日乘が滯り、あツといふ間に一週間が經過した。
まさか、このやうなオタクの日乘の更新を樂しみにしてくれる御仁もをるまいと思ふが、それでも、續く、と記した以上、遲怠には心苦しさが伴ふものだ。
承前。
徳富蘇峰翁の『近世日本國民氏』より抄録し、前記に繋げることゝする。
『徳川將軍を大君と稱したるは、林道春に始まつた。而して不覺なる幕閣は、井伊直孝を首(はじめ)として、
朝鮮國王から、大君の二字を、我が將軍に當て嵌めて來たのを見て、朝鮮の國王、大君と仰ぎ奉りたること未曾有の盛事として賀した』と。
だがそれ、朝鮮側は決して仰ぎ奉るの意ありとせなかつたことは、新井白石公の『殊號事略』に分明である。 彼れらの底意は寧ろ逆に庶かきものであつた。而、それは即、白石公の「大君」の尊號を用ふる可からずとの主張に撞着した。
●新井白石公『殊號事略』に曰く、
『大君と申(ス)事は、周易に見えたるを其(ノ)始とす。世々の先儒、大君は天子なりと注し候得ば、日本國大君と稱し候はんば、本朝の天子の御事を申すべし。又、説文に 皇 の字を釋して、皇は君也大也、三皇は大君なりと見え候へば、我國の大君と稱し候はん御事は、日本天皇と申に同じかるべし。本朝神皇の天統未だ地に墜(チ)給はざるほどは、たとひいづれの世、いかなる人と申とも、自から稱して、日本の天皇などとは、のたまふべき御事にあらず ~中略~
我國にしては、本朝天皇の尊號を僭竊し給ふの嫌ありて、彼國にしては、其王の庶孫の僞號を假授せらるゝの疑あり。彼といひ是といひ、然るべき御事の謂れをしらず』と。
つまり、「大君」とは、日本側にとつては、臣民何びとも之を稱す可きでないことを説得し、朝鮮側にしては彼の國王の嫡孫を意味する。よつて、内交上に於て僭越であり、外交上に於ては卑下するといふもの。これが白石公の、將軍、大君を稱する勿れとした論鋒だ。だがこれ白石の明晰なる見識と云はむよりも、寧ろ羅山はじめ當時の學者・權威者が餘りにも蒙昧に過ぎたと云つた方が適當であるかも知れぬ。延いてはこの一事を以て、如何にこの時代の 皇威が衰微されてゐたか、一方に幕權が逞しいものであつたか、吾人は詮議するを要しない。
そこで、次なる問題が出來する。「大君」に代はる號は何であるか。豐太閤時代の正常に復せしむ可きか。それとも?
●新井白石公曰く、
『本朝天子の御事は、日本天皇と稱し奉り、鎌倉、京都代々の事を日本國王と稱し申せし事、朝鮮の書に見えしのみにあらず。異朝の書どもに相見えし所も少からず。
皇といひ、王といひ、大小の字義同じからず。況や又、皇に係(つなぐ)に天を以てして天皇と稱し、王に係に國を以てして國王と稱し、上下の名分相分れし事、天地の位を易ふべからざる事の如し。然らば則ち自ら國王と稱せらるべき事、天皇の御事において、何の嫌疑にか相渉るべき』と。
即はち、字義の上では、天を統べるに 天皇とし、國を統べるに國王と説明し。よつて征夷大將軍はこの「國王」にあたるとして、これを強辯した。
つまり白石は、徳川家宣をして「大君」の稱號を廢せしめ、代はりに「日本國王」の稱號を用ゐることを主張したのである。固より、如何にも尤もらしくみえるこの白石による 皇と王との區別は、皇國に於て何ら聽くに價せるものではない。
云はずもがな、日本はこれまで一貫して、皇國であり、王國などてふ餘地の入り込む隙間が無い。如何に徳川の權勢が旺盛であれ、皇國に於ては彼れもまた、臣下の一人に過ぎない。忠臣は二君に事えず、といふ。皇と王とがあるは、忠臣の出でたる道理なく。若しも忠臣あらば、そは、國内の二分されること火を見るよりも明らかである。
繰り返すが、白石公は、家宣時代に於て、前代である綱吉の無策失政を、政治的にも經濟的にも大いに挽囘した。その功績は認めねばならない。加へて件の如く、朝鮮信使禮遇の更革に於て、外交的にも挽囘したことを、認めねばならぬ。
されど彼れに缺乏したる一事は、尊皇の念に乏しきことである。而してその缺乏したる一事は、大事であつた。
いづれにせよ、上記もて、白石の主張は幕府方に採用され、宗對馬守義方を通じて朝鮮側に通知された。
そこで吾人には疑問が生ずる。彼れの、王號を主張するその意中は、果して、朝鮮國王に對して、外交上、彼れを思ひ遣り、文面上に於て立場の均衡を計らむとした親切であつたのか。
吾人は、この答へに相當す可き白石公の思想を、彼れの著したる『讀史餘論』に垣間見ることが出來るのである。
●新井白石公『讀史餘論』(正徳二年?)に曰く、
『王朝既に衰に衰へ、武家天下をしろしめして、天子を立て、世の共主となされしより、其名人臣なりと雖も、其實の有(ル)所は、其名に反せり。~中略~ もし此人(足利義滿のこと)をして、不學無術ならざらしめば、
此時漢家本朝古今事制を講究をして、其名號をたて、天子に下る事一等にして、王朝の公卿大夫士の外は、六十餘州の人民悉く、其臣下たるべきの制あらば、今代に至る共、遵用に便あるべし』と。
上記『其の
名號をたて云々』の名號とは、彼れの主張せる、「
國王」のことであることは疑ふべくもない。要は、名實伴はれる國王の名稱を立て、この國王一人は、天皇の臣たるべきも、京都の公卿大夫士を除く全國民は、この國王の臣下(徳川の臣)たるべきことを主張したるものだ。
こは、幕府の基礎をより堅固ならしめて、今後起こるかもしれぬ國内の動亂を未然に防止せんとしたるものだ。更らに穿つてみれば、突發的に内戰が勃發しても、全力でこれを、而も早急に鎭撫する丈の體制教化を欲せむとしたものだ。つまりこの問題に乘じて、序でながら、家宣に對しての親切も含有してゐたのであらう。彼れが徳川家宣の恩寵を恣としたことは理由なきとしない。彼れは將さに、徳川幕府にとりて優秀なる人材であり、同時に家宣にとりて缺く能はざる人材であつたのだ。
さらば彼れ白石は、政體の護持者、換言すれば體制の現状維持者であつて、果して國體護持の志ありしか否か、甚だ疑問を抱かざるを得ない。彼れの論法は、我が國體の本領に違背してゐるからだ。
而して現代に思ふ。大阪にて「維新」を叫ぶ橋本某も白石の如くであり。否、躊躇はずに云へば、今日の保守と呼ばれる者が、その登場を俟つ人物とは、實に白石の如き者ではあるまいか、と。
經濟を再生せよ、政治を清潔ならしめよ、國民生活を安定たらしめよ、國家の威嚴を他國に廣告せよ・・・。どれもこれも異論はない。野生も國利民福を願ふ一人である。但し野生はその優先順位を度外視することもしない。あまつさへ、それらを得んが爲めに、「臣下」が「國王」と稱することを決して認めるものではない。
秀才と誠實とを併せ持つ人物は理想であり、いつの世にも必要である。されど秀才であるも誠實ならぬ人物と、秀才ならぬとも誠實たる人物、つまりどちらか一方を缺くのであれば、どちらを欲するべきか。極言すれば優秀なる賣國奴と、優秀に及ばぬ誠忠の士である。秀才はその時勢に機敏なるがゆゑ應急處置の適任者とするも、百年をして完治を促す者たり得まい。一方、誠實たる人物は誠實たる人物を養育す。日本に於て保守と稱する人士は、先づ、皇國に忠實たらねばならぬと思ふのである。よつて野生は、優秀たらんことを欲する前に、忠實たらんことを心掛ける次第である。
維新に貢獻したる先覺と、白石の相違は、下記抄録をして ~若干亂暴な書き方であるにせよ~ 端的に窺ふことが出來る。
●中村孝也氏『白石と徂徠と春臺』(昭和十七年二月十六日『萬里閣』發行)に曰く、
『幕府政治家が封建制の維持について苦心し始めた時は、即ち封建制が崩壞の坂を一歩降り始めたことを示してゐる。こゝにおいて封建制の存續に關し、二つの異れる方向の價値批判が發生した。その一つは反封建的思索を誘導する批判である。他の一つは封建制維持の理念に基く批判である。この三者は初めの間は尚ほ未だ相互の間に、摩擦相剋を生ずる程に生長せずして竝立した。新井白石・荻生徂徠・太宰春臺の生存した江戸幕府中期はまさにその時期であつた。
封建體制に對する反撥的批判は、先づ、生活の落伍者の群の裡から發生した。世間が安定し、生活が型式化するに隨ひ、その型式の中に入らうとしても入り得ざるものは、生存の不適格者となつて不利不便を忍ばねばならなくなる故に、自ら新生活の展開を欲求するやうになり、思想部面に移動して多くの思潮を流れ始めしめた。度會延佳・吉川惟足・垂加靈社(山崎闇齋)等に由る神道の振興も、釋契冲・下河邊長流・戸田茂睡等に由る國學の出現も、山鹿素行・徳川光圀等に由る儒教の日本化も、それゞゝ新しい役割を擔當して發足したものであり、いづれも充足せる生活現實に對して一段前進せる新生活理念を欲望せることに由つて起り來れるものであつた。然るにこれと對蹠的に封建生活を維持しようとする努力に由つて、眼前の現實を批判するものも亦大いに起つた。それは現に政治の責任者たる地位に立つものを始め、これに夤(上「タ」+下「寅」=いん)縁あり、或はこれに依存する人々の裡から發生せる思潮であつた。而して白石・徂徠・春臺等は、それゞゝその後者に屬するものであつた』と。
※括弧及び括弧内は野生による。