞいた。早起きの御蔭で美味しいがんもを得た。


 夕方から森普亶先生の御招きで田町へ。森先生は正假名・正漢字の研究に御熱心であり、教はること多し。何事も勉強である。
 集まつた人たちは、皆陣營の猛者である。
 亦たしても福田派・・・・福田先輩と小生而已。噫。

 然雖、“ひとり大楠公”の精神を矜持する我ら福田派(我らと云つても二名だが)。臆することなく堂々の烏龍茶で酒席に挑んだ。
 不圖、頭領の福田先輩の席を横目で見ると、何と麥酒を前に何やら愉快さうだ。
 最近、福田派が押されつゝあるが、その原因を横目で垣間見た。
 説明を要しまいが酒席の場に於て平澤先生は戰力として全く機能しない。
 これは、愈々河原派の誕生、乎(「派」と云つても小生ひとりだが)。

 まるで今の政界だ。苦笑。



※寫眞下。左から、小生、森先生、平澤先生。
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※寫眞下。左から、三澤先輩、國民新聞社・山田恵久社主、小生。既に地獄繪圖のやうだ。
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※寫眞下。これもだ。
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by sousiu | 2010-05-17 23:32

おたくの悲しみ


 いやはや・・・・苦勞した・・・・。

 昨日の須磨男樣、備中處士樣の御意見に學び、考へるところあり。「機種依存文字」を直したところ・・・・。



 三月廿七日の記事の内容を活かす爲め、この日までを遡り、修正した次第である。

 何とあるわ、あるわ。見付かつた「機種依存文字」は優に百は超えてゐた。
 小生が使用してゐた「機種依存文字」は、
」(神)。「」(徳)。「」(精)。「」(清)。「」(横)。「」(間)。「」(教)。

 而もこれ、全て漢文やら何やらのサイトで一文字々々々探してきたもの。



 最早、斯くなる小生に慰めの御言葉は要しない。
 温かく見守つて呉れゝばそれだけで嬉しく存じます。


                  ※これから弊社の電腦瓦版も直しにゆきます。汗
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by sousiu | 2010-05-05 01:11