カテゴリ:大義論爭( 20 )

「辯道書」と、「呵妄書」及び「辯辯道書」 その十 

 今日は野生の可愛がつてゐる蛇(假名・如意棒ならぬ「によい坊」)に食餌を與へんとするの際、噛みつかれてしまつた。
 どうやら蛇は、地球上で最高の進化を遂げてゐるらしく(出典、ナシヨナルジオグラフイツク。苦笑)、毒蛇ではないものゝ、餌やりの時、手に向かつてこられたら殆ど避けることが出來ない。然も一瞬噛まれた丈でも出血が少なくないので、その度びにニヨイ坊を破門にするか否か苦惱するのである。それにしても凄まじき攻撃力だ。

 さういへば維新青年同盟・後藤會長の携帶電話の待ち受け畫面は、何と曾てニヨイ坊に噛まれた際に怪我した野生の指であるさうだ。
 ゴトケン兄は野生が慕つてゐる士のひとりである。求道の志と向學の念に溢れ、人格・情熱・探究心など何ら申し分のあるは無し。一點、壁紙のセンスを除いては。
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   ↑↑↑今朝のによい坊(假名)。彼れ(性別は分からんが、おそらく♂)に禮節を教へるは、相模川で砂金を探し出すに等しき難事だ。


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●佐々木高成先生『辯辯道書』下卷に曰く、

『さて佛道と儒道との違(ちがひ)めを論ずること甚だながし。辯道者いふまでもなく佛氏は心を尊んで靈覺を觀るを大悟とす。~中略~  

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 しかるに曲學者ながゝゞしく佛經の事を説て、當時の世間僧戒行を破り、色婬に墮落し、名聞を願ひ、財利に迷ふ事辯道者がいふまでもなく、釋迦佛五々百歳の後、五濁亂慢(ご-じよく-らん-まん)の時、僧の戒行つたなからんことは頓にいふ(※マヽ)て置きたれば今更いふに及ばず、又僧と成ては身に糞衣(ふん-ゑ)を着、口に馬麥(め-ばく)を食し、樹下石上に宿する事、増蘇老人が小社探等にいふてあれば、口眞似するやうに見えてをかし。神道を議難せん梯に佛教の事を論ずる事、無用の辨をなんぞつい(マヽ)やすや。儒佛の邪正は程氏跡斷(てい-し-せき-だん)の説にて、その理、菽麥氷炭(しゆく-ばく-ひよう-たん)を別つがごとし。~以下略~』と。

 高成大人も、自身の視點から佛教に斧鉞を加へる。
 されど前記したるの如く、佛教批判は他日に記すであらうので、こゝでは略す。



 續けて曰く、
『辯道者の文に、惣(※總)じて天地開闢の初に、人の生ずる所は久しき池に魚の生じ、腐たる物に虫の生ずるがごとく、自然の氣化にて生じたるものに候(※純が文の引用なり)といふより、先王の禮を犯しては人にあらずと思ひて愼しみ守れば情欲是に制せられて放逸する事を得ず候といふまでを述て、作者の意大綱を摘でいふべし』

 辯道者(太宰純)が云ふ聖人の主張に對する、高成大人の反駁が始まつた。


 曰く、
惣じて天地開闢といふ。惣じての語、萬國に通じていへるものなり。異邦も本邦も同意にして、氣化を以て人の生ずる事、水中に虫のわくがごとく、貴賤上下の品もわかれず、皆同輩なるを平民といひ、皆同輩にてかたちは人なれども禽獣に異ならずといひ、その中に賢き人生れて人倫の道ををしへ、君臣上下の分を立るが盤古燧人(ばん-こ-すい-じん)などゝいひ、そのゝち伏羲(ふつ-ぎ)神農(しん-のう)黄帝(くわう-てい)といふも皆其通りなりと。吾國も開闢の初より、良(※やゝ)久しくかくのごとくといふ意をひそかにふくみとけり。是等の邪説を打破んがため、上に一々神代の事蹟を述て、これを評じて其意を著明す』


 少し長文となるが、以爲らく高成大人の、本書に於て最も筆に力の籠められたる要處であると信じ、これを抄録したいと思ふ。

 曰く、
曲學者が貴ぶ西土(せい-ど)は、風氣偏濁、陰陽過不及の下國なれば、開闢にかぎらず後々までも禽獣同然の國なり。吾神州は開闢するとすなはち二尊氣化し玉ひて夫婦婚姻の道を正し、人倫の本を明かにし、父子君臣の道、赫々然(かく-かく-ぜん)たる事、神典に見えたる通り疑ふべきなし。忝も天照大神、高天原に即位御座て彝倫(い-りん)の道を明にし、万民にをしへ、その補佐として神高皇産靈尊攝政し、兒屋、大玉二神これに繼(つぎ)給ふ。五穀成就耕作の道を保食(うけ-もち)の神に月讀尊をつかはされてこれを習はしめ玉ふ。蠶(かひこ)をいとゞること、五穀を作る事、其道を得て國用豐饒なり。稻八束穗に莫て日神の叡慮明彩(えい-りよ-うるは)しく、天邑君(あめの-むら-きみ)をさだめ玉ふ。これ後世の大庄屋等の類なり。かくのごとく神代より人事の教法、明かに備りたること神典に著(いちじる)し。然るに辯道者、聖人の教へ情欲を斥るといひ、書經の殷の湯王の以義制事(※義を以て事を制し)、以禮制心(※禮を以て心を制す)といふ事を肝心とせり。凡て學者の受用を論ずる時は、曲學者が得經の論語に博文約禮(はく-ぶん-やく-れい)といひ、又、克己復禮と宣ひ、又、子貢問有一言而可以終身行之者乎(※子貢問ふ、一言にして以て身を終はるまで之を行なふ可き者有りや)、子曰、其恕乎、己所不欲勿施於人(※子曰く、それ恕なるか、己の欲せざる所を人に施すなかれ)。是等を擧ずして遠き書經の文を擧るは、陰に宋儒の理學を嘲らんと欲するの私意なり。神道を難ずるの片手に宋儒を廢せんとする事、濫吹(らん-すい)笑ふべし。辯道者が古學といふを辨ずべき事、車載斗量なりといへども、吾道に與(あづか)らざれば、しばらく赦(ゆる)置而已(おく-の-み)。
 吾神教己を脩め人を治るの大道を説述べし。
 元來、吾邦は神明降居の本國ゆゑ、風土潔く陰陽中和の國なり、故に磤(※石+殷)馭盧島(※おのころじま)といふ。おのころは自凝(みづから-こり)しまるの訓にして中央に位し、日月もこれによりて運行の度をたがへず、四時もこれに依て流行の道もとらず、故に此國の人も、天地の中氣の中の粹氣を受て彝倫正し、其精義は神道を學び、其傳を受に非んば知るべからず。予、枉妄義に述る通り、外國は陰陽過不及の國なり。南蠻西戎は陽勝て陰不足なり。南國は寛柔にして教へ、無道にむくひざるを以て道とす。西戎は六度滿行を修し、廣大慈悲波忍羅蜜等を以て最上とす。北狄の風は剛強果斷を專らとし、金革を衽(しきね)にし、白刃を踏を以てよしとす。是皆陰陽の過不及なり。
 吾國は人おのづから寡欲にして漢土天竺の多欲無道なるには似ず、吾國も外國の道入り來て漸神代の古風を失ひ、人王三四十代の此より人の風異邦へ流れ、博文あるものは反て智辯巧に流れて上世淳素の道を失ふ。佛法隆(さかん)に行はれて朝廷の政日神の遺戒に背き給ふ故、遠島へ徙(うつさ)れ給ふこと、今世より是を見ても血涙を流す。

 保元平治より以來は父子相爭ひ、兄弟相戰ふ。宛も漢土天竺の風俗となる事といふべし。近頃栗山氏(※栗山濳鋒翁のこと)、是を患て保健大記を作れり。谷氏(※谷秦山翁のこと)が打聞を合せ見ば其理明なるべし。今も上世身を脩るの法を勉は上の政を一毫も背かず、當今の天子を直に日神と尊び、當時將軍を八幡大神の武徳と崇め、攝政家を春日大明神と信じ、何事も上の掟に背ず、吾心も天御中主の分靈と仰ぎ、汚穢不淨の邪念起れば直にはらひすて、猶又神力をいのりて、今日より後、罪止云罪者(※つみ-と-いふ-つみ-は)あらじものぞと、祓所(※はらひ-ど)の八百万神へはらひ給ひ、きよめてたまはれと祈り申すまでなり。故に上世より中古まで法式條目といふ事もなく、おのづから天下國家安(やすらか)に治りて百姓其所を得、種子命國の大祓を掌り給ふことを見るべし。

 畢竟天地のたつも誠、日月の照すも誠、四時の行るゝも誠、君々たり、父々たり、子々たり、夫々たり、婦々たり、兄々たり、弟々たり、友々たり。是の誠の境界に入れば、外より責たむるに及ばずして自然に道行る。これ神國最上の教なり。
http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=XYA8-02010&IMG_SIZE=&IMG_NO=39』と。(改行及び※は野生による)

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by sousiu | 2013-10-01 07:31 | 大義論爭

「辯道書」と、「呵妄書」及び「辯辯道書」 その九 

 一昨日は「時對協」定例會。
 議題は『西洋型民主主義』に就て。上京した宮城縣の鈴木達也兄から提起された議題だ。
 野生は遲刻した爲め一部の意見しか聽くことが出來なかつたが、盛義一先輩の熱の籠つた意見あり、到着以前の活氣あつたことが自づと知られるのである。毎度のことながら熱氣だけは賣るほどあるのが時對協だ。
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     ↑↑↑↑熱辯をふるふ盛先輩。話はそれるが野生はいつも同じ服だ。


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○太宰春臺、『辯道書』(享保廿年)に曰く、
『中華にて周の代の末に、墨翟(羽+隹=てき。※ぼく-てき=墨子のこと)が道盛に行はれて、孔子の道と並ぶほどになりし故に、其世には孔墨、儒墨と稱し候。其後墨氏の道廢れて、漢の代に黄老の道興り候。黄老といふは老子の道にて候を、其道を尊くせんとて古の黄帝を祖として黄老の道と申候。東漢の時より佛法中華に入て世に弘なりし故に、それより後は孔子の道に、釋老の道を並べて儒佛道と稱し候。道といふは老子の教を道教といふによりて儒佛道と申候。此三つを三教と申候』と。

 支那にて老子、孔子、墨子などが登場し、やがて佛教が輸入されたことを説明してゐる。


 續けて曰く、
『我國には道教は行はれず、近來神道世に行はれて是を我國の道と思ひ、此神道は巫祝の傳ふる所にて、極て小き道なることを人知らず、儒は唐土の道、佛は天竺の道、神は日本の道なれば、此三道は鼎の三足の如く同等にして、偏廢すべからざる事と心得候は、口をしき事にて候。佛道は釋迦の教にて候。釋迦は天竺摩竭陀國の淨飯王といふ王の太子にて、幼き時は悉達と申候。耶輸多羅といふ女人を妻として、羅睺(目+候=ご)羅(※らごら=釋迦の子)といふ子をもたれ候が、年十九にて發心出家して道を學ばれ候。國王の太子にて王位を繼べき人なるが是を厭ひ、父母をも妻子をも棄て、出家遁世せられたる意は、人間に居ることを桎桔の如くに思ひて、身一つを自任にせんとおもひ、浮世の情欲を病苦の如く思ひて、是を離れて心一つを安樂にせんとおもひ付たる物にて候。出家とは父母の家を出て山林に入り、身を浮世流水の如くにするを申候。釋迦の道を學ぶ者を僧と申候。釋迦の道は國王の位を棄て、身一つになりたる道なれば、此道を修する者は士農工商の業をなさず候。上に君なく下に臣なければ君臣といふこと無く候。男女の交はり無ければ夫婦といふことなく候。父母なければ兄弟も無く候。世を離れて人間の交はり無ければ朋友といふことなく候。士農工商の業をなさゞれば、衣食を得べき樣なき故に、乞食を業とし候。乞食とはすなはち只今の乞丐人の如く、食を人に餬て命をつなぐにて候。僧は家なく、食物をも作らぬ掟なる故に昔の僧は鉢を持出て辻に立候へば、其邊の人家より殘飯を持來りて鉢に入れ候。又施食の志ありて新しき食物を施す者も有之候。鉢中の食物、其日の命をつなぐほどなれば、それより歸りて其食を食して、明日又その如く出候。衣服も作りて着る事は無く候。天竺の人は清淨を好み、不淨を惡むが故に、凡病人、死人、産婦の着たる物、又は火に燒け、水に濡れ、其外何にても汚るゝ事有たる衣服をば持出て、糞壤に棄る習なり。僧たる者は人の糞壤に棄たる衣服、布帛を拾ひ取て、歸りて皂角水に洗ひ淨めて、錦繍、綾羅、布帛の嫌なく、種々の物を綴り集て袈裟に作る、是を糞雜衣(ふん-ざふ-え)とも、納衣(なふ-え)とも申候。人の棄たる物にて主なき物なる故に、僧の衣服には是を最上第一の法服と定候 ~下略~ 』と。

 この一節は佛僧、延いては佛道を批判するものだ。
 だがしかし佛道批判を掲げむとするのであれば、野生は太宰春臺の持論ではなく、篤胤大人の『出定笑語』を紹介するであらう。だがしかし、それは後日のことゝせねばならない。


 曰く、
『 凡天下國家は聖人の道を捨ては一日も治まらず候。天子より庶人まで是を離れては一日も立申さず候。佛法はいかほど向上に廣大に説候ても、畢竟一心を治て獨身を自在に、安樂にするのみの道にて、天下國家を治むる道にあらず。僧はいかほどの學問、いかほどの知慧ありても、天下國家の政にあづかることを得ず、却て天下の法制を受け、士民の末に列する者にて候。聖人の道はすなはち天道にて、天地の間に行はれずしてかなはざる道にて候を、只佛者の高遠なる事をいふを聞しめして、儒者の道と同等に御心得候さへ御誤にて候に、儒者の道より上なる樣に御心得候はゞ、天道に背きたまふと申にて有べく候。

 儒者の道は聖人の道にて候。聖人の道は聖人の聞きたまへる道にて候得共、天地自然の道かくあらで叶はぬことを知しめして、かく定置たまひし故に、是すなはち天地の道にて、聖人少も私意を加へたまふことは無く候。道を開くといふは、道なき野山に始(※初、乎)て道を開く樣なる物にて候。譬へば日本の名山に、昔役小角(えんの-せう-かく)が道を開たりといふを、今の人其道を履て其山に往來し候。別に近き道も有り、易き樣なる道も候へども、其近き道、易き道を行候へば、何かは知らずよからぬ事有て害にあひ候。只昔の達人の開たる道を行候へば、迂遠なる樣なれ共、危きこと無く、迷ふことも無く、安隱に往來し候。何故ぞなれば役小角は天性の靈智にて、山路を知り、後人の爲に宜き道を開置たる故にて候。聖人も其如く聰明睿智を以て天智萬物の理を知て、天下の爲に常行不易の道を開たまひ候。惣じて天地開闢の初に人の生ずる所は、久しき池に魚の生じ、腐たる物に蟲の生ずるが如く、自然の氣化にて生じたる者にて候、さる故に其時の人は貴賤上下の品も分れず、皆同輩にて候、是を平民と申候。形は人にて候へども心は禽獣に異ならず、男女一處にこぞり居て日を送り候。其内に衣食の求め無くて叶はざる故に、誰教るともなく、人々天性の智慧にて、飢を助け、寒さを禦ぐ計略をなし候。然るに人の性さまゞゝにて、賢き者あり、愚なる者あり、強き者あり、弱き者あり。賢き者は能く飢寒を免れ、愚なる者は飢寒を免るゝことあたはず。強き者は弱き者の衣食を奪ひ、弱き者は強き者に衣食を奪はる。是より平民の中に爭鬪といふこと出來候。此時幾億萬人の中に聰明睿智とて、神妙なる智慧の人生れ出て、彼愚なる者に衣食の道を教へ、爭鬪する者をばそれゞゝに教訓して暴虐をなさざらしむ。

 是より其邊の人漸々に歸服して、何にても分別にあたはぬ事をば持出て尋問ひ、爭鬪する者は其事を告訴て裁斷を乞求む。其體今の世に郷里の子弟たる者、其所の父兄長老に從ふが如し。かやうに近邊の人歸服すれば、其化漸々に遠きに及で遠方の人も歸服する故に、いつとなく諸人こぞりて君長と仰ぎ奉る。上古の盤古燧人などいふは是にて候。其後伏羲、神農、黄帝といふも亦聰明睿智、仁徳の至れる人にて天下の君となりたなふ。自己より高ぶりて民の君長となり給へるにては無く候。此聰明睿智、仁徳の至れる人を聖人と申候。此聖人上に立て天下の人に仰がれたまふを天子と稱し、大君と申候へば、天下の人はみな臣にて候。是君臣の始にて候。上に大君あれば、下にも亦大小それゞゝに君長を立て其下を治しむ、皆君臣の道にて候』と(改行は野生による)。


 佛道批判に轉じて儒者の道を説きたるもの。つまり聖人の道である。吾人はこの鹿爪らしく力説する春臺のこの一節にも又た注目を要さねばなるまい。
 さて人、かくなる『辯道書』の一文に首肯する者である乎、首肯せざるもの乎。而、後者であれば何と反論するべき。
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by sousiu | 2013-09-30 06:08 | 大義論爭

「辯道書」と、「呵妄書」及び「辯辯道書」 その八 

 昨日は「神奈川有志の会」懇親會に參加。
 今囘は大日本勝魂社諸兄が幹事となつて行はれたのであるが、迚も美味しい料理ばかりで、決められた會費では足りなかつたのではないか、と思ふほどであつた。極樂極樂…あ、髪長用語だつた。失敬。
 次囘の幹事は菊水國防連合だ。樂しみである。笑。
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 ところで昨日の會合では、和心塾の石田勇樹君などから神道的自覺に就ての意見が多々あり。實に頼母敷い限りである。


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 前囘記事に續き、~~「辯道書」と、「呵妄書」及び「辯辯道書」 その五~~の太宰春臺著『辯道書』に對する篤胤先生の反駁を下記す。

●大壑 平田篤胤先生『呵妄書』(享和三年癸亥十月刊)に曰く、
今の人神道を學びて、不淨なる家の内に神壇を作り、不淨なる衣服を着し、不淨なる供具を献じ云々。今の神道家にいふ所の神明は、佛家にいふ如來にて候。 ~※純が文の引用なり~

 神は敬して遠ざくとかと云ふは漢國のさたなり。
 皇國は神の生成し賜へる御國にして、神の立賜へる道なれば、漢土とはすべて異なること論ひなく、天の下の人神胤ならざるは少く神國の人ならさるはなし。然れば妄説の佛學空理をもて、作り立たる西戎國聖人の道をはじめ、穢汚(きたな)き外國の教どもを廢(すて)て、まづ 皇國の古を學びて 皇國の神の尊くまします故を知り、清々しき眞心もて慇(ねんごろ)に神を敬ひ近付て、よく祭るぞ 皇國の道なり。其故は前にも云へる如く、朝廷には神事をば御政の第一と定め賜ひて、天の下を始め給ふ御事(み-わざ)の本なれば、其の大御心を心とする臣等(をみ-たち)天の下の百姓(おほみ-たから)に至るまで、己が家々の祖神、其外他(あだ)し神々をも齋(い つ)き祀りて、眞心に仕奉(つかへ-まつ)るぞ、此大御國の遠津神代よりして古をしぬび、遠つ祖を慕ふ孝心のあつき御國俗(み-くに-ぶり)なればぞかし』と。

 このあたりは神代派を提唱する下山君の、涎を垂らして喜びさうな一文だ。
 固より吾人のゆめ忘れる可からざる心掛けであらねばならない。
◎順徳天皇、承久年間『禁祕抄』(卷之上)に宣はく
『凡そ禁中の作法、先づ神事、後に他事』と。↓↓↓
 http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/i04/i04_02478/i04_02478_0040/i04_02478_0040.html
 全國民は肝膽に銘ず可し矣。焉んぞ 禁裏に於いてのみならん。
 起床して先づ神棚を拜するは必ずしもひとり神道家だけに非ず。おほくの國民が古今に亘り自然と身に付いた習ひである。


 篤胤先生の曰く、
『さて朝暮に神を祭り亂心する者もありと純がいへる、實に然ることも有るべし。眞の神を知らずして、佛菩薩のごとく思ひ奉りて、其上神のいたく忌み嫌ひ給ふ佛經の句を摘取り、祝詞に擬(なづら)へて杜撰したるもの[六根清淨の祓ひなどいふ類]をば法師どもの佛經を誦する如く、神の御前に數篇となへなどして汚し奉ればなり。また普通の神道者流の云ふ處の神明は、如何にも法師どもの云ふ如來めけることにていと忌はし。然れども此輩はみな己々が好むかたに執着して、佛を好める輩は、佛説を出ることあたはず。性理を學べるものは、此理と云ふものをのみ牽強して、外に妙(たへ)なる理(ことわり)の有るをも知らず、皆始に學べる垣内に迷ひて外あることを知らずし て拘泥(なづめ)るものなり。彼の聖人の道にのみ迷へるものゝ、何事も聖人のいへるをばよしとして、其糟粕をのみ舐(ねぶ)りて其垣内を出ること能はず。周易の神道と我が國の神道とを、附會せるものなど、みな同日の談(ものがたり)にて、彼の蒼繩窓に觸るとは云ふ類なり。されば兩部唯一の徒も、其の好む處に迷へる不明は、憐れむべきことなれ共、腐儒者(くされ-ず-さ)の輩我が國の事をば知りもせず、漫りにわろくいはんとする無頼なる者よりは、附會ながらも我が國の道と云ひ成して稱へんとするは、皇國を尊くせんとての眞心わざなれば、まだしも殊勝なる志なり。我は純が輩よりは惡しと思はずなん』と。

 當時の神道は兩部神道、唯一神道など、神佛習合であつたり、神佛儒の三教が一體となつてをり、篤胤大人のやうに隨神の道を追及せむとする人らにとつては甚だおもしろからざるものがあつた。よつて大人らの信念と相容れない既存の學者、神道家との對立は當時に於いて決して少々ではなく、筆戰激しきものがあつたのである。さりながら大和心を堅固とする爲めには大人らの試みは必要不可缺であり、その成果がのちの明治中興の偉業へ導くに多く與かつて力があつた。


 續けて曰く、
今の世には、巫祝の道を神道と心得候て、王公大人より、士農工商に至るまで是を好み云々。巫祝にあらざる者は、知らずして少しも事かけず候。 ~※ 仝~

 今の世に、兩部唯一の輩の唱ふる巫祝めける事を、眞の神道と心得て、人々學ぶは大なる誤りといへるは、人通り然ることゝも聞ゆれども、己謂(おも)ふに、聖人の道を學て、純が輩のごとく無頼ならんよりは返(かへり)て彼輩こそたのもしからめ。其故は彼の輩の其云ふ處は妄説なれ共、一向(ひたすら)に 皇朝をかしこみ神を尊み、露ばかりも我が國をあしざまに云はんなどの心はなく、更に聖人の道をうまくさとれりとて、ほこる嗚呼(を-こ)人の汚き意の類にあらず。されば彼の學をする輩をも、然のみ叱るべきことにはあらず。また巫祝の道は鬼神に給仕するのみにて、吾れ人の知らずとも事かけぬことなりといへるも、一通り然る事と聞ゆれども、前にも云へる如く、皇國の御巫祝部は、漢國の巫祝と、淨き上にも淨きを好む我が國の巫祝とを、同じ事に思ひ混(まじ)へて僻言を云は、既に事かけたるおとにあらずや。何事も學びてのちに用なきは廢(すつ)るに安きわざなれば、及んかぎりは學びて、其止る處にとゞまり度わざぞかし』と。


 篤胤大人の反駁も、前記『辯道書』に追ひ付いた。次囘は再び、『辯道書』の續きだ。
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by sousiu | 2013-09-27 23:25 | 大義論爭

「辯道書」と、「呵妄書」及び「辯辯道書」 その七 

 「男はつらいよ」の寅次郎氏の如く、和歌山やら大阪やら京都やらと放浪し、又たしても『辯道書』に關する記事が滯つてしまつた。

 シブケン氏による「うひまなびのともがら」の「うひ山ぶみを読む」も再開したやうだし、野生も負けじと再開せねばならぬ。
 さういへば秋風之舍・シブケン主人とは、過日紀伊で初めて面交を果たした。彼れとは實に十年以上も前から心交は重ねられてゐたのだが、案外(呵々)、野生の想像を裏切り色男であつた。

 さうゝゝ。シブケンと云へば、一昨日、彦根にてゴトケン氏と面交を果たした。ゴトケンとは後藤健一兄のこと。ゴトケン兄は滋賀縣で活發に運動を展開する一人だ。兄とも心交は長かつたが、面交は初めてであり、想像を超えた強面であつた。

 ん?滋賀??さうゝゝ、滋賀と云へば、京都行きでは大阪の紅葉屋主人・志賀君に大層お世話になつた。・・・あゝさうか、かうして著しく脱線するから『辯道書』は先に進まないのだ。


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※間が空き、何のことだか分からなくなつた方もをられる(當然でせう。蒙御免)であらうので、太宰春臺著『辯道書』の進行具合を下に記す。↓↓↓
http://sousiu.exblog.jp/20289146/

 承前。
●大壑 平田篤胤先生『呵妄書』(享和三年癸亥十月刊)に曰く、
巫祝といふは、鬼神に給事する者にて、國家に有らで叶はぬ者なる故に、周禮の春官に云々。周の代の巫祝の所作は、如何なる禮といふ事を今考ふべき樣はなく候云々。 ~※純が文の引用なり~

 今の世に神社に仕奉(つかへ-まつ)る御巫祝部など、今よりして見れば、如何にも西戎國(からくに)の巫祝の體に大略は似たるものゝ如くなれども、是(こ)は萬に漢國ざまを用ひ給ふことになりて後のことにて、右にもいへる如く、古へは然らず。天皇御自神祇を祭り給ひて、天の下を治め給ひ、神事に預るは臣等といへども、みな官(つかさ)たかき臣等にて有りしなり。後世御政と御神事と斯別れは爲(し)けれど、職員令に神祇令をもて首章とし、延喜式五十卷のうち十卷は神祇式にて、此篇をもて初篇と成し給へるにても、古へは神事を重んじ給へることを知るべし。

 漢國にても 皇國の古へほどには有らざりけめど、殷の代などまでは神をば尊みしを、周の代と成りて、彼の周公旦と云ふさがしら男が、殷人の鬼神を尊むがすきたりとて、己が賢(さかしら)をあらはさん爲、神を輕しめないがしろにして、その仕る巫祝をも王道のいと片端となして、賤しめたることなれど、いと好からぬことなり。すべて何事にも己新しきことを爲(し)出(いだ)して、夫(そ)をたけきことにするは、彼國人のならはし也と、吾翁のいはれき。神は尊むが上にも尊みて其眞心の至らぬを省つゝ、いつき祭るべきことにこそあれ、いかで過ぎたりと云ふことの有らん。されど是(こ)は例の體もなき空名の神をまつることなれば、しか蔑(ないがしろ)に思ふことゝ成れるも、自然の故になんある。道に志しあるきはの人は、ゆめ戎人(から-びと)のさかしらにならひて、神を蔑にな思ひ奉(まつり)そ。

 さて、周の代の巫祝の所作は、如何なる體と考ふべきやうは無れども、大略今の世の阿闍梨、陰陽師、禰宜、神主、神子、山伏などの所作に似たる者ならんといへる。是いたく違へること也。周の代の巫祝は周禮[春官]に考ふるに、大祝小祝の官、もろゝゝの神祇祭祠の事を主り、また喪事をも預かりつかさどるよし云へり。生(いき)たると死(しゝ)たると、清淨(きよき)と穢汚(きたな)きとの差別なくして、皇國の意より見れば、いともいとも穢らはしき國俗(くに-ぶり)なり。皇國のは禰宜神主はさらにもいはず、兩部とか云ひて神と佛とを掌る阿闍梨、或は山伏すら神事と喪事などの別は、いと嚴重(おごそか)にして更に々ゝおなじからぬを、などてかく菽麥をわかつことあたはざるや。知りもせぬ事まで知り顏に呼はりて、漫りに辨説すれども、己が任とするところの經書にさへ、昧(くら)くして是等の差別(けぢめ)をも辨へず、皇國の古などを論(あげつら)はんは、いともをこなわるわざにあらずや』と。(改行は野生による)


 篤胤大人の辛辣なる筆劍は純(春臺のこと)に向かうてなほも續く。

 曰く、
『純は吾が國の事をば知らずして知り貌に云るを、今の俗(よ)にこれとは異にして、をかしき一種の學者と名のり、吾が國のことを問れてもしらずと云ひて恥とも思はず。西戎國の事を問ふに、しらぬことまでを知り貌に言ふこそをかしけれ。もし君の命を承りて、西土人と應對すること有らんに、戎人の吾が國の事を問はゞ、我は自の國の事はしらず。されどそなたの國の事はよくしれりと云ひたらば、戎人は己が國のことをしらぬ痴人よとて、手を打ていたく笑ふべし。是、大いなる國の辱なり』と。

 この一節は今日の吾人をして背筋を伸ばして拜讀すべからざる可からざるのもの。
 「保守派の時代」と呼ばれる一方、自ら 日本に就てくはしくあらぬ始末では、某評論家の云つた現代保守派への苦言と失望も強ち過言ではあるまい。
 而して、偶、日本に就て詳しいかと思へば、それ啻に近代日本の政治やら經濟やらに留まり。日本則 皇國といふことの無理解と云はずんば理解不足であることが憾まれる。微細なところまで申せば英語や支那の言葉の讀み書きが出來て、僅か六十年前の日本の假名が讀めぬとは果たして如何なものか。

 太宰春臺は經世家として一應、當時に名を馳せた一學者だ。彼れをして篤胤大人の認めざる、それ乃はち、日本の眞相に昧きことを以てす。續けて曰く、
『孔子も己を行ふに恥あり。四方に使して君命を辱しめざるを士と云ふべしといへるにあらずや。然れ共、辱しらぬ者は恥とも思ふまじ。この者共に、吾が國の事をいかで學ばぬにかと問へば、假字文のみ多くて俗なりと云り。これ如何なる俗意ぞや。すべて漢籍のみ讀むものは未乳くさき小兒輩に至るまでも、わづかに大學論語やうのから書を讀と、はや我が國のことを學び、我が國の書を讀などは俗なりと云ひてほこる。其上を行て彼の左國史漢やうの物を見かぢれるものなどは、なほさら高ぶり、我が國をば外國のごとく心得、西戎國を我が國の如く思ひて、かの君などゝ云ふ者のかまへをなし、何か人を眼下に見下し、少しのことにも經書などを引出て、漫りにほこらひ貌して、吾が國をあしざまに云ふなど、いとゝゝ胸わろし』と。

 餘談であるが、篤胤大人は決して他國の學問などを排外せむとする狹見の持ち主などではない。

○大壑先生、『入學問答』(文化十年正月)に曰く、
『  問テ曰、御國の學問を致し候へば、外國の事をば、學ばずとも宜シく御座候や。

   答テ曰。随分に御學びなさるべく候。凡て、世の古學者流、儒者、佛者の、吾道をのみ狹く域(かぎ)りて、他を知らざる管見をば、笑ひ居リ候へども、吾もまた、吾が古學をのみ知りて、固陋なる事を顧みず。それ故、わが聞知らぬ、外國説を聞ては、驚き惑ふ者も、間々これ有り。身方より見るに、心苦しく候ゆゑ、拙子(※「私」の意)が弟子を教授いたし候には、その倭心を堅固に致し候上にては、手の及ぶ限り、他をも能く學び候やうにと誨(さと)し候事に御座候。其故は、凡て外國々(とつ-くに-ぐに)の説、また他の道々の意(こゝろ)をも、能く尋ね此考いたし候はでは、我が道の實に尊き事を知らざるにて候へばなり。外の道々をも、よく知り候上にて、信じ候こそ、實に知りて信ずると申す物に候なり拙子は、右の心得に候ゆゑに、他の道々の意及び其説くをも、及ばむ限りは、明らめむと致し候事に候。されば、儒學、佛學、蘭學に依らず、何にても他の道々を御精究なさるべく候』と。

 つまり、日本を學習しただけでは未だ不充分である。他の國々の道や意をも學び、而、はじめて解し得る日本のあるを悟るべし、と。さりながらそれには先づ、大和こゝろを固めることを必須とす。
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 嗚呼、憾むべし矣。大和たましひの軟弱なるを以て、政治を弄ぶ政治家ばかりとなつたが爲め、成る可くして今日の日本は成つた。これを憤慨する國民各自の、大和たましひは果たして奈何。

       續く。



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by sousiu | 2013-09-25 22:15 | 大義論爭

「辯道書」と、「呵妄書」及び「辯辯道書」 その六 

●佐々木高成先生『辯辯道書』上卷に曰く、

http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=XYA8-02010&IMG_SIZE=&IMG_NO=22

神道の文字、我書になき事はその筈なり。凡て三部の本記に何の尊、何の神のとあり。其神の行ふ所は皆、道にして神道なり。神の字に心つかざる故、かくのごとくの妄言あり。其上、我國開闢より人王の初迄は、他邦の道、入來(いり-きた)る事なければ皆神の道にして、分て神道と稱すべき事なし。後世儒佛の二教入來て、外國の道を學ぶもの中古より多きゆへ、他道へ對して神道の名あり。漢土に聖道といふがごとし。況や辯道者、所謂易の觀の卦(け)の説は、今世増穗老人(ます-ほ-らう-じん)の八部の書の中にいへる天地一般の神なり。我國の他邦と境を異にし、形體の神明降化の地においては神とさすこと格々(かくゝゝ)の子細あり。寒暑往來、陰陽消長の徳をさして天の神道といひ、聖人則天道治天下(※聖人は天道に則り、天下を治むる)を指(さし)て、其徳を神明にすといへるは、一通り天地一般の神の上にては聞へたるやうなれどもいまだ盡ざる所あり。 ~畧~

 易の本文に齋戒して其徳を神明にすとあり。是異邦の聖人といへども、齋戒の道を以て徳を神明にす。心を神明の舍(しや)といひ心を靈臺といふ。皆吾國秡(はらひ)の徳に似たり。朱子、論語丘が祈る事久しの章の註に、侮過遷善、以祈神之佑(※過ちを悔いて善に遷り、以て神の佑を祈る)とある。是神教三種大秡の意なり。かやうの事も察せずして、かたくなに儒計(※じゆ-ばかり)を尊んで、重むずべき我國の道を知らず、足もとを見ずして淵に落入とは曲學者が事をいふべし。其上我神教に四化の神といふことあり。他邦には曾て知らざる事なり。天地一般の神をいふときは造化(あめのしわざ)神といへり。又、氣化(いきのしわざ)の神といふ時は諾冊の二尊を始め、形體の父母なく、天地を父母として此國へ化生御座(まし-ます)の御神也。又、身化(みのしわざ)の御神といふは一女三男の神の類にして胎中より生給ふ御神なり。又、心の化(しわざ)の御神は住江の三天九神、日神の三女、大己貴の大三輪、是亦心化なり。神代卷の中、此四つの分別を以てそれゞゝに御神徳をわかつ事なり。

 他邦において造化、氣化、形化の説ありといへども、吾國四化の説の詳なるがごときこと更になし。尤、周公旦の禮書に天神、地祇、人鬼の三つを立て、大宗師、大説師等の官あつて鬼神に事(つかへまつ)れる事有り。辯道者我神國の神を祭る事を巫覡(ふ-げき)の業とおとし、天下國家を治るの大道にあらずといへるは狂妄はなはだし。往昔(その-むかし)神代天照大神、天児屋命をして、天下國家を治るの政を執(とら)しめ、又天神地祇を祭るの大宗師を兼て行はせ玉ふ。上の文にも述たる通り不此等(※ふ-び-と)の御子孫は今の五摂家、天下の政務を執り給ふ。卜部は神祇の官領となり、大中臣は伊勢の祭主となり給ふ。是児屋命の御子孫にして、古人の祭政の二つを御子孫へ分て一代不缺の相承となる事、仰(あふぎ)てもあまり有り、萬國に比類なきの神國、日神の勅言綿々として万古に盡(つき)ず。難有事(※ありがたきこと)にあらずや。それを異邦の眞似をして神に事ふるの官を設けたる巫覡といひなし、大道にあらずとはいかなる妄言ぞや。曲學者が著述の書をみるに、子思、孟子より誤り起り、宋に至てその毒甚しく、佛意を以て儒教に合す。唯孔子一人を執るべしといへり。しからば論語の文をば背く事あるまじ。論語に出門如見大賓使民如承大祭(※門を出でては大賓を見るが如くし、民を使ふには大祭に承へまつるが如くす)とある。是孔子、祭りを愼で神に事るの心を民に用ひよといふ事なり。是も児屋命の祭政を一人して執行ひ玉ふの御心に叶ふ教なり。本心にかへり、神敵國敵の罰を蒙らざる樣に悔悟すべし』(上卷終はり)と。



●佐々木高成先生『辯辯道書』下卷に曰く、

http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=XYA8-02010&IMG_SIZE=&IMG_NO=27

『又、辯道書に、今の神道は佛意を借り、佛語を取て潤色したるものなり。本神道といふ事なきゆへ後人の附會なりと、都(※すべ)て佛語を合せて神道にいふ心の神明は佛家にいふ如來の事にて、唯心の彌陀本覺の如來して候などゝいひ、根の國、底の國といふは死して後の事をいふにて候。内外清淨、六根清淨などいふ事は、佛家に煩腦を除て菩提を求る道にて候、ことに六根清淨といふ事は法華經に出たるを、神道家に其名目を竊(※ぬすみ)て教を立たるものにて候などと、いろゝゝ神佛一致のやうに書なせり。是亦水火、氷炭のごときの誤り、有智のものへは辯ずるに及ばねとも、東西を辨へざる蒙昧の者のために今、爰に辨ず。

 先(※まづ)心の神明を本覺の如來彌陀といふ事大に不當の僻論なり。彼佛道に暗きゆへ、經文の意(こゝろ)をもあやまれり。唯心の淨土、己身の彌陀は淨家三部の得經(ゑ-きやう)の中、雙觀經の文なり。是は理を以て念佛を解するの説にて、彌陀佛は三部の中觀無量壽經に委しく見えて、法藏菩薩十劫の間思惟し玉ふて正覺を遂げ彌陀佛となり、西方に淨土を構へ安樂國といふ。人々佛性を具ふるゆへ、心を淨土とし、身を彌陀とす。去此不遠(こ-し-ふ-をん)の文字にて其意を見る。又吾自己の神明は天御中主の分靈(わけ-みたま)なり。佛といふ事、佛は覺にして煩腦塵砂の無明(む-めう)盡(つき)て本覺の如々たるものをさしていふ。吾神教は無明煩腦といふて嫌ふものさらになし。今日の歡び、怒り、歎き、哀み、是直に神心にして、其事々々に應じて正直質素の御柱立と、怒るべきものをいかるが、神心無明を以て怒るにあらず。惡を戒しめ、邪(よこしま)を罰するは是、曲玉の御徳なり。哀しむべきを哀しみ、悦ぶべきを悦ぶ、則神心なり。それを引つけて佛教と同じ樣にいへるは方蓋圓作の差(たが)ひ也。

 又、根國底國を佛教にいへる迷途(めい-と)地獄のやうにいひなすも大なる差(たが)ひ也。高間原の事は神代卷中臣秡等の神經に明々たり。根國底國も中臣秡及び伊勢五部の書の中に見ゆ。是佛家にいへる中有迷途(ちう-う-めい-ど)の沙汰とは天地懸隔のたがひ也。我所謂根國底國は此国土にあり、天地の外に有(ある)にあらず。神道生死の理を知らず、餘所(よ-そ)目より垣(かき)のぞきするゆへ、曾て室中の事を知らず、想像億度の妄言笑を千歳にのこすのみ。此事は前に所謂八部の書の中にくはしく、清明なるものは其神魄天に昇て、神明となる。邪曲無道のものは其神魂靈ならずして、降て幽谷山野に迷ひ畜身の胎中にも入る。此説を見ば辯道者甚だ笑ふべけれども、彼生死の實理を知らず、今試(いま-こゝろみ)に曲學者に問(とは)ん。

 孔子を祭る事、數千年聖徳宇内に滿て北狄西戎の國もこれを祭る心魂精神なくんば、祭る事虚禮虚僞なり。其靈ありといはゞ、おのづから根國底國あるべし。孔子精氣物をなし、遊魂變をなすと、此語も伊藤氏が古學にては孔子の語にあらずといふ。辯道者も雷同なるべし。是を僞といはゞ、孔子などを祭り、皇天后土(くわう-てん-こう-ど)を祭るは、人を化惑(だます)の教か、此いひわけ一に極めよ』と。
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by sousiu | 2013-08-29 02:20 | 大義論爭

「辯道書」と、「呵妄書」及び「辯辯道書」 その五 

 『辯道書』對『呵妄書』、同じく『辯辯道書』を並行して記さうと試みたものゝ、間が空いてしまへば、どこまで抄録して、どのやうに進めてゆかうと考へてゐたのか、すつかり忘れてしまつた。抑々當時跋扈した慕夏主義の經世家と、之に對峙する國學者、崎門の學者の三書併行といふ企劃そのものに無理があつたのかも知れない。

 嘲笑つてくれ!!と云ひたいところであるのだが、固より野生の場合、ブラツク企業に働いてゐる譯で無し(わかるかな?)、閑人には閑人の取り柄あることを明らかにしておく必要があるので仕方なく、このまゝ筆を進めねばなるまい。

 え?わかり易く整理して書いてくれ、となん。・・・さういふ意地惡な請求をされますと、野生は再び一个月ほど更新をサボつてしまふことになりますぞ。

  ~ ~ ~ ~ ~ ~ 

 さて。佐々木高成、平田篤胤兩翁の批判も追ひついてしまつたので、再び『辯道書』の抄録に作業を戻さねばなるまい。
 篤胤翁の『呵妄書』にも度々散見されるが、必ずしも春臺、無學の徒といふものでもない。中には研學の成果無いでもない。
 但しそれ惜しむらくは、やはり慕夏思想が彼れの根底に存することにある。之によつて折角の學究も、歪んだ觀念となつて凝り固まらせてしまふのである。かくなる者をば經世家と認めてしまふ世の、不幸不吉たるは以て知る可し矣。噫、さりながらこの病ひ、ひとり春臺のみ感染するにあらず、たゞに江戸時代のみ流行するにあらず。吾人はかの病を患ふことなきやう、兎角時勢に焦り流されるの如き近視眼・短見者に偏ることなく、皇國住人たるの思想、乃はち勤皇の誠意を固めること、これを思想・學問の基礎と致さずんば能はず。基礎無き、若しくは基礎の脆き上に建てたる家屋やビルなぞ脆弱至極たること以て知る可き也。固より人の安住する可からざること、説明するまでも無し。

※煩を避けむが爲め、前囘まで付した(■佐一)(■平二)などは省くことゝした。
 又た、改行を成るべく多用してみた。讀み易きやうにとこれでも工夫した積もりだ。お付き合ひいたゞくやう、伏して冀ふ。


承前。
○太宰春臺、『辯道書』(享保廿年)に曰く、
『今の神道に神事の行ひ、祈祷加持などの法を傳授して眞言宗の阿闍梨護摩師の如くなる業を教るは是巫祝の道にて、神道の肝要にては無く候。巫祝といふは鬼神に給事する者にて、國家に有らで叶はぬ者なる故に、周禮の春官に、大祝、小祝、喪祝、甸祝、詛祝、司巫、男巫、女巫の官ありて、鬼神の事を主司す。

 此諸官は天子の宗廟社稷以下の祭祀、其外國家の大禮に皆それゞゝの職事ありて其役を務候(※つとめ候)。此輩は只專鬼神に給事し、祭祀祈禳を行ふのみにて、別に其道あるを其家に相傳するにて候。周の代の巫祝の所作は、如何なる禮といふことを、今考ふべき樣は無く候へども、大略今の世の阿闍梨、陰陽師、禰宜、神主、山伏などの所作に似たる物にて有べく候。昔と今と時を異にし、異國と本朝と境を隔つる故に、其儀式名目は、かはるべく候へ共、其所作はさのみ大に異なること有まじく候。子細は人情物理、古今同然なる故に候。此巫祝の道は君子の道とは別なる物にて、君子よりこれを見れば、兒戲の如くなる事も、怪しき事も、おかしき事も有之候へ共、國家の害にならぬ事は其まゝに捨置て、神事の類をば彼等に任せんとて、古の聖帝、明王も是を用たまひて百官の列に入られ候。後世に及で、人を牲(いけにへ)にする樣の事起り候へば、西門豹が如き者さへ是を治候。況や先王の時左樣の事は無く候。然れば巫祝には別に一種の道ありて、常の道にあらず候を、常の人これを學び候て、何の用に立候はんや。今の人、神道を學びて、不淨なる家の内に神壇を作り、不淨なる衣服を着し、不淨なる供具を献じて朝暮に神を祭り、巫祝の如くの行ひをなして、鬼神に褻れ鬼神を瀆して、終には亂心する者有之候。今の神道家にいふ所の神明は、佛家にいふ如來にて候。心の神明といふは佛家にいふ唯心の彌陀本覺の如來にて候。

 根の國底の國といふは、死して後の事をいふにて候。内外清淨、六根清淨などいふ事は、佛家に煩腦を除て菩提を求る道にて候。總じて今の神道といふは、唯一三元といへども皆佛道に本づきて杜撰したる事なる故に、外には佛道と敵するやうにて、内は一致にて候。今の神道の如くなる事、中古までは無き事なる故に、昔の記録、假名草紙の中にも見えず候。是にて聖徳太子の時、神道いまだ有らざりし事を御得心あるべく候。左に申候如く、神道といふ文字は周易に出候て、聖人の道の中の一義にて候を、今の中には巫祝の道を神道と心得候て、王公大人より士農工商に至るまで、是を好み學ぶ者多く候は大なる誤にて、以ての外の僻事と存候。巫祝の道は只、鬼神の給事するのみにて、吾人の身を修め、家を治め、國を治め、天下を治むる道にあらず候へば、巫祝にあらざる者は知らずして、少も事かけず候間、士君子の學ぶべき事にあらずと思しめさるべく候』と。(以下、一旦閣筆す)


 敢へて『辯道書』には、赤字や太字を省かうと思ふ。有志諸兄の炯眼を以て先づ御一讀いたゞき、その上で高成、篤胤翁の御一文に接してみるはうが一興の價値あると思うた爲めだ。
 それにしても。淺見と云はんか偏狹と云はんか、當時に名を馳せたる學者をして本當に斯くの如く考へ、信じてゐたのだとするならば、これらを相手取り、且つ 皇國を復古中興へと導いた我れらの先學偉才の苦勞も並大抵のものでは無かつたに相違ない。
 さてゝゝ、兩翁の筆碎如何なるものぞ。
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by sousiu | 2013-08-28 22:02 | 大義論爭

「辯道書」と、「呵妄書」及び「辯辯道書」 その三  

 佐々木高成先生から戻り、篤胤先生の『呵妄書』の續きだ。

 流れとしては、先づ、批判されるべき太宰春臺の『辯道書』を一定のところまで進ませ、追ひかけてゆくやうに『呵妄書』と『辯辯道書』を進めてゆく。追ひ付いたらば又た、『辯道書』を進めてゆく。
 『呵妄書』に於ける『辯道書』批判は細部に亘つてゐるので、どうしても『呵妄書』の字數が多くなつてゆくだらう。

 讀み易いやうに、春臺の部分は青字、篤胤及び高成先生の言には赤字を用ゐた。これでも野生なりに少しは氣を遣うてゐるつもりである。
 一應斷つておくが、句讀點及び改行、米印は野生によるものだ。


~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~


●大壑 平田篤胤先生『呵妄書』(享和三年癸亥十月刊)に曰く(※、■平四)、
『聖人以神道設教(※聖人は神道を以て教へを設く)とは、聖人の道は何事も天を奉じ、祖宗の命を受て行ひ候云々。凡何事にも鬼神を敬ふ事を先とせしは、人事を盡したる上には、鬼神の助を得て其事を成就せん爲にて候。 ~※純の言の引用なり~

 聖人以神道設教の七字をとけるやう、爰には祖宗の命を受て行ふと云ひ、又、人事を盡したる上には、鬼神の助を得て其事を成就せん爲にて候など云ひて、實に神を敬ひ氣にて少しは道に叶へるさまに聞ゆるを、次には庶民は愚昧なるものなれば、鬼神を假て教導すと云ひ、又は民を導くには必上帝神明を稱して號令を出され候など云ふは、一紙一表の中にして忽に齟齬せり。然れ共、聖人の道の意は次に云へる趣ぞ。其意を得たる説ざまに有りける。[其よしは次に委く云ふ]

 さて爰に聖人の道は、何事にも天を奉じと云へるは然る事にて、漢國人の俗(ならはし)として、何事にも天の命とか云ひて、天は賞罰正しく心も有るものゝ如く、いみじく可畏きことに云ふことなれども、天は諸(もろゝゝ)の天津神等の坐ます御國にて、[かく云ふを聞て、漢意の人、耳なれずとて不審ることなかれ]更に心など有るものにてはなく[天則不言而信などいへるも、大いなる空言にして、漢國にても少し見解あるものは、天命など云ふをば□□りぬ]彼の天命など云ふは、皆古への聖人の云ひ出したる言にて、所謂寓言なるをや。[この事も末にいへり]また祖宗の命を受けて、行ふと云ふも然る事にて、皇國にこそあれ漢國などには、更に無きこと也。たまゝゝ書經[説命の上]に夢帝賚予良弼と云ふ事、見えたれ共、是も史記の頭注に據るに殷人は、鬼神を尊む風俗故、武丁(ぶ-てい)夢に托して傳説を擧げたるものなり。[外にもかゝる類まれには見ゆれど大概右の類なるべし]逆臣どもの君を亡し、國を奪ふ時などに、天の命を受たり。祖宗の命を受たりなどと云ふは、皆かこつけの空言なり。また天地山川社稷宗廟の祭を重んじと云へるも、社稷宗廟の祭などは、先祖を祭るにて、是とさして祭るもの有れば、然ることなれども、天地山川などを祭るは 皇國にては、正しき傳説有りて山ノ神も川ノ神も御名なでも、つぶさに傳はりて祭るなれば、正しきを西戎國にては傳説なく、たゞ心もなき天地山川を祭るにて、譬へばいたづらに其座ます宮殿を祭るが如く、いはゆる虚祭と云ふものなん有りける』と。


●曰く(※、平五)
又士君子は義理を知て行ひ候得ども、庶民は愚昧なる者にて、萬事に疑慮おほき故に、鬼神を假て教導せざれば、其心一定しがたく、聖人是を知しめして、およそ民を導くには、必上帝神明を稱して號令を出され候。 ~※純の言の引用にて以下略す~

 爰に士君子と有るは、庶民と對へていへるを思ふに、彼(か)の成徳の人とやらんを云ふにてはなく、たゞ官(つかさ)高く威(いきほひ)ある人を云ふと見ゆれば理きこえず。譬(たとへ)位たかき人にても、いと愚昧にて、義理の分らぬ人もあり。又、庶民といへども、いとさかしく義理に明なる者もあり。賢(さかし)と愚(おろか)なるは、人々の生質にこそあれ、いかで貴賤の故ならんや。譬へば漢國などにても、王と有るものゝ愚昧にして臣(やつこ)の爲に、國を奪はるゝも有、また奴ながらも、王の國を奪へるごとき、かしこきものもあるにあらずや。然れば人の賢愚は貴賤によるべからず。是のみは當らぬ説なれ共、此條にいへること共皆よく當れり。

 然れ共未(いまだ)くはしからず。まづ天命と云ふは、書經舜典に有扈氏云々。天用勦絶其命。今予惟恭行之罰。また秦誓に皇天震怒命我文考。肅將天威。また湯誓に夏氏有罪。予畏上帝。不敢不正など有る類、すべて西戎籍(からぶみ)にかゝることをいへる、みな純が云る如く、假に天命上帝皇天などを稱して號令を出し、民の心を一定せしめ、罪有る者を伐ち、或は逆臣共の君を弑して、國を奪ひ取らん爲に、愚民を欺き催促せるものなり。また可笑き(をかし-き)は武王が語に、商罪貫盈。天命誅之。予弗順天。厥罪惟鈞など云へるは、欲深き者の途に落てある財(たから)を拾ひて、獨祝して是神の賜はるところなり。今、是を拾はずんば、返て神の憎しみを受べしなど、獨免して私せるがごとく、いと心ばへの似たることなり。是等にても天命と云ひ上帝など云ふは、皆聖人の作り設と云る寓言なる事をさとるべし。~略~』


 篤胤先生の所謂る支那の天命、實體なきを云ふ。續けていはく、


『天道天命と云ふを、實事として迷へる人は、論(あげつら)ひのかぎりに有らねど、是を聖人の寓言と云ふ事をさとりては、書經などを讀む毎に、胸わろく思はず、拳を握る計りの事多し。純がこの條(くだり)にいへる樣、返す返すも當れる釋ざまになんある』と。


●曰く(※、平六)
近世理學者流の説に云々。皆神道を知らざるものにて候。 ~※純の言の引用なり~

 爰に理學者を呵(しか)りて、聖人の民を治る術にて假に鬼神を説くと云ふは、皆神道を知らぬ者にて候と云ふは、前の條に鬼神をかりて教導すると云ひ、上帝神明を稱して號令を出すといへるとは、表裏の異説にして自語相違、更に一人の説と思はれず。彼、唯我獨尊と高ぶれる男の言語にさも似たり。初學の人はさこそ惑ふべし。然れども、一條の文につきて云ふべし。まづ理學者をのみ、むげに神を知らぬ者のごとくいへれども、然云ふ人もいかで眞の神を知らん。知らざる故にこそ種々(くさ-ぐさ)僻説もいへるなれ。是(こ)はいはゆる五十歩にして百歩を笑ふとか云ふ類にぞ有ける』と。





                                                    ~續く。
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by sousiu | 2013-07-25 12:27 | 大義論爭

「辯道書」と、「呵妄書」及び「辯辯道書」 その二 

餘談であるが先般、かういふ話しがあつた。

 寄稿させていたゞいてゐた文章に誤字であつたかと心配になつた箇所あり。ネツトで確認してみたところ、どうやらやはり誤字であつたやうで、早速編集部に訂正を依頼した。
 ところが野生の日頃親しくさせていたゞいてゐる某兄が、御製集ほか確認してくださつたところ、當初が正しく、インターネツトでおほく書かれてある御製が誤記であるとのこと。兄曰く、以爲らく、はじめにどなたかが誤つて書いたところ、それを參考にした人が又た誤記のまゝ掲載し、それが遂に拡がつてしまつたのではあるまいか、と。

 インターネツトによる情報の怖いところである。誰れしも簡單に發表出來る爲め、公開された情報には自づと眞僞の二つが生じてしまふのだ。「便利」になることは宜しい。しかし簡易に調べられる爲め、これからの世代が「調べる」といふことの大切さを、決して安易に思はないで欲しいと思ふ。簡易と安易は違ふのだ。

 であるからして、こと先人の玉文に頼つてばかりゐる野生の場合、聊か煩はしいやうではあるが、一々出典を明らかにしてゐるのである。固より、野生が文章の入力に間違へてしまへば元も子もないので、これでも愼重に入力してはゐるつもりだ。(時折、備中處士さんから誤記を指摘されるが・・・汗顏)

 ところで古書を譯した本や活字の復刻本はどうかと云へば、これさへ少なからず注意をおかねばならない。これから記すべき『辯辯道書』も、少なからず活字本との違ひが目立つ。差しさはりの無い誤記ならば兎も角、前後の内容が繋がらなくなつてしまふほどの誤記には困つたものである。甚だしいものになると、已に書名が誤つてゐるものさへある。

 然るに江戸時代などの古書の場合、板本を根據とするのが理想であり、目下、インターネツトで公開してゐるものも少なくないので大助かりだ。この點に就いて云へばネツト普及の恩惠として素直に喜びたいところである。

辯辯道書、板本↓↓↓↓
http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=XYA8-02010&IMG_SIZE=&IMG_NO=3

辯辯道書、活字版↓↓↓↓(※青字部分、これだけの誤記があつた)
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もう一册の活字版↓↓↓↓(こちらは書名そのものを誤認して記してゐる)
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 よつて辯辯道書は上記urlを典據とし抄録する。野生同樣の深刻なる閑人あらば、野生の入力間違ひを探してほしい。


 また、如上、「辯辯道書」は、篤胤先生の「呵妄書」同樣、「辯道書」を痛烈に批判してゐるものであるが、その批判すべき主旨は兩者必ずしも一致してゐるわけではない。寧ろ、中には懸隔の大なる意見も珍しくないのである。これは學統の相違、延いては儒者と國學者の根本的な見解の相違である。繰り返すが野生は敢へて、どこまでも日本的立場に立つて「辯道書」に斧鉞を加へんとするこの兩者の主張を選んだのである。能く々ゝ注意をはらうて御一讀されたし。



~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~



●佐々木高成先生『辯辯道書』冒頭に憤慨して曰く、
『今年(※元文二年)正月の末、日本書紀の卷の第三、神日本磐余彦天皇の紀を講じ終りて後、諸生各(おのゝゝ)敬拜して問(とふ)ていへらく、頃日(この-ごろ)東武より歸坂せし醫師、辯道書といへる書を携へ來りしを、各熟覽仕(おのおの-じゆく-らん-せ)しに、塩土師の日頃の教とは、參商(しん-しやう)矛盾し、宛(あたか)も水火の相尅(さう-こく)するがごとし。吾國に道なき事を論じて儒教に偏黨(へん-たう)し、無體無理の辯、僕(やつがれ)ごとき碌々たる小子といへども、是等(これ-ら)の邪説にまよふことなし。然れども神教を知らず、吾國の事に踈々(うと-うと)しく、一筋に西土の儒教を信ずるの輩、此邪書を見ば、これに混乱せられて一盲衆盲を導の災おこらば、吾道の荊■(艸冠+棘=けい-きよく)秦蕪(しん-ぶ)甚しかるべし。師是を辯し給はゞ天下後世への賜(たまもの)なるべし。この辯道書を熟覽して批辯を下したまふことを願ふ處也と。予、その書を開き一周覽して書を地に投て大息す。嗚呼、是等の邪書、識者のまどふべきにあらず。然れども事の害をなすの起りは毫厘に差(たがひ)て千里に謬(あやま)る。實(まこと)に万里の堤蟻(つつみ-あり)の穴より崩れ、原野のひろき石火より燒く。所謂、不裁毫末尋斧柯(※毫末を裁(たた)ずして斧柯を尋ねず)と。よつて予、これを批辯するのみ』と。


●曰く(※、■佐二)、
『伏て以(おもんみ)るに神國に生れ、神國の養ひをうけ、神國の教を得て、今日を立ながら、それに神恩をおもはずして、吾國に道あり教あることをも辨(わきま)へず、國神の罪人となりて、狄人(てき-じん)戎者(じう-しや)となること、あはれむべし。先吾國道の大根元は、神代卷に見えたるがごとし。彼舊事紀を始として、僞書のやうにいひなせども、日中を暗夜と云よりも愚なり。我國神代より傳へたる道は、廣成が古語拾遺の自序に書たる通り、おのゝゝくちずからとなへ(※口づから唱へ)覺え、正直質素の道を守る。又書に傳へ來たる所の神典も、入鹿が乱に悉く燒失す。たとへば異邦秦火に普く聖經の燒失たるがごとし。依て家々に傳へ、彼所(かな-た)此所(こな-た)に渉りたる所の口決(く-けつ)又は傳書等を厩戸の皇子、勅をうけて撰し玉ふが舊事紀なり。古事記は安麿、勅を受て是を編(あ)み、日本書紀は一品舍人親王詔命を受て是を著述し給ふ。此事歴代の帝王傳へ來らせ給ふ處の眞書にして、其紛(まぎれ)なきこと歴々焉(れき-れき-えん)として天下周(あまね)く知る所なり。作者(※太宰純のことなり)三部の神典の妙理を見ず、剰へ曲学者が家の儒經にもくらし。孔子以前を古學と談じ、此書の中にも理学者流などといへるは程朱の道を学ぶ者をおとしての詞なり。辨道者が古學の井蛙(せい-あ)の見(けん)にては、程朱は大海のごときの道徳なれば、見ること叶はざるも然り。予、儒學に黨するにあらねども、曲學者儒者たるを以て是を論ず。朱子は孔子以來の一人にて、顏曽(がん-そう)と肩をならぶるの大賢なり。此儀談ずべき事多端なれども我道に与(あづか)らざることなれば爰に略す。忝(かたじけなく)も吾國は天地日月の神靈直(じき)に降化御座(まし-まし)、又、胎生(たい-しやうし給ふ。天地中正の道、吾國)に極りて其徳、磤(石+殷)馭■(石+盧)嶋(おの-こ-ろ-しま)の國号に備(そなは)る。辨道者が称して西土を中華といふは、あちらこちらの取ちがへなり。天照大神の勅言に、豊葦原中國(とよ-あし-はら-なかつ-くに)とのたまふ。是其證據なり。神代卷は、垂加(すゐ-か)靈社(れい-しやの)日記にして載道(みちを-のする)ものなりと、是千古の格言にして、近世神書を發明するの師といへども及ばざる所也。道は一門のみ。其道天地に充滿して無外無内(ほか-なく-うち-なし)、道あらざる事なし。これを明(あきらか)にするは我國上古の神人なり。其神光の余り外國へ及ぶものなり。吾國の教(をしへ)天地人物自然の道あり、自然の教あり、自然の神性あり』と。


●曰く、
辨道者等が古學は古學にはあらずして固學なるべし。眞正の古學といふものは程朱の學なり。孔孟程朱(こう-まう-てい-しゆ)其揆(その-き)一也。次に神代卷に、故(かれ)曰(いはく)、開闢之初といふより、乾道獨化(あめの-みち-ひとり-なる)。所以成此純男(この-ゆへに-この-をとこの-かぎりと-なる)といふまでは、吾國の万國にすぐれたる事にて、昭々明々たるの明文なり。一物(ひとつの-もの)は國常立(くに-とこ-たち)、吾國常盤(とき-は)堅盤(かき-は)に繁榮豐饒となるの神徳、寶祚(あまつひつぎ)の太祖なり。國常(くに-とこしへ)に立(たつ)の證據は、開闢以來、外國(とつ-くに)の夷(ゑびす)より吾國を犯すことあたはず。神代の昔、三韓(かん)蝦夷(ゑ-ぞ)吾國に敵すといへども、素尊(そ-そん)五十猛(い-そ-たける)、又は武甕槌(たけ-みか-づち)、經津主(ふ-つ-ぬし)の二神等降伏し給ふによつて忽(たちまち)に退聽す。其後三國の時、呉の孫權兵船を催し吾國を犯すといへども、神助に依て即時に敗北す。近世元の世祖周く四海を併呑し、又兵船數千艘を起し、十萬の人數を以て吾國に敵す。當時伊勢、加茂、春日へ奉幣あつて、伊勢内外宮及び加茂、春日等の大社より神風起て、十萬人の賊船殘らずくだけやぶれて存命のもの纔(わづか)に三人。此事吾國書に見えたるのみにあらず、通鑑綱目續篇(つ-がん-かう-もく-ぞく-へん)に委曲に述てあり。世祖重て日本を攻ることを止(やむ)。是(これ)國(くに)常(とこしへ)に立(たつ)の效(しるし)なり。曲學者が称美する中華は、天建(てん-たち)地建(ち-たち)といへども人道立(たゝ)ず、乱臣賊子の無道多し。 ~畧~』と。


●曰く(※、■佐一)、
異邦は天地開闢より纔十人余りの聖人世に出(いで)て、孝弟(かう-てい)忠信(ちう-しん)人倫(じん-りん)の道を教ゆといふども、有名無實にして其道行はれず、秦(しん)漢(かん)の世より今、清(しん)の世に至まで治乱興廢の實歴史を以て見れば掌を指(さす)がごとし。曲學者いへるとは裏表にて、吾國は開闢より人倫の道たつ。異邦は辨道者にいへるごとく、古(いにしへ)は禽獣同前の人にて、父子(ふ-し)夫婦(ふう-ふ)となり、兄弟婬(いん)を犯す。それを聖人をしへて人倫の道、明(あきらか)なりと。なるほど異國は風土(ふう-ど)惡敷(あ-しき)の下國なれば左(さ)もあるべし』と。
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by sousiu | 2013-07-23 13:47 | 大義論爭

「辯道書」と、「呵妄書」及び「辯辯道書」 その一 

●大壑 平田篤胤先生『呵妄書』(享和三年癸亥十月刊。『平田篤胤全集 卷二』明治四十四年六月廿日「一致堂書店」發行、所收)冒頭に曰く、
『辯道書にいはく、  神武天皇より三十代欽明天皇の頃までは本朝に道といふ事未だ有らず、萬事うひゝゝ敷候處に、三十二代用明天皇の 皇子に厩戸といふ聖明の人生れたまひ云々、文明の化を施したまひ候。 ~※純が文の引用なり~

 往昔(いにしへ)より 皇國(み-くに)の學をもとなへて神典をも説教へし、百(もゝ)識者等西戎(か-ら)國に嚴重(おごそか)なるをしへの道有ことをうらやみ 皇國の古にもさる教の道有りとていふは、皆僻言(ひが-ごと)なる中に、太宰純獨(ひとり) 皇國の古には、道なかりしことを云ひ顯して是を辯ず。實に卓見とも云ふべきか。然れども此人、いたく西土の道に拘泥(なづめ)る心に道なきは、いと惡しきことよと僻心得(ひが-こゝろ-え)して、漢土に道有ることをたけき事に云ひて 皇國をいひ貶(おと)さんとする心よりいへる説(こと)なれば、是も倶(とも)に僻言(ひが-ごと)をのがれず。殊に此人、皇國の書籍(ふ-み)をば、掻撫(かい-なで)に少し計り讀ていへる言なれば、書中 皇國の古をいへる、すべて輕卒(う-き)たる事のみにて甚々(いと-いと)稚(をさ)なく、更に云ふにも足らぬものなるを、然る故をも知らで其書をいたく信じ居る人も多かれば、今其人々の爲にとて云ふなり』と。


●曰く、
『書中、皇國の古へをいへる、餘りに稚(をさな)きを見れば、若(もし)くは書紀をば讀ずして後の世の法師どもが、聖徳太子をば佛法最初とかいひて、いみじく尊げに、僞り作れる書どもの種々有るを讀て、夫れ等に據りて云へるにあらじか。又、聖徳太子の官職を定め、衣服を制し給へることなど云ひて、本朝に於て厩戸の功は制作の聖とも云ふべき人にて候など云ひて、聖徳太子の爲始(し-はじ)め給へるがごとくいへるも甚(いた)く違へり。すべて陋識(らふ-しき)なる學者には、まゝ 皇朝の古へには、官職も何も無かりし如く思ふ者も有れど、是は書紀の 推古 孝徳の御卷などを惡くこゝろ得(え)過(あや)まりたるものにして、更に云ふにも足らぬこと也。かゝる輩はこの御代々々の頃までは、朝夕の御食(み-け)をはじめ何事も 天皇御自爲賜(み-みづから-し-たま)へることゝ覺えたるなるべし。いとゝゝ文盲なることなり』と。


●曰く(※、■平一)、
近頃舊事本紀といふ書を太子の著述とて珍重する人有之候。其書を見候に近世の人の僞作なる事證據明白に候。 ~※純が文の引用なり~

 是(こ)は呵(しか)るとには有らねども、爰に僞書なりといへる舊事本紀は、今の世にある十卷のを云へるにあらず。七十二卷ありて一名を大成經ともいふものゝことなり。然云ふ故は、近頃と云ひまた近世の人の僞作なりと云へるにて知られたり。今も行はるゝ十卷の舊事本紀も後世人の僞り輯(あつめ)たるものなれど、中昔の僞書にして本朝月令[此書は延喜の中頃に勅撰の書なり]はじめ近世迄も大かたの物知人等、みな惑て是を引證し、八百年來の僞書にて、中々純が輩の僞書と云ふことを知らるべき書にあらっず始て僞書のよしいへるは桂秋齊なり。舊事本紀僞書明證考と云ふ書一卷を著して是を辨じたり。是より縣居翁[賀茂眞淵大人、書中みな同じ]または伊勢貞丈大人など僞書の由云れたり』と。


●曰く(※、■平二)
凡今の人神道を我國の道と思ひ、儒佛道とならべて是を一つの道と心得候事大なる謬にて候。 ~※純が文の引用なり~

 神道は吾が國の大道にして、天皇の天の下を治め給ふ道なれば、儒佛の道とならべ云ふまでもなく、掛(かけ)まくも可畏(か-しこ)けれど、上 天皇をはじめ奉り下萬民に至るまで、儒佛を廢(すて)てたゞ一向(ひたすら)に神道を信じ尊まん事、更に謬(あやま)りにあらず。純が世に在(あり)しほどまでは未唯一(ゆひ-いつ)兩部の輩のみにして眞(まこと)の道を説くものある事なく、神道といへば錫杖をふり或は鈴をならし大祓詞[俗に中臣祓といふは誤なり]を唱へ其外あやしきわざをのみ目(め)なれし時なれば、爰に神道といへるも專(もつぱら)夫れらをさして云へるにて、實に神道を知りて云るにあらねば、深くとがむべきにあらずといへども、此書を讀(よめ)る人々の 皇國の道は、實にかゝることよと思ひて謬らんことの長息はしければ辨ふるなり。次々に云ふを見て、眞ノ道は俗(よの)人の思ふところとは、大に異なることをさとるべし』と。


●曰く、(※、■平三)
神道は本聖人の道の中に有之候。 ~略~ ~※純が文の引用なり~

 太宰のみならず、すべて儒家者流のいはゆる神道は、如何にも周易[上象傳大觀の章]に見えて、爰にいへるごときことを神道といへり。然れども 皇國の道をも本聖人の道の中にありと云ひて、同事に思ひたるは神道と書る文字に拘泥(なづめ)る大いなる僻言なり。今其よしを委曲(つばらか)にいはん。まづ 皇國の道に云ふ神と、周易の神道に神とさすものとは、いたく異なり。其故は周易に神と云は純が云へるごとく、天地の間にあらゆる事どもの人力にあらずして、自(おのづから)に行るゝ其靈妙なる處を神の所以(しわざ)として神道とはいへるなり。然れども實に神と云ふ者有りとていへるにあらず。たゞ其妙なる處をさして假に設ていへる號(な)のみなり。[周易繁辭に陰陽不測之謂神といひ、説卦に神也者妙萬物而爲言者也]其よしは人の云ふを待(また)ずして儒書よむ人は、皆よく知れることなり。また 皇國の道に云ふ神は、古事記書紀の神代の御卷に見えたる、天地の諸(もろゝゝ)の神々にて、[また鳥獣草木山海其餘も尋常ならず、可畏ものを神と云ることあり。委くは吾翁の古事記傳に見えたり]假に設けていへる號に非ず。其神々のはじめ給へる道故、神道とは云ふなり。[古へに通ぜざる人はかく云ふを聞てもまづ疑ふべし]道の體を神妙(あやし)とほめていへるにては無きなり。 ~畧~

 古へより百(もゝ)の識者等(ものしり-びと-たち)のみな古へを解誤(とき-あやま)れるは、かゝる事に心付ず、古意古言をば尋んものとも思はず。たゞ漢説(から-ごと)の理と文字とのさだめをのみ旨として迷へるが故に、眞(まこと)の處を曉(さと)り得ざりしなり。純が周易の神道と 皇國の神道とを同じことなりと云へるも、皆、文字に泥(なづ)めるが故なり。[すべて 皇國の古は文字によらずして解ざればさとりがたし]すべて少しにても似寄(に-より)たることあれば、強て西土(から-くに)を本なりと云ひて、いはゆる牽強附會を云ふは、普通の神道者と西戎書籍(からぶみ)にのみなづめる儒者どもの癖なるぞかし』と。

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by sousiu | 2013-07-22 23:36 | 大義論爭

「辯道書」と、「呵妄書」及び「辯辯道書」 序 

◎皆川淇園翁、『日本諸家人物志』(寛政十二年三月改刻)に曰く、
太宰春臺
諱ハ純、字ハ徳夫、俗稱弥右衞門、紫芝園ト号ス。本姓ハ平手氏ナリ。太宰、謙翁ニ養レテ太宰氏ヲ冒ス。信州ノ人ナリ。初メ中野撝謙ニ性理ノ學ヲキク。徂徠、復古ヲ唱ルニ及ンテ、就テ業ヲ受テ徂徠ノ説ヲ主張シテ書、數部ヲ著ス。晩年、古文辭ヲ喜バズ、ヤヽ見識、徂徠ノ右ニ出ルコトアリ。
~略~ 卒スル年六十八』と。

◎徳富猪一郎翁、『近世日本國民史 第廿卷 ~元祿享保中間時代~』(大正十五年二月十七日「民友社」發行)に曰く、
當時は固より幕府全盛時代で、誰一人將軍が、事實上に於ける、日本の統治者であるを、否定するものはなかつた。されば學者の中には、名實共に然かせんことを希うたものは、決して少くなかつた。中には彼等自身に、斯く信じ、斯く言ひ、斯く行うたるものさへあつた。例せば、太宰春臺の著と稱する、三王外記などには、將軍を稱するに王を以てし憲王は即ち綱吉、文王は即ち家宣、章王は即ち家繼 ― 日本全國の統治者であることを表現し、天皇を稱するに、山城天皇を以てし、單なる山城なる一地方の部分的の君主であるかの如く唱へてゐる。而して其の勅使を稱するに、聘使を以てし、將軍と 天皇とを、對立のものとしてゐる』と。


 かくも征夷大將軍が「國王」である、と力説し已まぬ當時に於ける儒者・經世家の大家たる春臺は、享保廿年『辯道書』を上梓し、その反響頗る大であつた。

 ところがこの『辯道書』を巡り、草莽の學士が黙過座視するに忍ぶ能はず。これに斧鉞を下したらむと、筆劍を取るに到つた。

 主なる一人は大壑平田篤胤先生だ。當時篤胤大人は織瀬刀自を迎へて三年目、苦學を續ける傍ら享和三年、長男常太郎、突然の夭折(享和二年五月廿日生)の不幸事に遇ひながら、大人の處女作と云ふ可き『呵妄書』を世に呈し、之に筆誅を加へた。
 他の主なる一人は佐々木高成翁だ。佐々木翁は山崎闇齋先生を師事する、崎門三傑の最硬派たる淺見安正先生の系譜に連なる一人だ。翁、忿懣やる方なきことこの上なく、春臺の『辯道書』に抗じて『辯辯道書』を著し世に之を呈した。


 以下、略しつゝこの『辯道書』を掲載し、併せて『呵妄書』及び『辯辯道書』を抄録してゆくことゝする。茲でこの二書を撰んだのは、『呵妄書』と『辯辯道書』に於ても、必ずしも見解が一致してゐるものでなく、當然ながら生ずるべき筈の國學者と儒者との見解の相違が少なくない。それゞゝの立場から彼の惡書を迎撃せむとしたる、その相違も又た後學の一助として戴ければ幸ひである。

 又た、『辯道書』本文に青色及び(■)を付けたものは、二人に批判されるべき主なる箇所だ。「平」は篤胤先生のことなり、「佐」は高成先生なり。諸賢また、批判する可き立場として一考しつゝ本文を御一讀賜はるならば尚ほ野生の幸ひとす可きものなり。
 猶ほ、文中に「純」とあるは「春臺」その人のこと也。

※※又た、「辯道書」本文は主に候文なり。苦手な人は、下記サイトが懇切叮嚀に説明してあるので御參考にされたし。↓↓↓
http://homepage1.nifty.com/~petronius/kana/saurahu.html


  * * * * * * * * * *

○太宰春臺、『辯道書』の冒頭に曰く、
『儒佛神道の同異、度々面上に論辯候所、大略御領解候へども、其の事、繁多にて、逐一御記憶なりがたく、再三御工夫候へば、又た御疑惑起こり候て御難義に候間、純、平日論辯候趣を、委しく紙上に書紀候て御目に懸候へとの御所望、其の意を得候』と。

  ~ ~ ~ ~ ~ ~ 

○太宰春臺、『辯道書』(享保廿年)に曰く、
『聖徳太子の言に、儒佛神道は鼎の三足の如くなる物と有之候由、此の事甚だ心得がたく候。鼎の三足と申すは一つを缺れぬ事の喩にて候。太子は佛者にて候へば佛道を重く思ひたまひ、儒道と對せられ候は、さる事にて候。神道を一つの道に立る事は後世に起こり候て、太子の時に無き事にて候。然るに神道を以て儒佛の二道にならべて、三道は鼎の三足の如く天下に無くて叶はぬ物とし給ふ事信じがたく候。

 先本朝の古を考へ候に、神武天皇より三十代欽明天皇の此までは、本朝に道といふ事未だ有らず(■佐一)、萬事うひゝゝしく候處に、三十二代用明天皇の皇子に、厩戸といふ聰明の人生れたまひ、書を讀み學問し給ひて、三十四代推古天皇の時、攝政の位に居たまひ、官職を定め、衣服を制し、禮樂を興して國を治め、民を導き文明の化を天下に施したまひ候。本朝に於て廏戸の功は制作の聖ともいふべき人にて候。されば聖徳太子と諡せられたるも虚名にあらず候。然れ共、太子の學問佛に精しく、儒に粗く候故、釋氏(※釋迦のこと)道をば深く知りて好まれ候へども、中華の聖人の道をば未だ明らめ給はずと見え候。其上述作の書も多くは傳はらず候へば、後世其の是非を申しがたく候。今の世に太子の説とて申しならし候事は、多分後の人の誣罔杜撰にて信じがたく候。近比ろ、舊事本紀といふ書を太子の著述とて珍重する人有之候。其の書を見候に近世の人の僞作なる事、證據明白に候(■平一■佐二)。  ~略~ 前に申し候如く、儒佛神道を鼎足に譬へ候事も、決して太子の言にてあるまじく候。若し實に太子の言にて候はゞ、太子の妄説にて候。~略~

 凡そ今の人、神道を我國の道と思ひ、儒佛道とならべて是れ一つの道と心得候事、大なる謬りにて候(■平二)神道は本聖人の道の中に有之候(■平三)。周易に、觀天之神道。而四時不忒(「弋」+「心」=たが、不忒=たがはず)。聖人以神道設教。而天下服矣と有之、神道といふこと始めて此の文に見え候。天之神道とは、日月星辰、風雨霜露、寒暑晝夜の類の如き、凡そ天地の間に有る事の人力の所爲にあらざるは、皆、神の所爲にて、萬物の造化、是れより起こり、是れを以て成就するを天の神道と申し候。聖人以神道設教とは、聖人の道は何事も天を奉じ、祖宗の命を受けて行なひ候。されば古の先王天下を治めたまふに、天地山川、社稷宗廟の祭を重んじ、祷祠祭祀して鬼神につかへ、民の爲に年を祈り、災を禳ひ、卜筮して疑を決するが如き、凡そ何事にも鬼神を敬ふことを先とし候は、人事を盡くしたる上には、鬼神の助を得て其の事を成就せん爲にて候(■平四)又た士君子は義理を知りて行なひ候へ共、庶民は愚昧なる者にて、萬事に疑慮おほき故に、鬼神を假りて教導せざれば其の心一定しがたく候。聖人是れを知ろしめして、およそ民を導くには必ず 上帝神明を稱して號令を出され候。是れ聖人の神道にて候。聖人以神道設教とは是れを申し候(■平五)近世理學者流の説に、君子は理りを明らめて鬼神に惑ふ事無しといひて、一向に鬼神を破り、或は聖人の民を治める術にて、假りに鬼神を説くといふは皆神道を知らざる者にて候(■平六)。君子三畏の第一に、畏天命と孔子の仰せられ候も、天命は天の神道にて、人智を以て測られぬ故に、君子是れを畏るゝにて候。周易の繋辭に、陰陽不測之謂神といひ、説卦に、神也者妙萬物而爲言者也といふ。皆鬼神の妙にして測られぬことを説かれ候。されば天の命、鬼神のしわざは何の理り、何の故といふことを聖人も知りたまはず、只畏れて敬ふより外のこと無く候(■平七)。下民を教へたまふも此の心にて、少しも民を欺き、方便して鬼神をいひ立てるにては無く候。此の義は理學者の知る所にあらず候、よくゝゝ御勘辨候て御得心あるべく候。然れば神道は實に聖人の道の中に籠り居り候。聖人の道の外に、別に神道とて一つの道あるにてはなく候。今の世に神道と申し候は、佛法に儒者の道を加入して建立したる物にて候。此の建立は眞言宗の佛法渡りて後の事と見え候。吉田家の先代卜部兼倶より世に弘まり候と見え候(■平八)。兼倶は神職の家にて、佛道に種々の事あるを見て羨ましく思ひ、本朝の巫祝の道の淺まなるを媿(「女」+「鬼」=はぢ)て、七八分の佛法に、二三分の儒道を配劑して、一種の道を造り出し候。いはゆる牽強博會と申す物にて候。聖徳太子の時に決して有まじき事と申し候は是れにて候。此の道、太子の時に有べき事にあらず候』と。(以下、一旦閣筆す)

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                ↑↑↑↑太宰春臺


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 記事の締め括りに、兩先生の著述に就て、それゞゝ先人の筆をお藉りし之を紹介しておかねばなるまい。

◆◆呵妄書
◇伊藤永之介氏『傳記文庫 平田篤胤』(昭和十八年四月十五日「偕成社」發行)年譜に記すに、
『太宰春臺の「辯道書」にわが國體をけがす言辭の多いのを見て大いに憤つて「呵妄書」を書く。これ最初の著述なり』と。

◇文化元年三月、源朝風翁、『呵妄書』序に曰く、
『これの呵妄書はよ、我友平篤胤、かの漢學者太宰純が著せる辯道書の、いともすべなく、こちたきみだりごとゞもを、世人のさとるよなく、さることゝしも、思ひをれるもあるなどを、うれひなげかして、そをわきまへ、ことわりかゝせる書になもある、はやくより論らへる書どもゝ、これかれ有めれど、皆いまだしきまなびのともの、なまさがしらにおほゝしく、あげつらへるのみにして、中々にめとゝむべうもあらざりけるを、今はさるなほゝゝしきたぐひにはあらで、なにくれといとこまやかに、わきまへことわりてものせられつるは、こよなうめでたく、まこと、からやまとの書ども、うまらによみあきらめでは、いかでかうはと、になくたふとくおむかしくこそ。さるはすべての論どものをゝしきに、人その心をもえずて、ひたぶるに、あらそひごゝろとな思ひそよ。そのあげつらひのおごそかなるは、彼書のみだりごとゞもの、けやけかるによれゝばぞかし。抑かくつばらかに、ものせられしことのいそしさを、うづなひめづるあまりに、卷のはじめにそのよし書付ぬるは、文化元年三月』と。


◆◆辯辯道書
◇國學院大學教授、佐伯有義先生『大日本文庫 神道篇 垂加神道 下』(昭和十二年一月廿九日「春陽堂書店」發行)に曰く、
『辯辯道書は二卷あり、佐々木高成の著で、享保二十年(紀元二三九五)太宰春臺の著せる辯道書に對する辨駁である。元文二年(紀元二三九七)正月江戸より歸つた人が、春臺の辯道書を携へて來たのを讀んで憤慨し、此の辨駁を作つたのである。春臺は徂徠の門人で古學派に屬する儒者であるが、辯道書を著して世に儒佛神道は鼎の三足の如しと稱するも、鼎は一足を缺けば立つことが出來ぬが、神道や佛道が無くても儒道だにあらば、人倫は明かに國家は治まる、神道は易に天の神道を觀れば四時にたがはず、聖人神道を以て教を設けて天下服すとあるのが、神道といふことの文に見えた始めで、神道は聖人の道の中に存し、我が國は上古には道といふものは無かつた。今日の神道は吉田兼倶などが佛教を加味して造つたものであると放言して居る。著者之を見て大に憤り、之を辯難抗撃したものが此の書である。佐々木氏は垂加派の神道家で、儒學は淺見絅齋の門人で朱氏學である。それ故に殊更に憤慨して、此の書を著したのである』と。

◇元文二年丁巳端午日、留守友信翁、『書辯辯道書 後』に曰く、
『物壞(やぶる)れば則蟲育(いく)し、木朽れば則蠧(と)生ず。人少ければ則禽獸繁く、氣衰ふれば則邪沴入る。世の異端邪説あるや亦た然り。文教宜しきを失してより而下(この-かた)、老佛の説、肆(ほしいまゝ)に行はれて遏(とゞ)むべからず。近世、伊藤荻生二氏、專ら儒を以て世に鳴る。老佛を闢(ひら)き聖學を隆んにす、是なることは則ち是也。然して其の經(けい)を治るや、傳會(ふ-くわい)して以て之を文(かざ)り、穿鑿して以て之に逆ふ。栩々然(くゝ-ぜん)として自ら聖人の室に入ると謂ふ。而して其轍砥柱(てつ-し-ちう)の杪(せう)を望んで背馳(はくち)するを知らざるなり。頃(このごろ)荻生氏の徒、辯道書を著し、掌靜翁(しやう-せい-をう)人の需(もとめ)に應じて之を辯ず。曰く、敢て辯を好むに非ず。深く我國古先神王の道を謗議し、且つ漢土の聖學に於て、亦記問詞藻を以て主本と爲し、操存省察を以て鄙陋と爲す、其害又復(また)甚しき者あり。友信因て辯道を讀み、卷を掩て浩歎す。嗚呼、智を暴(あらは)して世に耀かし、遂に規矩を離れて、恣睢(“唯”の右側が「目」=じ-すい)に到り、罪を神聖に獲(う)る。悲しむべきのみ。蓋し耳目口鼻四支百骸、各其の用を一にして、之を統ぶる者は心なり、其心虚明の頃(あひだ)、事物の來る、是々非々明かならざるなき也、少(しばらく)すれば昏(くら)し、久しければ怠る、此(これ)形氣の私(わたくし)之に溺るゝ也。人能く諸(これ)を本心に反求し、猛省して私累を擺脱すれば、天下の理を得、是に於て仁義行はれ、人道立つ。蓋し古聖賢の人を教ふる、千變萬化、人の心上に就て之を説く、故に曰く、學問の道他無し、其の放心を求むるのみ。若し求めざれば心に管攝なく顛倒眩瞀(上左「矛」+上右「攵」+下「目」=ばう。げん-ばう)す。安(いづく)んぞ能く知る所あり行ふ所あらんや。彼以爲らく、心上全く功夫無し、情中に炎(さかん)にして、人欲鬪進すと云へども、徳の累(うれひ)と爲る無き也。徒らに禮以て貌(かたち)を飾れば、則徳を成すと。是れ何ぞ■(獸偏+彌=び)猴をして周公の服を衣せしめ、獸に非ざるなり聖人なりと曰ふに異ならんや。辯書既に其の巣穴を擣(う)ち、其の病根を砭(石+乏=へん)するもの、精確詳的なり。或は曰く彼の喋々たる瑣議浪説、譬へば尺霧の天に障るも、其の大を虧かざるが如し。何ぞ必しも齒牙に挂けんや。曰く豪傑の士、固より辯を待たず、特に其の庸俗を惑す尤も劇(はなはだ)しきを悼む。後人をして流に沿て源を求め、是非炳然として知る可らじめんとす。此れ辯を作る所以なり。然れば則ち此の篇の世に行はるゝ、亦安んぞ梨棗(り-きう)の冤を含むを得んや』と。




 
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by sousiu | 2013-07-18 03:09 | 大義論爭