カテゴリ:大義論爭( 20 )

「辯道書」と、「呵妄書」及び「辯辯道書」 番外  

 『辯道書』に關して聊か長くなつてしまつた爲め、讀み手は嘸ぞ難儀したことであらう。

 篤胤大人の『呵妄書』を寫し終へればそれで全ておしまひとしたのでは余りにも不親切過ぎると感じた野生は、小林健三氏の文章より抄出し、これをお復習ひせむとする。
 讀み易きやう、小林氏の意見を太字、春臺の意見である『辯道書』を緑字、篤胤大人の反論である『呵妄書』を青字とする。
 くどいやうであるが、本當にこれでおしまひとするので、閑暇のあるお方はもう少し、お付き合ひ下さりますやう、冀ふ。

  ~ ~ ~ ~ ~ ~ 

●小林健三氏、『垂加神道の研究』(昭和十五年十二月廿六日「至文堂」發行)所收

■■■ 『辯道書』からみる太宰春臺の思想(神道否定論)に就て ■■■
徂徠學派の神道否定説は、徂徠に發し、太宰純に至つて展開した。
 先づ徂徠は太平策の中に神道を論じて、

「神道と云ふことは卜部兼倶が作れることにて、上代に其沙汰なきことなり」
 といつてゐる。太宰純の辯道書はこれを更に詳細に述べたものである』と。

 太宰春臺は荻生徂徠の思想的影響を濃厚にしたる學者の一人であることはいふまでもない。ま、この場で徂徠をも登場させてしまつてはややこしくなるので今は語る可きではない。

『~中略~ そこで進んで(※純=春臺は)神道否定の根據を説いて曰く、
「凡そ今の人、神道を我國の道と思ひ、儒佛道とならべて是れ一つの道と心得候事、大なる謬りにて候。神道は本聖人の道の中に有之候。周易に、觀天之神道。而四時不忒(「弋」+「心」=たが、不忒=たがはず)。聖人以神道設教。而天下服矣と有之、神道といふこと始めて此の文に見え候。天之神道とは、日月星辰、風雨霜露、寒暑晝夜の類の如き、凡そ天地の間に有る事の人力の所爲にあらざるは、皆、神の所爲にて、萬物の造化、是れより起こり、是れを以て成就するを天の神道と申し候。聖人以神道設教とは、聖人の道は何事も天を奉じ、祖宗の命を受けて行なひ候。されば古の先王天下を治めたまふに、天地山川、社稷宗廟の祭を重んじ、祷祠祭祀して鬼神につかへ、民の爲に年を祈り、災を禳ひ、卜筮して疑を決するが如き、凡そ何事にも鬼神を敬ふことを先とし候は、人事を盡くしたる上には、鬼神の助を得て其の事を成就せん爲にて候。又た士君子は義理を知りて行なひ候へ共、庶民は愚昧なる者にて、萬事に疑慮おほき故に、鬼神を假りて教導せざれば其の心一定しがたく候。聖人是れを知ろしめして、およそ民を導くには必ず 上帝神明を稱して號令を出され候。是れ聖人の神道にて候。聖人以神道設教とは是れを申し候。近世理學者流の説に、君子は理りを明らめて鬼神に惑ふ事無しといひて、一向に鬼神を破り、或は聖人の民を治める術にて、假りに鬼神を説くといふは皆神道を知らざる者にて候。君子三畏の第一に、畏天命と孔子の仰せられ候も、天命は天の神道にて、人智を以て測られぬ故に、君子是れを畏るゝにて候。周易の繋辭に、陰陽不測之謂神といひ、説卦に、神也者妙萬物而爲言者也といふ。皆鬼神の妙にして測られぬことを説かれ候。されば天の命、鬼神のしわざは何の理り、何の故といふことを聖人も知りたまはず、只畏れて敬ふより外のこと無く候。下民を教へたまふも此の心にて、少しも民を欺き、方便して鬼神をいひ立てるにては無く候。此の義は理學者の知る所にあらず候、よくゝゝ御勘辨候て御得心あるべく候。然れば神道は實に聖人の道の中に籠り居り候。聖人の道の外に、別に神道とて一つの道あるにてはなく候」(※「辯道書」と、「呵妄書」及び「辯辯道書」序、參照)
 純によれば神道は吾國の道にあらず、支那聖人の教の中に含有されてゐる、といふのである』と。

 そして曰く、
『~中略~ (純によれば)かくの如く神道は巫祝の神祇祭祀のことではなく、當代に神道と稱するものは佛見によりしものである。從て國家としてこの巫祝の道のみを神道と心得て學ぶことは誤りである。かくて結論として純は次の如く斷定した。
「總じて今の神道といふは、唯一三元といへども皆佛道に本づきて杜撰したる事なる故に、外には佛道と敵するやうにて、内は一致にて候。今の神道の如くなる事、中古までは無き事なる故に、昔の記録、假名草紙の中にも見えず候。是にて聖徳太子の時、神道いまだ有らざりし事を御得心あるべく候。左に申候如く、神道といふ文字は周易に出候て、聖人の道の中の一義にて候を、今の中には巫祝の道を神道と心得候て、王公大人より士農工商に至るまで、是を好み學ぶ者多く候は大なる誤にて、以ての外の僻事と存候。巫祝の道は只、鬼神の給事するのみにて、吾人の身を修め、家を治め、國を治め、天下を治むる道にあらず候へば、巫祝にあらざる者は知らずして、少も事かけず候間、士君子の學ぶべき事にあらずと思しめさるべく候」(※「辯道書」と、「呵妄書」及び「辯辯道書」その五、參照)
「日本には元來道といふこと無く候。近き此神道を説く者いかめしく、我國の道とて高妙なる樣に申候へ共、皆後世にいひ出したる虚談妄説にて候」(※その十三、參照)
 太宰純の神道否定論はこゝに至つて極まるのである』と。


■■■ 『辯道書』及び太宰春臺の思想に反論する『呵妄書』 ■■■

 曰く、
『辯道書の神道否定論に憤激して堂々の論を發表したのは平田篤胤であつた。呵妄書一卷(享和三年。時に二十八歳)は單に太宰氏に對する駁論たるのみならず、本居の神觀をうけて復古神道の立場を闡明した大著である。篤胤の出發點たる意義はこゝに存する。

 次に吾々は兩者の學説を比較して、神道研究の態度を明かにしようと思ふ。
 辯道書に
「神武天皇より三十代欽明天皇の頃までは本朝に道といふ事未有らず、萬事うひゝゝ敷候處に云々」とあるが、篤胤は一應之れを認めた上で激しくたゝくのである。曰く、
「往昔より 皇國の學をもとなへて神典をも説教へし、百識者等西戎國に嚴重なるをしへの道有ことをうらやみ 皇國の古にもさる教の道有りとていふは、皆僻言なる中に、太宰純獨 皇國の古には、道なかりしことを云ひ顯して是を辯ず。實に卓見とも云ふべきか」(※その一、參照)

 吾國上代に支那と對立的なる道徳的な教があつたのではないとするのである。
 然らば神道は吾國の教ではなかつたのであるか。太宰純は明かに神道の獨立的存在を否定して「凡今の人神道を我國の道と思ひ、儒佛道とならべて是を一つの道と心得候事大なる謬にて候」と斷じてゐる。之に對して篤胤は僞物と眞物との區別すべきを論じていふ。

「神道は吾が國の大道にして、天皇の天の下を治め給ふ道なれば、儒佛の道とならべ云ふまでもなく、掛まくも可畏けれど、上 天皇をはじめ奉り下萬民に至るまで、儒佛を廢てたゞ一向に神道を信じ尊まん事、更に謬りにあらず。純が世に在しほどまでは未唯一兩部の輩のみにして眞の道を説くものある事なく、神道といへば錫杖をふり或は鈴をならし大祓詞[俗に中臣祓といふは誤なり]を唱へ其外あやしきわざをのみ目なれし時なれば、爰に神道といへるも專夫れらをさして云へるにて、實に神道を知りて云るにあらねば、深くとがむべきにあらずといへども、此書を讀る人々の 皇國の道は、實にかゝることよと思ひて謬らんことの長息はしければ辨ふるなり。次々に云ふを見て、眞ノ道は俗人の思ふところとは、大に異なることをさとるべし」

 而して太宰純の神道觀の根柢は周易の「觀天之神道、而四時不忒(「弋」+「心」=たが、不忒=たがはず)、聖人以神道設教、而天下服矣」にあつたことは上に述べた通りであるが、之が儒家神道の中心概念でもあつた。故に之を打破ることは神道史上深甚の意義を有するものである。この點篤胤は明快に辨拆していふ。
「太宰のみならず、すべて儒家者流のいはゆる神道は、如何にも周易[上象傳大觀の章]に見えて、爰にいへるごときことを神道といへり。然れども 皇國の道をも本聖人の道の中にありと云ひて、同事に思ひたるは神道と書る文字に拘泥る大いなる僻言なり。今其よしを委曲にいはん。まづ 皇國の道に云ふ神と、周易の神道に神とさすものとは、いたく異なり。其故は周易に神と云は純が云へるごとく、天地の間にあらゆる事どもの人力にあらずして、自に行るゝ其靈妙なる處を神の所以として神道とはいへるなり。然れども實に神と云ふ者有りとていへるにあらず。たゞ其妙なる處をさして假に設ていへる號のみなり。[周易繁辭に陰陽不測之謂神といひ、説卦に神也者妙萬物而爲言者也]其よしは人の云ふを待ずして儒書よむ人は、皆よく知れることなり。また 皇國の道に云ふ神は、古事記書紀の神代の御卷に見えたる、天地の諸の神々にて、[また鳥獣草木山海其餘も尋常ならず、可畏ものを神と云ることあり。委くは吾翁の古事記傳に見えたり]假に設けていへる號に非ず。其神々のはじめ給へる道故、神道とは云ふなり。[古へに通ぜざる人はかく云ふを聞てもまづ疑ふべし]道の體を神妙とほめていへるにては無きなり。 ~中略~ 古へより百の識者等のみな古へを解誤れるは、かゝる事に心付ず、古意古言をば尋んものとも思はず。たゞ漢説の理と文字とのさだめをのみ旨として迷へるが故に、眞の處を曉り得ざりしなり。純が周易の神道と 皇國の神道とを同じことなりと云へるも、皆、文字に泥めるが故なり。[すべて 皇國の古は文字によらずして解ざればさとりがたし]すべて少しにても似寄たることあれば、強て西土を本なりと云ひて、いはゆる牽強附會を云ふは、普通の神道者と西戎書籍にのみなづめる儒者どもの癖なるぞかし」

 これは非常なる卓見であるが、更に一段と這般の道理を闡明して餘す所ないのは次の論定である。太宰純は周易の神道の内容を説明して「聖人の道は何事も天を奉じ祖宗の命を受て行ひ候云々、凡何事にも鬼神を敬ふ事を先とせしは人事を盡したる上には鬼神の助を得て其事を成就せん爲にて候」といつたが、之をその根柢に於いて粉碎したのは左の言である。篤胤の曰く、
「聖人以神道設教の七字をとけるやう、爰には祖宗の命を受て行ふと云ひ、又、人事を盡したる上には、鬼神の助を得て其事を成就せん爲にて候など云ひて、實に神を敬ひ氣にて少しは道に叶へるさまに聞ゆるを、次には庶民は愚昧なるものなれば、鬼神を假て教導すと云ひ、又は民を導くには必上帝神明を稱して號令を出され候など云ふは、一紙一表の中にして忽に齟齬せり。然れ共、聖人の道の意は次に云へる趣ぞ。其意を得たる説ざまに有りける。
 さて爰に聖人の道は、何事にも天を奉じと云へるは然る事にて、漢國人の俗として、何事にも天の命とか云ひて、天は賞罰正しく心も有るものゝ如く、いみじく可畏きことに云ふことなれども、天は諸の天津神等の坐ます御國にて、[かく云ふを聞て、漢意の人、耳なれずとて不審ることなかれ]更に心など有るものにてはなく[天則不言而信などいへるも、大いなる空言にして、漢國にても少し見解あるものは、天命など云ふをば□□りぬ]彼の天命など云ふは、皆古への聖人の云ひ出したる言にて、所謂寓言なるをや。[この事も末にいへり]また祖宗の命を受けて、行ふと云ふも然る事にて、皇國にこそあれ漢國などには、更に無きこと也。たまゝゝ書經[説命の上]に夢帝賚予良弼と云ふ事、見えたれ共、是も史記の頭注に據るに殷人は、鬼神を尊む風俗故、武丁夢に托して傳説を擧げたるものなり。[外にもかゝる類まれには見ゆれど大概右の類なるべし]逆臣どもの君を亡し、國を奪ふ時などに、天の命を受たり。祖宗の命を受たりなどと云ふは、皆かこつけの空言なり。また天地山川社稷宗廟の祭を重んじと云へるも、社稷宗廟の祭などは、先祖を祭るにて、是とさして祭るもの有れば、然ることなれども、天地山川などを祭るは 皇國にては、正しき傳説有りて山ノ神も川ノ神も御名なでも、つぶさに傳はりて祭るなれば、正しきを西戎國にては傳説なく、たゞ心もなき天地山川を祭るにて、譬へばいたづらに其座ます宮殿を祭るが如く、いはゆる虚祭と云ふものなん有りける」
(※その三、參照)

 舌端火を吐き、眞に堂々たる意見であつて、太宰純の議論は、こゝに鐵鎚を下されて完全に敗北したのである』と。


 書籍名が『垂加神道の研究』としながらも、篤胤大人の『呵妄書』に就て少なからず書かれてあつたので、“まとめ”として之を抄出した。
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 次囘の「大義論爭」、乞ふ、御期待。




※※※※※※ 追伸 ※※※※※※

 今日は抃喜せざる可からざるの吉報がある。
 もつこすゞきだ君が、熊本の有志と一心戮力、熊本市に『神風連の』から『神風連の』へと改名せしめるやう再三再四に亘りて申し出るや、その衷情漸く市の意に達し、今度び正しく書き換へられるに至つた。
 てつきり彼れは今ごろ警視廳に逮捕拘留されてゐるとばかり思うてゐたが、相變はらず肥後圀で活躍してゐたのだなア・・・。千兩千兩(←井上井月翁風に)。↓↓↓↓

◆◆◆ もっこすのための熊本愛郷新聞 ◆◆◆ 「乱」から「変」へ。記載変更!!
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 實に芽出度き哉。雀躍たる思ひを抑へきれない。う~~~む・・・・・、かういふ時、井月のごとくお酒が飲めたらなア・・・。ま、兎に角、まづは青汁で乾杯だ。
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by sousiu | 2013-10-24 22:21 | 大義論爭

「辯道書」と「呵妄書」及び「辯辯道書」 その十九 終はり  

 遂にこのシリーズも今囘もて終はりだ。
 途中で何度、止めようと思うたか。そんな時、秋風之舍主人の顏がチラ付き、誰れも讀んでゐないだらうといふ孤獨に耐へながら(あ、いや。少なくとも下山といふ病人、元へ、變人の學生がをつた歟)こゝまで來た。
「大義論爭」は初めての試みであつたので、聊か進行に戸惑ひ無理があつたことは認めねばなるまい。けれ共、何となく要領も掴みかけてきたので、次囘はも少しマシになるのではないかと思ふ。次々囘はもつとマシになるだらう。ま、長い目で見守つていたゞきたい。

  ~ ~ ~ ~ ~ ~ 

 承前。

●大壑 平田篤胤先生『呵妄書』に曰く、
『さて又前に申たる純が説の堯舜の道に非れば、世に立事能はず候とある、其文の續きに、されば中華の古代も日本の今の世も、天下はいつも堯舜の道にて治り候云々。諸子百家を悦び、或は佛道、或は神道を好むは、其國家の亂るゝ端にて、譬へば病なき人の妄に吐下攻撃の藥を服するが如くなるべく候とある。

 此中華の古代と限つて云たは、いとをかしきことだ。堯舜が道は、西土にては古代に計り益ありて、後代には益なき道で有うか。夫を大中至正の道とは何ごとだ。~中略~ 堯舜が道を功あるさまに云はうとのみすれども、さすがに彼の國の世世に聖人の道と云を用ひて治つたることなく、亂りがはしきを思へば、古今に渉つて大中至正の道とうけばりては、云ひかねたと見える。然も有るべきことだ。未くはしくは考へ通(わた)さゞれども、漢土の世々に五十年とよく治まりたることは有るまいとぞ思ふ。漢土の古代は治つたと云も覺束なく、況て其後の事は上に段々に云やうの如くなるものを、今何國(いづ-く)に用ひたりとも、何の益が有らう。強て歡び好むときは、たゞ國家の亂れる端にて、譬へば病なき人のみだりに吐下攻撃の藥を服するが如く、更に益なきのみにあらず、終には廢人となることあり。よくゝゝ心すべき事でござる』と。


 また曰く、
『譬(※たとへ)如何ほどすぐれたる人にても、稀(まれ)々には誤りなきには有らねども、純は第一に大本立ざる學文故に、僻言のみ多いでござる』と。

 今日の良くわからん自稱保守派言論人などは論外とするも。吹氣廼舍大人のこの一節は、古今に通じて學者なり思想家なり經世家、延いては政治家の聽き逃がす可からざる一節だ。

 余談となるが、先日の講演で、拙くも孫武の「彼れを知り、己れを知れば百戰して殆ふからず」の一節を引用した。當時の學者らは「彼れ(漢土)を崇め、己れ(皇國)を卑しめる」ものであつたし、今日の自稱保守派らは「敵(彼れらのいふところの支那・南北朝鮮、或は米國)を知り詳しくあるも、己れ(日本)に就ては然程知らうとはしない」ものである。然るに彼れらは「神州不滅」たる 皇國の大眞相をうたがひ、あやしみ、「日本は滅びる」なぞと平然とうそぶくことをやつてのけるのだ。兵法に從へば假りに百戰するも乃はちあやふきものであつて、これをば野生は嘆かざるを得ないのである。かういつた妖言や魔説をバラ撒かれることは、皇國の偉大を確信して聊かも疑はない吾人にとつてはた迷惑なことこの上ない。譯知り貌で「松下村塾」を語つてみせる自稱保守派文化人は、吉田松陰先生の曰く、「(※天壤無窮の)神勅相違なければ日本未だ亡びず。日本未だ亡びざれば正氣重て發生の時は必ずある也。只今の時勢に頓着するは神勅を疑ふの罪輕からざる也」との言に耳を澄ます可し。皇國(自國)に對する絶對的確信あらざる 皇國の保守派なぞ、凡そ國益保守にせよ國土奪還にせよ主權恢復にもせよ、その主張は長年に亘りて猶ほ空しくある而已矣。
 何にせよ、基礎なき上に積み重ねられた見識なぞ、皇國に害こそあれども何らの益を齎すものでもない。況やその基礎が太宰の如き慕夏に於てをや。


 又た曰く、・・・個人的には注目す可き一節だ。(個人的な拘はりから下線を引く)
『宋儒の學を唱ふる儒者をば、聖人の旨に違つたといひ、口を極(きはめ)て呵つたなれども、彼宋儒流の輩といへども、大概は純が如き僞儒者にてはなく、春秋の意を守りて、我が國を尊み山崎闇齋淺見絅齋などの云つた説には、いとも勇ましく猛く雄々しき 皇國魂の言も多いでござる。夫は純が[淺見安正(※絅齋先生のこと)の説に云々]學風は是らと表裏にて、もしや昔元の世祖が如く 皇朝を襲ひ奉らうとて、西戎より攻來ることも有るならば、中華の天子に射向はんこと、東夷として有るまじきことぞなどいひ觸て、歸命投化とこゝろ得、甲(かぶと)を脱て西戎の膝下に屈(かゞ)まり、國を賣らんとするものは、かやうの儒者で有ると思ふ。かゝるものをば、佛者すら獅子身中の蟲と號(なづけ)て甚も々ゝ憎む事でござる。~中略~ 人、學ばざれば道を知らずなどいふ言も有れど、學文も純がことく學では、大に國の害となることで、更に學文もなき農夫山賤の類は、一向に我が國の尊き物なる事を思つて外に餘念なき物でござる』と。

 結論に曰く、
『かゝる穢汚(きたなき)心の有りながら、己れ道を得たり氣に、一向に孔子を信じ候。孔子も我に印可して下されなど申たは、餘りに押の強い事でござる。純がごときものに印可する孔子ならば、更に好人とは云はれまい。是は或漢籍に欲讐僞者、必假眞と云た如く、みな愚人を誘はうとての、たばかりごとぢや。實に孔子を信ずることならば、其教をこそ守るべき事有に、更に其意とは異にして、今の世の賊僧どもの、己が道の五戒をば更に持あたはずして、漫りに釋迦を尊み顏すると同じことなり。憎むべし々ゝゞゝ。

 此書の論どものなかに、まゝ春臺が意をしばらくたすけて、論へることもあり。また俗(よ)に耳なれたることのまにゝゝ、論ひなせるも少からぬは、こは心ありてなり。讀ん人其こゝろして見わかち給へねかしとぞ。

享和三年癸亥十月
     眞菅館のあるじ
           平篤胤』と。


 をはり。おやすみなさい。
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by sousiu | 2013-10-23 04:11 | 大義論爭

「辯道書」と、「呵妄書」及び「辯辯道書」 その十八 

 近畿地方を遊學及び遊説(苦笑)して周つてゐた間、記事を更新出來ずにあつた。
 迂闊にも數日間、放つておくと、何處まで進んだのかわからなくなる。御來車いたゞく皆樣では猶更のことであらう。
『呵妄書』も、もうぢき終はりだ。一氣に完了したいところであるが、少々熱つぽいので、今日は少しだけ進めて擱筆したい。
 颱風と共に歸つてきたのが良くなかつた。寒暖の差が甚だしい折柄、皆樣も御自愛御用心を。

  ~ ~ ~ ~ ~ ~ 

○平田篤胤先生『呵妄書』(享和三年癸亥十月刊)に曰く、
『純また申たには、偏屈なる儒者は、諸氏百家を異端邪説と名づけて、其書を讀ざる故に、其道を知らず。一概に取べき處なき樣に存候云々。畢竟諸子百家も、佛道も、神道も堯舜の道を戴かざれば、世に立こと能はず候と申た。

 偏屈なる儒者のみならず、その偏屈ならぬとほこれる純も、堯舜が道の外なるをば、みな左道なりと云へるにあらずや。是名こそ異(かは)れ、同く異端邪説と名づけたるものなり。其書を讀ざる故に、其道を知らずなど云へれども、其見たりとほこる人も、見ぬものと同く、斯偏屈なることをのみ云ふは、返りて見ぬ人こそましならめ。總ての道を堯舜が道を戴ざれば、世に立こと能はずなど云たは、實に大笑に堪たることだ。
[然れども此書に斯云ふかと思へば、またほかの著書には、凡禮義には定れる體なしとも、其世に居ては其世の禮義をかたく守るを君子とするとも云へりしは、更に見識定らず醉人の心地す。されど、今は姑く此書によりて云ふ]

~略~ 國々の禮各異なり。然れども其敬の心をあらはすは同じことなり。必しも堯舜が教の如ならざれば、道にかなはぬなどと思ふは、更に云ふにも足らぬ狹見なり。世に漢學に迷へる者どもが、彼の國の書どもに、中華は萬國の師なりなどゝ戎人(から-びと)の狹き心より、云出た漫言(みだり-ごと)を聞て、如何にも然ることと心得、漢國の教に有らざれば、諸事を爲し得ぬごとく一向(ひたすら)に思ふ様子だが、甚しき愚なり。から國の教と云ものは、我が 皇國の正しき上より見れば、知れたることをことゞゝしくをしへたるものだ』と。

 又た曰く、
『禽獣すら烏に反哺の孝あり、雁に兄弟の義があり、狼に父子の親あり、又蟲にも蜂蟻などには、君臣の義もありなど云ふことどもの、漢籍にも何くれと見えて有る。是等も堯舜が道の及んだと云もので有うか。人として堯舜が教に有らざれば道を知らずと云ふのは、國に對し先祖に對し、禽獣にも劣つたる不法者と云ふべし。純など則これでござる』と。


 おやすみなさい。ごほん。
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by sousiu | 2013-10-17 20:36 | 大義論爭

「辯道書」と、「呵妄書」及び「辯辯道書」 その十七 

●佐々木高成先生『辯辯道書』下卷に曰く、
『此書に辯道者、佛道も神道も堯舜の道を戴ざれば世に立ことあたはず候、されば中華の古代も、日本の今も、天下はいつも堯舜の道にて治り候 ~※純が文の引用なり~ などゝいふ事、是亦無體配(た-はいも-なき)いひぶん也。

 凡て辯道書の一篇前後の合ぬ事のみなり。前にながゝゞしく佛戒佛道を説て、釋迦の本意は心の物に繋縛せられず、愛念妄想を斷滅し、心の清淨を行ひ、身に糞壤衣(ふん-じやう-え)を着、口に馬麥を食し、樹下石上に宿するが佛者なりといへらずや。それが堯舜の道をいたゞかざれば叶はざる事とはいかなる兩舌ぞや。勿論今の肉食女犯をなし、金銀をたくはへ、師弟の因を求め、寺院を禪るなど在家に等しき事有故、如斯(※斯くの如く)いふとならば、それは俗人の身持にして釋氏の境界にはあらず、今の世無道墮落の邪僧を見て、堯舜の道を戴くとはかたはらいたく覺え侍る。猶、吾道において堯舜の道を戴ざればとは、さりとは無禮不忠の惡言曲學者は清より來りて吾國を別業(しも-やしき)になせしものゝごとく覺えるは淺まし。上神代より中古人王の始方までは、天下安泰に治り、君臣父子、夫婦兄弟、朋友の道自然に行れて其曲を盡す。儒教の來り行はるゝ事は漸、千有餘年にして、それより始て道のひらくるにあらず。儒書の來らざる以前、神人すでに天道人道を明らかにしめし、耕稼陶漁の術、卜占醫藥、暦軍の道にいたるまで、そなはらざる事なし。古書を考へて其疑をとくべし。

 中古漢土の書わたり來りけるを、神道にかなうて、邪説にあらざる事はこれをすてず、其羽翼となして可なり。應神帝、天智天皇、大織冠鎌足公、此理に明にして儒教を兼用し給ふ。今の腐儒曲儒我道を外にして、儒教ばかりを以て天下を治めんと思ふは、蟷螂が斧を以て龍車に向ふよりも愚也。

 近世我國の儒生を見るに博識多聞なるものありといへ共、實に己を修めて聖賢者となるものはなし。口に聖經を説ども、身心は名利色欲に溺れて無學のものに劣れり。又は一種の學流を立る者ありて、臂をすり、目をいからし、人の惡をせめ、殘忍刻薄至らざる所無く、纔(※わづか)の非を改めて親族離別し、師弟寇讐のごとし。如斯學ばんよりが學ばざるにしかじ、か樣の儒學の害勝て計ふべからず。何を以て堯舜の道ならざれば我國治らずといふや。禮樂刑制ともに異邦の事は一つも用ひずして吾國風の式に隨ふのみ。五刑の類三千も用ひずして吾三百威儀三千も用ひず、大牢の滋味とて牛をも食はず、衣服、法式、家居、器物までも、一つとして用る事なし。其澤をかふむる事、堯舜にうくとせむか、我國日の神にうくとせんか。今日行ふ所の五倫、日用の道みな日の神のたれ給ふをしへなり。

 儒道果して神道に同じくば、神道すでに是を明らかにす。若又神道にたがふ所あらば天道にも戻(もとれ)りといふべし。彼が學ぶ所の道も、訓詁詞章は得る所も有べし。聖學深長の所においては道をとくのみ。復りて本心ひらけなば予が言の金言なるをしるべし。

 又辯道書の最後に學術の事を論じて子思、孟子より以下を棄て、唯孔子より上を學ぶべしとの言、辯道者が邪説の病根なり。孔子は孟子讚せるごとく、生民あつてより以來、孔子のごときはあらず、集て大成の聖なり。孟子もねがふ所は孔子を學ばんといひ、宋に至ても程朱繁詞累言して、孔子の聖徳を讚ず。人もとよりしる所にして、太宰氏が贅言をまたず。又古學を談ずるもの前に述るごとく、心性の事は思孟に始るやうに謂て、古聖經には無きといへる事をば、易、書經、論語等を援て是を辨ぜり。曲學者が古學は根無草(ね-なし-ぐさ)の水上に浮べるごとくにて無禮配固學(※た-はい-なき-古學)なり。儒道に於て論辨し、責べき事は枚擧すべからずといへ共、強て吾道に與る事なければ辨ずる事を得ず。若此辨文、博雅の君子是を見給はゞ、無禮の過言卑陋に思ひたまはんずれども、我國帝王の太祖天照大神の政道を侮り謗り、我國王の恩をかふむりて其洪恩をわすれ、吾國を道なき夷狄とし、吾國王を虜首となし、我身を禽獣と伍をあらそふの位におき、■(立心偏+曹=きう)然として百年を過るも又國賊の魁、無智の甚しき彼が爲めに涕泣するのみ。
 小人天命をしらずしておそれず、吾國神聖の言をあなどる、予ふかく太宰氏がために誦するのみ
』と。(「辯辯道書」をはり)


 『辯辯道書』も終はつた。留守希齋翁の跋文があるのだが、それは既に掲げた。↓↓↓
                             http://sousiu.exblog.jp/20036942/


 ところで平泉澄先生は『闇齋先生と日本精神』(昭和七年十月廿三日『至文堂』發行)に於て、かく述べてゐる。
 曰く、
『中華思想といふのは支那人の尊大傲慢より起り、支那を以て世界の中心、最高の文化國となし、他國を以て偏在の地、卑賤の俗となすもの。もとより其の誤れる事、明白であるが、當時漢學惑溺の輩は之に氣付かず、好んで中華と稱して支那を尊崇し、却つて我が國を賤しむの風があつた。殊に甚だしかつたのは荻生徂徠の一門であつて、徂徠自身東夷物茂卿と署した事は有名今更いふまでもなく、その門人太宰春臺の如きもこの弊頗る著しかつた。
 彼が和漢帝王年表に序して、「我が東方の年紀を以て中華の年紀に合せて之を表す」といひ、又對客論文の中に「夫れ詩は華夏の雅音なり、故に異邦の人といへども、固より當に華夏の正音を以て之を直讀すべし、而して此方の人華夏直讀以て其の意を通ずる能はず、故に方言を以て之を譯す」云々といふなど(春臺先生紫芝園後稿)いづれも主客顛倒の弊に陷つてゐる』と。彼れらの有樣推して知る可し。

 曰く、
『この點について闇齋先生の説を見るに、先生は晩年に至り、俗儒が支那を中華と稱し中國と呼ぶを非として之を排斥し、日本紀が西土といひ、西地といひ、又は大唐と書せるを擧げて之に從ふべしとし、殊に聖徳太子が隋におくられた國書の中に、我が國を日出處といひ、支那を日歿處と名づけられたのを讚歎稱美された事は、隨從した門人澁川春海の詳しく谷秦山に語つたところであり(秦山集)、先生の文集を見るに、或は神國といひ、或は豐葦原中國といひ、或は本朝といひ、少しも自卑の風がない。即ち先生は支那の中華思想に屈服せられなかつた事明瞭である。ひとり華夷の辨のみならず、先生の批判は極めて周到であつて、世間の儒者が京都の事を洛陽又は長安といふを排し、これは異國の地名であつて、我が國に用ふべきでないとし、須らく 皇都と呼ぶべしと説かれた事が秦山集に見えてゐる』と。
 崎門の一派の姿勢をも以て知る可し。『辯道書』の、忽ち筆誅の的となるや必定で無くして何ぞ。
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 抑々崎門の學派の姿勢は、當時の學者間に於て一種の腫れ物の如く見做されてゐた。乃はち、下に掲げたる一文を以て察す可し。
○徳富猪一郎翁『近世日本國民史 第十六卷』(昭和十一年一月廿日『明治書院』發行)に曰く、
『山崎闇齋の朱子學は、直ちにそれが宗教であつた。彼は日蓮が一部の法華經に據り、一天四海皆歸妙法を唱へたる如く、小學、近思録、四書、周易を經文として、朱子學を唱へた。而して其の破邪顯正に於て、勇往、邁進、毫も顧慮する所がなかつた。其の自から是とする甚だ固く、他を非とする甚だ嚴に、而して學問の要は、實行にありとし、實行の要は、持敬にありとし、其の戒律を勵行して毫も假借する所がなかつた

『大攫(おほ-つか)みに分類すれば、林家の朱子學は軟派にして、南學のは硬派であつた。而してその南學が、山崎闇齋を經來りて、更らに硬中の硬となつた。闇齋其人は、必ずしも攻撃せんが爲めに、攻撃するものではなかつたであらう。然も其の攻撃には、決して餘力を剰(あま)さなかつた。彼は朱子の研究的精神や、朱子の博聞審思を學ばずして、直ちに其の辯難駁撃、反對者に向つて、寸毫も假借せざる所を學んだ。彼は自から護道の天職を有する者として、其の一世を相手とした。されば彼は實に、軟派の朱子派に對しては、一種の恐怖であり、脅威であつた』と。

 「朱子の博聞審思を學ばずして云々」のくだりは、ちと極端なる言ひ方であると思はれなくもないが、いづれにせよ、その師ありてその弟子あり、如何に闇齋一門が當時の學者連中に恐れられてゐたか、その一斑は充分に察せられる。

 餘談であるが闇齋先生の、殊に垂加神道は、次囘掲げる平田篤胤先生など、復古神道を提唱する學者からの論爭を餘儀なくされてゐる。

 このやうな學問の庭に於ても、頗る活發な戰ひが展開され、繰り返へされ、而、日本魂は堅固となつていつたのだ。
 公安警察や機動隊の兩側で、互ひに罵聲を浴びせ合ふことを敢へて全く無駄とは云はない。けれども、その繼續をするたゞそれだけで、况やヘイトスピーチを繰り返してゐるだけで、容易に日本魂が恢復するとも野生は思へないのである。
 
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by sousiu | 2013-10-11 01:39 | 大義論爭

「辯道書」と、「呵妄書」及び「辯辯道書」 その十六 

 本日は木川家から最華を賜はつた。
 按ずるに、過日、貴田誠氏に連れて行かれた田植ゑにて、木川家が持ち歸へつた苗であらう。季節のうつろひは本道に早いものだなア・・・。

 神前に御奉納申上げ、五穀豐饒、家内安全を祈願す。
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  ~ ~ ~ ~ ~ ~ 

 太宰春臺の『辯道書』もいよゝゝ本日を以て終はりだ。
 成る可く議論となり得る部分は殘し、抄録に努めた積りだが。固より『辯道書』は決して短い書物ではないので、上手に拔き書き出來たか、ちと自信が無い。ま、その内、作業も慣れてくるであらうので、御寛恕賜はりたい。


○太宰春臺、『辯道書』(享保廿年)に曰く、
『~前略~ 今の人は聖人といふ名をだに知らず候は、淺ましき事にて候へども、是却(※これ-かへつ)て聖人の徳の廣大なる驗(※しるし)にて候。如何にとなれば、聖人の徳は日月の如くなる物にて候。此世界の人、日月の光明に照されぬ者は無く候へ共、一人一家の爲に出たる日月にあらず。萬古以來の日月にて、世界に遍滿する光明なれば、誰にても一人殊更に日月の徳を感戴して、有がたくおもふ者は無く候。若(※もし)とこやみの國に日月始て出候はゞ、人皆奇異の思ひをなして、尊く有がたく存ずべく候。聖人の道も其如く、若海外の遠き國などの人倫の道なき處に、聖人始て出たまひて、今の如くの仁徳を施した まはゞ、 士民等希有の思ひをなして、其徳を感戴すべく候。

 凡聖人の徳は廣大無邊なる者にて、一人づゝに賦(くば)り與へざる故に、其世の人も恩を受るが常になりて、是君の惠ぞといふ事を知らず候。況や千萬世の後に及で其道四方に行はれ、上下萬民ことゞゝく其教を受て、仁徳に化育せられ候へば、昔の聖人といふは如何なる人にて、聖人の道といふは如何なる事ぞと尋る人さへ無きは尤もの事にて候。是すなはち聖人の徳の廣大無邊なる驗にて候』


 曰く、
『偏屈なる儒者は、諸氏百家を異端邪説と名づけて、其書を讀まざる故に其道を知らず、一概に取べき處なき樣に存候。佛法を惡むことは又諸氏百家を惡むよりも甚しく、僧をば人類にもあらぬ樣に思ひ、天下の事を論ずるにも佛法を絶さずば、國家は治まるまじくなど申候。善く學問して先王の道を明らめたる上にては、諸子百家の道は國家の病を治する良藥にて候。釋氏は國家に預らぬ者にて、僧は古の巫祝の類なる者なれば、上の政たゞしき時は國家の害になることもなく候。

 日本の神道は又殊に小き道にて、政を妨ることあたはず候。畢竟、諸子百家も佛道も神道も、堯舜の道を戴かざれば、世に立ことあたはず候。されば中華の古代も日本の今の世も、天下はいつも堯舜の道にて治り候』と。

 大分、春臺の慕華ぶりも遠慮がなくなつてきた。以爲らく、春臺が彼れの主張として最も力瘤を入れたる部分だ。『辯道書』も結論に近付くにつれ、春臺の本音は更らに露骨とならざるを得ない。


 曰く、
『諸子百家を學ぶ者も僧道も巫祝も、皆ことゞゝく王者の民にて、王法の外に出ることあたはず候。若國家を治る人、堯舜の道を學ばずして諸子百家を悦び、或は佛道を好み、或は神道を好むは、其國家の亂るゝ端にて候。譬へば病なき人の妄に吐下攻撃の藥を服するが如くなるべく候。堯舜の道を傳し人は孔子にて候。孔子の教に從て堯舜の道を學び候得ば、天下の事、何にても足らぬ事なく候。貴公も聖人の道をば御好み候へども、宋儒の説を御用ひ候て古義に通じたまはざる樣に、心を治る一事に於て聖人の道を捨て、佛道を御信用候は口惜き御事にて候。

 禮義を守れば心は治るに及ばずして獨治まる故に、聖人は心を治ることを教給はず候。若、心を治て善き道理あらば、堯舜より孔子まで數多の聖人の中に、前の聖人いひのこしたまふとも、後の聖人必これを仰らるべく候。三才を極たる聖人の道に、此一事を闕べき道理なく候。よく御考あれかしと存候。先王の道は孔子に至て大成を集て教を萬世に垂たまひ候。

 然るに子思孟子より少づゝ差ふ處ありて、宋儒に至て大に差ひ候。今の學者孔子を信ぜずして、程子、朱子を信ずる故に、古聖人の道に達せず候。我等は子思、孟子より以下を捨て、只一向に孔子を信じ候へば、聖人の道は極て明になり候。

 純さいつごろ人の爲に著し候假名草紙聖學問答に、古學の大意を述候。若、御志も候はゞ、後日に進覽すべく候。先此答書を反覆して御覽候て、御不審も候はゞ再問を待申候。凡そ純の申す所は、ことゞゝく先王の法言に依て孔子の教を述候。胡亂(う-ろん)なる説にあらず、一々證據ある事共にて候。疑慮を御止候て、委細に御勘辨あるべく候。不具謹言』と。(をはり)

  ~   ~   ~   ~  

 春臺の僻事も是れで終はつた。
 つくゞゝ讀みかへし何人も解せられるがごとく、このやうに心、西土にあるの者が一碩學として名を馳せてゐたといふのであるから、已んぬる哉、當時學問の庭が如何に 皇國にとつて瘠土であつたか察するに決して難くはない。

 學問の齎す影響は少々では無い。その學問を肥料とした上で見識が養はれ、更らに思想が開花する。而、その思想が政治制度と歿交渉に非ずとするならば、之と果敢に對決を繰り返したる先人の研學と成果は將さに吾人にとつての學恩とす可きものなのである。

 兎にも角にも『辯道書』にまつはる論爭も終はらうとしてゐる。

 今暫くお付き合ひ下さらむことを。
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by sousiu | 2013-10-09 18:11 | 大義論爭

「辯道書」と、「呵妄書」及び「辯辯道書」 その十五 

 昨日に續き今日も日本誠龍社に關する話題であるが、先ほど、依頼されてゐた同社機關紙創刊號の寄稿を書きをへた。
 貴田會長との御交誼はかれこれ十年以上となる。日本誠龍社はこれまでも果敢に運動を展開してきたが、こゝ最近は、運動形態を見直しつゝあり、殊に貴田會長は積極的に農本主義を研究し、各地の農家と親交を深め、自らも實踐されてゐる。
 時折、晝間に電話があり。「今、神田の古本屋にゐる」と。
 專ら戰前の古書を蒐集し、一晩中讀んでゐるのだとか。晴耕雨讀の實踐者である。羨ましい限りだ。

 時代の流れか、最近、そのやうに運動方針や組織形態を見直す團體や有志が本當に多くなつた。後が恐いので名前は伏せさせていたゞくが(汗)、意外なる團體が路線轉換を始めてゐる昨今だ。舊態依然と、温故知新はまるで違ふといふことだ。

 私見を述べればかうした動向は歡迎す可きことであり、同時に必然であると思つてゐる。自らをして尊皇の基礎を固めてから時局を論じても決して遲くはないし、否、むしろそれ無くして徒らに騒いでみたところでそこからは何も産まれない。この日乘でさへ、有難いことに一日平均、六百人を超す來場者がある。來場者の數は固より野生の卑見に依るものではなく、先哲の御尊名や著書に與るものであるが、それにしても「篤胤」「國學」「三條」「神國」「尊王」などてふキーワードで檢索される御仁の、少々であるとするも決して僅少でもないことが頼母敷く思へるのである。

 目下ヘイトスピーチの街宣を巡り是々非々が論議されてゐる。全くと云うて宜いほど野生には關係ない。


  ~ ~ ~ ~ ~ ~ 


○平田篤胤先生『呵妄書』(享和三年癸亥十月刊)に曰く、
人に父母なき者は無く候。禽獣は乳哺の養を受る時、父母を慕ふのみにて、少し長じて離別すれば、親は子を忘れ子は親を忘れて、後には親となど、食を爭ひ候。人も本は禽獣の如くなりしを聖人是に親愛の情を示し、孝敬の道を教玉ひてより父子の道始り候。 ~※純が文の引用なり~

 西土の人は本は禽獣の如くにして、親と子との親みをも知らず、親と子と、食をあらそひなどしけるを、聖人是に親愛の情を示し、孝敬の道を教へてより、始て父子の道たてるとか、然もあるべし。更に無りし好き情を聖人に示されたるものなれば、西戎國(か-ら-くに)の人にしては聖人は上もなく尊きものになんある。皇國の太古より父子の道、正しく親しかりしことを、彼の國人に聞しめ度わざになん』と。

 曰く、
禽獣には雌雄牝牡の情のみ有て、夫婦配偶の道なき故に、父子同産交合して、子を生み候。人も本は禽獣の如くなりしを、聖人婚姻の禮を制し、男女の別を立て、淫亂を禁じ玉ひてより夫婦の道始り候。 ~※ 仝~

 西土の人は本禽獣の如く夫婦配偶の道もなく、父子交合して生みけるを、聖人是に婚姻の禮を教へて始て夫婦の道立しとか、然も有るべし。周公旦が此定をいみじく固くせしも、かくみだりにて有し故ならん。皇國の太古より夫婦の道の正しかりしことを、彼國人にきかせ度わざになん』

 曰く、
禽獣には同産の子數多あれども、兄弟と云ふことなし。人も元は禽獣の如く、同産なるのみにて、兄を敬ひ弟を愛することなく、爭鬪して相殺することありしに、聖人これを憂て長幼の節を制し、兄弟の道を立玉ひ候。 ~※ 仝~

 西土の人は、元禽獣のごとく、兄弟敬愛のこともなく、爭鬪して相殺すこと有りしを、聖人是に兄弟の道を教へたるとか、然も有るべし。西戎國の人にしては、聖人は尊きものなり。敬ふもうべなり。皇國の太古より兄弟敬愛の道、正しかりしことを、彼國人にきかせ度わざぞかし』と。

 曰く、
禽獣には朋友と云ふことなし。人も本は禽獣の如く、信もなく義もなく、相奪ひ相爭ひ、相殺し相害するのみなりしを、聖人是に信義を教て、朋友の道を立たまひ候。 ~※ 仝~

 西土の人は、本は禽獣のごとく、朋友の信義もなく、相奪ひ相殺しけるを、聖人是に信義を教へて、始て朋友の道を立てたるとか、然も有るべし。皇國の太古より朋友の信義あつかりしことを、彼國人に聞かせ度わざになん』と。

 これらのくだりは篤胤大人ならではのもの。實に痛快なる哉。


 曰く、
君臣父子夫婦兄弟朋友、此五つは人倫の要道なる故に、是を五倫とも五典とも申候。人間に此五つの道、一つも闕ては天下治らず候。 ~※ 仝~
 如何にも爰に云へる名目ども一事も闕ては、人の人たる道をうしなへるにて天の下治ることなし。尊き哉、皇國は格別のよし有るが故に、太古より第一に君臣の道正しく、外國にても羨み稱し奉ることにて、 ~中略~ 父子夫婦兄弟朋友の道も、甚(いと)正しかりし故、五倫五典などゝ、言痛(こ-ちた)く名目を立て、をしふるまでもなく、人々行て常なりしに、西土(から-くに)などは、純が説の如く開闢より道の大本たる君臣の道さへ、輕忽なりし故、かく名目を作りてをしへたれ共、末の世に至りても、なほ正しからず。太古より風俗の末々までも直らぬものなり。其本亂れて末治ることなしとはかゝる事よりぞ云へるならん』と。

 曰く、
『~上略~ 抑々道の體とする處は、たゞ君は君として下を惠み、臣は臣として君に忠を盡し、親は子を慈しみ、子は親に孝行をいたし、夫婦兄弟長幼朋友、夫々にさう有るべき事の、正しき所を差して道とは云ふべきもので、是は人々みなかうなくては叶はぬ事まで産靈神の御靈に依り生れならがにして誰もよく辨へ居ることでも、然れ共、其眞(まこと)の道の正しいといふは、獨 皇國のみの事で諸蕃國はさうではない。別て漢土(から-くに)などは、元來酷惡の國風なる故に、湯武など云ふもの共が出て、まづ其大本たる君臣の道をさへ破りて、君を殺して君を奪ひ、なほまた弑す虐の罪を遁れう爲に、天命など云ふことを取込み、亦々其道を飾修して君臣の道などはなほも嚴重に作り添て、種々(くさ-くさ)の道のことを書籍に記し、きびしく制度をたてゝ有る。但し夫は君を弑し國をうばふ程の奸智ある者どもの立たる制度なる故、其文面はよく立派に行屆いて居る。~中略~

 扨、一旦己れが奪ひ取ては、また人には奪はるまじきやうにとて、智慧の限りをふるつて作りたる道である事故に、殘る所もなきが如く、至て尤もらしく書籍には記し有れども、其書は無用(いたづら)に世に傳はるのみで守るものなく、是(こ)は其立たる制度を自(みづから)破りたる輩の云置たる事故に、用ひぬのでござる。今の世の人にても、自は放蕩惰弱にして人の不身持を直さうとかまへ、尤もらしく意見を云たればとて、誰か其云言を用ひませうぞ。~中略~

 然るを儒にのみ拘泥(なづみ)たる輩、僻心得をいたして、其儒道をば皆から 皇國に用ひやうと思ふは何事ぢや。撫我則后、虐我則讎(※我れを撫するは則はち后、我れを虐たぐるは則はち讎)など云ふ類の穢らはしき言は、皇國にては、聞さへいまゝゝしき言ぢや。書たからざまのことをも、いさゝかは御用ひなさるゝを見て、堯舜の道ではなくては治らぬなど云ふは、甚以て稚(をさな)い事ぢや。皇國に御用ひなさるゝ處は、聖人のさだめの百分が一にも足ぬ事ぢや』と。
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by sousiu | 2013-10-08 00:27 | 大義論爭

「辯道書」と、「呵妄書」及び「辯辯道書」 その十四 

 去る五月十二日、日本誠龍社・貴田會長に半ば騙され半ば脅かされ連れて行かれた田植ゑの稻が收獲され、我が宅に送られて來た。
◆◆◆五月十二日 農業體驗・・・田植ゑ編 於栃木縣小川市
 ふむふむ。我れながら中々上出來、…のやうな氣がする。※迂闊にも田植ゑは殆ど休憩してしまつたので偉さうには云へぬのだ。
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・・・稻に就て、柳田國男氏の『稻の日本史』から是非とも引用すべき一文あり、探さうとしたところ遂に野生の身長に及ばむとする紙の山が崩れおちた。また今度だ!怒。

  ~ ~ ~ ~ ~ ~ 

●佐々木高成先生『辯辯道書』下卷に曰く、
『~前略~ 吾州に道なき事を謂て、日本に道といふことなき證據は、仁義禮樂孝悌の文字に和訓なく候、凡日本に元來有る事には必和訓有之候、和訓なきは日本に元來此事なき故にて候、と。是等の事不知文盲の説、笑ひをだも失ふ。先(※まづ)仁にはいつくしむと訓して此訓習(よみ-ならはし)あり、義はよろしと訓し、禮はうやまひと訓し、樂は鳴音(なる-おと)と訓す。神代卷上に、册尊崩御の後、葬於紀伊國熊野有馬村(※紀伊國熊野の有馬村にかくしまつる)、花の時には花を以て祭り、又、用鼓吹幡旗舞而祭矣(※つゝみふえ旗を用ひて舞ひて祭る)とあり、是吾國樂の起りなり。鼓吹(つゝみふえ)は天の靈幡、旗は地の靈、舞は人の靈にて、天地人和合の樂なり。其後岩戸の前にて鈿女命手に持茅纏盾(※茅纏盾を持)てと有より、火處燒覆槽置(ほ-どころ-やき-うけ-ところ-かし)と云迄は後世神樂の故縁なり、何ぞ禮樂なしといふや。
 又孝は親に事(つかふ)ると訓し、悌(てい)は兄にしたがふと訓す。上略して孝をつかふると訓し、悌をしたがふと訓ず。たとひ和訓なくもなんぞ道の障あらんや。辯道者が重むずる所の書經等にも仁義禮智の連綿の文字なし。しからば仁義禮智なしといはんや。書經にも限らず詩禮易春秋にも見えず、又論語にも見えず、孟子に至つて始て仁義禮智、外より鑠(しやく)するにあらずといふ言見えたり。堯舜の時には天下に道なきゆゑ、仁義禮智といふことなきや。しかれば儒學の一大缺事なり。吾國仁義禮樂孝悌和訓なし、故に道なしとは堯舜孔子への差合ならん。況や吾國和訓あり、又仁義禮智吾國に合ていはゞ、玉、鉾、鏡の徳なり。此三つの神器は至極の習有て、天子讓位即位の受授の大事にして、我國の堅、天下の大道なり。表向一通りをいへば神皇正統記に智仁勇の三つにたとへて、玉は仁、鉾は勇、鏡は智なり。別に重き口決あり、外に柱と云、玄櫛と云、嚢と云、浮橋と云、龍雷と云、土金と云、その人ををしゆるの次第、階級ことゞゝくそなはれり、彼れが淺陋の學の智る所にあらず。

 次に 人皇四十代の頃までは、天子も兄弟叔姪夫婦に成玉ひ候、その間に異國と通路して、中華の聖人の道此國に行はれて、天下の萬事皆中華を學び候。夫より此國の人禮義を知り、人倫の道を覺悟して禽獣の行をなさず、今の世のいやしき輩までも禮義に背くものを見ては、畜類の如くに思ひ候は聖人の教の及べるにて候。日本の今の世を見るに、中華の書に及ばずといへども、天下は全く聖人の道にて治り候と存る、と。是等の事も曲學者尊信の異國の無道不義をおしかくして、日本の紀綱の正しきを云かすめんとする謀慮。異國は七國の時分より彌人倫の道明かならず。楚公、齊公の類、兄弟夫婦となり、又唐の玄宗弟の妃を奪ひ妻とせられし事、全く畜類同然の行ひなり。我惡をかくし、人の善を覆はんとは宇宙第一の曲者なり』と。

 曰く、
『定めて叔姪夫婦に成給ふとは 神武帝の事成べし。玉依姫は海神の娘、そのうへ是には重々の子細あり。辯道者未だ神の門戸をだもうかゞはず、宮中の美は何ぞ見る事を得んや、笑ふべし。その上吾國人道の正しき事、允恭天皇二十四年夏六月、御膳(み-にへ)の羹汁(あつ-もの)凝以作氷(※凝りて氷となる)、天皇異之卜其所由(※天皇あやしみて其の所由をうらなはしむ)、卜者曰(※うらべの者曰く)、有内亂(※うちのつみあり)蓋親親相姧(左「女」+「女」、右「干」=奸=たはけ、※蓋しはらから相奸るか)、時有人曰(※時に人ありて曰く)、木梨輕太子(※き-なし-かるの-たい-し)、奸同母妹輕大娘皇女(※同母妹輕大娘皇女を奸けたまへり)。因以推問焉(※因つて以て推問ふに)、辭既實也(※こと既にまこと也)、太子は爲是儲君不得罪(※太子は是れ儲君たり罪するを得ず)、則流輕大娘皇女於伊豫(※則はち輕大娘皇女を伊豫に流す)とあり。これら神國の奇事恐るべし。異邦千萬人の不義有りとも聖人の道に損もなし、汚(けがれ)もなし、況や吾國一二の不義有りとも、神道において少も々ゝ障りなし、よくゝゝ思慮すべし。儒は天理自然の道、主公無我にあらずんば會得しがたかるべし。曲學者固滯にして國書を見ることなく、偏執我異遂に神明の罪人とならん』と。
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by sousiu | 2013-10-07 00:55 | 大義論爭

「辯道書」と、「呵妄書」及び「辯辯道書」 その十三 

 木川智青年による『三條の會』會報紙第二號が屆いた。
 本紙は十頁あり、本文に九段塾主人・備中處士樣の蒐集されたる先賢の所論も掲載され、資料的意義も備へてきた。
 木川青年の文章を拜讀すれば、にはかに彦九郎先生顯彰の輪は拡がつてゐるやうだ。
 三條の會に就てのお問ひ合せは →→  satoshi.kikawa@live.jp

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 皇國を興さんとする有志の士、自らをして蟷螂の斧に過ぎずと思ふことなかれ。廣き天下に同志あり。その蟷螂の斧はやがて同志を得て、期を得て、斧鉞と化して隆車の轍をも禦くものぞかし。

  ~ ~ ~ ~ ~ ~ 

○太宰春臺、『辯道書』(享保廿年)に曰く、
『人に父母なき者は無く候。禽獣は乳哺の養を受る時、父母を慕ふのみにて、少(すこし)長じて離別すれば親は子を忘れ、子は親を忘て、後には親と子を食を爭ひ候。人も本は禽獣の如くなりしを、聖人是に親愛の情を示し、孝敬の道を教たまひてより父子の道始り候。

 禽獣には雌雄牝牡の情のみ有て夫婦配偶の道なき故に、父子同産交合して子を生み候。人も本は禽獣の如くなりしを、聖人婚姻の禮を制し、男女の別を立て淫亂を禁じたまひてより、夫婦の道始り候。
 禽獣には同産の子數多あれども兄弟といふ事なし、人も本は禽獣の如く同産なるのみにて、兄を敬ひ弟を愛することなく、爭鬪して相殺すこと有しに、聖人これを憂て長幼の節を制し、兄弟の道を立 給ひ候。
 禽獣には朋友といふこと無し、人も本は禽獣の如く信もなく義もなく、相爭ひ相奪ひ、相殺し相害するのみなりしを、聖人是に信義を教て、朋友の道を立たまひ候。
 君臣、父子、夫婦、兄弟、朋友、此五つは人倫の要道なる故に、是を五倫とも五典とも申候。人間に此五つの道一つも闕ては天下治まらず候』と。(改行は野生による)

 これはまた隨分と聖人を贔屓したものだ。而して、隨分と人を侮つたものだ。
 吾が先進による論駁は後日に譲るとして、今日はもう少し純が主張せることを綴らねばなるまい。

 曰く、
『又人に欲なき者は無く候。欲はすなはち情にて候。財寶を見てはほしく思ひ、食物を見てはくひたく思ふ、皆是欲にて候。此欲心を恣(ほしいまま)にすれば卑劣なるわざをもなし、搶奪、竊盗、殺害の惡をも行ひ候。搶、竊盗、殺害は禽獣の行ひにて候。聖人これを愍(あはれ) みて義といふことを立て教たまひ候。惣じて人の身にすべき事と、すまじき事と有るを、上古の愚民これを知らずしてすべき事をばせず、すまじき事をする故に禽獣の行ひになり候。聖人の教に義といふは、すべき事とすまじき事とをわけて、すべき事をば勉てなし、すまじき事をば身死すれどせざるを義と申候。此義すなはち聖人の道にて候。 ~略~』

 曰く、
『日本には元來道といふこと無く候。近き此神道を説く者いかめしく、我國の道とて高妙なる樣に申候へ共、皆後世にいひ出したる虚談妄説にて候。日本に道といふこと無き證據は、仁義、禮樂、孝悌の字に和訓なく候。

 凡日本に元來有る事には必和訓有之候。和訓なきは日本に元來此事無き故にて候。禮義とい ふこと無かりし故に、神代より人皇四十代の此までは、天子も兄弟、叔姪、夫婦になり給ひ候。其間に異國と通路して、中華の聖人の道此國に行はれて、天下の萬事皆中華を學び候。それより此國の人禮義を知り、人倫の道を覺悟して禽獣の行ひをなさず、今の世の賤き輩までも、禮義に背く者を見ては畜類の如くに思ひ候は、聖人の教の及べるにて候。日本の今の世を見るに、中華の書に及ばずといへども、天下は全く聖人の道にて治り候と存候』と。


 春臺の本音と彼れの信を置くところが垣間見える一文だ。すなはち漢國を“中華”と見做し漢國人にこそ“聖人”と崇め、皇國を“東夷”と見下し 皇國人を“蠻夷”と本氣で思ひ込んでゐるのだ。如何に經綸の志豐富と雖も、如何に學才ありしと雖も、大和たましひのなき經世家なぞ、皇國重大事に際するに、何の益やあらん。

 學問や思想に國を興す力があるとするならば、そは條件があらねばならない。こと國家には各々に個性があることを迂闊にも閑却してはならない。考へてもみよ。逆言すれば、洋の東西を問はず、古今に突出して秀でたるの學者、思想家、經世家が何人も出でながら、諸國を善導し、世界の安治を物した者など未だ聞かないではないか。社會主義は社會主義の馴染む國家に對しては、幾ばくか採用されるであらうけれども、それは宇内の萬國に對して然りではない。畢竟、支那で生じた「聖人の道」も天竺で産せられた「釋迦の教」も、無条件に凡ゆる國を興すほどの力は無いのである。況や 皇國に於てをや。

 大川周明博士は「日本の惡は日本の善で斬らねばならぬ」と云うた。以前にもこの日乘で抄録したが、その博士の『國史概論』から今一度引用したい一文がある。曰く、
『花は一個の理念としては存在する。而も此の理念は、必ずや櫻・桃・梅・菊等の特殊の花として咲き出づることによつて、初めて實在となるのである。それ故に梅花は、梅花として咲く以外に、決して花たることが出來ない。梅花として咲くことによつて、花の理念が初めて實現せられ、花の花たる所以が發揮される。こは正しく人間の場合に於ても同然である。~中略~ 日本人に非ず、支那人に非ず、米國人にも非ざる「人間」は、實在としては決して存在しない。そは唯だ一個の理念として存在するだけであり、而して此の理念は必ず民族又は國民として實現される。故に日本人は日本人として、米國人は米國人として、それゞゝの面目を發揮することが、取りも直さず人間の面目 を發揮することゝなる。從つて眞個の國民となりてこそ、初めて眞個の人間となり得る道理である。吾等日本國に生れたる者は、第一に日本人であらねばならぬ』と。

 思想や學問が國家に眞の益を與するとき、そこにはあくまでもその國家の固有的性格が認められねばならぬのである。當然、日本の學者、思想家も然り。如何に 皇國の碩學偉才と雖も、その者が他國の假りものの思想や學問を據り所とする以上、海を越えて他國を善導するには自ずと限界があり、吾が理想せる八紘爲宇、萬國平和は遂に理想と終はらざるを得ないであらう。では吾が理想はたゞ空しくあるのみか。否、吾人が理想に向かうて進まんとすれば、人工的な思想や學問を超越したものを以てすれば可である。それには何よりもまづ、天地開闢、神代に心を寄せなければならない。脱線してしまふのでこの邊で擱筆する。
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by sousiu | 2013-10-06 17:33 | 大義論爭

「辯道書」と、「呵妄書」及び「辯辯道書」 その十二 

○平田篤胤先生『呵妄書』(享和三年癸亥十月刊)に曰く、
惣じて天地開闢の始に、人の生ずる處は、久しき池に魚の生じ、腐たる物に蟲の生ずるが如く、自然の氣化にて生じたるものにて候。さる故に其時の人は貴賤上下の品も分れず皆同輩にて候。是を平民と申候。形は人にて候得共、心は禽獣に異ならず、男女一處にこぞり居て日を送り候。 ~※純が文の引用なり~

 爰に西戎國(か-ら-くに)開闢の初に、人の生(な)れたることを云ひて、自然の氣化にて生じたるものにて候と云へるは、決定したる語にて、彼の靈智ありとか云ふ、聖人も未云はざることを目のあたり見たる如く云へるは、實に古人未發の論と云ふべし。純(※太宰春臺のこと)は天地に先立て生れたりし人の心地して甚(いと)めづらし。

 然れども是等はみな漢籍(から-ぶみ)[淮南子三五歴記のたぐひ]の臆度(おし-あて)の妄説のみ、見なれたる癖よりして云へる妄説なり。實は其時に生合(うまれ-あひ)し人にあらざれば知るべき由なく、たゞ古への傳を守るよりほかなきなり。

 皇國の大古は正しき傳説有りて、明に知らるゝことなるを、戎國(から-くに)には早く其傳説をうしなひ、たまゝゝ少しは正しき傳への有るをば、今の事理に遠きをもて妄説なりと云ひけして、取上げざれば、いかで其詳なることを知るよしのあらんや』と。

 曰く、
『彼(か)の聖人と云へ共、其知らざる處に於ては闕如すとは云ひて、西戎國上古の事をいへるも、聖人の説にしては伏羲より以前を云へることを聞かず。然るを純が斯計(か-ばか)り委曲(つばらか)に云へるは、自(みづから)聖人にもまさりたると思ひてならめど、實に説を作れるものなり。孔子も述而不作(※述べて作らず)と云へれば、其據る所の聖人の意にも違ひたる強説(しひ-ごと)にあらずや。天地の初のことは、いかで人の小きさとりもて、量り知ることを得べき。久しき池に魚生じ、腐たる物に蟲の生ずるをもて譬へたるは、一通(ひと-わた)り打きくには實に然もこそと思はるゝ計りなれど、然ることならんには、今の世にも久しき池に魚生じ、腐たる物 に蟲の生 ずれば、希々(まれ-まれ)には自然に生(な)る人も有るべきに、然ること有りしを未(いまだ)きかず。すべて漢學問計りする人は、天地の間にあらゆることの理は、みな知り貌に云ふことなれども、皆大なる空言にて、いとをこがましくいと淺ましき事のみぞ多かる。~以下、畧~』と。


 篤胤大人が、もしもほゞ同世代を生きたチヤールズ・ダーウヰンと會してゐたならば、そはおそらく筆誅丈で濟まされなかつたに違ひない。
 嘗ては漢心に淫し、今日は西歐の思想に淫し。科學萬能の妄想より脱する能はずんば、神代を識ること難しけれ。神代を識る能はずんば、大和心を固むること難しけれ。



 曰く、
其内に衣食の求め無くて叶はざる故に、誰教るともなく人々天性の智慧にて、飢を助け寒さを禦ぐ計略をなし候。然るに人の性さまゞゝにて賢き者あり愚なる者あり、強き者あり弱き者あり。賢き者は能く飢寒を免れ、愚なる者は飢寒を免るゝことあたはず。強き者は弱き者の衣食を奪ひ、弱き者は強き者に衣食を奪はる。是より平民の中に爭鬪といふこと出來候。 ~※ 仝~

 漢國の上古の人は、形は人にて心は禽獣にことならずといへれば、如何にこそ有りつらめ。其亂りがはしき有樣、目のあたり見る心地ぞする。皇國の大古より正しかりしことを西土人にきかせたきわざになん』と。


 曰く、
此時幾億萬人の中に、聰明睿智とて神妙なる智慧の人生れ出て、彼愚なる者に衣食の道を教へ爭鬪する者をば、それゞゝに教訓して暴虐をなさゞらしむ。是より其邊の人漸々に歸服して、何にても分別にあたはぬ事をば、持出て訪往て尋問ひ、爭鬪する者は、其事を告訴て裁斷を乞求む。其の體今の世に郷里の子弟たる者、其所の父兄長老に從ふが如し。かやうに近邊の人歸服すれば、其化漸々に遠きに及で遠方の人も歸服する故に、いつとなく諸人こぞりて君長と仰ぎ奉る。上古の盤古燧人など云ふは是にて候。
 其後伏羲、神農、黄帝と云ふも、亦聰明睿智仁徳の至れる人にて、天下の君となりたなふ。自己より高ぶりて、民の君長となり給へるにては無く候。此聰明睿智仁徳の至れる人を聖人と申候。此聖人上に立て天下の人に仰がれたまふを、天子と稱し大君と申候へば天下の人はみな臣にて候。是君臣の始にて候。上に大君あれば、下にも亦それゞゝに君長を立て、其下を治しむ。皆君臣の道にて候。
 ~※ 仝~

 爰に伏羲神農といふ二人の王ども、西土の酋長(おさ)となれるも、自己より高ぶりてなれるにはあらずと云へる、然もあらんか。然れども此中に黄帝とあるは心得ず。この王が名を軒轅と云ひて、西土にて主を弑して國を奪ふことの始を闢きたる賊王なり。[盤古より下神農氏の興るまでは、弑して奪ひやしけん、禪りやしけん。こは傳へ無ければ知られず。故に是を弑逆のはじめとす] ~畧~


 [西土の世々の制度、始皇がはじめたることを大略は用ひながら、聖人の道をのみ用ゆる貌にて、始皇をば人の如くも云はで、いと穢汚(きたな)きものに識るもをかしきことならずや。是(こ)は彼の穴に埋殘されたる儒者どもの、迯吠(にげ-ほへ)に訕(言偏+山)り初めたるを、一犬ほゆれば萬犬其聲に從ふと云ふ聲への如く、うかと叱り來るにこそあらめ]是等も聖人にや。然は云ふまじ。漢土にて黄帝湯武が類を聖人と云へるは、此賊王ども子孫迄暫し天下をも有(たも)ちたれば、其子孫の王共臣下共より尊みて、然云はんもうべなるを、皇國の人にして渠等に何の辱(かたじけな)きこと有て、諂らふことのあらんや。戎人(から-びと)の潜(せん)稱を曉(さと)らず、 實に善き人と思ひて譬稱(ほめ-たゝふ)るは、豈人の涎に辟たる狂言(たはれ-ごと)にあらずや。故に吾が徒(ともがら)は何事も戎人腐儒の狂言に慣はず、其行の跡に付て漢國人(から-くに-びと)の善惡は定めんとす。漢説(から-こと)に迷へる人ゆめ耳をな驚かしそ』と。


 次囘は又々、純が『辯道書』に注目したい。

 
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by sousiu | 2013-10-05 14:11 | 大義論爭

「辯道書」と、「呵妄書」及び「辯辯道書」 その十一 

○平田篤胤先生『呵妄書』(享和三年癸亥十月刊)に曰く、
此神道は巫祝の傳ふる處にして、極く小き道なることを人知らず、儒は唐土の道、佛は天竺の道、神は日本の道なれば、此三道は鼎の三足のごとく、同等にして偏廢すべからざる事と心得候は、口をしき事には云々。 ~※純が文の引用なり~

 皇國の眞の道は、天地の間に充滿て、天地の斯有らんかぎり、動きなき大道にして、儒道は西戎國(か-ら-くに)の古へ人、禽獣と等並(ひとし-なみ)なりしとき、聖人と稱を得たる魁首どもの、さがしらに成れるものにして[斯云ふ故は純が本書にも見えて下に出せり。合せ考ふべし]、甚(いと)も々ゝ小き道なることを知らず、我が國の大道の號(な)を竊(ぬすみ)て、妄説の佛道小き儒道を[斯云ふを狹智の漢學者いぶかることなかれ]取まじへ、理學者佛徒のいと小さく僞り作れる道を、眞の道と思誤りて、漫りに其道の小き事を論ひて廢せんとす。其小き道は、元自(もと-みづから)のとなふる小き道にならひて作れる故に、小きことを知らず。 ~中畧~

 我が國の道の大いなる事は、外國諸戎にとなふる處の儒佛諸子百家の枝葉の裏々參來(まゐ-く)といへども、餘すことなく少しも益有ことは、朝廷(みかど)にも用ひ賜ひて、其體あたかも大海に衆川の流れて、入るを餘さぬが如し[漢籍に大道不器と有るは、此意なるべき歟]。然るを其流入れる枝葉の道々をのみ學ぶ輩、己が據る處の小川をしも、大いなる事に云ひなして、かへさまに大海たる我が國の道を小さしと云ふは、甚(いと)も甚も漫りなり。いかでか佛儒の二道を加へて、鼎の三足に譬ふることあらん。彼二道は便利なることの有る故に、枝葉に取り用ひられたるものにぞある。純がともがら如何に口をしく思へるとも、是はせん方なきことなり』と。


曰く、
凡天下國家は、聖人の道を捨ては、一日も治らず候。天子より庶人まで、是を離れては一日も立申さず候。 ~※ 仝~

 皇國天地初發の時より、儒佛の道渡り來ざりし前、天の下のいと穩に治りしを、儒佛參來(まゐ-き)てより漸くに外國に似たること共の發(おこ)りしを、純は知らざりしなり。朴直順路なりし人の意も、儒佛の道渡り來てより、漸くに戎人(から-びと)意に移りしをも、純は知らざりしなり。然る故にかゝる狂言(たはれ-ごと)も云へるなりけり』と。

 儒佛渡來以前の日本は亂れてゐたかと云へば、決して然ること非ず、寧ろ宜しく治まつてゐたことをいふ。進んで云へば、兩道の渡來をして日本は亂を生ぜしめた。畢竟、純然たるの日本人も、儒佛を輸入し、漢土、西土の風に染められたるを以て、皇國に對する不審とまで云はずんば動揺するに至つたといふものである。


 曰く、
儒者の道は、聖人の道にて候。聖人の道は、聖人の聞きたまへる道にて候得共、天地自然の道かくあらで叶はぬことを、知しめしてかく定置たまひし故に、是則天地の道にて、聖人少も私意を加へたまふことは無く候。道を開くといふは、道なき野山に始て道を開く樣なる物にて候。譬へば日本の名山に役小角が道を開きたりと云ふを、今の人其道を履て云々。 ~※ 仝~

 儒者の道は、聖人の道なること、誰しの人か知らざらん。俗(よ)に我が家の佛尊しと云ふ。譬の如く己が尊く思ふとて、斯いかめしく聲高く呼はりたるこそをかしけれ。
 聖人の道は、聖人開きたれども、天地自然の道とは如何にぞや。天地自然に行るゝ道ならんには、聖人開くべきよしなく、果して聖人ひらきたらんには、自然の道と云ふべきよしなし。すべて聖人の道を天地自然といふは、大概(おほ-かた)の人も、然思ふことなれど、甚しき僻言なり。聖人の道は自然とは異にして、天地の道を強ていとも小く細(こまか)に修制(つ-く)り作(な)したるものなり。其故はまづ自然と云ふは、何事も天地の成しのまにゝゝ、幾千萬(いく-ち-よろづ)の世を經ても變易(か-はる)ことなく、自然(おのづから)に行るゝを云ふ號(な)なるべし。然れば天地をはじめ、禽獣草木蟲魚其外萬物、各古へ生(な)りし容(さま)を易ること無れば、人も其如く自然の氣化にて生れたるまゝ、貴賤上下の品をも別たず。男女別ありなどもいはずして、禽獣と同じさまにて[自然の氣化にて、といへるより以下、こはたゞ次の條に純がいへる趣に依て、しばらくいへるのみなり。皇國の古しへは正しき傳説有て、是とは異なり思ひ混ふべからず]、居たらんにこそ天然自然とは云ふべけれ[自然の字の義をも思ふべし]。また可笑きは、君臣父子夫婦長幼の道、みな天地に則りて制(つく)りたると云ひながら、君臣位を更(かふ)る[受禪弑逆の類]こと有るは如何にぞや。斯云ふを腐儒者(くされ-ず-さ)のきかば、おぼろげならぬ我が大道聖人の御所爲(み-し-わざ)を凡(およそ)の人のいかで知らんなどと、漫りに巧妙にのみ云ふらめど、道理をば違ふことはなるまじきぞ[道理に違ひてはいかで自然の道といはん]。古より天地位を更へ父子位をかへて、父は子の子となり、子は父の父となれる大變をば未(いまだ)きかず。

 兎ても角ても、聖人の道を天地自然の道と云ふは當らぬことなり。少しも私意を加へたることなしと云へれど、みな聖人と云ふものゝ私意ぞかし。すべて天地の生しのまゝの道より外に、自然の道と云はなく、外國の道々、老儒佛諸子百家みな人爲に作(な)れる道なり。
 [或人問ふ、然らば 皇國の道は自然かと。己云ふ、皇國の道も自然にあらず。然れどもまた人爲にあらず。前にもいへるごとく、天地の神の制り賜へる道なり。此道を委曲によく知らんとならば、まづ神を知るべし。其神をしらんことを思はゞ、我翁の書どもを繰返しよく味ひて見よかし] ~以下續く~』(改行は野生による)と。


 篤胤大人の腐儒者痛罵だ。補足するが大人は、徒らに外つ國の學問を排斥せんとするものではない。曩に掲げたる『入學問答』その他の氣吹廼舍刊行本をみてもそれは理解出來るであらう。
 然り乍ら、大和たましひの存せずして、盲目的に聖人聖人と論らひ、つひには支那をば中華と信じ、皇國を東夷と蔑して憚らざる者共へ對して筆誅せんとするものだ。
 末文にある「我翁」とは、云ふまでもなく本居宣長大人のこと。是を以てしても、大人が本書でまづ何よりも急務であるとしたのが、大和魂を固めるといふことであつたことが明瞭だ。而してその、篤胤大人の痛憤といはんか悲痛といはんか、その訴へんとするもの、現代の吾人にも向けられてゐるものと察す可し矣。

 國の爲め、民の爲めと云ふは易し。眞に之を實施せんとせば、まづは尊皇好學、勤皇尚武の志操を感得すべきに非ずや。
 松陰先生の、日本人としてかく信じて疑ふことなき人生觀と、その根據とせる 御國體への讃美を以下に聞く可し。




●吉田松陰先生、『坐獄日録』に曰く、
◆坐獄目録→→http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/995284 (14/27~)
『吾、幼にして漢籍にのみ浸淫して、尊き 皇國の事には甚だ疎ければ、事々に耻思ふも多けれど、試に思ふ所と見聞する所とを擧て自ら省み且は同志の人々へも示すなり。抑、 皇統綿々千萬世に傳りて、變易なきこと偶然に非ずして、即ち 皇道の基本、亦爰(また-こゝ)にあるなり。蓋(けだし) 天照皇太神の神器を 天孫瓊々杵尊に傳玉(つたへ-たま)へるや、寶祚之隆、與天壤無窮(寶祚の隆えまさむこと天壤とともに窮まり無し)の御誓あり。されば漢土天竺の臣道は吾知らず。皇國に於ては寶祚、素より無窮なれば、臣道も亦、無窮なること深く思を留む可し。更に又祈年祭の祝詞に謂へる狹國(さき-くに)は廣く、峻國(さかしき-くに)は平(たひらけ)く、島の八十島墜事無(おつる-こと-なく)、また遠國は八十綱打掛て引寄如事(ひき-よする-ことの-ごとく)などいふこと徒に考ふべからず。臣道いかにぞと問はゞ 天押日命のことだてに、海行ば水づく屍、山行ば草むす屍、大君のへにこそ死なめのどには死なじ、是なん臣道ならん。さて中世以來漢籍大に世に行はれ、殊に孔夫子を道の宗師と仰ぐにぞ、論語は先儒も最上至極宇宙第一の書と稱せられたるが、其旨に感ぜし人も少なからず。 ~以下畧~』と。
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by sousiu | 2013-10-04 22:09 | 大義論爭