カテゴリ:小論愚案( 54 )

昭和十一年「二二六事件」 その三 愚案。 

 橋本徹馬氏は、『天皇と叛乱将校』のなかで、かう述べてゐる。曰く、
『私は叛亂將校達が、多くの點において納得の行かぬ取扱ひを受けながら、なほ最後に係官に頼んで宮城遙拜所をつくつてもらひ、
天皇陛下萬歳
 を奉唱して死んだ心境を思ふと、誠に彼らのために涙なきをえぬ
のである。
 彼らがあの期におよんでなほ 陛下の萬歳を奉唱したのは「自分達が採つた手段は如何に間違つてゐたにせよ、自分達の奮起した動機が、立國の本義に照らし、わが國體を護らんとする一念にあつたことは、やがて 陛下に御理解を願ふ時が必ずある」と確信し、かつ「自分達の死が、日本國の上下の反省の材料となつて、國運が榮えるやうに」と祈つてのことであると思ふ。

 もし當時の軍首腦部や重臣達が、彼らのこの心事をくはしく 天皇に奏上して、その御理解をえてゐないとするならば、その人達も帝國憲法と軍人への勅諭に照らして、當然處罰せらるべき人達ではあるまいか。
 將校達者として處刑したことは、わが上層部があれほどの事件を名何んの反省の材料ともせず、ただ不逞の徒の許すべからざる暴擧として、一方的な憎しみだけで處刑したことを意味するのであるが、それでよいのであらうか。
 たとへば、叛亂將校達を憤激せしめた統制派の人々は、天皇の御名において叛亂將校達を銃殺し終れば、あとは自分達が全く勝ち誇つた氣分で、軍部を指導してよいものであつたか。
 また、たとへば西園寺元老、牧野重臣、岡田首相、鈴木侍從長らの命拾ひをした人達は、これも自分達の側には何の怠慢も、不明もなかつたものとして、その後の長壽を誇つてよいものであつたらうか。
 叛亂將校を極刑に處したのはよい。ただその代りには彼らがわが國政の運用上に關し、死をもつてなしたる直諫は、十分に生かしてやるだけの各種の處置が、絶對に必要であつたと思ふ』と。

 又た曰く、
率直にいへば、叛亂將校達を叛逆者として處刑したとき、大元帥陛下の帥い給ふ 皇軍(すなはち 天皇の軍隊)はすでに亡んだのである。
 彼らを銃殺のために撃つたあの銃聲は、實は 皇軍精神の崩壞を知らしめる響であつたのである。
 しかも、その銃には菊の御紋章が入つてゐるのである。大元帥陛下の御紋章が入つてゐる銃で、刑死の瞬間まで尊皇絶對を信念とした人々を、極度の憎しみで射殺したのである。この深刻なる不祥事の國運におよぼす惡影響を思うて、戰慄せざる者は神經の痲痺者であらう。

 それはまた同時に一般人にたいしても「爾後日本を萬邦無比の國體などと考へる者は、不逞の徒であるぞ」といふ斷案が下つたことをも意味した』と。


 橋本徹馬氏は、この事件の裁き方をみて既に 遺憾ながら、皇軍は名のみとなり下がつたことを痛罵してゐる。
 この文章の後に、
『日本は明治以來幾度か戰爭を遂行した。さうしてそのたびごとに宣戰の詔勅にあるごとく、
「天佑を保有し」
 えた。しかし、今度の戰爭には、天佑は敵國側にあつて、日本の側にはなかつた。それは日本が科學の力において不足であつたのみならず「天佑を保有する」資格なき、侵略國になりさがつてゐたからである

 と述べてゐる。

 最後の一句が氣に掛かる御仁多からうと思ふ。しかし保守も反日も、是非の別こそありけれ、嘗ての戰爭に於て「侵略戰爭」といふ一句に眩惑、さなければ神經過敏となり過ぎてやしまいか。嘗ての大東亞戰爭を「侵略か否か」でその眞意義を知らうとするばかりでは、迂闊にも大切なことを見失つてしまふと危惧すること、果して野生の杞憂なのであらうか、奈何。

 愚案。戰前に對する盲目的な讚美者と盲目的な中傷者(所謂る好戰主義者と唯平和主義者)はまるで腹背の關係に酷似してゐると云はざるを得ない。
 この意味に於ても、二二六事件を檢證することは刻下の大事であるのだ。戰前戰中に於ける體制の盲目的讚美者は、青年將校の衷情を、恰も弊れ靴を棄つるが如く扱つた統制派をば是とすることゝなり。反對に戰前の盲目的な體制批判者はこれを非とするわけであるから、彼れらによつて今猶ほ暗黒を彷徨ふ尊皇赤誠の士をば如何に考へればよいのであるか。
 橋本氏によれば、青年將校達を叛逆者として銃殺せしめた段階で、皇軍は有名無實となつた、と云つてゐる。ならばそれ以降、戰後までの間に於ける 國家の指導部を、手放しに讚美し或は批判するは早計であるまいか。要するに野生は全部と云へぬのであれば少なくとも一部の指導者に、全て過誤と云はずとも少なくとも不足してゐたものはあつたのではないかと惧れる。それは承詔必謹だ。
 つまり、尊皇心なき軍國主義を如何に考へるかといふことだ。それ、今日の世論に照らしてみても、今後の世論を形成する際に於いてみても、頗る考へねばならぬ重要事でなければならない。

 野生は、機ある毎に述べてゐるが、戰前囘歸を以て足れりとしない。戰後史觀の脱却で諒などと思うてゐないのである。敗戰にも神意あり。これを熟慮することなく戰前を無條件で肯定するは、復轍を蹈むに過ぎず、そは、より危險なことなのである。よつて大東亞戰爭を盲目的に美化してゐるわけでもない。眞に聖戰であつたならば何故に 神州が敗れたのであるか、何故に元寇の國難の如く或いは黒船襲來によつて出來した國難の時の如く、神風は吹かなかつたのか、野生にはさつぱり分らぬのである。さりとて反日左翼のいふやうに、あの戰爭を批判する氣には猶ほなれぬ。本當にあの戰爭を肯定し、美化するといふことは、正の部分も負の部分も省察し、將來に之を活かし、民族の事蹟として大東亞戰爭の眞意義を見出せばそれで宜いのだ。

 戰爭なぞ所詮當事國はどちらも聖戰だと思うてゐるわけだし、今これを論じても今尚ほ戰勝國の時間のなかで時が刻まれてゐる以上、所詮は負け犬の遠吠えと見られるまでだ。如何にそれを猛々しく云ふにせよ、繰返すにせよ、そんなことで戰前戰後史觀が超克出來るとは思へない。
 とは云へ、假に、たとへば萬々が一、大東亞戰爭が惡であつたとし、世界中の非難を受けねばならなかつたものだとしても、それでも我れら日本人だけは英靈や先人を冒涜する資格が無いことを忘れてはならぬ。それを識らず他國に阿り、徒らに英靈を冒涜するは、無責任の極みであり、僞善の最たるものである。たとへば街中の人々が我が父母に嫌疑を掛けたとしても、自分だけは父母を信じる心を決して失つてはならない。いづれにせよ、あの戰爭が是であつたか非であつたかの判斷は、冷靜なる後世の世界中の識者が下すであらう(その時、日本が若しも100㌫の評價を得られないにせよ、批判を大に上廻る評價を得ると信じてゐるが)。我れらは先人を確りと信じてゐれば、將來の判斷にもつと餘裕が持てる筈である。今日我れらが省察す可きは、大東亞戰爭の是是非非よりも、もつと肝心なこと、果して名實伴はれる 皇軍であつたのか否かでありたい。云ひきつてしまへば、戰爭の本質に就てあれこれ口角沫を飛ばして論爭を繰り返す前に、當時の 皇國の内情に就て考へる可きだと思ふのである。


 戰前を、いや、詳らかに云へば御一新後を點檢し總括す可き餘地は充分あるのであり、これを疎かとして、戰前戰後史觀の域より出ることは不可能である。況んや、神州の面目を恢復するに於てをや、だ。


 ・・・・結局、廿六日までに全てを書き上げることは出來なかつた。汗。
 そのうち、戰前に就て、卑見を述べてみたいと思ふ。今日は慌てたことに加へ既に眠くて、駄文とならざるを得なく、誤解を招くかとも思ふが、ま、それも仕方ない。今日のところはこれ位にして、眼と手を休めたい。
 おやすみなさい。
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by sousiu | 2013-02-27 01:29 | 小論愚案

閑話休題。 「國學」に就て。その一  

 こゝで敢へて、少し脱線してみたいと思ふ。
 一氣に『責難録』を最後まで書き上げるべきかも知れないが、偶には脱線も必要だと思ふからである。・・・野生の場合は脱線ばかりだが。汗顏。

 今日は「國學」に就て簡單に觸れてみようと思ふ。
 近年にはかに陣營の間で、國學に對する關心がより高まつてきたやうに感じられる。頗る宜い傾向だと思ふ。
 參考文獻は久松潛一翁著『國學 -その成立と國文學との關係-』(昭和十六年三月卅日「至文堂」發行)だ。

 翁は先づ、國學の意味に就て三別されると述べる。
 一つ目には、大寶令に見られる國學だ。曰く、
教育的に中央の學校を大學と稱せられたのに對して地方の學校をば國學と名づけられたのである。國といふ文字は古く、天神・國神として言はれて居る如く、高天原にまします神、もしくは高天原から降臨せられた神と、國土に以前から居られる神と區別する意味に用ゐられて居る。天罪・國罪といふのも高天原で犯された罪と國土で犯された罪との區別が主となつてゐるやうである。中央に對する地方を國といふ事は國學の場合のみならず國司の場合にも用ゐられる』と。

 要するに地方を國とよんだことから、名稱としての「國學」に止まる場合だ。この場合、我が陣營の云ふ所謂る「國學」とは異なるものである。


 二つ目には、日本に關する學問だ。曰く、
『即ち日本の政治・法律・宗教・文學・歴史等全般の文化に關する學であつて主として研究對象の上から見て、日本に關する學問を國學といふのである。從つてこの場合は日本に關する學問であるならば如何なる立場から扱つても國學となるわけであつて、佛教的立場、漢學的立場から扱つた場合もすべて國學であり、考證學や歌學・語學にしてもすべて國學と言ひ得るのである。かういふ意味に於ける國學はすでに古代から存在して居るのであるが、近世に於ても國學者をひろい意味にとつた場合も存するのである。この場合の國學は倭學和學といふ名稱によつて言はれた事もあるのである。この事は明治以後日本學といふ名稱が言はれた場合にも、廣く日本の事を研究する學問といふ意味で日本學が用ゐられて居る場合があり、西歐に於て言はれる日本學はその意味で用ゐられて居る場合が多いのである』と。

 これは説明するを要しまい。日本に係はる學問ならば、立場も質も問はない、といふものだ。日本に關せば耶蘇教であれ佛教であれ、研究對象として扱ふとき、即それ國學と位置付けられてしまふ。これも云ふまでもなく復古中興を志す者の定義する國學ではない。


 三つ目は、その立場の上に明確に日本的立場を以て純粹日本的なるものを闡明しようとする學問だ。曰く、
『この場合には佛教等の外國的立場や影響を離れて純粹日本的なるものを闡明しようとする所から研究對象にしても外國的影響をうけることの尠い古代文獻を主とするといふ限定をうけるとともに、態度に於ても日本的立場をとるといふ所に特質を有するのである。また方法に於ても古代文獻による嚴密なる文獻學的方法をとるに至るのである。さうして本質に於て國家的精神を基調として居るのであり、國家的の情熱を中心として居るのであつて、荷田春滿が創學校啓に於て「國學之不講實六百年」といつたのはかういふ意味に於ける國學をさしたのである』と。

 つまり、外來思想や宗教に淫される以前の、純々然たる日本的立場としてこれを研究し、闡明せんとするものだ。有體に云へば、固有信仰・思想、乃至は文化・傳統を先づ十分知悉して、そして保持しようとするものだ。ま、當たり前と云へば當たり前の順番なのであるが、「正しい歴史認識を」「文化・傳統を護れ」と他者に對して啓蒙せんとするほどの者は、自身がその「正しい歴史・文化・傳統」を知つてゐるといふことが前提であらねばならぬからだ。
 尊王家、復古派にとつて、これこそ「國學」と認定して然りのものである。

 純粹なる日本的信仰・思想・文化・傳統等を少しでも正しく知る爲めには、必然として歴史を遡つてゆかねばならない。僅か七十年前へ遡つてもその目的は達成し得ないからだ。よつて七十年前の戰前を解して足れりとするものではなく、百五十年前の御一新、御一新に止まる能はざるして徳川最盛期、それよりも織豐時代、更らには戰國時代、その前の吉野朝時代、室町、鎌倉、平安・・・古へ古へと時代を遡ることによつて、初めて浮き彫りされる純日本を知り得るのである。固より日本は開闢以來、一度たりとも滅亡した事實が無く、從つて歴史は分斷されぬまゝ、畢竟萬國で最古の歴史を保有し、今日猶ほ延長され續けてゐる。然るに米國や中共などと違ひ、悠久の歴史を辿るといふ作業は、それは容易なことではないのである。云ふなれば民族にとつて、これ以上の嬉しい悲鳴はない。
 これに就ては當然、何千年といふ壽命を保持し得る者はをらず、又た今日のやうにDVDに記録されてゐる筈も無い。然るに文獻に頼らざるを得ないわけである。古賢の苦惱苦心苦學による成果と學恩、そして、災害等による散佚や或は知らず處分され年々散失されてゐるにせよそれら古書や古文書が今猶ほ遺つてゐることに、吾人は幾重にも感謝せねばなるまい。

 さて。先人の遺志に連なり、これを志さんと欲したとき、一つの問題が生じる。今日の言葉や表記、文法では、古書を讀み解くことが出來ないのである。いや、古書などと云はずとも、戰前の書物すら戰後の國語教育程度では、難讀せねばならないのが現状だ。そこで先づ、これを解讀する爲めに、國語の研究が必要に迫られるわけである。
 久松潛一翁の曰く、
國語學との關連の上で言へば國學に於ては文獻を尊重する所から言語の研究を重んずるのであり、そこに國學者は一面に於て國語學者となつて居るのである。契沖にしても眞淵、宣長にしても國語學者の一面をそなへて居るのである。しかしこの場合國語學は純粹なる國語の研究そのものに中心があるのに對して、國學に於ける國語學の研究は國語によつてかゝれた文獻を理解するための第一段階として研究されるけれども、國語の研究そのことが最後の目的ではないのである。こゝに國學に於ける國語研究と國語學そのものとの異なつた領域があるのである』と。
 
 つまり、維新(こゝでは敢へて維新と云ふ)の爲めに要せられる可き國學を學ばんと欲すれば、自づと國語學を研究せねばならない。だが國語學は謂はゞ出發點であつて、國語を研究することが到着點ではないのである。野生の先輩や朋友には正假名正漢字を愛用する御仁が少なくないが、みな、一人でも多くの國民が再び國學の大切さに氣付くことを熱望し、敢へて正統表記を實踐して親しみ易きものとし、同時に歴史的文獻が大衆に、より身近となるやう祈つてのことであらうと思ふ。謂はゞ正統表記を實踐すること、既にそれ丈で啓蒙活動と言ひ得るのである。それをも知らず、淺慮にも「自己滿足」と見做し煙たがるは、日教組か、さなくは米國教育使節團の太鼓持ち以外のなにものでもない。
 我が日乘でも他の機關誌でも再三繰り返してゐることだが、人の曰く「文章は讀まれなければ意味が無い。言語は生きてゐる。今日愛用されてゐる表記で傳へるべき」と。これは國學に對する無理解から生じる言だ。一々久松翁の言を持ち出すまでもなく、云ふなれば文化頽廢を推進する愚論だ。現代に對する順應と云へば聞こえは良いが、實は占領國語表記への妥協であり、敗北に他ならない。かういふ民族の無責任者の言に從へば、往時の文章や先賢の玉稿遺文、今に遺れる先覺者の版本藏書は總て、無意味であり無價値といふことになつてしまふ。岩波や司馬遼太郎フアンなどの反日家や半日家から見れば頓著ないだらうが、得てしてさういつた人らの歴史認識を問へば、已んぬる哉、大抵、笑止せざるを得ないほど誤解に誤解を重ねてゐるものである。

 翁の曰く、
『かういふ國學は一方では古文獻による所から古學とも言はれ、また、文獻に立脚して古代文化を研究する所から明治以後、日本文獻學とも言はれた事があるのである。こゝで意味する國學もこの第三の意味に於ける國學をさすのであるが近時となへられて居る日本學も、日本の事を研究する學問といふよりは日本的態度を以て研究する學問といふ意味に於て用ゐられて居るのであるから、この第三の意味の國學と近い關係にたつのである』と。

 久松翁はこゝで考察を深める。いさゝか長くなるが注目を要する箇所なので引用したい。曰く、
『第一に國學と日本文獻學との關係に就いて少しく考へたいのである。日本文獻學といふ名稱は明治時代になつて芳賀(矢一)先生等によつて國學が獨逸の文獻學と比較せられその方法、態度、目的等の類似する所から獨逸文獻學に相對して近世の國學をば日本文獻學として理解せられたのである。芳賀先生は日本文獻學といふ題目で大學の講義も行はれて居り、遺稿の中に刊行されて居るのである。この場合とり入れられた獨逸文獻學はベェクやパウル等によつてとなへられた文獻學であるが、文獻によつて獨逸の文化を闡明しようとするのである。さうして文獻そのものの研究を重んずるやうになり、そこに書史學的研究や本文批判、注釋的研究をも行ふのである。古文獻を正しく解釋した上で、文獻によつて古文化を闡明しようとするのである。さうして文獻を重視し、それによつてその國の文化を闡明しようとする點が、我が國の國學が古文獻によつて純粹日本を闡明しようとする點に方法目的の上にも類似する所から比較されたのは妥當でもあつたし、また近世國學の方法の再吟味のために必要でもあつたのである。たゞこゝで注意されるべき事は我が國學と、獨逸文獻學との類似する點とともに相違する點もある事である。これは芳賀先生も十分認めて居られたのであつて、一面に於ては文獻學的方法をとかれながら、一面に於ては國學の獨自の意味や方法態度をも認めて居られたのである。この事は西尾實氏も言はれて居つたと思ふが先生が晩年の御講義では日本文獻學といふ名稱の代りに再び國學として講義せられて居つたこともその一の現れとも見られるし、また日本文獻學といふ名稱でとかれた際にもその相違する點は指摘して居られたのである。現在の私見を以てしても、近世の國學は古文獻によつて純日本文化や精神を闡明するとともに、古文獻そのものの精密なる基礎的研究を準備として行ふのであるが、さういふ古文獻によつて闡明される所の古文化は單に古の事ではなく、日本の文化を貫いて現代まで生きて居る文化や精神であつたのである。かくてさういふ文化や精神は冷靜な文獻學的方法を以て扱ふには餘りにも生きた精神であり、それのみでは扱ひ得ない點があるのである。從つて近世の國學に於ては一應文獻的方法によつて行はれ、その方法の領域に止まつて居るやうであるが、しかしある點に於ては文獻學的方法を超えるのであつて、そこに單に冷靜なる古文化の研究と異なる生きた現實の問題としてその愛國的情熱を吐露するに至るのである』と。

 「國學」が一時「日本文獻學」といふ言葉を用ゐられた理由は、ドイツに於て、古文獻を繙くことによつてドイツの文化を闡明しようといふ「獨逸文獻學」が爲され、これに類似する點から「日本文獻學」と名付けられたとのこと。しかし日本とドイツは違ふ。彼の國と比して日本の歴史は遙るかに長く、而も古の文化や精神は過去の遺物となるでなく、今日に於ても脈々と生き續けてをり、この點に彼れとの違ひをみるのである。

 かくて日本の深奧を探つて行くと、それは神話の世界まで行き着かなくては止む能はざるのである。曰く、
我が國の神話が他の國の神話と異なつて古代に於ける宇宙、國家、人間の創造を語る神話であるのみでなく、特に國家の起原を語る國家的歴史神話である所に特質があり、またかくの如き神話が歴史を貫いて國家發展の根柢となる精神となり、今日の我が國の根本的な精神となつて居る所に獨自の點があるのである。かくの如き神話の研究に於ては他の國の神話の研究とは異なつた態度を要するのであつて、文獻學的方法のみを以てしてはその歴史を貫いて生ける精神を十分に闡明することが出來ない點があるのである。近世に於ける國學が文獻學的方法をとりながら時に文獻學的方法を超えて居る點があるのはかういふ具體的な生きた精神を扱ふ所から來た自然の結果であるであらう。國學が日本文獻學といふ立場に於てある程度まで説明されるに拘らず、文獻學としては十分に國學を説明し盡されない所以はそこにあるのである。國學と日本文獻學との關係はかくの如き意味で近い關係になつて居り、方法論としては日本文獻學が國學の方法論を大體に於て説明して居りながら、なほ完全に現し得ない點があり、殊に國學の本質目的は日本文獻學としては説明し得ないものが多いのである。まして近時解される書史學的研究を以て文獻學的研究とする如き立場に於ては國學と文獻學とは一層遠い距離を置いて考へなければならないのである。國學はすでにのべたやうな理由で古代文獻を重視し文獻による研究を重んずるけれども、しかし決して書史學的研究に止つてはゐないのである。それは一の準備的資料的研究として重んずるのであつて、學問の本質は古文獻による純日本的の文化や精神の闡明であり、同時にそれ等の文化や精神を過去の文化として研究するのみではなく、その文化や精神の生ける生命、歴史を貫く生命として把握するのである。國學はかくの如き意味を有する所にその本義があるのであり、そこに文獻學とも異なるものを有するのである。さうして歴史的に見た國學が方法に於てなほ整備されない點があり、時に雜學的な傾向が存することは認められるけれども、それは枝葉に於て陷つた缺點であつて國學の本來の精神は國學の歴史を貫いてあるのであり、それ故に國學が近世に於てあれほどの力を學問的業績の上に於ても有し得たのである。それはまた、國學の意義でもある』と。


 いづれにせよ、古文獻を繙く作業と、國學の研究とは分つ可からざるものなのである。
 但し野生は學者でなければ研究者の域に到底及ぶものではない。皇國中興を招來せんと、微力を捧げる一個の微弱な發信者に過ぎない。
 從つて赤面するを承知で卑見と抄録を重ねるのである。固より野生の愚眼では抄録の仕方も下手であつて、何ら讀者の見識を深める爲めに寄與するものでないかも知れない。されど偉大なる先哲の文獻に、より一層親近感が持たれゝば、これに勝ぐる喜びはないのである。
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by sousiu | 2013-02-22 00:23 | 小論愚案

承前。 

 日乘が滯り、あツといふ間に一週間が經過した。
 まさか、このやうなオタクの日乘の更新を樂しみにしてくれる御仁もをるまいと思ふが、それでも、續く、と記した以上、遲怠には心苦しさが伴ふものだ。

 承前。

 徳富蘇峰翁の『近世日本國民氏』より抄録し、前記に繋げることゝする。
『徳川將軍を大君と稱したるは、林道春に始まつた。而して不覺なる幕閣は、井伊直孝を首(はじめ)として、朝鮮國王から、大君の二字を、我が將軍に當て嵌めて來たのを見て、朝鮮の國王、大君と仰ぎ奉りたること未曾有の盛事として賀した』と。

 だがそれ、朝鮮側は決して仰ぎ奉るの意ありとせなかつたことは、新井白石公の『殊號事略』に分明である。 彼れらの底意は寧ろ逆に庶かきものであつた。而、それは即、白石公の「大君」の尊號を用ふる可からずとの主張に撞着した。
●新井白石公『殊號事略』に曰く、
『大君と申(ス)事は、周易に見えたるを其(ノ)始とす。世々の先儒、大君は天子なりと注し候得ば、日本國大君と稱し候はんば、本朝の天子の御事を申すべし。又、説文に 皇 の字を釋して、皇は君也大也、三皇は大君なりと見え候へば、我國の大君と稱し候はん御事は、日本天皇と申に同じかるべし。本朝神皇の天統未だ地に墜(チ)給はざるほどは、たとひいづれの世、いかなる人と申とも、自から稱して、日本の天皇などとは、のたまふべき御事にあらず ~中略~
 我國にしては、本朝天皇の尊號を僭竊し給ふの嫌ありて、彼國にしては、其王の庶孫の僞號を假授せらるゝの疑あり。彼といひ是といひ、然るべき御事の謂れをしらず』と。
 つまり、「大君」とは、日本側にとつては、臣民何びとも之を稱す可きでないことを説得し、朝鮮側にしては彼の國王の嫡孫を意味する。よつて、内交上に於て僭越であり、外交上に於ては卑下するといふもの。これが白石公の、將軍、大君を稱する勿れとした論鋒だ。だがこれ白石の明晰なる見識と云はむよりも、寧ろ羅山はじめ當時の學者・權威者が餘りにも蒙昧に過ぎたと云つた方が適當であるかも知れぬ。延いてはこの一事を以て、如何にこの時代の 皇威が衰微されてゐたか、一方に幕權が逞しいものであつたか、吾人は詮議するを要しない。

 そこで、次なる問題が出來する。「大君」に代はる號は何であるか。豐太閤時代の正常に復せしむ可きか。それとも?
●新井白石公曰く、
『本朝天子の御事は、日本天皇と稱し奉り、鎌倉、京都代々の事を日本國王と稱し申せし事、朝鮮の書に見えしのみにあらず。異朝の書どもに相見えし所も少からず。皇といひ、王といひ、大小の字義同じからず。況や又、皇に係(つなぐ)に天を以てして天皇と稱し、王に係に國を以てして國王と稱し、上下の名分相分れし事、天地の位を易ふべからざる事の如し。然らば則ち自ら國王と稱せらるべき事、天皇の御事において、何の嫌疑にか相渉るべき』と。
 即はち、字義の上では、天を統べるに 天皇とし、國を統べるに國王と説明し。よつて征夷大將軍はこの「國王」にあたるとして、これを強辯した。
 つまり白石は、徳川家宣をして「大君」の稱號を廢せしめ、代はりに「日本國王」の稱號を用ゐることを主張したのである。固より、如何にも尤もらしくみえるこの白石による 皇と王との區別は、皇國に於て何ら聽くに價せるものではない。
 云はずもがな、日本はこれまで一貫して、皇國であり、王國などてふ餘地の入り込む隙間が無い。如何に徳川の權勢が旺盛であれ、皇國に於ては彼れもまた、臣下の一人に過ぎない。忠臣は二君に事えず、といふ。皇と王とがあるは、忠臣の出でたる道理なく。若しも忠臣あらば、そは、國内の二分されること火を見るよりも明らかである。

 繰り返すが、白石公は、家宣時代に於て、前代である綱吉の無策失政を、政治的にも經濟的にも大いに挽囘した。その功績は認めねばならない。加へて件の如く、朝鮮信使禮遇の更革に於て、外交的にも挽囘したことを、認めねばならぬ。
 されど彼れに缺乏したる一事は、尊皇の念に乏しきことである。而してその缺乏したる一事は、大事であつた。
 いづれにせよ、上記もて、白石の主張は幕府方に採用され、宗對馬守義方を通じて朝鮮側に通知された。


 そこで吾人には疑問が生ずる。彼れの、王號を主張するその意中は、果して、朝鮮國王に對して、外交上、彼れを思ひ遣り、文面上に於て立場の均衡を計らむとした親切であつたのか。
 吾人は、この答へに相當す可き白石公の思想を、彼れの著したる『讀史餘論』に垣間見ることが出來るのである。
●新井白石公『讀史餘論』(正徳二年?)に曰く、
『王朝既に衰に衰へ、武家天下をしろしめして、天子を立て、世の共主となされしより、其名人臣なりと雖も、其實の有(ル)所は、其名に反せり。~中略~ もし此人(足利義滿のこと)をして、不學無術ならざらしめば、時漢家本朝古今事制を講究をして、其名號をたて、天子に下る事一等にして、王朝の公卿大夫士の外は、六十餘州の人民悉く、其臣下たるべきの制あらば、今代に至る共、遵用に便あるべし』と。
 上記『其の名號をたて云々』の名號とは、彼れの主張せる、「國王」のことであることは疑ふべくもない。要は、名實伴はれる國王の名稱を立て、この國王一人は、天皇の臣たるべきも、京都の公卿大夫士を除く全國民は、この國王の臣下(徳川の臣)たるべきことを主張したるものだ。
 こは、幕府の基礎をより堅固ならしめて、今後起こるかもしれぬ國内の動亂を未然に防止せんとしたるものだ。更らに穿つてみれば、突發的に内戰が勃發しても、全力でこれを、而も早急に鎭撫する丈の體制教化を欲せむとしたものだ。つまりこの問題に乘じて、序でながら、家宣に對しての親切も含有してゐたのであらう。彼れが徳川家宣の恩寵を恣としたことは理由なきとしない。彼れは將さに、徳川幕府にとりて優秀なる人材であり、同時に家宣にとりて缺く能はざる人材であつたのだ。
 さらば彼れ白石は、政體の護持者、換言すれば體制の現状維持者であつて、果して國體護持の志ありしか否か、甚だ疑問を抱かざるを得ない。彼れの論法は、我が國體の本領に違背してゐるからだ。

 而して現代に思ふ。大阪にて「維新」を叫ぶ橋本某も白石の如くであり。否、躊躇はずに云へば、今日の保守と呼ばれる者が、その登場を俟つ人物とは、實に白石の如き者ではあるまいか、と。
 經濟を再生せよ、政治を清潔ならしめよ、國民生活を安定たらしめよ、國家の威嚴を他國に廣告せよ・・・。どれもこれも異論はない。野生も國利民福を願ふ一人である。但し野生はその優先順位を度外視することもしない。あまつさへ、それらを得んが爲めに、「臣下」が「國王」と稱することを決して認めるものではない。

 秀才と誠實とを併せ持つ人物は理想であり、いつの世にも必要である。されど秀才であるも誠實ならぬ人物と、秀才ならぬとも誠實たる人物、つまりどちらか一方を缺くのであれば、どちらを欲するべきか。極言すれば優秀なる賣國奴と、優秀に及ばぬ誠忠の士である。秀才はその時勢に機敏なるがゆゑ應急處置の適任者とするも、百年をして完治を促す者たり得まい。一方、誠實たる人物は誠實たる人物を養育す。日本に於て保守と稱する人士は、先づ、皇國に忠實たらねばならぬと思ふのである。よつて野生は、優秀たらんことを欲する前に、忠實たらんことを心掛ける次第である。


 維新に貢獻したる先覺と、白石の相違は、下記抄録をして ~若干亂暴な書き方であるにせよ~ 端的に窺ふことが出來る。

●中村孝也氏『白石と徂徠と春臺』(昭和十七年二月十六日『萬里閣』發行)に曰く、
『幕府政治家が封建制の維持について苦心し始めた時は、即ち封建制が崩壞の坂を一歩降り始めたことを示してゐる。こゝにおいて封建制の存續に關し、二つの異れる方向の價値批判が發生した。その一つは反封建的思索を誘導する批判である。他の一つは封建制維持の理念に基く批判である。この三者は初めの間は尚ほ未だ相互の間に、摩擦相剋を生ずる程に生長せずして竝立した。新井白石・荻生徂徠・太宰春臺の生存した江戸幕府中期はまさにその時期であつた。
 封建體制に對する反撥的批判は、先づ、生活の落伍者の群の裡から發生した。世間が安定し、生活が型式化するに隨ひ、その型式の中に入らうとしても入り得ざるものは、生存の不適格者となつて不利不便を忍ばねばならなくなる故に、自ら新生活の展開を欲求するやうになり、思想部面に移動して多くの思潮を流れ始めしめた。度會延佳・吉川惟足・垂加靈社(山崎闇齋)等に由る神道の振興も、釋契冲・下河邊長流・戸田茂睡等に由る國學の出現も、山鹿素行・徳川光圀等に由る儒教の日本化も、それゞゝ新しい役割を擔當して發足したものであり、いづれも充足せる生活現實に對して一段前進せる新生活理念を欲望せることに由つて起り來れるものであつた。然るにこれと對蹠的に封建生活を維持しようとする努力に由つて、眼前の現實を批判するものも亦大いに起つた。それは現に政治の責任者たる地位に立つものを始め、これに夤(上「タ」+下「寅」=いん)縁あり、或はこれに依存する人々の裡から發生せる思潮であつた。而して白石・徂徠・春臺等は、それゞゝその後者に屬するものであつた』と。

※括弧及び括弧内は野生による。
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by sousiu | 2012-04-07 23:53 | 小論愚案

小論愚案 求學求道・・・の補足。 

●蘇峰 徳富猪一郎翁、『近世日本國民史 第十六卷 徳川幕府上期 下卷 -思想篇-』(大正十四年四月廿日「民友社」發行)に曰く、
『朱子學は、徳川時代に於て、偶然にも、二大派を生じた。一は官學、即ち徳川幕府の御用學者林家によりて、代表せらるゝものにして、他は所謂る南學と稱する、土佐を發祥の地とし、山崎闇齋により、京都に於て、唱道せられたる私學である。

~中略~ 而して朱子學が、幕府の現行制度に向つて、一大打撃を加ふるに至つたのは、林家の御用學問でなくして、山崎派の民間學問であつた。山崎闇齋其人は、必ずしも幕府の現行制度の批評者でもなく、改革者でもなく、又た反抗者でもなかつた。然も彼の流れを酌む末派に至りては、其の唱道者の思ひ及ばざる點に迄、其の學問の感化を推し及ぼした。
 此の意味に於ては、熊澤蕃山よりも、山鹿素行よりも、伊藤仁齋、物徂徠抔は云ふ迄もなく。山崎闇齋は實に幕政改革の氣運を釀造したる、唯一人たらざるも、第一人と云はねばならぬ。而して山崎闇齋が、此の如き大勢力となりたる所以は、山崎學その物の勢力よりも、寧ろ山崎學によりて刺戟せられ、長養せられたる、水戸學の力である。
 水戸學の淵源が、山崎學にありと云ふは、餘りに山崎學の勢力を、買ひ被りたるに庶幾い。然も水戸學は、其の發生を山崎學に假らざる迄も、其の發達の、山崎學に負ふ所、決して少々ではなかつた。而して山崎學も、水戸學によりて始めて其力を、天下に伸ぶるを得た。此の兩者の關係に就ては、更らに他の機會に於て、語るであらう。
 (※當日乘にて既記。→→  http://sousiu.exblog.jp/17043640/)

~中略~ 朱子學に林家と、山崎派とあるは、猶ほ英國の基督新教に、國教と、非國教とあるが如し。林家の朱子學は、流石に御用學問だけのことありて、如何にも温柔、敦厚のものであつた。其の學問の筋合は、只だ當局者に都合の良き樣に出で來つた。彼等は國家としては、支那を中華とし、政治としては、幕府を本位とした。

 固より、如何に官學にせよ、一般の氣運、及び風潮に沒交渉なるを得なかつた。如何に支那を崇拜しても、道春等亦た、日本が神國であると云ふ思想に、浸潤せらるゝを禁じ得なかつた。如何に眼中只だ將軍あるを知つてゐても、全く京都を無視することは能はなかつた。併し彼等は氣運から、世潮から、動かされ、引きずらるゝに止りて、未だ積極に之を動かし、之を引きずるが如きことは能はなかつた。
 然も山崎闇齋一派に至りては、正しくそれであつた。彼等の總てとは云はぬが、其の一派中からして、朱子學の精神を、直ちに現行制度に適用して、大いに其の批評的、時としては破壞的論評を、逞うするもの出で來つた。彼等は必ずしも倒幕だとか、天皇親政とか云ふが如き、革命的氣分に感染してゐなかつた。然も彼等の論鋒は、無意識的に、その方面に進み行くを禁じ得なかつた。
 繰り返して云ふ、山崎學の影響は、勤王思想、國體思想の發達に對して、實に甚大であつた
』と。


 これは新生兒の成長を促す眞白き母乳が、何かと結合し、乳兒の體内で深紅の血となり或いは骨肉となる、その結合したる何か、の一例として識る可しだ。
 固より、學問のみではない。山崎闇齋先生は、垂加神道の祖師でもある。御高弟の間では、崎門學と垂加神道の一致には多少の確執や葛藤もあつたやうだが、ともかく、思想と信仰が極めて密接となり、否、濃密となり、高められた結果が、白き乳を赤き血へ變へたのである。抑も、同じ朱子學なるも、何故に崎門學と林學の、隆盛と沒落といふ差異が生じたのであるか。これは時代の變遷も無視出來まいが、やはり、神國に對する確信の差ではないかと、野生は思ふのである。

 『闇齋は學者と云はんよりも、寧ろ教育者であつた。彼の學問には、當初から宗教的熱信と、訓練とを含蓄した。されば彼が人を教ふるや、記誦詞章の學にあらずして、直ちに實踐躬行であつた。而して其の學問の範圍を、極めて狹くして、其の深く徹底せんことを期した』仝。


 平成の御代に何を今更ら、朱子學などを、と一笑する勿れ。
 野生の、と云はむよりも、歴史の傳へむとするの眞意は、日本が國風は、借り物の思想や信仰を模倣すればそれ衰微にこそ向ひけれ、決して好轉する能はぬといふことだ。異國の學を手放しで信奉する、所謂る左翼的な人達に、若しも純粹に世直しの志が存するのであれば、その人らには今一度、歴史を繙く作業から始められんことを是非、促すものである。
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by sousiu | 2012-03-08 01:16 | 小論愚案

小論愚案。求學求道。二。 

承前。

 而、今般、文明開化を迎へ歐風萬能熱にうかれ、明治維新も反歩後退し、戰後を體驗して更らに一歩半を吾人は後退した。畢竟、明治維新から二歩後退したわけだ。愈々、歐風萬能熱も冷めつゝある今日、再び吾人が三歩前進すべき秋を眞近に認めてゐる。


 茲に於てか吾人は、蘇峰徳富猪一郎翁の『近世日本國民史』よりヒントを得たいと思ふ。
●徳富猪一郎翁、『近世日本國民史 第十五卷 徳川幕府上記 中卷 -統制篇-』(大正十三年十一月廿日「民友社」發行)に曰く、

『家康の元和二年四月逝いて以來、家光の慶安四年四月死する迄、足掛け三十六年間は、即ち秀忠、家光の二代間は、徳川幕府のあらゆる方面に於て、完成したる時代であつた。~中略~

 秀忠、家光の二將軍は勿論、當時の所謂る年寄連中に於ても、家康の定めたる範圍の上に、超越する底の政治家は、一人もなかつた。彼等の總ては、只だ守つて失ふなからんことのみを、心掛けてゐた。然も其の心掛けだけは、何れも概して殊勝であつた。流石に家康の定め置きたる、徳川幕府中心主義、徳川幕府安全第一主義、徳川幕府至上唯一主義は、能く徹底的に行はれた。

 幕府の對皇室、對公家、對大名、對外國、對民庶、何れも此の方針から、演繹し來らざるものはなかつた。而して如上の主義を貫徹するの第一要義は、徳川幕府中央集權の政治であつた。されば彼等は、あらゆる機會を利用して、權力を幕府の中心に取り入るゝことに、油斷がなかつた』


 翁は、更らに徳川幕府に就て觀察の目を瞑らない。

●仝『泰平の持病は、文弱と奢侈だ。徳川幕府は、一方には鐵網細工もて、天下の治安を維持し、泰平を保存すべく、其力を竭くしつゝも、他方には、此の泰平の持病を退治するに、亦た其力を極めた。泰平は必要だ。然も其の泰平に伴ふ文弱と、奢侈とは、禁物だ。如何に徳川幕府の力を以てしても、兩ながら其の目的を達することは、不可能と云はざる迄も、至難の業と云はねばならぬ。然もその至難の業に向つて、少くとも最善の努力をした。
 所謂る三河武士の鋭鋒も、大阪冬夏の二役に於ては、頗る鈍つて來た。當時敵兵は動もすれば、將軍の麾下を脅かさんとした。而して島原役に至りては、三河武士と云はざる迄も、當時の征討軍は、屡ば叛徒の爲めに惱まされた。
 家光時代となりては、武に偏するものは、市井の遊侠兒となり、所謂る一種の男伊達なるものを做して、徒らに傾城町の猛將、喧嘩場の肝煎と云ふに過ぎず。然らざるものは、贅澤三昧に流れて、亦た祖父の櫛風沐雨の當初を忘却し去つた。されば家光は、頻りに武藝を獎勵し、且つは戒飭した』と。


 徳川專政を保障したる儒教を江湖に弘めたことが、はからずも、崎門學先哲の苦心と研學とによつて、幕府の命運を危殆に貶しめることゝなつた。崎門學派だけではない。信仰的方面には復古神道も擡頭して來たつた。勿論、史實の方面から大義名分を唱道したる水戸學も出で來たつた。徳川幕府は、文弱を防止せんと力める餘り、家光の時代より、皮肉にも各方面に養成せられつゝある信仰、思想を促したと云ふことが出來る。而して、その成長は、ある時機を得て既に徳川幕府の抑へる能はぬまでに至つた。各方面、各分野に成長したそれは、各方面、各分野から幕府に向かつて力を放つた。討幕である。


●『近世日本國民史 第十六卷 徳川幕府上期 下卷 -思想篇-』(大正十四年四月廿日「民友社」發行)
日本は神國であり、天皇は神裔であると云ふ觀念は、決して維新の大業を企てたる志士が、始めて唱道したのでもなく、製造したのでもない。此の思想の淵源は、頗る遠く、且つ久しく、頗る深く、且つ固くある。欽明天皇の朝に佛教が傳來して以來、佛教の思想は、上下を風靡したが、然も此の國體と尊王の觀念には、一指をも染むる能はなかつた。否な佛教は、此の觀念と妥協し、本地垂迹と王法擁護、尊皇奉佛とを以て、巧に本來の思想と合體した。
 儒教の勢力は、奈良朝、平安朝に於て、固より佛教と對抗す可き程ではなかつた。而して其の方面に於ては、最澄、空海の徒と、竝び驅つて先を爭ふ如き儒者は、一人も無かつた。吉備眞備、菅原道眞の如きも、法制とか、文藝とかに於て、其の特長を示したが、所謂る儒教的鼓吹者としては、何等歴史に、其の印象を留めなかつた。降つて鎌倉時代に至りて、蒙古との葛藤は、大いに我が國體の思想を刺戟した。而して南北朝時代に際しては、北畠親房の如き、政治的學者、或は學者的政治家出で來りて、王霸、正閏の意見を昭らかにした。~中略~

 今更ら珍しき言前ではないが、思想は單獨に活動するものではない。その活動するや、必ず因縁がある。北畠親房の神皇正統記の如きも、畢竟、南北朝に於ける皇統の分離、對立に際し、尊王濟世の念禁じ難く、其の志を百世に傳ふ可く、著述したものだ。

 室町時代は、國體思想、尊王思想の、日本歴史上、最も隱晦したる時代であつた。固より消滅したのではない、唯だ其の發揮せらる可き機會なくして潛伏した。而して織田信長に至りて、尊王の觀念を、大いに實際的に現呈せしむるを得た。著者は姑らく彼の心事に立ち入ることを避け、單に其の效果の上から觀察すれば、尊王の大義を、昭明したるの功は、北畠親房以後、織田信長を以て、第一人とせねばなるまいと信じる。秀吉は總ての點に於て、信長の門人である如く、此點に於ても亦た然りだ。家康に至りては、其志は寧ろ室町時代の舊に返り、鎌倉時代の轍を履むにあつたが。然も彼が文教の擁護者たり、支持者たり、獎勵者たり、保護者たり、鼓吹者たりし一事は、日本の尊王思想、國體思想を、觀察する上に於て、彼を除外する能はざらしめた。此れは家康當人としては、恐らく思ひ設けぬ仕合せであつたであらう。

 我が徳川幕府は、三百年に垂んとする泰平を與へたから、尊王思想、國體思想は、泰平の餘澤から生れ出でたるものであると云ふは、正當の見解ではあるまい。單に泰平と云へば、寧ろ人心をして現状に安著せしむるものだ。國體思想は對外關係から、長養せらるゝ。然も鎖國の世の中には、國體思想を長養する機會なきのみか、思想其物の必要さへ無き程だ。幕府全盛の世の中には、天下皆な將軍あるを知りて、天皇あるを知らざるは、是亦た餘儀なき情勢だ。

 されば單に昇平三百年の爲めに、必ずしも是等の思想が、醞醸、醗酵せられたものでない事は、分明だ。果して然らば何故に然る乎。そは申す迄もなく、文教普及の爲めだ。文教興隆の爲めだ。日本國民の精力が、物質界以外に傾注せられたるが爲めだ。而して其の思想が、或る機會、或る因縁の爲めに、おもむろに長養せられ、遂ひに囘天、旋地の一大活劇を、演出して來た。此れが維新の大改革だ』と。


 上記蘇峰翁の觀察には、ちと要せられる可き補足のあるを感ずるものゝ、決して不適當な觀察でも無い。

 先日の時對協懇親會にて、同志の向學心旺盛なることを前記した。

 野生は嘗て、當日乘で、『靈學筌蹄』から、友清歡眞先生が『昔の希臘の閑人は面白いことを考へたものでたとへばアナクサゴラスなどいふ先生は、人間がパンを喰べて生きて行くところをみると、人間の血も肉も皆なパンの中に含まれてゐる筈、いろゝゝ異つた物質でも共通の性質を有つて居ると云ふのである』といふことに着眼なされて御高説に至ることを抄録したことがあるが、元來、もれなく大和民族たる吾人が内には、思想的にも實行的にも、皇運扶翼、皇業翼贊の因が存してゐると思ふのである。
 パンそれ自體は血の色もなく、肉の匂ひもなきまゝであるが、何かしらの結合を以て、血になり肉にもなり得る。
 果して皇運扶翼、皇業翼贊の思想的自覺のみにあらず、尊皇敬神の信仰的自覺は、如何なる結合を以てして發揮されるのか。野生は其の凡てとまでは云はずとも、その主なる一つとして、先般の懇親會の如き、或いは蘇峰翁の觀察の如き、文教普及・文教興隆であらうことを確信して疑はないのである。

 をはり。

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※徳富猪一郎翁の『近世日本國民史』(全百卷也)。これから懲役に行く人の必須本だ。
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by sousiu | 2012-03-04 23:26 | 小論愚案

求學求道。  

 三月一日、時局對策協議會定例會があり、出席。
 その後の親睦會では、同志がおほいに花も實もある意見を呈し盛り上がつた。
 こと着目す可きは、向學心の旺盛なることだ。



 既に戰後、戰勝國による強壓乃至甘言と、之に阿る戰後指導者のミズリードによつて日本が改造せられたことは周知の事實だ。改造は決して改善のことならぬ、改惡であつたことも又た、疑義の挾むべき餘地なき事實だ。
 尤も、改惡は戰後から開始せられたものではない。その起因ともいふべき種子は、文明開化に蒔かれたものと云うて宜い。詳しくは、主として西洋巡遊の新政府使節團に、種子が附着し、彼れらの歸朝と共に持ち運ばれたものである。
 その種子の萌芽が戰前の鹿鳴館外交であり、大正デモクラシーであり、天皇機關説などであつて、加へて、敗戰といふ豐富な肥料が饗され戰後著しく成長した、とかういふわけだ。

 歴史は一貫してゐる。況んや、皇國に於てをや、だ。
 恰も明治維新を前後して、歴史が分斷されたと錯覺してはならない。
 幕府執政の時代も、その後の新政府時代も、大政翼贊會も、戰後の民主主義も、皆、一貫してゐる。
 畢竟、二百六十年、權勢を振つた徳川幕府といふ改惡者が無くなり、次いで西歐の改惡者が日本に介入した。
 であるならば、明治維新は、一定の成果こそあつたれども、一定外に於ては成功と呼ぶに吾人は躊躇はねばならぬ。蓋し事こそ違へ、時こそ同じからざれ、建武中興と酷似してゐると看做してよい。

 こゝで思ふ人もあるだらう。では、日本は、その歴史に於て大半は、天日と萬物萬人とのはざまに横たはる暗雲の支配によつて綴られ、大化改新も建武中興も明治維新も一ト刹那に光る綺羅星の如き、一瞬に過ぎなくあるか、と。それはさうかも識れない。
 けれ共、神武帝が建國を宣言し以來、日本は一進一退の反覆ではなく、三歩前進二歩後退を繰り返へし、長き年月と共に確實に成長してゐるのである。詳言すれば、大化改新にて、皇國の威嚴を外に向かひて發信し。建武中興では内に向かひて皇位の尊嚴を明確にし。明治維新では君臣の分を明らかにし。吾人は一つ一つ、長い時間と倶に、皇國の眞相を理會しつゝ、臣民としての自覺を有しつゝあるである。國も人も修理固成だ。

 世界に對する終末思想、又たは個人に對して死して天國やら地獄やら、或いは極樂淨土やらの住人となるを信じる者、或いは死して人は無に歸すると考へていさゝかも恥ぢぬ他國の民では、かくなる 皇國の事實を到底空しく思ふことであらう。だが理解するとせないとに關はらず、魂は産靈の作用を以て幽界と顯界とは密接に交通し、而も時間的にも結ばれ、爾後も悠久に、皇國は修理固成されゆくのである。そは忝くも神勅に明瞭に顯はれてをる。吾人が顯界に於て成すべきことは、この遙るか悠遠の時間の中の一參加者として、神勅をゆめ疑はず、聖勅を奉戴するあるのみ矣。續く。
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by sousiu | 2012-03-04 19:57 | 小論愚案

傳へざるの責は保守派にもあると識るべし。 

 昨日は、木川兄と大洋図書本社へ。
 増刊開発編輯長・高瀬氏と、漫画ナックルズ編輯長・日笠氏との四人會だ。
 終へて、靖國神社を參拜。
 木川兄とは、しよつちゆう、一緒に居るやうな氣がするが、一應、かういふ場合のお約束としてお斷わりしておくけれ共、野生も彼れも○○ではない。

 さて、關係者諸賢に、渡邊文樹氏との對話のDVDを送つたことは既記の通りであるが、昨日本日と、數人から、感想の電話とメールが屆いた。

 皇國の中興を考へたとき、やはり如何しても、『天皇制』概念は大きな障碍だ。
 『天皇制』概念は、何も戰後に産聲をあげたものではないが、ことに戰後教育ではこの概念を殊更ら強調し、然も國家がこの教育を黙認し、爲めに甚大なる皇國眞相の誤謬を戰後國民に與へてゐる。天皇を制度の象徴、皇室を制度の骨格の如きと思はせるこの概念の上では、如何に我れらの御國體の素晴しさを説いても、それは、空しさを伴ふ。

 ○<呼稱「天皇制」なる言葉の本質。>↓↓↓
  http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t7/2


 かくも危險を孕んだ「天皇制」概念を後押しするものの一つとして、吾人は現行憲法「前文」及び「第一章」を注目せねばならぬ。

 因みに、今は筐底に藏せられたる大日本帝國憲法では、その上諭に宣く、
朕祖宗ノ遺烈ヲ承ケ萬世一系ノ帝位ヲ踐ミ朕カ親愛スル所ノ臣民ハ即チ朕カ祖宗ノ恵撫慈養シタマヒシ所ノ臣民ナルヲ念ヒ其ノ康福ヲ増進シ其ノ懿徳良能ヲ發達セシメムコトヲ願ヒ又其ノ翼贊ニ依リ與ニ倶ニ國家ノ進運ヲ扶持セムコトヲ望ミ乃チ明治十四年十月十二日ノ詔命ヲ履踐シ茲ニ大憲ヲ制定シ朕カ率由スル所ヲ示シ朕カ後嗣及臣民及臣民ノ子孫タル者ヲシテ永遠ニ循行スル所ヲ知ラシム

国家統治ノ大権ハ朕カ之ヲ祖宗ニ承ケテ之ヲ子孫ニ伝フル所ナリ朕及朕カ子孫ハ将来此ノ憲法ノ条章ニ循ヒ之ヲ行フコトヲ愆ラサルヘシ

 『大日本帝國憲法』、第一章 天皇 第一條に宣く、
大日本帝國ハ萬世一系ノ 天皇之ヲ統治ス
 仝、第三條に宣く、
天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
 仝、第四條に宣く、
天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ』。


 而して、『日本國憲法』の前文に曰く、
日本國民は、正當に選擧された國會における代表者を通じて行動し ~中略~ ここに主權が國民に存することを宣言し、この憲法を確定する
『そもそも國政は、國民の嚴肅な信託によるものであつて、その權威は國民に由來しその權力は國民の代表者がこれを行使し、その福利は國民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する』と。


 主權在民は、畢竟、天皇制概念を鞏固ならしめる。天皇制概念も又た主權在民の裏付けを擔當する。二者は腹背別つべからざる不二一體の干繋だ。
 皇國を否定せんとする米國が、天皇制概念に目をつけ、主權在民・米國的民主主義の扶殖に利用せんとしたか識るところではないが、いづれにせよ、天皇制なる概念は、皇國の眞相とは凡そ懸け離れた概念である。極言せば、反對を意味する文句だ。他の王國や帝國ならばともかく、永遠不滅たる 皇國に於て、その「對義語」は、蓋し、「天皇制」だ。

 ひそかに野生は思ふ。戰後これほどまでに、天に唾するが如き、自國を貶しめ、詰るところ心空しく生涯を過ごす國民の大量發生するは何故か。結論から云へば、「天皇制」概念を服毒すれば、宜べなる哉、このやうにあはれむべき國民の出沒し跡の絶たぬも、決して無理からぬ話しではない。

 目下、戰後史觀、戰後教育を淫した國民大多數には、「天皇制」概念があまりにも定着し、怪しむべき尊皇論や愛國論、淺薄な反日論が闊歩してをる。出口の見えない論陣を張るのは、右派左派に共通してみられる現代の特徴である。かくなる論理的撞着に陷る所以は、この皇國にあつて、どちらも「天皇制」概念に束縛されてゐるが爲めである。

 愚案するに「戰後史觀」を突き詰めて云へば、「天皇制概念」である。

 かくなれば、右派勢力、眞の保守陣營から、反「天皇制」といふ言葉が發せられるべきである。
 尤も發するにせよ、現下これほどまでに、『日本は「天皇制」國家』といふ概念が定着してしまつたが爲め、誤解を生じさせぬやう當分の間は若干の説明を補足せねばなるまいが。

 今日の反日の者らのなかに、反「天皇制」と叫ぶものらがある。
 新保守も脇が甘いと思はれてゐるやうだが、今日の反日を標榜する者や左翼らも、又た、淺過ぎる。
 「天皇制を何とかしなければいけない」と強烈に思ふの自稱反日主義者は、既に反日の看板を降ろしてゐることを能く々ゝ自覺、分析する必要がある。
 結局は、皆、皇國の臣民、天皇赤子なのである。


 ・・・ところで、若しも、かういつた、反天皇制と云うてゐた人達が論理的にも矛楯を認め、覺醒をきたし、我が陣營と握手したならば、戰後の思想運動は大きく塗り替へられると考へるのは、空想に過ぎるといふもの歟。
 噫。野生にもつと、見識や理論があつたれば、各所に隨時開かれてゐる反日的フオーラムなどに手當り次第赴いて、悉く質疑應答の場を我が啓蒙の土俵に塗り替へ、參加者を覺醒す可く務めるのであるが。已んぬるかな、善導者の資格を備へた、人士の出現を俟つよりほかない。
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by sousiu | 2012-02-22 17:48 | 小論愚案

平成維新の大旆を掲げよ。 

 昨日は『芳論新報』ほか、原稿を二本ばかり書き上げた。結局、内容は似たりよつたり。
 野生の引出しの中身が少いことも原因してゐるが、不安定な世情にあればこそ、野生の云ひたいすぢはさう多くない。
 野生は時局問題に就て、それほど詳しくないことは以前に申上げた。それならば、おそらく、ネツト右翼と呼ばれる人達の方が餘程詳しいだらう。
 野生は、如何なる角度からみても、日本の國民は、やはり優秀であると思ふのである。上の方が健全なれば、必ず國民皆が一樣にしてそれについて直るのである。否、直るといはんよりは、寧ろ國民悉くは然程惡くないと思うてゐる。畢竟、政治の任にある彼れら一團に向かつて、革正の空氣が流れるならば、忽ち快復に向かふのである。逆をいへば、これなくして如何に陸續出現せる時局問題に悲憤慷慨しても、それは眞姿日本の顯現にとほく及ばない。野生は、たとひ微力と雖も、神州の正氣を招來する爲めに日々全力を盡したいと思ふのである。

 その眞姿日本とは何であるか。建武新政がそれであつたのか。或いは明治維新がそれを具現化することに成功したといふのであらうか。
 木川智兄による、昨日の日乘を興味深く拜讀した。明治維新は一つの偉業であつたことは間違ひあるまい。だが、彼れの記事にあるやうに、維新達成の直後から、おほくの葛藤を惹起した。あまつさへ、それは對立を生ぜしめた。維新後の確執は、昭和の御宇に至つて二二六事件にまで繼續された。若しかすると、その確執は、現在もまだ、決着をみてゐないのかも知れない。

 先日、抄録した今泉定助翁は、木川選手の大先輩にあたる。翁は國學院大學の講師(明治廿三年)を務めてをられた。
 今泉翁の「明治維新觀」は興味深いので、以下に抄録する。
 以謂く、重要なことであると思ふので、橋下維新塾の人達は、幾度も讀んでいたゞきたい。


●今泉定助翁、『國體講和』(昭和十三年十月十七日「日本講演通信社」發行)「玉松操と復古の運動」項に曰く、
『茲に一言申上げて置くべき事は、御承知の明治維新は橿原の朝、即ち 神武天皇の御代に復古せられたことであります是は私が申上げるまでもなく、皆樣の御承知の事でありますが、今日から其の以上を望むといふことは、隴を得て蜀を望むの類でありませうが、もう一歩進んで、此の天孫降臨に復古せられましたならば、明治維新は今一段と光彩を放つたことであらうと思ふのであります。所が 神武天皇に復古せられたものでありますから、此の齋鏡、齋穗、神籬、磐境の思想が隱れて、惜しい事に此の原理に到達しなかつたのであります。さうして 神武天皇の御時代を以て建國の如く考へたのであります。 神武天皇は固より 皇祖皇宗の御偉業を其の儘御顯はしになつて居るのでありますけれども、兎に角、此の齋鏡、齋穗、神籬、磐境の神勅から、初めて日本の他の各國と違ふ所がはつきりして來るのでありますが、此處まで行けなかつたことは、今日から考へまして洵に遺憾な事であると思はれるのであります。

 併しあの時代にありましては、是は已むを得なかつた事であつたらうと思はれます。御承知の通りあの時代には復古に對しては色々な議論がありまして、當時の志士、或は漢學者、國學者などが、王政復古の空氣は全く建武中興を基礎としたものである。故に先づ第一に此の建武中興に復古せよといふ議論を有つた人も多分にあつたのであります。けれども又之に對して異論がありまして、成程、建武中興は結構であるけれ共、事成らずして終られたのであるからあまり面白くない、それよりはもう少し良い時代を模範として、其の時代に復古したら宜しからうといふ議論もありました。延喜天暦の時代が一番良く治つて居た時代であるから、之を基礎にしたらどうかといふ議論もありましたが、併し此の時代は表面は非常に良く治つた時代であつたけれども、其の裏面に於て、皇室の式微は此の延喜天暦に胚芽したのであるから、是も面白くないといふ議論をする者もありました。それならば 天智天皇の御代が宜しからうとか、或は大寶令の出た 文武天皇の御時代が宜しからうといふ議論もあつて、議論が區々になりました。
 其の時に玉松操といふ人がありまして、此の玉松操といふ人は國學の大家大國隆正翁の門人でありますが、隆正翁は名高い人で、中々溌剌とした國學者で、偉い識見のあつた人でありました。著書等も澤山あります。此の隆正翁の考へとして、王政復古はどうしても 神武天皇まで行かなければならぬ。 神武天皇まで行つてしまへば、是が世の中の初めであるから、何ものもないのである。門閥もなければ勳功もない。其處まで行つてしまへば是から新に勳功を立て、功績を立てた人が尊くなるのであるから、結局 神武天皇まで復歸するのが、王政復古として一番良いことであるといふことを主張して居りました。玉松操は其の門人であり、中々の豪傑でありまして、殊に又岩倉公に寵を得た人でありますから、此の議論其の儘を岩倉公に進言したのであります。そこで岩倉公も大に之に贊成しまして、 神武天皇の御代に復古するのが一番策の得たものであるといふので岩倉公より之を奏上して、詔勅が渙發せられました』。

 脱線するが、こゝで御留意を乞ふ。『王政復古の大號令』に宣はく、『諸事神武創業の始にもとづき』を、恰も中世を、若しくは 綏靖帝の御代より 孝明帝の御宇までを否定し去つたの如く解釋する人もあるが、上記に明瞭なごとく、そは誤謬にほかならない。明治維新の本旨は、かくも 列聖の治らせ玉ふ御宇を忽諸としたものではない。申すまでもあるまいが、皇國の御國體は、世世厥の美を濟したのである。
 閑話休題。今少し、今泉翁の言に觸れたい。

『即ち王政復古は、橿原の朝に復古するのである。かやうに詔勅が出たものでありますから、衆論も忽ち一致してしまつたのであります。さういふ時代でありますから、 神武天皇の御代まで復古したといふことは非常な大出來でありました。此の上、天孫降臨まで望むといふことは、洵に無理な事であると思ひますけれども、今日から考へますれば、頗る遺憾であつたのであります。明治維新が果して天孫降臨まで來て居りましたならば、もつと徹底した御維新が行れたであらうと思ふのであります。今日の世の中の頽廢するのは明治維新の徹底せぬ結果であります』と。


 三思すべき論ではないか。
 人皇の御代以前には、あたかも 皇國が無かつたものとして考へることは愚なり。反日主義者の如く、昭和の御宇より以前の 列聖の治せ玉うた御代を識らぬは愚の愚なり也。日教組の曰く、神代を認めぬばかりか、猿人の世であつたとするは、愚の骨頂なり也矣。
 嘗て、第十五囘『草莽崛起の集ひ』に於て、今は幽界にをられる大東塾、神屋二郎翁から御高話を拜聽する機會を得た。
 その質疑應答で、仙臺市の坂田昌己兄が、神典の如何なるを重要視して學ぶべきかとお尋ねした。
 神屋翁、答へて曰く、『古事記「神代の卷」なり』、と。
 今泉翁のいはれるとほり、かの時代にあつては明治維新も、 神武天皇朝に復るをして、一旦の成功と看なければならぬ。
 だが、眞の復古として考へれば、所謂る未完だ。未完を更に進めむとする、それ我れらや子や孫やに引き繼がれた臣民の勤めである。
 故以て野生は、敬神勤皇の諸有志に、『九段塾』『蟲斬鎌』の玄關へ通ずる道しるべを右に立てるのである。→→
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                    ※今泉定助翁、寫眞。
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by sousiu | 2012-02-17 16:20 | 小論愚案

在朝に、勤皇家存せんことを期待す。   

 從一位、勳一等、伯爵、青山田中光顯といふ人があつた。
 文久二年、天晴れ、土佐藩に於ける俗論黨の筆頭・吉田元吉を誅した勤皇の人、那須信吾重民先生の甥。田中伯はこれに先立つ文久元年、瑞山武市半兵太先生の「土佐勤王黨」に連名、血判す、當時十九歳。

 以降、田中伯は、土佐勤王黨として活躍。やがて脱藩し、長州に於ける勤皇討幕の志士と交誼を深める。
 高杉東行、久坂義助、平井隈山、品川彌二郎諸先生と上洛した將軍家茂公襲撃を企て、未遂に終はるも「暴發組」として其の名を轟かせた。ほどなくして中岡愼太郎先生の「陸援隊」に參加。同隊では實質上、副將の地位にあり、中岡先生が賊徒による兇刃に斃れて後、陸援隊を總監す。
 慶應三年、維新大號令が發せられるや、直ぐ樣、高野山に錦旗を翻へし、占據に成功、囘天維新の達成を江湖に宣傳した。

 維新三傑とも深く交はり、明治の御宇以降は、必然として維新政府に加はり、貢獻するところ大なり。初代内閣書記官長、警視總監、學習院々長、宮内大臣などを歴任。然もその地位、名譽に甘んぜず、只管ら、尊皇の念一途に、皇國の御爲め一身を捧げられた。
 刀劍會の設立。古書、古文書の收集、保全、編纂、寄贈。靖國神社遊就館の設立。勤皇家の顯彰、及び贈位の御沙汰を奏請。東宮御所御造營。御歴代御陵墓五百有餘の歴拜。枚擧に遑なきその功勞も、無念至極、恰も戰後の今にして埋もれ木に匿するが如く世人に識らされぬことを、伯御自身の本意は兎も角、野生は遺憾千萬この上もなく思ふものである。故に野生は、卑見淺學を承知で今後も機を伺ひ、日乘でこれを特筆大書するであらう。

●蘇峰 徳富猪一郎翁、大正十四年五月廿六日『國民新聞』紙上にて田中光顯伯を語る、曰く、
『何を申しても維新以前の志士として、現存の一人は伯だ。先帝陛下に咫尺して、其の信寵を忝くしたる一人は伯だ。伯は維新史、明治史に取りては、倔竟の資料の貯藏者であり、且つ伯自身資料其物である』と。




●元宮内省書記官・栗原廣太氏『宮内大臣としての田中伯』(昭和四年『伯爵 田中青山』田中伯傳記刊行會發行)に曰く、
『私は露骨に話をすると、田中伯爵のやうな性格の人は世間から誤解され易いと思ふ。といふのは伯は直情徑行の人である。天眞爛漫の人である。即ち俗にいふ一本調子の人であつて、驅引もなければ細工もなく、思つたことは腹藏なく言ひ、仕(し)たい事は遠慮なくするといふのだから、その性格を知らぬ人は傲慢だとか、不遜だとかまた無遠慮だとか言つて誤解の念を抱くが、併し親しく伯に接近する者は、其の性格に頗る尚ぶべきものを認めるのである。斯くの如きは一面からいへば短所であるが、私は寧ろ之を常人の企て及ばざる長所として多大の敬意を拂ふのである。
▲眼中首相なし  私は素より伯の人物を批評する資格はないから、今多年伯に親炙して、自分で見聞したことをお話しよう。年月は確かな記憶はないが、桂公が總理大臣であつた時、一日首相官邸から、少し相談したい用件があるから來て貰ひたいといふ電話が掛つて來た。スルト伯は夫(それ)に對し差支へがあつて行けないといふ返事をして置ながら、私等左右の者に向ひ「自分は總理大臣の部下に在る者ではない、宮内大臣は内閣の外に獨立してをるものであつて 陛下を除いては他より何等の命令を受ける筈はない、自分は素より個人として桂公に對しては滿幅の敬意を表してをるが、苟くも宮内大臣としての職に在る以上、其の權威を保つことは 陛下に對して努めねばならぬ。若し桂公にして用事があるなら自身で來るが良い、呼附けられて行くのは職務に對して承知する事が出來ないから斷わつたのだ」と、説明されたから、私なども成程と感心して居ると、間もなく桂公もあの通りの如才ない方だから、伯の意中を諒せられたものか、再び電話を掛けて來て「お出を願ふ事が都合が惡ければ、此方から伺ふから御退出を姑らく見合せておいて貰ひたい」と申越したのに對し、伯は「イヤ、お出を願ふのは恐縮だから、此方から伺ふ」と言つた儘、直ちに車を命じて桂首相を訪問された。
▲職務に忠實  私抔は其の時同じく此方から出向いて行くものなら、始めに電話を掛けて來た時、行つたら良ささうなものだのに老人といふものは餘計な手數を掛けるものだと思つてをると、翌日伯は役所に出られて、吾々に向ひ前日の話をなし「來いといつて行くのは其の命令に從ふ譯で職務上の權威に關するが、此方から任意に訪問するのは毫も權威に係はらないのみならず、先方に對して敬意を表する所以である」と説明されたのを聞いて、私なども始めて伯の精神の在る所を諒解したものだ。此樣なことは誠に小さい例であるが、是に依るも伯が如何に職務の上に秩序を重んじ、且つ如何に公私の別を立つることに嚴なるかを知らるゝのである。一事は萬事である』と。※括弧及び振り假名は野生による。
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          ※寫眞。八十七歳の伯爵 田中青山翁

 愚案。宮内省は、敗戰後の昭和廿二年、宮内府と名實共に變ぜられ、機構の縮小を餘儀なくせらた。同廿四年、宮内廳となり、現在は内閣府の一外局に過ぎない。
 環境廳が環境省となり、防衞廳が防衞省となるも、未だ宮内廳はあくまでも廳なのである。固より斯くなる事態を惹起せしめたのは、戰後の占領政策、日本國憲法に因あること申すまでもない。かねてより、防衞廳を防衞省にといふ聲が一部保守派層の間で盛んとなり、その昇格に歡喜した者尠くない。より日本の國防力を鐵壁の如くと願ふその所志に不平を漏らす積もりは毛頭ないが、對外的對策にばかりに目を奪はれ戰後體制を修正せんと力むるも、對内的に戰後制度を放置しては、戰後體制の脱却も片手落ちと云はざるを得ず、眞個たる實現は覺束ない。東行高杉晉作先生曰く、『國を滅ぼすは外患にあらず内憂にあり』と。

 政府が率先垂範、國民を鋭意善導し、この戰後體制を超克する能はずんば、おそれおほくも、九重に直言せんとする輩や、署名運動なぞを企む者どもが増幅、増長するや必定。口惜しき哉、宮中を忽せとし、ひとりの田中青山伯を認めぬ戰後體制を憾むある而已矣。
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by sousiu | 2011-11-29 16:28 | 小論愚案

道を極めんとする志とは、中々常人の理解を得られぬものなり矣 

 銀杏結社の話題はもうよさうと思うてゐたのだが、今日までは書かねばなるまい。
 何處の誰れだか存ぜぬが、虚け者と名乘る無理解者がをられるやうなので・・・。

 昨日、今日と、筋肉痛で惱んでゐる。銀杏拾ひは絶えず屈伸運動を餘儀なくせられるわけだから、かうなるだらうと豫感はしてゐたものゝ、案の定、痛くて仕方がない。これぢやあ、この痛みが收まるまで、キーボードを叩くことは、無理だ。
 完全に我が銀杏道を舐め腐さり過ぎてゐる虚け者氏は分かつてゐない。この道はキツイ、キタナイ、キケン(尤も「危險」なのは首領である河野君だけだが)の3Kではない。これにクサイを加へた4Kを乘り越えねばならないのである。

 では、なにゆゑ、そこまで極めんとするか。なにゆゑ、この道が存在するといふのであるか。
 それ、とは即はち、さゝやかながらも國民に幸福を提供せんが爲めである。

 ほら。↓↓↓
   http://yaplog.jp/yamato00/archive/744
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by sousiu | 2011-11-15 16:15 | 小論愚案