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奉祝 世直し大祭「伊勢神宮式年遷宮」 

 本日廿時より第六十二囘伊勢神宮皇大神宮に於て遷御の儀が御齋行される。
 伊勢神宮式年遷宮廣報本部より、本日の十八時から動畫配信されるといふ。↓↓↓
           http://media.sengu.info/

 世相は暗澹として、人心惰弱、思想混亂、以て風紀の紊乱甚だし。固よりこれ日本にのみとゞまるべきにあらんや。世界は混迷し洋の東西いづこを見渡せども正氣の漲るは無し。
 かくありて、神州に於て「よみがへりの大祭」がおこなはれることの意義たるや決して少々ならざるものがある。寔に難有き御事なる哉、芽出度き御事哉。

 不二歌道會では廿時から大東神社に於て、神宮遥拜式及び祖國再建祈願祭を執り行なふとの御由。
 さりながら同會機關誌『不二』の今月號卷頭言にもあるやうに、御遷宮に關しては幾つかの課題も殘されてゐる。御遷宮は民族の大祭典であつて、それは單なるクリスマス同樣のごときものではないのである。主權恢復、差別排外にとゞまり、それで足れりとするのごとき保守的思考では、遺憾ながら未だ神州正氣の滿つは先のことゝ思はざるを得ないのである。
○御成敗式目に曰く、
神は人の敬に依りて威を増し、人は神の徳に依りて運を添ふ』と。
 吾人のゆめ忘れるべからざることがらである。
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●『遷宮をめぐる歴史』(平成廿四年十一月廿三日『明成社』發行)に曰く、
『平成二十三年三月十一日に發生した東日本大震災と東京電力福島第一原子力發電所の原子力事故は、東北地方の沿岸部を中心に未曾有の被害をもたらした。未だ、その復興の道筋すら示されてゐない状態である。多くの神社にも被害があつた。被災神社は四千八百社を超し、全壞の神社は三〇九社(福島第一原發の二十キロメートル圏内の二四三社を含む)となり、多くの氏子が住み慣れた土地を離れざるを得なくなつた。氏子區域の崩壞が危ぶまれてゐる。その中で、地域との繋がり、傳統文化、家族の大切さが見直され、そのことは「絆」といふ言葉に象徴されてゐる。

 このやうな中で、第六十二囘神宮式年遷宮を迎へようとしてゐる。その意味では、今囘の神宮式年遷宮は、遷宮の意味、國民と神宮との繋がり、いやそれ以上に 天皇陛下が國家の安泰、國民安寧を祈る場である神宮の最も重要な祭りであることを再確認するものとなつてゐる。

 だが、現実は、日本の歴史傳統を見据ゑた政治の欠如が社會の混亂を助長し、あらためて政治姿勢が問はれてゐる。また、金融危機に端を發する世界同時不況は、急激に國民生活に暗い影を落としてゐる。このやうなときだからこそ、神宮・神社に課せられた使命は、より大きなものとなつてゐる。國安かれ、民安かれとの 天皇陛下の祈り、皇室の祈りのお姿は、日本人に強い何かを與へて行くのであらう


 曰く、
『ダニエル・ブアステインといふ米國國會圖書館長を務める人が、神宮についてこんなことを言つてゐる。式年遷宮と社殿建築について述べたあとで、

 伊勢神宮は過去に深く根を下ろしながら、一方で絶え間なく再生を繰り返してきました。誰かがそれを構想し、一五〇〇年間實行し續けたことは驚嘆に値します。この事實は、これまで想像しなかつたやうな可能性を人類が祕めてゐることをわれわれに氣づかせてくれます。(『國際交流』第四二號)

 と。私たちの思ひもよらない指摘であるが、もう一度素直な心に立ち返つて、私達も式年遷宮に學ぶべきところがあるだらう。

 なほ、戰後の神宮式年遷宮は一宗教法人となつた神宮を中心に伊勢神宮式年遷宮奉賛會を設立して民間(國民奉賛)が協力するといふ方法でおこなはれ、それが定着したやうにも見える。天皇の遷宮といふ本義は敗戰によつて中斷され、戰後二囘までは戰後の神宮制度の變革によつて「聽許」といふ消極的な形でしか 天皇は關與できなかつた。平成五年の第六十一囘神宮式年遷宮は 天皇の「聖旨」(命)によつて準備が開始されるといふことで、遷宮の本義の囘復に曙光が見えたといへるかも知れない。戰後二囘と違つて、天皇の發意によつてはじめられたといふ意味で、天皇垂範、聖旨奉戴、國民協賛の遷宮ともいはれる所以である。

 しかし戰前の制度、また昭和三十九年六月に神宮式年遷宮準備委員會が答申した「昭和四十八年度神宮式年遷宮に關する基本見解・神宮司廳」の五項目の基本見解とは程遠いものであり、そのため神宮式年遷宮を含めた神宮のあり方が、今もなほ問はれてゐるといはなければならない』と。


●『不二』皇紀二千六百七十三年九月號(平成廿五年九月廿五日『不二歌道會』發行)卷頭言に曰く、
『神宮式年遷宮の奉祝と共に、我々が深く考へねばならないのは、本來國家を擧げ、國事・國儀として行はれるべき民族的大祭典が、民間の一宗教法人による祭典・祭儀とならざるを得ない状況が、戰後の五十九囘・六十囘・六十一囘、そして今囘と、既に四度にわたり變則的に行はれて來た事實である。神宮と 皇室・國家の關係が正常に復されることの祈念がそこに改めて籠められなければならない。天皇陛下よりの御手許金奉納と神宮自身の積立、そして有志國民よりの淨財奉納によつて實現されて來た御遷宮であるが、國費からは一圓の支出もない「神道指令」の上に立つ「占領憲法」の打破。その意味を籠めた祖國再建祈願祭(※大東神社に於ける)である』と。(※は野生による)
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by sousiu | 2013-10-02 18:33 | 今日は何の日

昭和十一年「二二六事件」 その二 

 事件發生から一年後、紫雲莊は又たしても新聞紙上に私見を發表した(昭和十二年三月「讀賣新聞」)。

 二二六事件における裁判は、陰險と苛酷を極めた。
 事件を報道する新聞記事は嚴重に檢閲せられ、聊かたりとも青年將校に同情めいた記事を載せようものは片つ端から發禁とされ、憲兵隊の取調べを受けた。
 青年將校達は「叛亂者」として處刑せられたのではなく、それよりも遙るかに重い「叛逆者」として扱はれ、處刑せられてゐる。
 統制派は徹底的に 皇軍精神の眞髓を去勢せんと努め、爰に軍部獨裁は成り立つたといつて過言ではない。

 以下はその後に於ける政界の有り樣と、これに對して紫雲莊が發表した論文である。
 多少當時の出來事を知る人でなければ、退屈に感ずるかもわからないが、只管ら承詔必謹に拘り、それを説かむとする姿勢は理解し得ると思ふ。
 尚ほ、當時は愈々獨裁政治の機運猛々しくある最中であり、檢閲や發禁の煩を避けむが爲め、批判するにも餘程言葉巧みにせねばならなかつた事情を考慮せねばならない。


●昭和十二年三月 『奉勅第一主義の徹底』
『一、天皇陛下が内外人の注視の中において、公式に降し賜はる内閣組織の大命は ―― に特に直接大權の發動にもとづく ―― 最も神聖なる詔勅である。
 それ故にこそ大命と申上げるのであるから、既にこの尊き詔勅が降つた以上は、苟も日本國民たる者は孰れも「詔を承けては必ず謹む」の精神をもつてこれを畏み、擧つてその御趣旨の徹底するやうに祈らなければならぬのはもちろんであつて、もし日本臣民中にその御趣旨の徹底を妨ぐる者、または之を輕んじ奉るがごとき者があれば、その者は直ちに違勅の大罪を犯すことになると信ずる。

二、ことに 天皇陛下の軍隊に職を奉ずる軍人たる者は、如何なる場合にも常に詔勅の御趣旨の徹底を第一に置くの點において、一般國民の模範とならねばならぬのはいふまでもないことであつて、萬一にもこの軍人の奉勅第一主義が、ある特殊の場合には例外が許されるなどと考へることが、絶對にあつてはならぬと思ふ。もし左樣な場合の例外が許されて、ある場合には奉勅第一主義でなくともよいやうなことがあるとすれば、その例外が先例となり、またはその例外がさらに他の例外を産んでわが國がいよいよ非常時に臨めば臨むほど、奉勅の筋道さへも不明となり、それが軈て世の亂れの始めともなつて、「再中世以降の如き失態」を繰返へすことの虞なきを保し難いのである。
 ここにおいてか、過般の宇垣内閣流産當時の陸軍當局の行動が、終始一貫この奉勅第一主義を貫いたものであるかどうかが非常の重大問題となる。

三、杉山陸相の議會における答辯によれば、當時の陸軍當局は決して宇垣内閣の出現を妨害したのではなく、ただ陸軍の三長官會議において銓衡したる數名の候補者が、孰れも陸相たることを肯んぜなかつたのであるといふ。しかしその何が故に數名の銓衡されたる候補者が、孰れも陸相たることを肯んぜなかつたのであるかといふことについては、他に特殊の事情があるが、「それはいはぬ方がよいと思ふ」といふことであるが、しかし左樣な答辯は ―― 第一、日本の軍隊はいふまでもなく、天皇陛下の軍隊であること。第二、したがつてその軍人は常に必ず奉勅第一主義に行動すべきものであること ―― 等を確信してゐる國民の前には到底辯解にならぬと考へるのである。

四、特に陸軍の三長官なる者は、最もよくその當時の陸軍部内の事情に精通してゐる者であるはずであるから、その三長官會議の結果、數名の陸相候補者を銓衡したといふことは、すなはちその孰れの候補者も、もし新首相たる人よりの指名あれば、直ちに陸相に就任し得る條件の備はつた人でなければならぬのであつて ―― またそれでなければ、眞に陸相候補者を銓衡したとはいへぬのであるから ―― 萬一その數名が數名共全部陸相就任を肯んぜなかつたことが事實であるとしたならば、それこそ ―― 故意か偶然か ―― 左樣な人物ばかりを陸相候補者に銓衡をした三長官らの重大失態であらねばならぬ。

五、もちろん組閣の大命を拜した者すら熟慮の結果、自分は到底その任に堪へずと考へて大命を排(拜、の誤字なる可し)辭することも稀にはあることであるから、當時の三長官の眼識に協うて陸相候補者に推された者のなかにも、萬々一、三長官の豫想に反し、自分は到底その任に非ずと考へて辭退する者があつても、必ずしも不思議ではないが、しかしその銓衡をしたところの數名の候補者が、全部揃つて辭退するに至り、なほその上に他に候補者を銓衡するも皆同樣に辭退するであらうと考へて、それで自分達の責任が濟んだと思ふやうな軍當局者は、全くその職責を辱かしめた者であつて、天皇陛下の軍隊の長官たるは足らぬ者であることを、自ら證明せるものではあるまいか。

六、就中最も問題とすべきは、當時三人の陸相候補者のなかに數へられてゐたと傳へられる杉山教育總監 ―― 現陸相の態度である。この人が先きの宇垣内閣には陸相たることを肯んぜざりしにかかはらず、後の林内閣には陸相たることを承諾したのは如何なる理由によるのであるか。
 もしその理由が宇垣内閣の場合においては、杉山陸相自身のいはゆる「ある特殊の事情」があつたがためといふならば、それこそ杉山大將は明らかに、ある特殊の事情のために、奉勅第一主義を捨てた譯であるから ―― たとへ左樣な意思が全然なかつたにもせよ ―― その結果においては畏くも大命を輕んじ奉つたといふことにならざるを得ないのであらう。もしまたさうではなくして先きにも後にも、常に奉勅第一主義で行動したといふのであれば、さきには陸相たることを承諾せず、後に陸相たることを承諾したる態度の相違を何んと説明するのであるか。
 特に他に方法の盡きたる時は、當時の三長官中ただ一人後任陸相に就任しうる事情のもとにあつたはずの杉山大將自身が、陸軍の奉勅第一主義を貫くがために、進んで陸相就任を承諾すべきであつたと思ふが、その態度に出でなかつた杉山大將は、果して奉勅第一主義に終始し、かつ當時の長官としての責任をも全うした人といへるであらうか。

七、打明けていへば、われらは當時の陸軍當局が、宇垣内閣の成立を喜ばなかつたいはゆる特殊の事情については相當に諒察し得るものである。
 さりながら、たとへそこに如何なる表面または裏面の特殊の事情ありとするも、すでに組閣の大命が降つた以上は、當然軍人は奉勅第一主義に行動しなければならぬのはもちろんのことであつていやしくも軍人の生命ともいふべきこの奉勅第一主義を捨てなければ、その「特殊の事情」に對處し得ないやうな軍人は、自ら 陛下の軍人たるの資格と光榮とを放棄せる者であるといはねばならぬ
 ことにそのいはゆる特殊の事情が、もし肅軍に關係のある事柄ならば、それこそなほさらに奉勅第一主義をまづ貫かずして肅軍のしようがあるまい。

八、したがつてあの當時において陸軍當局の採るべき態度の正しき順序は、第一には初めから宇垣氏に大命の降らざるやう、元老その他へ軍の特殊の事情を傳へることであつた。第二にはすでに第一の處置を採るべき時機を失し、宇垣氏に大命の降下があつた上は ―― しかして宇垣氏自身に大命拜辭の意思なきことが明白となつた以上は ―― 陸軍當局は速かに後任陸相を推薦して、陸軍軍人が常に奉勅第一主義に行動しつつあることを最も明確に、事實の上にしめさなければならぬのであつた。かくて第三には宇垣内閣成立の後において、もし斷然宇垣内閣を存續せしむべからずとなす陸軍當局の「特殊の事情」觀に變りがなくば、新陸相は宇垣首相と飽くまでその特殊の事情について爭ひ、首相陸相の意見不一致の理由により、内閣を總辭職せしめるか。或は陸相の單獨辭職かを見るべきはずであつたと思ふ。
 その場合においてもし陸軍當局の宇垣内閣を存續せしむべからずとなす見解が正しければ、その特殊の事情を委曲上奏のうへ陸相が辭職せば、宇垣内閣の瓦解はもちろんのはずであつて、もし當時の陸軍當局が初めから明白に、奉勅第一主義に徹底してゐたならば、當然以上のごとき筋道を蹈まねばならなかつたのである。

九、しかるに當時の陸軍當局の態度がそこに出でなかつたがために、今や全國民は非常の不安に襲はれてゐる。
 これを率直にいへば「今度のごとき惡例を造つた陸軍當局すら、結局何の咎めも受けずして濟むやうでは、今後の政變の際なども、一體どうなるのであらうか。若し今後とも、陸軍當局の氣に入らぬ者に組閣の大命が降下すれば、また特殊の事情の名において後任陸相を出さず、その内閣を流産せしめるといふがごときことが、將來幾度も起るのではあるまいか。しかして左樣なことが、決して世の亂れの本とはならぬといふことを一體何人が保證をしてくれるであらうか」と憂へてゐるのである

十、要するにあの際宇垣内閣が陸相後任難に苦しみ拔いた結果、遂に流産をしたといふことが事實である以上、當時の陸軍當局が他の特殊の事情を重しとして、奉勅第一主義に行動しなかつたといふこともまた到底否定すべからざる事實である。さればその軍人の生命であるところの奉勅第一主義を他の特殊の事情のために曲げたことの責任を明らかにするとともに、さらに將來絶對にかかる惡例を繰返へさぬための嚴然たる善後處置を採つておくことが、是非共必要であると信ずるが、當時および現在の陸軍當局は別段左樣な必要はないと考へてゐるのであらうか。

十一、もちろん過去よりも將來に惡例を絶對に殘さぬといふことが主眼であるから、その保證がつきさへすれば如何なる方法でも結構であるが、しかしその當時の陸軍當局としての責任者らが、ただの一人も引責の實を示さざる現状のままで果してその保證がつくかどうか。ことに宇垣氏の場合は例外中の例外であり、特別の事情中の特別であるからといふやうな辯解を千萬遍繰返されても、それで將來に惡例を殘さぬといふ保證には絶對にならぬのである。何となればある事が特別の事情に屬するか否かは、その時と人によりて判斷が違ふのみならず、たとへ如何なる事情ありとも奉勅第一主義は絶對に曲げぬといふことでなくして、皇軍精神の確立があるはずがないからである』と。
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by sousiu | 2013-02-26 23:49 | 今日は何の日

昭和十一年「二二六事件」 その一 

 本日は昭和十一年、所謂る二二六事件が生じた日である。
 二二六事件に就ては、既に御存じのことであらうからして、こゝでは、紫雲莊主幹・橋本徹馬氏『天皇と叛乱将校』(昭和廿九年五月十日「日本週報社」發行)に收録される、紫雲莊の聲明文を抄録し、これにとゞめるものとする。
 二二六事件を前後して、國内は如何であつたか。それに對して、何のやうな意見があつたのか。日本に軍備の必要とする世論が高まりつゝある今日(國軍創設に關して野生なりの私見あるもこゝでは差し控へる)、それらを知るのも決して無駄ではあるまい。

 先づ、昭和九年二月、新聞紙上に掲載された記事を全文、下記したい。
 昭和九年は、事件の二年前だ。
 長文ではあるが、當時の軍部と國政に就て知るに、一讀の價値ありとすべし。

●『青年將校と政治問題』
『第六十五議會において軍民離間の聲明書問題が端緒となり、軍人と政治の問題が盛んに論議されたことはいちおう喜ぶべき事柄である。蓋し國に爭臣なくんばその國危しとの古人の金言に照すも、このさい敢然として質すべきを質す議員の存在は大いに慶すべく、また軍の首腦部としても、幸に事の眞相を傳うるの好機會を得たるを賀すべきであるからである。
 さりながら問者餘りに無智識無穿鑿にして問題の要點を知らず。答者あまりに消極的にして事の眞相を云はずんば、せつかくの機會もかへつて世人の疑惑を深からしめる所以となるのみならず、肝心の 皇軍全體に與へる影響も、決してよろしくはないと信ぜらるがゆゑに、左にわれら一個のこの問題に關する所見を述べておきたいと思ふのである。

 そもそも軍人ことに青年將校らが國政に對し、多大の關心を抱くに至りたる主なる原因は、共産黨事件の續出より始まる。およそ日本國民にして忠誠の念ある者、一人として赤化思想の蔓延を憂へざるはないのですが、特に軍人は 大元帥陛下の股肱たるの關係上、一入この問題に關心を持ち、常人以上に國體否認の惡思想の蔓延を憂へるはもちろんのことである
 しかしてこの赤化問題は數年以前よりますます政治上の重大問題となり、その時々の爲政者いづれも主義者の檢擧に努め、かつしばしば拔本塞源を口にすれども、いまだ忠誠なる國民をして、その意を安んぜしめるに足るほどの效果を見るには至つてをらないのみならず、近年の新入營者の中には、かかる惡思想の影響を受けたる者も、相當にゐるのである。これ青年將校らが相集まる毎に 皇國のために憂へかつ憤ると共に、自己に直接關係ある軍事教育の上よりも、かかる惡思想の瀰漫する原因如何、あるいはこれが對策如何等に關して論議を鬪はし、往々その聲の外間に洩るる所以である。

 次には對外問題、ことにロンドン條約に關連せる統帥權問題、あるいは滿洲における往年の日本の權威失墜などが、これまた軍人の政治に對する關心を深からしめるに至りたる主要原因の一つをなしてゐる。ただしこれらの問題については世上の論議すでに盡きたりと信ずるがゆゑにここには省略をする。

 最近において特に青年將校らの間に、最も重大問題となつてゐるのは、國民生活の不安である
 世人あるいは言はん、國民の生活問題のごときは、その時々の政府當局において、できうるかぎりの努力をなしつつある次第なれば、敢へて青年將校らの憂慮を要せずと。こはまつたく軍隊内の事情を理解せざる者の妄言である。
 なんとなれば實際軍隊内にあつて、直接兵士の教育に任じつつある青年將校らよりすれば、兵士の家庭の窮迫は決して小なる問題ではなく、また決して對岸の火災視すべき問題でもないからである。
 いつかの新聞紙上にも、偶々日曜の休暇を與へられたる兵士が、街頭に紙屑を拾うて家計の手助けを爲せる記事が掲載せられて、世の人々の胸を打つたやうであるが、現在教育を受けつつある兵士の中には、これに類する程度の窮迫せる家庭より入營せる者が、決して尠くはないのである
 例へば東京の第一師團管下において、家庭の窮状甚だしきがために、僅かなる陸軍の救護手當を受けつつある者さへ四十餘家族を數へ、第二師團管下においては、その種の者がほとんど全兵士の三割にも當るといふ有樣である。しかして兵士の中の大體七割以上は農村および漁村の出身であつて、またその家庭的事情より見れば、いはゆる無産階級の子弟がその大部分であることを思へば、たとへ救護手當を受けるほどではなくとも、近年の世上の不景氣を顧み、相當窮迫せる家庭より入營せる者が、いかに多いかといふことも自ら察せられる次第である。
 かかる家庭より入營せつ兵士が、その私服を脱いで軍服を着たる瞬間より、まつたく自己を忘れ家庭を棄てて軍務に精勵するはもちろん、一朝有事のさいには君國のために、命を鴻毛の輕きに比して戰場に死力を盡すのであるから、平生直接教育の任に當りつつある青年將校らが、これら兵士の任務の重大と家庭の窮迫とを思ひ合せて、かつは 皇軍の士氣のため、かつは軍隊の團結上、なほさらに人情の上よりして、せめてはこの重大任務に服する兵士らをして、後顧の憂へなからしめたしと念ずるのは當然ではあるまいか。ことに青年將校の中には乏しき自己の給料を幾分か割いて、最も窮迫せる部下の兵士の家庭に月々竊かに送金しつつある者が、近年頗る多いことを記憶しなければならぬ。
 しかしてその結果は政治の成行きに關し、非常なる關心を持つのみならず、政府の財政經濟政策もしくは言存の經濟機構等に關してまでも、その是非を考ふるの風、やうやく將校間に盛んとなるに至つてゐるのである。

 加ふるに近年における疑獄事件の頻發その他により、軍人の現代政治家に對する信頼の念が、一般的に薄らぎたつてゐることも掩い難き事實である。
 もとより多數の青年將校の中には、あるいは事を好む者もあるべく、また必ずしも純眞ならざる者もあるかもしれない。いはんやたとへ純眞なる動機にもとづくとは云へ、驕激なる言動に出づる者を嚴重に取締まるべきはもちろんである。殊に五・一五事件のごとき不祥事の勃發をさへ見たる後であるから、斷じてその警戒に拔かりがあつてはならぬのである。
 さりながらもしも今日における軍人と政治の問題が、たまたまこの種の常規を逸する者に對する處分や暴壓をもつて、いつさい萬事解決するものであるかのごとくに考へるならば、それはあまりに淺薄皮相の見解である。
 なんとなれば問題の本質はすでに上述のごとく、實は忠誠 皇軍に奉じ、熱心に部下を愛育しつつあるほとんどすべての青年將校らが、國家非常時における 皇軍の責務の重大なるを思へば思ふほど、その軍人としての本分を全うするの上より、顧みて國内の情勢を憂へ、殊に兵士の搖籃であるところの農村や漁村の窮状を、なんとか早く救ふの途はないものであらうかと焦慮する處に存するがゆゑである。軍人への勅諭には、

抑々國家ヲ保護シ、國權ヲ維持スルハ兵力ニ在レハ、兵力ノ消長ハ是レ國運ノ盛衰ナルコトヲ辨ヘ、世論ニ惑ハス、政治ニ拘ラス、只々一途ニ己カ本分ノ忠節ヲ守リ  云々

 と仰せられてゐるが、その兵力の消長を直ちに國運の盛衰と見、その本分の忠節を守る點より、右のごとき焦慮と憂憤を抱きながら、しかも務めて軍紀を重んじ、あらゆる世上の俗論と戰ひつつ軍隊の士氣を鼓舞し、おのおのその所屬部隊を守護しつつある青年將校らが、果して一部の輕率なる人々の考ふるがごとく軍紀の紊亂者として、しかく簡單に處罰されて問題が解決するものであらうか。いな一層徹底的にこれをいへば、この青年將校らの國政の現状に對する憂憤こそ、實は一朝事ある際におけるその敵愾心ともなり戰鬪力ともなつて、この國を護る精神と同一なのであることを理解しえざる者は、共に國防を語るに足らないのである。

 われらの知る限りにおいては、軍首腦部のこれが對策はただ「政治上の事はすべて軍務大臣を通じてその希望の實現を期し、皇軍の統制を紊るなかれ」と諭しつつ、ひそかに國政の改革に努め、もつて青年將校らの憂憤の解消を期するにあつたやうである。
 荒木前陸相がその在職中しきりに内政問題に關して發言をなし、常に硬論を主張したる所以もここに存するのであるが、しかもわれらは荒木前陸相の彼の博辨と、彼の大車輪の活動とをもつてしても、なほこの問題の核心をつかんで、その根本的解決に一歩を進むるの上に、努力の足らざりしことを遺憾に感ぜざるをえないのである。これその病に仆れ、かつその遂に辭職の餘儀なきに至りし最大原因である。
 もしそれ齋藤首相以下の他の閣僚諸公に至りては、只管安價なる氣休めに淫して内閣の壽命を貪り、毫もかかる問題に直面して敢然その對策を講ずるの至誠なかりしことは、もつとも非常時内閣の名に反すること大なりといはねばならぬ。
 ここにおいてか第六十五議會に臨む軍部大臣たる者は、もはやいつさいの消極的態度を捨て、もとより掛引きを排し巧智を用ゐずして、極めて率直明瞭にこの情勢を打明け、ことに青年將校らの至當なる焦慮と憂憤を議會に語り、國民に傳へ、もつて全政治家一致の努力と全國民の理解との下に、一日も速かに軍部内におけるかかる風潮の由來せる、根本原因の解消を期せなければならなかつたはずである 同時にまた兩院議員諸君にして、もしかかる點に深く慮るところがあるならば、その議會における軍部大臣に對する質問なるものは、いたづらに見當違ひの言質を取りて自己の氣休めとなすことの代りに、かならずやこの要點にふれ、軍首腦部のかかる重大苦心の分擔と特に兩院議員の自己反省と、さらに進んで問題解決のためにする積極的協力との意味において、質問がなされなければならぬはずであつたと思ふ。しかるに議會の質問應答が共にはなはだ不徹底にして、せつかくの好機會を善用するに至らなかつたことは、惜しみても餘りある事といはねばならぬ。
 なほ軍民離間の聲明書に關する軍部兩大臣の答辯も、その實際に存する奇怪至極なる幾多の事實を擧げずして、あまりに穩便を希ひし結果、いかにも軍部の輕率を證明するがごときことに終つたのは、林陸相の就任早々なりしによるところあらんも、容易ならぬ兩大臣の失態である。

 われらの希ふところはただ一日も早く眞面目なる 皇軍の將士に安心を與へ、その内憂と後顧の憂へとを無からしめて、大元帥陛下の統帥の下に、あめが下のまつろはぬ者共を討ち平げる天業に專心ならしめるにある。しかしてこの一事こそ非常時に直面せる 皇國日本の急務中の急務であるから、政府も軍部も兩院の諸君も、よく事態の本質を究めて、その意味の努力に違算なきを期せられたしと祈るのである』と。
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by sousiu | 2013-02-26 21:29 | 今日は何の日

皇太子徳仁親王殿下御生誕の嘉日なり 

 本日は、皇太子徳仁親王殿下御生誕の嘉日なり。
 親王殿下におかれましては、おん年五十三にましまし、また本年は、皇太子妃殿下との御成婚から廿年を迎へられる佳き年なり。

 慨歎す可きなる哉、營利至上主義の雜誌では 親王殿下に對し、あらうことか御退位を要望する記事があるとか。
 一讀の價値すらなきことを認め、固より宣傳する積もりも毛頭あらぬので、如何なる愚論であるのかサツパリ分らぬが、賣らんかな主義は寔に世を害する畜生の思考である。

 また、本日は、昭和廿一年、マレーの虎と稱せられた従三位勲一等 山下奉文陸軍大將が比國のマニラにて軍事裁判にかけられ絞首刑が執行された日でもある。


 果して如何なる因果ぞや。昭和廿三年十二月廿三日、東京裁判にてA級戰■の汚名を受け、平成に於ける天長節と同じ日に東條英機大將他昭和殉難者が絞首刑を執行され、而して、皇太子殿下の御生誕日に於て、今又た、山下陸軍大將死刑執行の同じ日ならむとは。

 爰に我れら日本人の最も留意せねばならぬことがある。
 東條大將他昭和殉難者は、戰勝國による、當時の 皇太子殿下御生誕の日に合はせられ死刑を執行された。 最早語り盡されたことであるが、用意周到なる彼れらは、日本の前途をも暗黒に染めんと智謀の限りを盡したのだ。
 だがしかし、戰後に於て、巣鴨拘置所處刑に先立つ二年も前に、比國で山下大將は既に昭和殉難者となつてゐたのである。
 戰後より十五年を經た昭和卅五年二月廿三日、皇太子殿下は山下奉文大將の執行と同じ日に御降誕あそばれたのであつた。
 野生の兄事する備中處士樣より、嘗て、とある御方との御縁を賜はつた。その御方の曰く、『皇國は昭和卅五年に、既に戰後史觀を脱却してをりますよ』と。

 皇太子徳仁親王殿下が如何なる神意のまにまにこの日を選ばれて御生誕あそばれたか。米國をはじめとした東京裁判の役者達の驚ろきと云つたら、それは言語を絶するものがあつたに違ひない。恨めしくも彼れらの謀略によつて 今上天皇御生誕日と所謂るA級戰■の處刑日を重ねられたことゝ、山下大將の命日に 皇太子殿下の御生誕日が重なつたことゝは、その本質に於てまるで違ふのである。むしろ正反對である。詳らかに云へば、曩の執行日は遺憾乍ら戰勝國の意志だ。後の 皇太子殿下御降誕日は 皇國の意志だ。戰勝國の連中はこれを偶然と解して氣にも留めなかつたか、或は寒心を覺えたか野生は知らぬ。されど野生は、否、神州の民たる日本人は少なくともこれを偶然とは見做さないのである。

 「戰後史觀の脱却」が叫ばれて久しい。これは昭和及び平成に於ける民族の悲願である。
 敢へて今一度言を繰り返さねばなるまい。皇太子徳仁親王殿下が如何なる神意のまにまにこの日を選ばれて御生誕あそばれたか、と。

 輕率に筆を走らせる賣らんかな主義の記者どもは、「戰後史觀」の眞なる脱却の爲めにも、この事實に能く々ゝ熟慮を要さねばなるまい。
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by sousiu | 2013-02-23 22:06 | 今日は何の日

紀元節  

 本日は、辛酉の年春正月庚辰朔、神武天皇が、橿原宮において御即位の式を擧げさせられたる目出度き日なるぞ。

●第一代 神武天皇 『即位建都の大詔』に宣はく、
自我東征。於茲六年矣。頼以皇天之威。凶徒就戮。雖邊土未清餘妖尚梗。而中洲之地無復風塵。誠宜恢廓皇都、規■(「莫」+下に「手」)大壯。而今運屬此屯蒙。民心朴素。巣棲穴住。習俗惟常。夫大人立制。義必隨時。苟有利民。何妨聖造。且當披拂山林。經營宮室。而恭臨寶位。以鎭元元。上則答乾靈授國之徳。下則弘皇孫養正之心。然後兼六合以開都。掩八紘而爲宇、不亦可乎。觀夫畝傍山東南橿原地者。蓋國之墺區乎。可治之


我れ東に征してよりこゝに六年なり。頼(さいは)ひに 皇天の威を以て凶徒戮につき、邊土(ほとりのくに)いまだ清(しづ)まらず、餘妖なほ梗(たけし)と雖も、中洲の地また風塵なし。誠に宜しく 皇都を恢廓し、大壯(みあらか)を規■(「莫」+下に「手」=ぼ)すべし。而して、今や運は此の屯蒙に屬し、民心朴素にして、巣棲穴住の習俗惟れ常なり。夫れ大人の制を立つるや、義必ず時に隨ふ。苟くも民に利するあらば、何ぞ聖造(ひじりのわざ)たるを妨げむや。且つ當(まさ)に山林を披き拂ひ、宮室を經營し、恭(つゝし)みて寶位に臨み、以て元元(おほみたから)を鎭むべし。上は則(すなは)ち乾靈國(あまつかみくに)を授くるの徳に答へ、下は則ち 皇孫正を養ふの心を弘め、然る後、六合を兼ねて以て都を開き、八紘を掩ひて宇(いへ)となさむこと亦可ならずや。夫(か)の畝傍山の東南(たつみのすみ)、橿原の地をみれば、蓋し國の墺區(もなか)なるか。之に治(みやこ)す可し


○大意(『虔修 大日本詔勅通解』昭和十一年九月十日「龍吟社」發售)
紀元前五年太歳甲寅年日向を立つて東幸の途に上つてからこの方六年、幸ひ 皇天の御威光によつて賊徒もおほむね平らぎ、僻遠の地方には、凶賊の殘徒が尚ほ餘勢を保つてはゐるが、大和地方一帶は土民 皇威に服し、靜謐に歸するに至つた。かくて今や 皇都を建設するべき機運に向つて居ると思はれるので、この地に都をひらき、大規模に 皇都を建設するであらう。幸ひにこの地方の土著民は、平常穴や巣の中に住んでゐて、その性質がすなほでおとなしいから、朕は仁政を布いて、先づ彼等を惠み導くであらう。思ふに大人が制度を立つるに當つては、必ずその時勢に順應した良い制度を立てねばならぬ。かりにも人民の利益になる事であつたならば、たとへ聖人の創造したものであつても、これを變更して、少しも差支へはない。朕は、いま山林をひらき拂つて宮殿を築造經營し、つゝしんで 天皇の位に即き、臣民(おほみたから)の安寧と幸福とをはかるであらう。そして上は 天つ神が、國をお授けになつた御神徳に答へ奉り、下は 皇子孫が、正しい心を養成するよすがとなし、そして後天下を治める爲の都をひらき、國を以て家となし、民を視ること子の如くするであらう。それについて大和國畝傍山の東南にある橿原の地を相するに、國の中央にあたる樞要の地と思はれるので、こゝに 皇都を建設するであらう



◎森清人翁、昭和十一年九月十日、仝書に曰く、
本詔のはじめにある「東征」の語は、古來一般に「東を征(う)つ」と訓まれ、東夷征伐即ち武力行使を第一義とするものゝやうに解されてゐるが、これは 神武天皇御東幸の眞精神を誤るものとして、私はこゝに反對の私見を述べる。この場合の「征」は「征(う)つ」と訓むべきものではなく「征(みゆき)す」と訓むべきものだと信ずる。
 ~中略~ この語を「東征」或は「征つ」と訓むことは、今日學界の常識とされ、誰も不思議とも思つてゐないやうである。現に小學校でも、さやうに教へて居ると聞く、これは國體明徴を叫ばれて居る今日、國體の本義に至大の關係をもつものとして、輕々しく看過すべき問題ではないと信じ、こゝに私見の一端を述べて、識者の教へを乞ふ次第である。先づ字義について述べる。この場合の「征」は「行」と同じく、ゆく、たびだつ、みゆきするの意である。旅行の衣裳を征衣といひ、戴復古の詩に『■(竹冠+「登」)笠相隨走路岐、一春不換舊征衣』とあり、同じく許渾の詩にも『朝來有郷信。猶自寄征衣』とある。旅人のことを征客といひ、その例としては王襃の詩に『飛蓬以征客、千里自長馳』と見えてゐる。これ等の詩の意味によつてもわかる通り、この場合の征には、少しも征伐、征討の意味はなく、いづれも行もしくは旅の義である。その他、渡り鳥のことを征鳥といひ、遠くへ行く舟を征帆といふが如き、何づれもこの例で、伐つといふ意味は少しも含まれてゐない。即ち本詔の「征」も「行」の意であつて、從つて「東征」は、「東(あづま)に征(みゆき)し」と訓むべきものと信ずる』と。

 曰く、
つぎに「東征」を直ちに「東夷征伐」と解し、征伐即ち武力行使を以て第一義的のものだとする見解は、少くとも霸道主義的なみかたであつて、わが國體精神に反するものである。わが國は、いふまでもなく霸道建國の國家ではない。道義肇國の國家である。劒を以て建てた國家に、天壤無窮はあり得ない。ローマを見よ。古代ローマ人が『世界の道はローマに通ず』といひ『ローマは一日にして成らず』と誇り、永遠のローマと信じてゐた大ローマ帝國は、ゲルマンの一庸兵の將たるオドアケルのために、もろくも亡ぼされたではないか。それはなぜか。ルードルフ・イエーリングが言つたやうに『劒を以て征服し、法律を以て統一した國家』であるからである。また秦の始皇は、從來の諡法を用ひず、自ら始皇帝と稱し『二世三世以て萬世に至り、皇統を無窮に傳へん』と豪語したが、僅かに秦は二世十九年にして亡びたではないか。劒をもつて建てた國家が、また劒によつて亡ぼされることは、古今東西、歴史の事實が示す通りである。霸道國家には、斷じて天壤無窮はあり得ない。東征の「征」を「うつ」と訓み、武力行使を第一義的に解するのは、わが國を霸道國家に自ら顛落せしむるものであつて、論理的にいつても天壤無窮の神勅と矛盾するものである。神武天皇が、日向をたつて東に征(みゆき)されたのは、明治天皇も軍人勅諭において、はつきりとお示しになつて居るやうに、中國のまつろはぬものを、まつろはせるために、征したまうたのである。すでに前にも述べた通り、まつろふはまつりあふ(祭り合ふ)の約で、同一の神を祭り合ふこと、言葉をかへていへば同一理想を奉ずることである。即ち 神武天皇は、東國の先住民族に、大和民族と同じ信仰理想を奉ぜしめ給ふべく(まつろはすべく)、征(みゆき)されたのである』と。

 曰く、
『この御詔勅には、わが肇國の大精神がはつきりと示されてあるが、これを要約すれば(一)國家の經營は 皇祖の威靈と御徳との援助の下に之を行ふとの御信念 (二)その時代々々に適應した政治を行ふべきこと (三)苟くも民のためになることは必ず實行せねばならぬとの利用厚生の御精神 (四)民に君臨するには正を養ふの心を以てすること (五)皇化を六合八紘に及ぼし 皇道精神の普及により人類を救はんとの廣大無邊の御思召し等が含まれてゐる。實に言辭莊重にして雄偉、しかもわが 皇道の根本精神が明快に説かれてゐる。この詔勅は前掲 皇祖の三大神勅(※「天壤無窮の神勅」「齋鏡齋穀の神勅」「天孫奉齋の神勅」、下記す)と共に、最も重要な詔勅で、わが國百政の根本精神をお示しになつたものであり、以後列聖の御詔勅は、いづれもこの聖旨を繼承宣明あらせられたものと拜することが出來る』と。





※三大神勅
「天壤無窮の神勅」
葦原の千五百秋の瑞穗の國は、これ吾が子孫の王たるべきの地なり。宜しく爾皇孫、就いて治らせ、行矣。寶祚の隆えまさむこと、天壤と與に窮りなかるべし


「齋鏡齋穀の神勅」
吾が兒、この寶鏡を視まさむこと、まさに吾を視るが如くすべし。與に床を同じくし、殿を共にして、以て齋の鏡となすべし。
また勅して曰く、吾が高天原に所御す齋庭の穗を以て、また吾が兒に御せまつるべし、と。



「天孫奉齋の神勅」
吾が則ち、あまつ神籬及びあまつ磐境を起し樹てゝ、まさに吾孫のために、齋ひまつらん。汝、天兒屋命、太玉命、よろしく、あまつ神籬をたもちて、葦原の中國にあま降りて、また吾孫のために齋ひまつれ。

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by sousiu | 2013-02-11 00:43 | 今日は何の日

文久二年一月十五日、即はち“坂下門外の變”也。 

 百五十一年前の、文久二年一月十五日(太陰太陽暦)は、所謂る『坂下門外の變』が決行された日だ。
 これより凡そ二年前に遡る「櫻田門外義擧」に教訓を得た幕府側は、大名登城の際に於ける警備を頗る嚴重としてゐた爲めに、坂下門外義盟七士(決行は六士)は要撃を實行するも、無念、安藤の背に一刀かすめるのみを以て、全員その場で斬り伏せられた。

 決死隊は以下の七士
   平山兵介
   黒澤五郎
   小田彦三郎
   河本杜太郎
   高畠總次郎
   河野顯三
   河邊佐治右衞門

 決行は、河邊佐治右衞門を除く六士だ。
 河邊氏は當日、早目に現場に着いてしまひ、未だ同志一人もをらず、附近を巡覽してをつた。
 やがて時刻到來、再び現場へ戻つてみると、坂下門外は既に事終はりたる後であつた。



 幕臣の側から「坂下門外の變」に就て説明していたゞく。
○福地源一郎氏『幕府衰亡論』(明治廿五年十二月一日「民友社」發行)に曰く、(※句讀點、送り假名などは野生による)
『坂下の變とは尊攘黨の暴徒數人にて、此の日、閣老安藤對馬守が登城を坂下門外に待ち受け暴殺を行なひたりけるが幸ひに安藤閣老は頭部に傷を負ひて御門内に入り、其の供方の武士防戰して其の暴徒は盡く討ち取りたるに由り、安藤閣老は辛く其の一命を全くする事を得られたりき。
 此の行兇者たる暴徒が各自に懷中したりと云へる書面に據れば、結局幕府が尊王攘夷の實行を怠たりたる過を責て其の罪を安藤閣老に歸し、天に代て之を誅すと云へる單純なる當時の尊攘論に過ぎざりき』と。

 福地氏の目に映ぜし「單純なる當時の尊攘論」とは何ぞ。以下、趣意書全文を掲げる。(原文は漢文混じりなので譯す)



○斬奸趣意書
『申年三月、赤心報國の輩、御大老井伊掃部頭殿を斬殺に及び候事、毛頭幕府に對し奉り候うて異心を挾さみ候ふ儀にはこれ無く、掃部頭殿執政以來、自己之權威を振ひ、天朝を蔑如し奉り、只管ら夷狄を恐怖致し候ふ心情より、慷慨忠直の義士を惡み、一己の威力を示さんが爲めに、專ら奸謀を相廻らし候ふ體(てい)、實に神州の罪人に御座候ふ故、右の奸臣を倒し候はゞ、自然幕府におゐて(原文マヽ)御悔心も出來せられ、向後は天朝を尊び夷狄を惡み、國家の安危、人心の向背に御心を付けさせられ候ふ事もこれ有る可くと存じ込み、身命を投げ候うて斬殺に及び候ふ處、其の後一向に御悔心の御模樣も相見え申さず、彌々御暴政の筋のみに成り行き候こと、幕府の御役人一同の罪には候えども、畢竟、御老中安藤對馬守殿第一の罪魁と申す可く候。對馬守殿、井伊家執政の時より同腹にて、暴政の手傳ひを致され、掃部頭殿死去の後も絶えて悔悟のこゝろ、これ無きのみならず、その奸謀讒計は掃部頭殿よりも趨過し候ふ樣の事件多くこれあり。兼て酒井若狹守殿と申し合はせ、堂上方に正議の御方これ有り候えば、種々無實の罪を羅織して、天朝をも同腹の小人のみに致さん事を相謀り、萬一、盡忠報國のもの烈しく手に餘り候ふ族(やから)これある節は、夷狄の力をかり取り押へるとの心底顯然にて、誠に神州の賊とも申す可く。此儘に打ち過ぎ候うては、叡慮を惱まし奉り候ふ事は申すに及ばず。幕府に於ても御失體の御事のみに成り行き、千古迄も汚名を受けさせられ候ふ樣に相成り候ふの事、鏡にかけて見る如く、容易ならざる御儀と存じ奉り候。この上、當時の御模様の如く、因循姑息の御政事のみにて一年送りに過ごさせられ候はゞ、近年の内に天下は夷狄亂臣のものと相成り候ふ事、必然の勢に御坐候ふ故、旁(かたゝゞ)以て片時も寢食を安じ難し。右は全く對馬守殿奸計邪謀を專らに致され候ふ所より指(さし)起り候ふ儀に付き、臣子の至情、默止し難く、此の度、微臣共申し合はせ、對馬守殿を斬殺申し候ふ。對馬守殿の罪状は一々枚擧に堪へず候へ共(原文マヽ)、今、その端を擧て申し候ふ。此の度、皇妹御縁組の儀も表向きは、天朝より下し置かれ候ふ樣に取り繕ろひ、公武御合體の姿を示し候えども、實は奸謀威力を以て強奪奉り候ふも同樣の筋に御坐候ふ>故、此の後、必定皇妹を樞機として外夷交易御免の勅諚を推して申し下し候ふ手段にこれある可く。その儀、若し相叶はざる節は、竊かに天子の御讓位を釀し奉り候ふ心底にて、既に和學者共へ申し付け、廢帝の古例を調べさせ候ふ始末實に將軍家を不義に引き入れ萬世の後迄、惡逆の御名を流し候ふ樣、取り計らひ候ふ所行にて、北條足利にも相越し候ふ逆謀は我々共切齒痛憤の至り申す可き樣もこれ無く候ふ。扠て又た外夷取扱の儀は、對馬守殿彌増慇懃丁寧を加へ、何事も彼らが申す處に隨ひ、日本周海測量の儀、夫々指許し、皇國の形勢悉く彼らに相敎へ、近頃品川御殿山を殘らず彼らにかし遣(つかは)し、江戸第一の要地を外夷どもに渡し候ふ類は彼らを導き、我が國をとらしめんも同然の儀にこれ有り。その上、外夷應接の儀は段々指し向かひにて密談數刻に及び、骨肉同樣に親睦致し候うて國中忠義憂憤の者を以て、却て仇敵の如くに忌み嫌ひ候ふ段、國賊と申すも餘りある事に御坐候ふ故、對馬守殿長く執政致され候はゞ、終ひには天朝を癈し幕府をたふし、自分封爵を外夷に請け候ふ樣、相成り候ふ儀、明白の事にて言語同斷不屆の所行と申す可く候。既に先達てシイボルトと申す醜夷に對し、日本の政務に携り呉れ候ふ樣、相頼み候ふ風評もこれ有り候ふ間、對馬守殿存命にては、數年を出でずして我が國神聖の道を廢し、耶蘇敎を奉じて君臣父子の大倫を忘れ、利慾を尊び候ふ筋のみに落ち入り、外夷同樣禽獸の群れと相成り候ふ事疑ひなし。微臣ども痛哭流涕大息の餘り、餘儀無く奸邪の小人を殺戮せしめ、上は天朝幕府を安んじ奉り、下は國中の萬民とも夷狄に成り果て候ふ所の禍を防ぎ候ふ儀に御坐候ふ。毛頭公邊に對し奉り、異心を存じ候ふ儀はこれ無く候間、伏して願はくは此の後の所、井伊・安藤二奸の遺轍を御改革遊ばされ、外夷を掃攘し、叡慮を慰め給ひ、萬民の困窮を御救ひ遊ばされ候うて、東照宮以來の御主意に基き眞實に征夷大將軍の御職を御勤遊ばされ候ふ樣仕りたく、若しも只今の儘にて弊政御改革無これ無く候はゞ、天下の大小名、各幕府を見放し候うて自分々々の國のみ相固め候ふ樣に成り行き候ふは、必定の事にこれ有り候ふ。外夷取り扱ひさへ御手に餘り候ふ折に相成り候うて、如何御處置遊ばされ候ふ哉。當時日本國中の人心、市童走卒迄も夷狄を惡み申さぬもの壹人もこれ無く候間、萬一夷狄誅戮を名と致し、旗を擧げ候ふ大名これ有り候はゞ、大半其方へ心なびき候ふ事、疑ふこれ無く、實に危急の御時節と存じ奉り候ふ。且つ、皇國の風俗は、君臣上下の大義を辨じ、忠烈節義を守り候ふ風習に御坐候ふ故、幕府の御處置、數々天朝の叡慮に相背き候ふ處を見受候はゞ、忠臣義士の輩、一人も幕府の御爲めに身命を抛ち候ふものこれ有る間敷く、幕府は孤立の御勢に御成り果て遊ばさる可く候ふ。それ故、この度び御改心の有無は幕府の興廢に相係はり候ふ事に御坐候ふ故、何卒この義、御勘考遊ばされ、傲慢無禮の外夷共を疎外し、神州の御國體も幕府の御威光も相立ち、大小の士民迄も一心合體仕り候て、尊王攘夷の大典を正し、君臣上下の義を明らかにし、天下と死生を倶に致し候ふ樣、御處置希がひたく、これ則はち臣ら身命を抛ち、奸邪を誅戮して幕府要路の諸有司に懇願愁訴仕り候ふ所の微忠に御坐候。恐惶謹言』

 この趣意書は六士の懷中に籠められてあつたものだ。
 幕府はこれを闇から闇へと隱蔽せむと試みたが、如上、決行の機を逸した河邊佐治右衞門が長藩邸「有備館」を訪ひ、彼れの懷中にあつた趣意書を桂小五郎氏が入手したことから、天下が、果ては今日の吾人が知ることゝなつたのだ。人事また寓意あることを思ひ知らるゝ。

 噫、壯烈なり矣、七士。戰死した六烈士は然ること乍ら、河邊烈士も、水戸の産であることを恥かしめることなき士として、その場で自刃して果てた。

 その場に居合せたる伊藤博文公、その模樣を傳へるに、
○『伊藤博文傳、上卷』(昭和十五年十月十六日「春畝公追頌會」發行)
『この事變の起りし日、水藩士内田萬之助(本名、河邊佐治右衞門)なる者、長藩邸の有備館に來り、用談ありとて、桂小五郎に面會を求めた。この時桂は他出中なりしかば、館員奧平數馬出でてその趣を告げしに、然らば御歸宅まで待合せたしといふ。因て奧平は同人を講堂に案内した。
 桂が程なく歸り來りて面會したるに、その男頗る懊惱に堪へざる樣子にて、自分は安藤要撃の計畫に加擔せる者なるが、誤つて期に後れ事を共にする能はず、同志に對し申譯なし、豫ねて弊藩士岩間金平より貴所の聲望を拜聞し居り、かゝる場合に處する心得を承はる爲め推參したりといふ。桂は、これを慰め、國の爲めに命を棄つべき時は、今後も必ず來らん、暫らくいづれかへ身を隱して時機を待たれよ、旅費は自分に於て用立て申すべしと懇切に諭せしに、内田は、その厚意を謝し一寸認めたきものあれば片隅を拜借したしと請うた。因て桂は、これを諾し、酒肴を命じ置きて席を避けた。その中に公(※博文公のこと)が外出先より歸り、桂より事の次第を聞き居りしに、講堂の方にて突然愉快々々と叫ぶ聲の起りしかば、兩人急ぎ往き見たるに、内田は小刀にて腹を切りし上、咽喉を横に鍔元まで刺通し打伏してゐた。公がこれを引き起したるに、未だ息は絶えざりしも、血を吹くのみにて一言も發する能はず、間もなく絶命した
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 福地氏の目に映ずる「單純なる當時の尊攘論」は、安藤の身體に輕傷を加へるのみであつたが、幕府に與へた效果は激甚であつた。

 井伊横死後、幕府は久世・安藤連立内閣を組織し、幕威恢復を當面、焦眉の急とした。だが一方で、和宮御降嫁問題、叩頭外交、廢帝論(これは所謂る流言であつたと看做す可きだが、當時かゝる風説が出で來たりたることもこの内閣では強ち不思議では無かつた)等々、反幕的氣焔は一向に息まず、そのやうな折柄、坂下門外の義擧は出でる可くして出來した。
 この事件に際して、安藤の身體は輕傷であつた。だが彼れの精神、神經には重傷であつた。安藤は三ケ月後の四月十一日、老中罷免を餘儀なくされた。こゝに於てか、井伊の亡靈は完全に祓はれたと看取す可きである。
 而、再び勤王志士の頭は擡げ來たり。同時に幕威は下降の一途を辿ることゝなる。

○蘇峰 富猪一郎翁、『近世日本國民史』 第四十六卷「文久大勢一變上篇」(昭和九年七月卅日「民友社」發行)に曰く、
文久時代は、嘉永安政から慶應明治にかけての、中間の分水嶺だ。文久以前と文久以後とは、均しく孝明天皇の御宇であつても、均しく徳川幕府の末期であつても、殆んど別天地の看がある。文久以前は如何に幕府の霸威が銷沈したとて、尚ほ形式だけは、舊時の面目を存して居た。文久以後に至りては、其の形式さへも、殆んど一掃し去らんとし、且つ半ば以上に一掃し去つた』と。


 蘇峰翁の見解に從へば、文久年間の内に於ても正しく、この文久二年一月十五日に發生した『坂下門外の變』は、幕府命運を別つ一大岐路であつたと見做さねばなるまい。
 なるほど、櫻田門外の義擧は確かに幕府の暴走を停止させた。だが、久世安藤が井伊政策を蹈襲したことによつて井伊イズムは、にはかに惰力を存した。その惰力を奪ひ去つたのが、この「坂下門外の義擧」である。
 世に「櫻田門外の變」は知られてゐるが、併せてこの「坂下門外の變」も廣く、且つ又た後世にまで語られ決して忘れられることなき一事とせねばならぬと思ふのである。
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by sousiu | 2013-01-15 00:48 | 今日は何の日