カテゴリ:先哲寶文( 45 )

なんぞ國つ神に背き他神を敬せむや 

 大國隆正大人は文化三年、弱冠十五歳にして平田篤胤大人の門に入り、更らに昌平黌に入り儒學をも學んだ。

 隆正大人、時に文化六年(十八歳)、孝經の一句、
 「不愛其親而愛他人者、謂之悖徳。不敬其親而敬他人者、謂之悖禮」
 (※その親を愛せずして他人を愛する者、これを悖徳と謂ふ。その親を敬はずして他人を敬する者、これを悖禮と謂ふ)[孝優劣章、第十二]
 に悟るものあり。乃はち、我、皇國に生まれ、皇學を修めずして漢籍をのみ學習するは悖學といふべきなるを。
 隆正大人は弱冠十八歳にして昌平黌舍長を命ぜられたといふから、その學力學識が如何に群を拔いてゐたのかを容易に察せらるゝのである。されど上記したるが如く、大に思ふところありし故、翌七年、昌平黌を去つた。

 かくなれば身、皇國といふにもせよ神州といふにもせよ、日本に生まれながら神道を知らずして外つ國の教を信仰するは所謂る悖教といふことか。

 このことに就ては、いつであつたか、彦根の後藤健一兄より電話あり、少々の意見交換をしたことがあつた。以下に先人の言を借りて説明したい。

●平田篤胤大人『鬼神新論』(文化二年草稿、文政三年補足)に曰く、
「また佛は蕃神なれば、祭るべき謂(いはれ)なしとて、疾(にく)み厭ひ廃(すて)むとする人の有るも、偏(かたくな)にして、眞の神の道を知らざるものなり。凡(すべ)て世の中の事は善も惡きも、本(もと)は神の御所業(み-し-わざ)によれる事にて、佛道の行はれ、佛神の參渡(まゐ-わた)りて、其を祭る風俗(ならはし)となりたるも、本は神の御心に因れるにて、則、公(おほやけ)ざまにも立置るゝ事なれば、是も廣(ひろ)けき神の道の中の一ノ道なり。かくて、佛すなはち神なれば、時世に祭る風俗のほどゝゞに、禮(ゐや)び饗(あへ)しらひ、また由縁ありて、心の向はむ人は、祭もし祈言(のり-ごと)をせむも、咎むべき事には非ずかし」と。

 佛は蕃神であるから祭る可き理由はないと憎み嫌うて廃せむとするは偏つてをり、眞の神の道を知らないものであるといふ。篤胤大人によれば善惡は神の御所業によることであつて、さらば佛道が起こり、海を越えて 皇國に渡り入り、それを祭る風習が生じたのも、これ神の御心である。すなはち、公にも佛教を立てゝをられることであるから、これも非常に廣い神の道のなかの一つの道である、と。

 一讀するに篤胤大人の言として意外に思はれる方もをられるかも知れない。大人のことを指して當時の廃佛毀釋の巨魁のやうに語る人があるが、そは大人を表層的に知る者の見方として、或は先入觀から來る誤解として野生はこれらの意見に首肯しない。かと云うて大人は神佛習合の立場を取るものでもない。以爲らく、それは神と神力への絶對的なる確信であり、信頼あつたればこそ闡かれた見解に他ならない。

 然るに曰く、
「然れど眞の道の趣を覐(※見+メ+メ=さと)りたらむ人は、皇國には、天地(あめ-つち)の初發(はじめ)の時よりの、正き傳説ありて、神々の尊く畏く、恩頼(みたまの-ふゆ)の忝き事を知りて、齋(いつ)き祭り、なほまた其ノ家々に就て、各々先祖氏神など、祭リ來れる神靈ありて、家のため身の爲の、幸ひを祈る事なれば、其を除て、外蕃(とつ-くに)の佛神などに、ひたすら心の向きて、尊み忝むべきに非ず。此は欽明紀の議に、何背國神敬他神也(※なんぞ國つ神に背き他神を敬せむや)とあるぞ。正しき道の理に叶ふべきと云へり」と。

 譯せば、しかしながら、眞の道の趣旨を悟つた人は、皇國には天地の開けた時から正しき傳説があつて、神々の尊きことを知つてゐる故に身を清めて祭り、或はその家々に就てそれぞれの先祖や氏神などを祭つてきた神靈あり、家内安全や無病息災を祈る奉つてきたものなれば、それを止め、外國の蕃佛などを一心に敬ひ、ありがたがく思ふ可きではない、と戒める。

 
 神佛の話しになり、まゝ耳にする意見がある。「神道を崇拝することに異論は無いが、我が家は代々、●●宗である。先祖の敬つてきたものを疎かにするわけにはいかない」との苦情だ。先祖の崇めてきたものだから、といふ心情は察せられる。だがしかし、吾人が先祖は二代、五代、十代を遡り突然生命を得たものではない。遥るか古へから連續したるものなのである。而して遥るか古へに佛や耶蘇の道や教なぞは無かつたのである。それらは輸入せられて興り、どこかで何代か前の先祖が、それまでの先祖の信仰を止めて今日の◎◎宗へと變節したのである。先祖崇拝の念はゆめ忘れる可からざるの重大事であるが、それは數代前までの域とするものではない筈である。「何背國神敬他神也」は往昔の當時にのみ向けられた戒め言ではない。


●京都報本學舍、大國隆正大人『教の説』に曰く、
「おのれつねにいふ。音は萬國同しくて言語は萬國おなしからず。道は萬國同しくて教は萬國同しからす。天竺にておこれる佛教は幽冥を旨として顯露にことそきたり。唐土にておこれる儒教は顯露に局(※あた)りて幽冥をかたらす。この日本の教は幽顯分界を旨として、天地の始をは幽冥にてとき、今日の事業は幽冥をはなれて 朝家に服事す」と。
 佛教は專ら幽界を事とし、儒教は專ら顯界を事とするが、神道は顯幽兩界を一貫するをいふ。

●大國隆正大人、天保十三年五月『報本學舍記』に曰く、
「~畧~ そもゝゝ我 天皇は、この國かぎりの 天皇にてはおはしまさず、ことば通はねど、船はかよふべき邦もろゝゝの 天皇にておはしますなり。そのゆゑよし、朝廷のみふみにも、しるしおかせたまひ、世中にもいひつたへて、上代には、うたがふ人のなかりしを、今世はこのくにの人すら、よくも知らず。しりてもうたがひてすごすなるは、中昔より、外國々(とつ-くに-ぐに)のをしへの雲、世にはびこりて、しばしくもれる故にぞありける。この本の光を世にあらはすものまなびを、幽忠といふべくこそ。わが父母の、おやのおやととめゆけば、その本は、産靈の神におはします。この神、あめつちをつくりなしたまへるとき、人をものにすぐれて、かしこく正しくつくりたまひ、よろづの物、皆人のために用ゐらるべくつくりおき給へる神ばかり。人とうまれたる身の、いかゞは思はであるべき。いかゞは報いせでありぬべき。その神わざを考へさとるもの學びを幽孝といふべくなん。かくいへばとて、顯忠顯孝をおろそかにな思ひひがめそ。かへすがへすも、顯忠顯孝を常のしわざとつとめはげみて、そのいとまのひまに、幽忠幽孝のすぢにかなへるものまなびを爲すべきなり。まことや、唐土天竺、その外、西のくにゞゝにていひといひ、つくりと作るものも、こともわざもみな、わがむすびの神のみしわざにもれぬは、正しからぬをばしりぞけ、正しきをとり用ゐ、みくにの爲になすべきなり。おのれこのすぢのこと、をしふるところを、本に報ゆるまなびのやと名づけたれば、わが教へにしたがふ若人たち、おろそかに思ひてな怠りそ」と。

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by sousiu | 2013-10-31 07:37 | 先哲寶文

『鬼神新論』より學ぶ 

●新井君美(號、白石)『鬼神論』上卷に曰く、
「鬼神のこと、まことにいひ難し。たゞいふことのかたき(※難き)のみにあらず。聞(※きく)ことまたかたし。たゞきくことのかたきのみにあらず。信ずる事またかたし。信ずることの難き事は、これしることのかたきにぞよれる。さればよく信じて後によく聞とし、よく知りて後によく信ずとす。よくしらん人にあらずして、いかでかよくいふことを得べき。いふ事まことにかたしとこそいふべけれ」と。

●孔子の曰く、
「季路(※子路のこと)問事鬼神、子曰、未能事人、焉能事鬼。曰敢問死、曰未知生、焉知死」(『論語』「先進第十一の十二)
○書き下し文「季路、鬼神に事(つか)へむことを問ふ。子曰く、未だ人に事ふる能はず、焉んぞ能く鬼に事へむ。曰く、敢へて死を問ふ。曰く、未だ生を知らず、焉んぞ死を知らむ」


  ~ ~ ~ ~ ~ ~ 


●平田篤胤大人『鬼神新論』(文化二年草稿、文政三年補足)に曰く、
「さてまた、誰(たれし)も天と鬼神をば、別に論ふ事にて、こは■(※ウ冠+呆=實)に然すべきわざなれど、其の霊威ありて奇異(くしび)なるは同じ事にて、其を相通して、廣く鬼神と云へる事、次に挙げたる中庸の文に、鬼神之徳其盛矣乎云々(※鬼神の徳、それ盛んなるや、云々)と云ひ、左傳にも、鬼神非人■(※上に同じ。じつ)親、惟徳是依、故書曰、皇天無親、惟徳是輔(※鬼神は人の實に親しむに非ず、これ徳のみこれ依るなり。故に書に曰く、皇天親無し、これ徳のみこれ輔けなり)など云へる類多くあり。是みな天地の神を廣く鬼神と云へり。よし然らでも、此には天も鬼神も、■(仝、實)物なる事を曉(さと)さむとの業なれば、一ツに云ふなり。また天にしては神と云ひ、地にしては祇と云ひ、人にしては鬼といふと云ひ、また神はなり、鬼はなりなど云ふ類の、甚(いと)うるさきまでに説の多かれども、都(すべ)て取らず。おしなべて、此には只に鬼神と云ふなり」(本文四丁裏)(漢字表記は氣吹廼屋塾藏版に從ふ。文中下線は原文のマヽ)

 篤胤大人は、世の中の萬事は天神地祇の作用せる御所爲であると説く。曰く、
世ノ中の事は、すべて天神地祇の、奇妙(くしび)なり御所行(み-しわざ)に洩たる事なく、別(こと)に迅雷風烈などは、神の荒(あら)びにして、いとも可畏(かしこ)く、何の故、なにの理に依て、かゝるとも、測り難きに依て、畏れ敬ひたるなるべし」(九丁表)

 曰く、
「さて傳説(つたへ-ごと)なくては、天ツ神の、世ノ中の万の事を主宰(つかさど)り給ふ事、また人の存亡禍福、みな神の御所爲にて、■(仝、實)には、人ノ力に及び難しと云ふ事は、容易(たやすく)は知りがたき事ゆゑ、孔子も、五十而知天命(※五十にして天命を知る)と云へり。[この語を以ても、孔子の天命といへるは、餘(ほか)の戎人(から-びと)どもの、天命々々と云ふとは、大きに異にして、更に託言にはあらぬ事を悟るべし]」(十四丁表)

 曰く、
「赤縣(か-ら)人は、左(と)いふも、右(かく)云ふも、正■(仝、實)の傳説を知らざる故の僻説なれば、まづは難(とが)むるにも足らねども。皇國の學問者(もの-まなぶ-ひと)にして、此ノ故を知らず、西戎人(か-ら-びと)と等竝(ひとし-なみ)に、をさなき説のみ、云ひ居るなどは、甚も口をしき事なりかし。偖また世に有りとある事ども、摠(すべ)て天神地祇の御靈に洩(もれ)たる事なければ、誰しも人も、能々齋(いつ)き祀るべき事論ひなし。[この事は、我が師(※本居宣長大人のこと)の書(ふみ)どもに、委曲に云ひ置れたり]これ則孔子の本意なり。赤縣にては、後ノ世となるがまにゝゝ、神祇を祀るにも、さかしらのみ先として、神の御土をも、彼ノ小理をもて、推(おさ)むとすれど、其は甚(いみ)じき非事(ひが-ごと)なり」(二十一丁表)


 餘談となるが、以下に篤胤大人の、獨特の神觀があらはれてゐる。善神であつても或る者にとつては惡事を齎す結果となり、又たその逆として惡神であつても時として善事を齎すことがあるといふものだ。つまり神の御所爲は人智の到底及ぶ可からざるもの。これをば、佛心やら儒道やらの目もて見るは誤りである、と。乃はち下にみよ。曰く、
「とにかくに神の御事は、彼の佛菩薩聖賢など云ふ物の例を以ては云ふべからず。善神の御所爲には、邪なる事は、つゆも有るまじき事ぞと、理をもて思ふは、儒佛の習氣(ならひ)なり。神はたゞ尋常(よのつね)の人の上にて心得べし。勝(すぐ)れて善き人とても、時(をり)によりては怒(いか)る事あり。怒りては人のため善からぬ事も、必無きに非ず。又あしき人とても、希(まれ)には善事も混ることにて、一概には定めがたきが如し」(二十六丁裏)
 これは鈴屋大人の見解(『答問録』など)と異にしてゐるものであり、注目を要するところである。

 曰く、
「さて又赤縣には、正しき古傳説なきが故に、孔子ばかりの人も、世には善惡の神在(まし)て、其ノ御所行のまにゝゝ、吉事凶事互に往替る、最(いと)も奇(くす)しき道理(ことわり)ある事を、辨へざる事あり。故爰に、其ノ由を論ひ諭さむとす」(十五丁表)

 曰く、
「抑(そもゝゝ)世には、大禍津日神と、大直毘神おはしまし、又一向(ひたすら)に枉事(まが-わざ)なす枉神(まが-かみ)も在て、各(おのゝゝ)その御所業いたく違へり。其はまづ大禍津日ノ神と稱(まを)すは、亦ノ名は八十枉津日神(や-そ-まが-つ-ひの-かみ)とも、大屋毘古神(おほ-や-び-この-かみ)とも稱(まを)して、此は汚穢(きたな)き事を惡(きら)ひ給ふ御靈の神なるに因(より)て、世に穢らはしき事ある時は、甚(いた)く怒り給ひ、荒び給ふ時は、直毘ノ神の御力にも及ばざる事有りて、世に太(いみ)じき枉事をも爲し給ふ。甚(いと)健(たけ)き大神に坐せり。然れども又常には、大き御功徳を爲し給ひ、又の御名を瀬織津比咩神(せ-おり-つ-ひ-めの-かみ)とも申して、祓戸神(はらひ-どの-かみ)におはし坐て、世の禍事罪穢を祓ひ幸へ給ふ、よき神に坐せり。穴かしこ。惡き神には坐まさず。[然るを鈴ノ屋ノ大人は、此ノ神ハ一向(ひた-ぶる)の惡神に坐まして、世の惡事は、悉く此ノ神の掌(しり)給ふ事と、説き給へりしは、下に云ふ枉神と混一に思ハれしにて、其考への未タ委からざりしなり]」(十五丁裏、十六丁表)と。


 閑話休題。續いて大人は、當然の如く死後の魂の存在に就て説く。曰く、
「まづ人は、生(いき)て有りし時の情(こゝろ)も、死て神靈と成りての情(こゝろ)も、違ふ事は有るまじければ、生(いき)たる時の情もて、神靈となりての情を測るべし」(三十三丁裏)

 曰く、
「然れば人の生(うま)るゝ始のこと、死て後の理などを、推慮(おし-はかり)に云ふは、甚(いと)も益なき事なれば、只に古傳説を守りて、人の生るゝ事は、天津神の奇妙(くすしく-たへ)なる産靈(むすび)の御靈に依て、父母の生なして、死(しぬ)れば其ノ靈、永く幽界(かくりよ)に歸(おもむ)き居るを、人これを祭れば、來り歆(※音+欠=うく)る事と、在(あり)の侭(まゝ)に心得居りて、強(あながち)に其ノ上を穿鑿(たづね)でも有るべき物なり。其は此ノ上の所は、人の智(さとり)もては、■(實)に測り叵(匚+口=がた)く、知りがたき事なればなり」(四十二丁表)

 又た曰く、
骨肉は朽(くち)て土と成れども、其ノ靈は永く存(のこ)りて、かく幽冥より、現人(うつし-ひと)の所爲(しわざ)を、よく見聞居るをや」(四十二丁裏)


 而して、稀に所謂る輪廻と呼ばれることがらありしを説く。曰く、
佛者の謂(いは)ゆる、輪廻やうの事も、希々(まれゝゝ)には■(實)に有る事なり。其ノ故は、何なる故に依て然りとも、更に知り難き事なり。此は神の幽冥(か-み)なる御所爲なればなり。然るを儒者の、絶て無き事なりと云ふは偏(かたくな)なり。また佛者の、此レを竝(なべ)て然りと云ふも、いよゝゝ僻言なり。■(實)には、輪廻といふ説は、釋迦法師の、民を導くとて、甚(いと)稀にある事を種として、造れる説なり。天竺の人、いかに愚なりとて、更に徴(しるし)なき事は、信(うく)まじければなり。佛法に云へる説ども、大概はこの類にて、彼ノいはゆる、僞(いつはり)を讐(う)らむと欲して、眞を假(か)る、と云ふの所爲(しわざ)なり」(四十八丁表)と。

 つまり、釋迦や法師などのいふ輪廻は、極く稀にある事實を素材として、民を導く爲めに「全てさうである」と利用したに他ならないことを指すのである。逆に儒者達の「絶對に無い」といふ説も又た偏つたものであると指摘する。
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 因みに篤胤大人の著したこの『鬼神新論』は大人、齡卅になるかならないかといふ頃である。それまでの大人の學問に對する熱情の成果たるはさることながら、以爲らくそれを倍して猶ほあまりあるほどの情熱的信仰心あつたればこそだ。然るに野生は思ふ、「敬神尊皇」てふ重き言葉を輕々にスローガン化して滿足す可きではない、と。

 今日はこゝまでだ。
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by sousiu | 2013-10-27 08:59 | 先哲寶文

贈從三位 賀茂眞淵大人 その廿。 『國意考』 坤  

承前。

○たゞ其國の、天地のまにゝゝ、古へよりなし來るがごとく、板のやね、土の垣、ゆふのあさの衣、黒葛卷の太刀とやうにして、すべらき、御みづから、弓矢を携へて、獵したまふ程ならば、などかかくうつりゆかむ。人の心はうつくしきにつき、高ぶるを好むもの成に、唐人のさまを羨てせし頃より、たゞ宮殿衣服をのみ、よろしく成て、上の身いと貴に過て、心はおろかに、女のごとくなりたまひ、かしこきにあまりて、上の位をしのぎ、まつりごと臣に取りたまへれば、上は御身のみ貴くて、御心はいと下れり。臣ぞ古への上のごとく成て、唐のごとく名をおかし、上を穢することはせぬども、上はあれとも、無が如く成ぬ。さらば臣は、夫にてとほるにやと見るに、其古、臣も後の臣になみせられ行て、其名の傳るのみなり。是こゝの道を忘て、人の國に、ならひたるあやまちより、なれることなり。或人問、さらば、古へは皆あしき人はなきか、世は亂れざるかと。答。此問はまたよく直きてふ意をしらぬ故なり。凡心の直ければ、萬に物少し、もの少ければ、心にふかくかまふることなし。さて直きにつきて、たまゝゝわろきことをなし、世を奪んとおもふ人も、まゝあれど、直き心より思ふことなれば、かくれなし。かくれなければ、忽に取ひしがる、よりて大なる亂なし。直き時は、いさゝかのわろき事は常あれど、譬へば村里のをこのものゝ、ちからをあらそふがごとくにて、行ひしづめやすきなり。

○世の中の生るものを、人のみ貴しとおもふはおろか成ことなり。天地の父母の目よりは、人も獸も鳥も虫も同じこと成べし。夫が中に、人ばかりさときはなし。其さときがよきかとおもへば、天が下に、一人二人さとくば、よきことも有べきを、人皆さとければ、かたみに其さときをかまふるにつけて、よりゝゝに、よこしまのおこれるなり。夫もおのづから、こと少き世には、思ひよもにはせ、たゞまのあたりのみにして、ことをなす故に、さとさも少し。よりてちひさき事はあれど、大なることなし。たとへば、犬の其里に、多く他の里の犬の來る時は、是をふせぎ、其友の中にては、くひもの、女の道につきては爭へども、たゞ一わたりの怒にして、深くかまふることなきがことし。唐にては、事を人にしらせず、上なるものゝみ知て、おこなふぞよきとて、萬の事を、をぐらく、たとへば、堯舜を佛家の云、あみだ釋迦のごとく立て、其次の夏殷周を證據とするなり。堯舜も、夏殷周も、いひ傳ふるごとくはあらで、いとわろきことの多かりけむを、さては教にならずとして、かくして本ををぐらくして、人をまどはしむるなり。是を傳へて、此國にも、のちゝゝは、さることをいひおもへど、今おもふにさては天が下の人、よく心得ず、上つ代の事をも、何もみな少しも僞らずいひ開て、天が下にものなきことをしらせて、後に然はあれど、かく後の世と成りては、とも有べしかくすべしと、よきほどに、教を立べきものなり。物
(※「勤王文庫」では「扨」と記される)少も物學びたる人は、人を教へ、國を經濟とやらむをいふよ。かれが本とする孔子のをしへすら、用ひたる世々、かしこにもなきを、こゝにもて來て、いかで何の益にかたゝむ。人は教にしたがふ物と思へるは、天地の心を悟らぬゆゑなり。をしへねど、犬も鳥も、其心はうつゝゝ(※「勤王文庫」では「かつゞゝ」と記される)有ば、必四時の行はるゝが如し。同姓をめとらずといふを、よしとのみ思ひて、此國は兄弟相通たり。獸に同じといへり。天の心にいつか鳥獸にことなりといへるや。生とし生るものは、皆同じことなり。暫く制を立るは人なれば、其制も國により、地により、こと成るべきことは、草木鳥獸もこと成が如し。然れば其國の宜に隨て、出來る制は、天地の父母の教なり。此國のいにしへのはらからを、兄弟とし、異母をば兄弟とせず、よりて、古へは人情の直ければ、はらから通ぜしことはなくて、異母兄弟の通ぜしは常に多し。たまゝゝはらからの通ぜしをおもきつみとせしなり。物の本をいへば、兄弟姉妹相逢て、人は出來べきことなり。然れども、人の世と成りて、おのづから、はらからの制は有しぞかし。其獸にわかたむとして、同姓をめとらずてふ國の古へは、母を姧(左上「女」+左下「女」+干=おか)したることさへ見ゆる。たまゝゝ文に書出たるをおもへば、隱しては、いかなることかせしならむ。ふと一度制を立れば、必天が下の人、後の世迄守るものとおもふは、おろかなるわざなり。其同姓おかさぬ教も守るほどならば、君を弑し、父をころす制は破て、同姓めとらぬをてがらとおもへるは、如何なる愚昧にや。凡天が下は、ちひさき事は、とてもかくても、世々すべらきの傳りたまふこそよけれ。上傳れば下も傳れり。から人の云如く、ちりも動ぬ世の、百年あらむよりは、少しのどには有とも、千年治れるこそよけれ。此天地の久しきにむかへては、千年も萬年も、一瞬にあらねば、よきほどに、よきもあしきも、丸くてこそよけれ。方なることわりは益なし。

○佛の道てふこと渡りてより、人をわろくせしことの、甚しきはいふにもたらず。其誠の佛心は、さは有べからず。それを行ふものゝ、おのが欲にひかれて、佛をかりて、限りもなき、そらごとどもを云ぞかし。それもたゞ、人にのみ罪あることにいへり。生とし生るものは、同じ物なるに、いかなる佛か、鳥獸に教たるや。さてむくひなどいふことを多くの人、さることゝおもへり。其事古世よりの證どもいはむもわづらはし。人の耳にも猶疑ぬべし。たゞ今の御世にてたとへむに、先罪報は、人を殺せしより大なるはなかるべし。然るに、今より先世、大きに亂て、年月みな軍して人殺せり。其時一人も殺さで有しは、今のなほ人どもなり。人を少し殺せしは、今の旗本侍といふ。今少し多く殺せしは、大名と成ぬ。又其上に、多く殺せしは、一國のぬしと成ぬ。さてそを限なく殺せしは、いたりてやむことなき御方とならせたまひて、世々榮え給へり。是に何のむくひの有や。人を人を殺も蟲を殺も同じこと成を知べし。すべてむくひといひ、あやしきことゝいふは、狐狸のなすことなり。凡天が下のものに、おのがじし、得たることあれど、皆みえたること成を、たゞ狐狸のみ、人をしもたぶらかすわざをえたるなり。もし今往昔、人多く殺したれば、うまごに報やせんと、おもふ人あれば、狸やがて知て、むくひの色をあらはして、なぐさみとすべし。たゞ人多く殺せしは、ほまれぞかし。もし此後もさる世にあはゞ、我なほ多くころして、富をまし、名を擧むとおもふには、狸もえよりがたし。然るに、かく治りては、さることもなければ、はへ蚊を殺すゝら、いらぬことよといふ樣になりて、憎にも狸にもばかさるれ。

○ものゝふの猛を專らとして、世の治るてふことにつけて、或人云、今見るに、軍の法まねぶは、いかで軍あれかし。あはれ元帥と成なむ。又つはものゝ道をえたる者思へらく、あはれ世亂よかし。一方を防ぎ、いかなるつよきものにても、我むかひて殺してむと。かゝれば世の治りの爲わろしと。おのれいふしからず。こは人のこゝろをしらぬものなり。みづからのこゝろをかへり見よ。太平に生れて、させることもなきには、太平にうめり。さる時には、かくてのみやは有べき。古へ我おやゝゝの事をもおもひ、時しあらば、よき品になりなむを、今いかにせんとおもひて、成ぬべきわざをして、命を終るのみなり。心の内に思ふことあれど、時のいきおひにしたがひて、過すのみ。たけき道をまねぶ人は、しかのみにて、世の亂よかしと思へど、亂るゝものにあらず。一人二人其心のまゝにせんも、世の中に隨はでは、今日もへがたければ、せむかたなしとて、ことをかくしてをりぬ。人の心は、皆さるものにて、上に猛き威あれば、皆心ならねど、しばし隨ふのみなり。然らば猛き道をまねび、子孫に傳へて、一度の用に立むとするも、又よからずや。さる人は心こはくわろしといへど、さることをよく學ぶ人は、こはき物にあらず。中に一人こはきもあれど、武をまねばで、こはくわろきもの、いくばくぞや。たまゝゝ有をもて、かたらすることなかれ。いでもし事あらむ時に、其心こはきやつも、一かたたのもしきものなり。世はいつまでも、かくてあらむとのみおもふにや、末知がたきものなり。時の心にかなふをのみよしとおもふは、其主の愚かなるなり。多き從者の中には、さまゝゝ有こそよけれ。物の本たけきをむねとして、こゝかしこに、隱れをる猛者をも、おこらせず。又顯れて、いきほひ有をも、おそれしむるより外なきなり。たゞなべての人、おもてをなだらかにすれば、心もしかなりとおもふにや。心の僞りは、人毎に有ものなり。少しも、人の上なる人、隨かふものは、いかにも成べしとおもふにや。暫くやむへからずしてしたがふなり。たとへ主從の約有とも、大かたにめぐみては、誠に辱しとおもはじ。其惠も、凡の人、よきことをば忘れて、わろきことをば、深く思ふものなり。然れば、一度よきとて、いつまでも、忘れまじきと思ふはおろかなり。こゝをよく心得べし。又少しもよき人の、從者百にも餘れらんは、皆軍の道をまねふべし。たゞ一わたり、こゝには、かくかまへ、かしこには、そなへなどせるを、まねぶことなれど、其かまへも、備も、猛き軍人のなくては、有べからず。其人ありても、心より隨はではかなはず。もしいま、馬を出さんに、人の隨はずは、いかにとおもふ心、おのづからつくべし。さらば、隨ふことをせんとするに、たれかは俄に隨はん。親あり、妻子あり、かくて死なんよりはなど思ひて、迯かくれ、せんかたなく隨ふもの、などかは、心をまとめむや。よりて、餘りに、みづから貴を示さず、上下と打やはらぎ、親しみて、子の如く思はんには、主てふ名の有が上に、かたじけなき心は、骨にしむべし。さる時には、此國のならはし命ををしまず、おや子をもかへりみぬほどならめ。凡人は物のかひなくては、事の情も深くおこらぬものなり。よりて佛の道は、是をとなふれば、今生後生をたすかり、富貴と成といひて、引入侍るなり。人皆なづみ行ぬ。武の道も、たゞに、こはわろし、かはあしゝと教てのみは、かひなきまゝに、理りとはおもへど、人の心の引かたにつきて、教のとほるはなし。さて從者、誠に辱けなしと、こぞりておもはゞ、百人五百人にすぎずとも、其いひおもふこと、天が下に聞ん。さあらば、馬を出さんに、まねかずして、人集りぬべし。これをもて、大にかつべき道なりけり。よりて、たけきを學ぶに、及はなし。かくいはゞ、たゝ軍の時の爲とのみおもはめ。しか從者をしたしまば
(親しまば、※「勤王文庫」では「爲給はば(したまはば)」と記される。果していづれぞ)、心を用ひずして、家も富榮えまじ。誠に武の道は、直ければ、おろそかなし私なし。手をたむたきて(※「勤王文庫」では「拱きて」(こまねきて)と記述)、家をも治べし、天が下を治べし。

○或人云、古今集などに、あげたる歌のいさほしはさることなり。なほ又心有やと。答。かの序にかける、天地を動し、鬼神をあはれと思はせ、男女の中をやはらげ、たけき武士の心をも、なぐさむるといふは、其あるべきことを、おちゝゝにわけて、いへるなれば、是もさることなり。ぞれがうへにて、すべてをいはゞ、やはしき心にとる。凡人の心は、私ある物にて、人と爭ひ、理りをもて、事を分つを、此歌の心有時は、理りの上にて、和らきを用る故に、世治り、人靜なり。是もたとへば、四時の如し。夏はあつかるべき理りとて、夏たつより、急度あつくのみあらば、人たふべからず。然るを物を漸にして、あつきさむきが中にも、朝夕夜晝につけて、しのぐことの、有にてこそたふれ。是世の中にさる和らぎなくば、誰かはすまはん。此事はもろこしの歌もしかり。さるを後には、いと事もなきによみ、人を驚かさばや、はたかくいひては、人のいかゞそしらん。かくては、人のよろこばじ、など思ひて物すれば、誠の心にあらず、まことの歌にあらず。されども、むかしより、此心を用ひ來れば、今よむ歌はわろかれど、むかしの和らぎたる心は、世にみちぬ。人としいへば、此心を知が故に、おのづから理の上をなすことなり。理の上にていはゞ、つかさ位高く、いきほひあらん人は、萬の人を皆なみして、萬をおすべし。官位はさる物から、賤しきとても、さのみはしがたしとて、和らぎのことをまじへ、たけく、ををしき人も、よわき人をば、皆おしふせんや。これはた和らぎを本とすべし。其歌讀出るには、もと和らがんとての心にはあらねど、心におもふことのにほひ出る物なれば、おのづから、たゞ成よりは、和らかに、やさしき事あり。或人云、さいふ所は、理りなれど、猶いと上つ代のことにして、今の世に、手ぶり大にかはりて、人の心、邪に成ぬれば、いかで昔にかへすことを得むや。然らば、其時のまにゝゝ、よろしう取なすべし。古の事、今は益なき事なりと。答。誠にしかこそは、誰もおもへ。凡軍の理りをいふにも、治國をいふにも、先其本をとゝのふることをいへり。然るに其君の心によりて、いく萬もとゝのふるを、多くの人のうち、さるよき君のうまれこんはかたし。其よからぬ君の、心のまゝに、したがひまつりごつに、よきことのあらむやは、たまゝゝよき君の出むをまちて、萬つはいふのみ。其如く、もし上に、古へを好みて、世のなほからんをおぼす人出來む時は、十年二十とせを通ずして、世は皆直かるべし。大かたにては、えなほらじとおもふはまだし。上の一人の心にて、世はうつる物にぞある。命かけたる軍だに、いくさのきみの心ぞ。よりて、萬の人の、身をゝしまぬさまに成ぞかし。たゞ何事も、もとつ心の、なほきにかへりみよ
』と。
   

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 縣居大人は、春滿大人の教を享けて歌學を更らに精しく研究し、やがて古道闡明の思想を逞しくし、未だ外國文化の影響を被らない古への國民道徳、價値觀の復活を欲求した(春滿大人には斯かる思想はあまり明確に現はれてゐない)。
◎清原貞雄博士『國學發達史』(昭和二年十一月廿五日「大鐙閣」發行)に曰く、
『眞淵が其一生の大半を捧げたのは萬葉集を始めとして古歌の研究である。其古道論も亦古歌の研究から出發したのである事は前にも云つた通りである。然らば眞淵の國學研究の主要部は和歌の研究である。而して眞淵の和歌に對する見解はやがて古道に對する見解其ものである。之れは眞淵の古道が萬葉の研究から發したものであるとすれば當然の歸結であるが、同時に亦其古道を再び其歌論に反射してゐるのである。即ち眞淵の場合に於ては其古道論と歌論は二にして一、全く切り離して考ふる事の出來ないものである』と。



 そこには大きな發見のあつたことが一因となつてゐる。古歌の研究が進むにつれ、日本人の本質として、中世文學の「たわやめぶり」と異なり、古へには「ますらをぶり」のあるを確認したのである。
◎久松潛一先生著『國學 -その成立と國文學との關係-』(昭和十六年三月卅日「至文堂」發行)に曰く、
『萬葉集に於て眞淵が發見した古語・古歌・古道を貫いてゐる精神は何であるかといふと、眞淵はこれを種々の詞を以てといて居るのであるが、一方からいふと、ますらをぶりである。このますらをぶりは、力強い點を有して居るが、それは眞情を率直に表現する所からくる緊張した精神であるのである。それは眞淵が萬葉を數年見て居ると古人の心直きことが分るといつた、その直き心であるのである。かういふ「ますらをぶり」を萬葉集に見出すのに對して中古文學は「たわやめぶり」であるとし、「たわやめぶり」を退けて居るのである。この「たわやめぶり」は中古文學の女性的な優美を退けて居るやうであるが、ただこゝで注意されるのは眞淵の退ける「たわやめぶり」は所謂「もののあはれ」とは多少共通する所はあるけれども同一でないといふ事である。「たわやめぶり」といふのは「ますらをぶり」の中心をなす心の直いといふ事と相反することであつて、眞情の率直なる表現ではないことを現して居るのである』と。

 實はこの頃ともなると、國學は急速に進歩を始めるのである。謂はゞ過渡期である。國學の進歩は、それ以前に進歩、發達した歌學の影響に承けること決して少々としない。戸田茂陲翁による中世學問、歌學に對する批判は、螳螂の斧であつたにも拘らず、それまで閉鎖的であり格式ばかりを重んじて空虚と成り下がつた歌道に一大斧鉞を加へ、云ふなれば歌壇界に於ける維新を來たしたのである。遺佚軒 茂陲翁に就ては別記するであらう。
 つまり元祿時代を前後して、俄はかに新舊交代の兆が見え始めたのである。それ歌道に於ける革新、綜合的な學問に於ける革新、而も之れらは決して沒交渉ではない。

 而も、縣居大人が學問研究の特徴を掲げんに、その一つとして、啻に上代の生活及び思想を闡明せんとするに止まらず、或は萬葉集の歌を詠ずるだけでなく、自らこれを顯現せんとしたことであらう。之が乃はち『國意考』となつて明瞭となつてゐるのである。

 而して、縣居大人の學統を繼ぎし碩學が陸續として登場し、更らに國學は一層の進展をみる。その大なる功勞者として、吾人は本居宣長大人を擧げねばなるまい。
 かく考へれば、國學は發達するものなのである。「國意考」は終はつたが、國學發達に大きく寄與した恩人、縣居大人に就て、もう少し觸れてみたいと思ふのである。
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by sousiu | 2013-04-11 00:46 | 先哲寶文

贈從三位 賀茂眞淵大人 その十九。 『國意考』 乾  

●賀茂眞淵大人、『國意考』に曰く、
ある人の、我は歌やうの、ちひさきことを、心とはし侍らず、世の中を治めむずる、から國の道をこそといふ。おのれたゞ笑てこたへず。後にまた其人にあひぬるに、萬のことをことわるめるに、たゞ笑にわらひて、おはせしは故ありやなどいふに、おのれいふ、そこのいふは、から國の儒とやらむのことか。そは天地のこゝろを、しひていとちひさく、人の作れるわざにこそあれといふに、いとはら立て、いかで此大道を、ちひさしといふにやといふ。おのれいはく、世の中の治りつるや、いなや承りぬべしといへば、堯舜夏殷周などをもて答。おのれいふ、其後にはなきや。答なしと。また問、凡から國の傳れる代は、いくばくぞや。こたふ、堯より今まで幾ち云々。また問、さらばなどや堯より周までのさまなる、其後にあらざりけむや。たゞ百千々の世の、いとむかしのみかたよりて、さるよきことのありしぞ。そはたゞむかし物語にこそありけれ。見よ々ゝ、世の中のことは、さる理りめきたることのみにては、立ぬ物と見ゆるをといへば、此人いよいよはらだち、むかしのこと、しかゝゝと解。おのれいふ、なづめりゝゝゝゝ。かの堯は舜のいやしげなるに讓れりとか。天が下のためなることは、よきやうなれど、こは 皇御國にては、よしきらひものてふ物にて、よきに過たるや。さるからに、ゆづらぬいやしげなる者の出て、世をうばひ君をころしまつるやうになれり。こはあしきらひ物なり。かくよきにすぐれば、わろきにすぐることの出るぞかし。又孟子とかいひけむ人は、堯舜の民は、家をならべて、封ずべしといへり。是をおもふに、舜の父はめくらものとかいふは、子のよきを見知らぬ故にや。この堯の民、舜の父なれど、いかで封ずべき人ならむ。舜の後を禹といふ。此父はわろ人にて、遠き國にながしつるとか。こは舜の民にて、禹の父なるに、また封がたき人ならずや。然らば、孟子も、今の世にいふ、勸化の口さきらのみなりけり。また、殷の世はいくらつゞきしにや。其始はよき人にて、禹の世を讓りつるといへり。さらば其つぎゝゞなどや、よき人につたへざりけん。末にたぐひなき紂とやらんといふ、わろ人のいづるとか。さらばよきに讓りしは、惟上つ代一代二代にや。それもとほらぬわざなりけり。さて周の文王とやらむは、ひとかたをだも知りたるに、ようせずば、身のわざはひと成べけれ。紂王のわろきによりて、中々に、人をなづけなどせしはさることなり。武王の時、紂をうちしを、ことわりあるいくさとやらんいへど、伯夷叔齊がいさめしとかいふを、孔子てふひとも、よき人とのたましひとか。さらば武王をいかにいはん。まことに義ならば、紂の後をも立べきを、それが末を、韓などへはふらしやりて、などみづからの子うまごにゆずりけむ。

○さて周公、政をとりて、殷の諸侯を四十餘りほろぼしけむこと、孟子てふ文にみゆ。此四十あまりの侯、みなわろ人にあらむか。周公にあだなふまゝに、しひてほろぼせしとしるべし。かくするが義といふものにや。そのさかえは、八百年とかいへど、初二代にて、四十年ばかりは、治れりといはんか。やがていと亂て、なかゝゝおとろへにけり。其四十年ばかりの間、周公てふよき人は、弟によこしませられて、外へまかりつるとか。世の中のみだれは、世の中のわざにもといふべきを、兄弟しもよこしませるは、内のみだれにて、亂の甚しきものなり。さらば四十年の間も、治れるには侍らざりけり。

○それよりのちは、漢の世に、文帝とかいひし時、暫治まりにけむかし。さていやしげなるひとも出で、君をころし、みづから帝といへば、世の人みなかうべをたれて、順がひつかへ、それのみならず、四方の國をば、えびすなどいひて、いやしめつるも、其夷てふ國より立て、唐國のみかどゝなれるときは、またみなぬかづきて、したがへり、さらば夷とて、いやしめたることいたづらごとならずや。はた世擧て、いへる語には、あらざるべし。如是世々にみだれて、治れることもなきに、儒てふ道ありとて、天が下の理りを解ぬ。げに打聞たるには、いふべきことも、ならざるべう覺れど、いとちひさく、理りたるものなれば、人のとく聞得るにぞ侍る。先ものゝ專らとするは、世の治り、人の代々傳ふるをこそ貴め。さる理り有とて生てある天が下の同じきに似て異なる心なれば(此一章よめがたし)、うはべ聞しやうにて、心にきかぬことしるべし。然るを此國に來たり傳ては、唐國にては、此理りにて、治りしやうに解は、みなそらごとのみなり。猶なづめる人をやりて、唐國を見せばや、浦島の子が古郷へかへりしごとくなるべし。

○こゝの國は、天地の心のまにゝゝ治めたまひて、さるちひさき、理りめきたることのなきまゝ、俄かに、げにと覺ることどもの渡りつれば、まことなりとおもふむかし人の、なほきより、傳へひろめて侍に、いにしへより、あまたの御代々々、やゝさかえまし給ふを、此儒のこと、わたりつるほどに成て、天武の御時、大なる亂出來て、夫よりならの宮のうちも、衣冠調度など、唐めきて、萬うはべのみ、みやびかになりつゝ、よこしまの心とも多くなりぬ。凡儒は人の心のさがしく成行ば、君をばあがむるやうにて、尊きに過ぎしめて、天が下は、臣の心になりつ。

○夫よりのち、終にかたじけなくも、すべらぎを島へはふらしたることく成ぬ。是みな、かのからことのわたりてより、なすことなり。或人は佛のことをわろしといへど、ひとの心のおろかになり行なれば、君は天が下の人の、おろかにならねば、さかえたまはぬものにて侍り。さらば佛のことは、大なるわざはひは侍らぬなり。

○凡世の中は、あら山、荒野の有か、自ら道の出來るがごとく、こゝも自ら、神代の道のひろごりて、おのづから、國につけたる道のさかえは、 皇いよゝゝさかへまさんものを。かへすゝゝゝ、儒の道こそ、其國をみだすのみ、こゝをさへかくなし侍りぬ。然るをよく、物の心をもしらず。おもてにつき、たゞかの道をのみ貴み、天が下治るわざとおもふは、まだしきことなり。

○さて歌は、人の心をいふものにて、いはでも有ぬべく、世のために用なきに似たれど、是をよくしるときは、治りみだれんよしをも、おのづから知べきなり。孔子てふ人も、詩を捨ずして、卷の上に出せしとか。さすがにさる心なるべし。凡物は理にきとかゝることは、いはゞ死たるがごとし。天地とともに、おこなはるゝ、おのづからの事こそ、生てはたらく物なれ。萬のことをも、ひとわたり知を、あしとにはあらねど、やゝもすれば、それにかたよるは、人の心のくせなり。知てすつるこそよけれ。たゞ歌は、たとひ惡きよこしまなるねぎことをいへど、中々心みだれぬものにて、やはらいで、よろづにわたるものなり。
                歌のいさほしはすでにいへり。

○天が下の人をまつりごつに、からのこと知しとて、時にのぞみて、人のよくことわらるゝものにあらず。さるかたに、かしこう、げにとおぼゆること、いひいづるひとの、おのづから出來るぞかし。たとへば、くすしの、よく唐文よみ知たるが、病をいやすことは、大かた少きものにて、此國におのづから傳りて、何のよし、何のことわりともなき藥こそ、かならず、病はいやし侍れ。ただみづから、其事に、心を盡しえたるものこそよけれ。物になづまぬよりなり。一たび成よしとおもへることに、引よらせまほしく、儒學生は、中々まつりごち得ぬは、唐國にも、さるものにゆだねて、をさまらざりし世もおほかりけり。

○或人の云、むかし此國には、やからうからを妻として、鳥け物と同じかりしを、唐國の道わたりて、さることも心し侍るがごとく、萬儒によりてよくなりぬと。おのれ是を聞て、大に笑へるを、かたへの人云、唐には同じ姓をめとらずてふ定はありつるを、おのが母を姧
(左上「女」+左下「女」+干=おか)せしことも侍りしからば、只さる定のありしのみにて、いかばかりのわろことのありけむ。さることをみぬや。同姓めとらずば、よからむといひしのみと聞ゆるを、世こぞりて、しかありとおもふはいかゞ。おろかなるこゝろにや、またさることをば、隱していふにや。すべら御國のいにしへは、母の同じき筋を、誠の兄弟とし侍り。母しかはれば、きらはぬなり。物はところにつけたる定こそよけれ。さる儀には、年々にさかえたまふを、儒のわたりて、漸に亂れ行て、終にかくなれること、上に云如し。如何同姓めとらずなど、教のこまかなることよしとて、代々に位を人に奪はれ、かのいやしめる、四方の國々に、とらるゝやうのことは如何。天が下は、こまかなる理りにて、治らぬことを、いまたおもひしらぬおろかなるこゝろに、聞を崇むてふ耳を心とせしよ。いふにもたらぬことなり。

○又人を鳥獸にことなりといふは、人の方にて、我ぼめにいひて、外をあなどるものにて、また唐人のくせなり。四方の國をえびすといやしめて、其言の通らぬがごとし。凡天地の際に生とし生るものは、みな虫ならずや。それが中に、人のみいかで貴く、人のみいかむことあるにや。唐人にては、萬物の靈とかいひて、いと人を貴めるを、おのれがおもふに、人は萬物のあしきものとかいふべき。いかにとなれば、天地日月のかはらぬまゝに、鳥も獸も魚も草木も、古のごとくならざるはなし。是なまじひにしるてふことのありて、おのが用ひ侍るより、たがひの間に、さまゝゞのあしき心の出來て、終に世をもみだしぬ。又治れぬがうちにも、かたみにあざむきをなすぞかし。もし天が下に、一人二人物しることあらむ時は、よきことあるべきを、人皆智あれば、いかなることもあひうちとなりて、終に用なきなり。今鳥獸の目よりは、人こそわろけれ、かれに似ることなかれと、をしへぬべきものなり。されば人のもとをいはゞ、兄弟より別けむ。然るを別に定をするは、天地にそむけるものなり。みよゝゝ、さることをおかすものゝおほきを。

○又云、然れども、此國に文字なし。唐國字を用て、萬つそれにて知るべしと。答、まづ唐國のわづらはしく、あしき世の治らぬは、いはんかたもさらなり。こまかなることをいはゞ、繪のごとくの文字成けり。今按■■てふ人の、用ある字のみを擧といへるを見れば、三萬八千とやらむ侍り。譬へば、花の一にも咲散蘂樹莖其外十まりの字なくてはたらず。またこゝの國所の名、何の草木の名などいひて、別に一の字ありて、外に用ぬも有、かく多の字を、夫をつとむる人すら、皆覺ゆるかは、或は誤り、或は代々に轉々して、其約にかゝれるも、益なくわづらはし、然るを天竺にば、五十字もて、五千餘卷の佛の語を書傳へたり。たゞ五十の字をだにしれば、古しへ今と限りなき詞もしられ、傳へられ侍るをや。字のみかは、五十の聲は天地の聲にて侍れば、其内にはらまるゝものゝ、おのづからのことにして侍り、其ごとく 皇御國も、いかなる字樣かはありつらんを、かのからの字を傳へてより、あやまりて、かれにおほはれて、今はむかしの詞のみのこれり。其詞はまた天竺の五十音の通ふことなどは、又同じ理りにて、右にいふ花をば、さく、ちる、つぼむ、うつろふ、しべ、くき、などいへば、字をもからで、よしもあしも、やすくいはれて、わづらひなし。おらんだには、二十五字とか、此國には五十字とか、大かた字の樣も、四方の國同じきを、たゞからのみ、わづらはしきことをつくりて、代もをさまらず、ことも不便なり。さて唐の字は、用たるやうなれど、古へはたゞ字の音をのみかりて、こゝの詞の目じるしのみなり。其の暫後には、字のこゝろをも交へて用たれど、猶訓をのみ專ら用て、意にはかゝはらざりしなり。【萬葉初卷軍王作歌返歌 山越乃(ヤマゴシノ)風乎時自見(カゼヲトキジミ)寢夜不落(ヌルヨオチズ)家在妹乎(イヘナルイモヲ)懸而小竹櫃(カケテシヌビツ)凡四千の歌のうち擧るに堪んやは、見て知べし。今安くおもひ出るをあげりこ、は訓音を專ら用ひたるなり、】と。

○かく語を主として、字を奴としたれば、心にまかせて、字をばつかひしを、後には語の主、はふれ失て、字の奴の爲かはれるがごとし。是又かの國の奴が、みかどゝなれる、わろくせのうつりたるなれば。いまはしゝゝゝゝ。こをおもひわかで、字は尊きものとのみおもふは、言にもたらず。或人猶いふ、夷はさは行ふなるを、たゞ唐ぞ風雅なれば、しかると。おのれ天をあふぎて笑ふ。其風雅てふは、世の中のごと、物の理りにつのれば、人の亂るるを、理りの上にて、理りにかゝはらず。天地のよろづの物に、文をなすがごとく、おのづから、心を治めなぐさましむるものぞかし。

○且かしこにも、古しへは繩を結びしとか。其後は木草鳥獸など、萬のかたを字とせしならずや。天竺の五十字も、もとは物のかたちか。何にもせよ、字はやゝ俗にして、風雅なることあるべきや。其後まろきも、四方に書なしなどせしを、それにつけて、又筆法などいふよ。笑にたへぬわざなり。いかで、此字のうせば、おのづからなる字を、天よりえて、國も治り、此爭ひやみぬべし。

○是らは、古への歌の意詞を、あげつろふまゝに、人はたゞ、歌の言とのみ思ふらむや。其いへるごとく、古への心詞なり。古の歌もて、古の心詞をしり、それを推て、古への世の有樣をしりて、より、おしさかのぼらしめて、神代のことをもおもふべし。さるを下れる世に、神世の常のことを、言人多きが、そを聞ば、萬にかまへて、心深く、神代のことを、目の前にみるがごとくいひて、且つばらに、人のこゝろの、おきて成さまに、とりなせり。いでや、然いふ人の、いかにして、さは甚ぎや。さもこそ、ふりにしこと、よく知つらむとおもひて、それがかける物などを、見聞ものするに、古へのことは、一つも知侍らざるなり。然るを、古への人の代をしらで、いとのきて、神代のことをば、知べきものかは、こはかの唐國の文ども、すこし見て、それが下れる世に、宋てふ代ありていとゞせばき儒の道を、またゝゝ狹く、理りもて、いひつのれるを、うらやみて、ひそかに、こゝの神代のことに、うつしたるものなりけり。さる故に、ふつに文みぬ人は、さもこそとおもふを、少しも、やまとの文、唐の文しれる人は、おもひそへたることを知て、笑ぞかし。そもゝゝ、かしこにも、いと上つ代には、何のことか有し。其後に人のつくりしことゞもなれば、こゝにも、作り侍るべきことゝおもふにや。人の心もて、作れることは、違ふこと多ぞかし。かしこに、ものしれる人の、作りしてふをみるに、天地の心に、かなはねば、其道、用ひ侍る世は、なかりしなり。よりて、老子てふ人の、天地のまにゝゝ、いはれしことこそ、天が下の道には叶ひ侍るめれ。そをみるに、かしこも、ただ古へは、直かりけり。こゝも、只なほかることは、右にいふ歌の心のごとし。古へは只詞も少く、ことも少し。こと少く、心直き時は、むつかしき教は、用なきことなり。教へねども、直ければことゆくなり。それが中に、人の心は、さまゞゝなれば、わろきこと有を、わろきわざも、直き心よりすれば、かくれず。かくれねば、大なることにいたらず。たゞ其一同の亂にて、やむのみ。よりて、古へとても、よき人のをしへなきにはあらねど、かろく少しのことにて足ぬ。たゞ唐國は、心わろき國なれば、深く教てしも、おもてはよき樣にて、終に大なるわろごとして、世をみだせり。此國は、もとより、人の直き國にて、少しの教をも、よく守り侍るに、はた天地のまにまに、おこなふこと故に、をしへずして宜きなり。さるを唐國の道きたりて、人の心わろくなり下れば、唐國ににたるほどのをしへをいふといへど、さる教は、朝に聞て、夕は忘れゆくものなり。我國の、むかしのさまはしからず。只天地に隨て、すべらぎは日月なり。臣は星なり。おみのほしとして、日月を守れば、今もみるごと、星の日月をおほふことなし。されば天津日月星の、古へより傳ふる如く、此すべら日月も、後の星と、むかしより傳へてかはらず、世の中平らかに治れり。さるをやつこの出て、すべらぎの、おとろへ玉ふまにまに、傳へこし臣もおとろへり。此心をおして、神代の卷を言べし。そをおさむには、古の歌もて、古への心詞を知るが上に、はやう擧たる文どもをよくみよかし。

○或人、此國の古へに、仁義禮智てふことなければ、さる和語もなしとて、いといやしきことせるは、まだしかりけり。先唐國に、此五のことを立て、それに違ふをわろしとしあへりけむ。凡天が下に、此五つのものは、おのづから有こと、四時をなすがごとし。天が下のいづこにか、さる心なからむや。されども、其四時を行ふに、春も漸にして、長閑き春となり、夏も漸にして、あつき夏となれるがごとく、天地の行は、丸く漸にして至るを、唐人の言のごとくならば、春立はすなはちあたゝかに、夏立は急にあつかるべし。是唐の教は、天地に肖て
(※「勤王文庫」では「背(そむきて)」と記される。誤字なるか不明也)、急速に佶屈なり。よりて、人の打聞には、方角有て、きゝやすく、ことわりやすけれど、さは行はれざるものなり。天地のなす、春夏秋冬の漸なるに、背ける故なり。天地の中の虫なる人、いかで天地の意より、せまりていふ教を、行ふことをえむや。凡天が下のものには、かの四時のわかち有ごとく、いつくしみも、いかりも、理りも、さとりも、おのづから有こと、四時の有限りは絶じ。それを人として、別に仁義禮智など、名付けるゆゑに、とること、せばきやうには、成ぞかし。たゞさる名もなくて、天地の心のまゝなるこそよけれ、さる故に、此國は、久しく治るをしらずや。目の前に、おのがみなれたることをのみ、おもひせまれる、をこ人のことは、言にもたらねど、おもひわかたぬ、わらはべのために猶いはん。

○唐國の學びは、其始人の心もて、作れるものなれば、氣々に
(※「勤王文庫」では「聞くに」と記される。果して如何)たばかり有て、心得安し。われすべら御國の、古への道は、天地のまにゝゝ丸く平らかにして、人の心詞に、いひつくしがたければ、後の人、知えがたし。されば古への道、皆絶たるにやといふべけれど、天地の絶ぬ限りは、たゆることなし。其はかりやすき、唐の道によりて、かく成れるばかりぞや。天地の長きよりおもへば、五百年千年、またゝきの數にもたらぬことなり。ことせばく、人のいひしことを、あふぐてふ類には侍らず。凡天地のまにゝゝ、日月を初て、おのづから有物は、皆丸し。是を草の上の露にたとふ。その露くまある葉に置時は、したがひてことなる形となれど、又平らかなる上にかへして置は、もとの丸きがごとし。されば世を治めたまふも、此丸きを、もとゝしてこそ治るべけれ。けたにことせりがましきは、治らぬと、唐の世をみて知べし。かくて天地の心なれば、さるべき時には、もとにかへしたまふべし。いやしくせばき、人の心もていそぐは、かへりてみだれとなれゝ、唐人は上なる人は、威をしめし、貴をしめすといへど、おろそけなるをしめすはよし。尊きをしめすは、みだるゝはしなり。其威をしめす、ものゝふの道の外なし。是をわすれずして、行ふべし。ことに、我すべら御國は、此道もて立たるをみよ。又おろそげなるをしめすのよきは、上のおろそげなるをみて、かたじけなきおもひをおこし、おのがじしも、夫にしたがひて、こと少に成ぬ。事の少ければ、ふみ少し、ふみ少ければ、心易し、心易ければ、平らかなり。貴をしめすのわろきことなり。先宮殿衣服をはじめて、宮女衣をかざり、宮人あやをまとひするを見て、誠に貴とみて、心よりあがむる人は、貴をしめさずとも、事もあらじ。夫が中に、天地に心いたれるを、ますらをとして、かくてあらむこそ本意なれ。いとせばき命かは、天に任せて、行はんなど、おもふものも、たまゝゝ有て、うばゝむ謀をなすめり。又さのみ勢及ばぬまゝに、おもひしひてあるも、心のねたみ、いかばかりならむや。いでや我こそあれ、いか成所よりか、亂よかし。ついでにのりて、さるべく謀らんと、おもふ心は、宜者は皆侍るべし。


 ~續く~
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by sousiu | 2013-04-11 00:43 | 先哲寶文

贈從三位 賀茂眞淵大人 その十八。 『國意考』その十六 

 佐々木信綱翁は、
『萬葉集古義の著者鹿持雅澄が、藩老福岡家で眞淵の冠辭考を初めて見、夕つ方我が居村に歸つたが、其の夜再び城下なる同家に案内を請ひ、冠辭考の數箇條を抄寫して、深更家に歸つたといふ逸話を、直門の老人から聞いたことがあつた。また伴信友が、看聞御記の寫本を借り受け、夜を徹して抄録したといふ書を見たことがあつた。また曲亭馬琴が、日本外史の出版以前に、その寫本を得たいが、寫字料はいか程かかるであらうと、伊勢なる殿村篠齋に問合せてやつた書簡を讀んだことがあつた。是等の事を見聞くにつけて、古人が書物を手に入れるに就いての苦心を思ふと、涙ぐましくさへ感じられる』と感慨を漏せてゐる。『改訂 賀茂眞淵と本居宣長』(昭和九年十二月二日「弘文社」發行)

 野生も寫本を藏するが、寫本そのものゝ價値は一長一短あれ、それゞゝみな當時の人達の勞苦を偲ばれるものがあり、決して板本と比して粗末に出來るものではないのである。「書物を手に入れるに就いての苦心」とは、「學問をおこなふに就いての苦心」と云ひ換へることが出來る。
 云ふまでもなく當時書物は頗る高價であつた。であるから、今日の如く簡單に書物を他人から貸借出來るものではない。餘程信頼を託せる者に、而も短期間貸すのが精々であつたらう。借りた書を迂闊にも返さなかつたり、或は失したり、又たは汚してしまつたりするやうな惧れのある者には、當然貸す可くも無かつたのである。つまり、他人から信を得られぬやうな生活態度を送る者は、學問したくとも充分にし得なかつたのである。逆言すれば、學問をする者は、全てと云はぬまでも大凡、人格も他に認められたる者であつたに違ひない。見識のみならず自づと人格も備はり、さういつた人達がやがて後進を教へ、國論を重ね、導き、一つの大きな時代のウネリを作つたのである。

 又た、借りた本は返さねばならない。恰も一家の寶物の如く扱はれたる書物をさう何度も借りることは出來ない。當然の如く一語一句を謹讀し、或は晝夜を問はず寫し書きするのである。これが所謂る、寫本だ。
 かく考へれば野生など、文明の利器の恩惠を被ることに馴れ、キーボードを使つて寫し書きする程度で根を上げるのであるから、全く怠んでゐると笑はれても返す言葉のあらう筈が無い。
 

 佐々木信綱翁は次いでかう云ふのである。
それに比べると、今の世は餘りに容易に書物の得られ過ぎるといふ感が深い。殊に近時は、吾が國の古典の印行されるものが甚だ多い。それは喜ばしい事ではあるが、中には蕪雜なもの、無責任なものも尠くない』と。

 これは實際さうであらう。同じ古典にせよ、それゞゝ部分的に異なるものがあるは決して珍しくない。戰前のみならず大正、明治に於ても然りであるから、戰後のものは(讀まないので分らないが)、大丈夫なのかと疑問に思ふ。
 だがそれは出版界もにならず、抄録を志すもの全員に課せられる可き戒めである。
 野生も又た、誤字脱字があるやも知れぬ。あるやも知れぬ、を逃げ口上としてゐるやうでは、まだゝゞ背筋が伸びてゐると云ひ難い。愼まねばなるまい。

 さて。『國意考』は今囘で終はりである。こゝまでくると、隨分と親しみを覺え、少し寂しい氣もするのである。
 固より縣居大人の偉業は『國意考』で全てではない。ほんの一部に過ぎない。しかしながら野生にはそれを説明するだけの知識が乏しくある。他に關しては、有志各自の研究に委ねるほかない。
   
 
  ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~


承前。
●賀茂眞淵大人、『國意考』に曰く、
○或人云、古今集などに、あげたる歌のいさほし(功)はさることなり。なほ又心有(あり)やと。答(こたふ)。かの序にか(書)ける、天地を動し、鬼神をあはれと思はせ、男女の中をやはらげ、たけき武士の心をも、なぐさむるといふは、其あるべきことを、おちゝゝ(條々)にわけて、いへるなれば、是もさることなり。ぞ(そ、乎)れがうへにて、すべてをいはゞ、やは(和)しき心にと(取)る。凡(およそ)人の心は、私ある物にて、人と爭ひ、理りをもて、事を分つを、此歌の心(こゝろ)有(ある)時は、理りの上にて、和らきを用る故に、世治り、人靜なり。是もたとへば、四時の如し。夏はあつかるべき理りとて、夏たつより、急度(きつと)あつくのみあらば、人た(堪)ふべからず。然るを物を漸(やゝ)にして、あつきさむきが中にも、朝夕夜晝につけて、しのぐことの、有(ある)にてこそた(堪)ふれ。是世の中にさる和らぎなくば、誰かはす(住)まはん。此事はもろこしの歌もしかり。さるを後には、いと事もなきによみ、人を驚かさばや、はた(將た)かくいひては、人のいかゞ(如何)そしらん(誹らむ)。かくては、人のよろこ(喜)ばじ、など思ひて物すれば、誠の心にあらず、まことの歌にあらず。されども、むかしより、此心を用ひ來れば、今よむ歌はわろ(惡)かれど、むかしの和らぎたる心は、世にみ(滿)ちぬ。人としいへば、此心を知が故に、おのづから理の上をなすことなり。理の上にていはゞ、つかさ(官)位高く、いきほひあらん人は、萬の人を皆なみ(無み)して、萬をお(推)すべし。官位はさる物から、賤しきとても、さのみはしがたしとて、和らぎのことをまじへ、たけく、ををしき人も、よわき人をば、皆おしふせんや(押し伏せんや)。これはた(是れ將た)和らぎを本とすべし。其歌讀出(其の歌、讀み出づる)るには、もと和らがんとての心にはあらねど、心におもふことのにほひ(香)出る物なれば、おのづから、たゞ成よりは、和らかに、やさしき事あり』と。

 或る人は云ふには、古今集の序などをみると、歌といふものには隨分力があるものだといふことが書いてある。たとへば力を入れないで天地を動かすとか、目に見えぬ鬼神をあはれと思はせるであるとか、男女の中を和し、猛き武士の心まで慰めるといふやうに、それほど歌には效能があると云うてゐるのであるが、どうもこれは過剩宣傳のやうに感じるのであるが。
 このやうな疑問を抱く者に對して、眞淵大人が答へるには、歌には確かにその力が備つてゐるのだ。古今集の序にある通りである。それを詳細に亙り色々説明してあるので、實際に歌を詠むやうになつて、古今集の序に書かれてあるやうなことを理解出來た人も寔に多いのである、と。
 先づ第一に云へることは、歌を詠む人の心持ちが、まことにものを愛する、親しむといふ點に於て勝れてくるのである。兔角人の心は私心あるもので、それが表面に出るとやたらと人と爭ひ、理窟を以て接する。理窟を云へば又た反對の理窟を云ふ者も出てくるのは當然で、互ひに理窟ばかりを唱へる人が多くなれば、段々複雜になつてきて、結局世の中は一致協力出來なくなつてしまふのである。
 ところが歌を詠むやうな心持ちで、理窟でなく、お互ひに愛する氣持ちや親しむ氣持ちを以て接すれば、やがて睦み合つていく。みなが和いだ氣持ちを夫々養つていけば、世の中も治まつてきて、人も靜かな心境で日々を暮らすことが出來るのである。さういふ點に於てみても、歌を詠むやうな心持ちを皆が共有してゆくことが大切なのである。
 それを例へれば四季のやうなものだ。夏は當然暑かる可きものであるのだけれども、夏になつて急に暑くなつては人が堪へられない。でも春の末から段々暖氣が増してきて、それから暑くなつてくる分には、人はどうにかその暑さに堪へることが出來る。所謂る、漸、といふことが大切なのである。又た同じ暑い日でも、朝夕は涼しいので堪へられるので、全ては和いでゆく、といふことが必要なのである。このやうに世の中に和らぎが無くなつたならば、誰れも住むことは出來ないのである。
 この事は日本の歌だけに限らない。支那でも聖人と云はれる人は詩を重んじて、孔子も詩經といふものに筆を入れて後世に遺した。詩を巧みに作る、といふことが大切なのではなくして、詩を詠むやうな心持ちが大切なのである。
 ところがその歌とか詩とかいふものゝ重んぜられる根本精神が後になつてくると忘れ去られてしまひ、別に歌を詠む必要も無いことに歌を詠み、技巧を懲らして人を驚かせるやうな心持ちで歌と向き合ふやうになつてしまつた。又た或はかう詠んだら人に笑はれるかも知れない、人に誹られるかも知れない、と人の反應を氣にする餘り、たゞ言葉の末に趨つて僞はりが多くなつてしまつた。謂はゞ歌に誠の、直き心が喪失してしまつた。昔の優れた人の歌といふものは、みなその心にあることを僞はらず、ありのまゝ詠んだものであるから、人が素直に感動したのである。
 併し乍ら、後世の歌は赤心が無くなつた、と云つて一概に之を排斥することは出來ない。兔に角歌を詠むといふ昔から傳はつてゐる慣はしがあるのだから、歌の一つも詠まうといふ人は、さう心の荒んだ、何でも理窟で押し通さうとする人ではないだらう。たとひ昔ほどではなくても、兔に角、歌の一首でも詠まうといふ和やかな、平和な心持ちがあつて、これが育つてくれば、急度他人にも優しくなり、親しくなり、思ひやりの心が深くなり、やがてその心が世の中に滿ちてゆく筈である。
 道理の上から云へば、世の中と云ふものは統一がなされなければならない。その爲めには上下、貴賤といふ區別が無ければならぬものである。勢ひのある人が勢ひの無い者よりも多くの働きが出來るのであつて、結果、高い身分に就くことが出來る。だが上に立つ者が自分の勢ひのみを頼り下の者を壓迫すると、下の者は表面上仕方なく服從するだけで、いつも反抗の心を持つてゐる。それであるから官位にある者が下の人々を輕く見て押し伏せて服從させてゐるやうでは、決して世の中は平和に治まらないのである。そこで、官位や勢ひに頼り人と接するのではなく、和らぎの心を本として下々の人とも接せねばならない。その和らぎの心を養ふ爲めに歌を詠むわけではないが、歌を詠む内に次第に和らぎの心が芽生え出て、發達してゆくものであるから、何にせよ歌を詠まうとする心持ちは大切である。凡て心に思ふことは自ら形に現れるものであるから、ゆつくり落ち着いた心で歌でも詠まうといふやうな氣持ちで政治を執り、下の者とも接するやうになれば、お互ひ和み、優しくなれて結局、それが世の中の爲めになるのである。


●又た曰く、
或人云、さ(然)いふ所は、理りなれど、猶いと上つ代のことにして、今の世に、手ぶり大にかはりて、人の心、邪に成ぬれば、いかで昔にかへすことを得むや。然らば、其時のまにゝゝ、よろしう取なすべし。古の事、今は益なき事なりと。答。誠にしか(然)こそは、誰もおもへ。凡(およそ)軍の理りをいふにも、治國をいふにも、先(まづ)其本をとゝの(整)ふることをいへり。然るに其君の心によりて、いく萬もとゝのふるを、多くの人のうち、さるよき君のうまれこんはかたし(生まれ來むは難し)。其よからぬ君の、心のまゝに、したがひまつりごつに、よきことのあらむやは、たまゝゝよき君の出むをまちて、萬つ(よろづ)はいふのみ。其如く、もし上に、古へを好みて、世のなほからんをおぼす(思す)人出來む時は、十年二十とせ(年)を通ずして、世は皆直かるべし。大かたにては、えなほらじ(得直らじ)とおもふはまだ(未だ)し。上の一人の心にて、世はうつる(移る)物にぞある。命かけたる軍だに、いくさのきみの心ぞ。よりて、萬の人の、身をゝしまぬ(身を惜しまぬ)さまに成ぞかし。たゞ何事も、もとつ心の、なほきにかへりみよ』と。

 また或る人が云ふには、さういふことを聞くと、一應理に適つてゐるやうだけれども、しかしそれはズツと昔のことであつて、今の世は昔と違ふ。今は人の心は隨分拗けて邪となつて、容易に昔のやうな直き心に戻らぬであらう。であるから、そんなに遠い昔のことばかり云つてゐないで、其の時其の時の時局や時勢に對應して世を治めてゆくやうに取り爲していつたら宜いのである。遙るか古へのことばかり貴んでも、現代に何ら益するところはないのである、と。
 大人の答ふるに。誰れでもそのやうに考へるやうだ。時代が變はれば凡てが變はると思つてゐる人が多い。だが能く考へてみると、いくら時代が變はつても、人間の本質と云ふものが變はることはない。例へば戰さとなる場合でも、或は國を治める場合でも、先づその根本を整理して考へてみるといふことが肝要である。これらも時代を經て戰爭の仕方や治國の法制など、時代によつてやり方は變はつても、一番大切にせねばならぬことは常に變はらぬ本質である。その本質とは、その主の平生の心持ちによるものであつて、その主が本當に勝れてゐれば、幾萬の人間でも能く整ひ萬事速やかに事は收まるのである。それは直き心であり、和である。だが世にゐる多くの主のうち、さういふ勝れた主が生まれ出て來ることは難しい。さうした良からぬ主の心のまゝ執り行なはれる政治に、善い結果になることは望み難いのである。であるから萬民は、偶々善い主の出るを待つてゐるのみである。だがそれは無爲だ。しかし若し古へのことを能く學んで、世の中が眞つ直ぐになることを望む人が出て來て、人々の上に立つならば、十年二十年經たない内に世の中が眞つ直ぐになるに違ひない。大方の人は古への善き時代を知らないので、世の中はもう治まらないのだと勝手に諦めてしまつてゐると思つてゐるやうだが、それは間違ひなのである。上の人の心ひとつで、世の中は幾らでも變はるものなのである。戰爭もその通りであつて、「いくさのきみ」つまり將軍の心持ちが確りしてをれば、その下に屬する士卒といふものは、皆協力一致して、身命を惜しまぬ戰ひ樣をし、如何に亂れたとて立派に平げることが出來るのである。それであるからこれまで説明したやうに、何事にも古への、人の心直く、國は平らかであつた時代を考究し、この根本を顧みることが大切なのである。



 縣居大人著「國意考」の最終項は古へに復せ、である。
 今日のナントカ維新の会やら自稱保守派やらと、我が陣營との決定的な違ひがある。乃はち、古へに復す、の有無である。
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by sousiu | 2013-04-10 19:58 | 先哲寶文

贈從三位 賀茂眞淵大人 その十七。 『國意考』その十五 

 昨日「芳論新報」脱稿。土方の疲れがとれてゐないのか、昨夜は早めに就寢した。
 『國意考』も今囘と次囘で愈々終はりとなる。譯文は、直譯ではなく、複數册の參考文獻を用ひて、出來るだけ理解されるやうに極力努めた積もりだけれども、餘計に解り辛くなつてしまつた。
 折角なので次囘を終へたら、下手な説明文を省いて、全文を繋げて殘しておかうかと思つてゐる。

 さて、終はりも見えてきて思ふのことは、下手ながらもこの説明文には苦勞させられたことだ。だが備中處士樣の仰る通り、野生の勉強には大いに得るものがある。固より未熟なる野生は人に教へるものがない。自分自身の勉強の爲めに、一艸獨語は更新される可きであるのだ。秋風之舍主人の日乘を覗き見るに、彼れもまた同じく求學求道に精勵されてをられる。今は兔に角、これで宜いのだと思ふ。
 
  
 
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承前。
●賀茂眞淵大人、『國意考』に曰く、
○ものゝふ(武士)の猛を專らとして、世の治るてふことにつけて、或人云、今見るに、軍(いくさ)の法まねぶは、いかで軍あれかし。あはれ元帥と成なむ。又つはものゝ道をえ(得)たる者思へらく、あはれ世亂(みだれ)よかし。一方を防ぎ、いかなるつよきものにても、我むかひて(向かひて)殺してむと。かゝれば世の治りの爲わろ(惡)しと。おのれいふ(云ふ)しからず(然らず)。こは人のこゝろをし(知)らぬものなり。みづからのこゝろをかへり見よ。太平に生れて、させることもなきには、太平にう(倦)めり。さる時には、かくてのみやは有(ある)べき。古へ我おやゝゝ(親々)の事をもおもひ(思ひ)、時しあらば、よき品になりなむを、今いかにせんとおもひて、成ぬべきわざをして、命を終るのみなり。心の内に思ふことあれど、時のいきおひにしたがひ(從ひ)て、過すのみ。たけき(猛き)道をまねぶ人は、しかのみにて、世の亂よかしと思へど、亂るゝものにあらず。一人二人其心のまゝにせんも、世の中に隨はでは、今日もへがたけ(經難け)れば、せむかたなしとて、ことをかくして(隱して)を(居)りぬ。人の心は、皆さるものにて、上に猛き威あれば、皆心ならねど、しばし隨ふのみなり。然らば猛き道をまねび、子孫に傳へて、一度の用に立むとするも、又よ(善)からずや。さる人は心こはく(剛く)わろし(惡し)といへど、さることをよく學ぶ人は、こはき(剛き)物にあらず。中に一人こはき(剛き)もあれど、武をまねばで、こはく(剛く)わろき(惡き)もの、いくばく(幾許)ぞや。たまゝゝ有(ある)をもて、かた(語)らすることなかれ。いでもし(若し)事あらむ時に、其心こはき(剛き)やつ(奴)も、一かたたのもしき(頼母敷き)ものなり。世はいつまでも、かくてあらむとのみおもふにや、末知(しり)がたきものなり』と。


 武士は猛々しくあるを專一として、敵を打ち破り世を治めるといふことに對して、ある人が云ふに。今、武藝を習ふとか軍法を學ぶ人々は、どうか戰爭があるやうにと心待ちし、そこで大いに學んだことを發揮し、手柄を勝ち取り、之によつて立身出世を望むものなのである。又た「つはものゝ道を得たる者」乃はち軍學であるとか兵法を修學した者は、どうか世の中が亂れてくれゝば宜い、敵が攻めてくれゝば宜いと願ひ、さうなつたらば我れが一方を防戰し、如何なる強い敵の襲來があつても、必ず皆殺しにしてくれやうぞ、と考へるものなのである。このやうな好戰的な者らが多くなれば、結局治國平天下の爲めには邪魔で惡しき存在である。であるから、武藝などといふことを獎勵するでなく、所謂る聖賢の道を弘めてゆく方が大切なのではないか、と。
 眞淵大人が答へるに、然らず、と。
 必ずしも武藝を學ぶ者の心持が間違つてばかりゐるとは思はない。それは人の心を本當に知り得てゐない者の云ふことである。自らの心を顧みよ。泰平の世に生まれて何も事が無くなると、お互ひ泰平に倦んでしまひ、世の中が何とか變はつていくやうに、と望むやうになる。これが人情といふものである。併しながら自分達の親の時代、先祖の時代を思ひ較べてみると、古へも必ずしも皆が役に立つてゐた譯ではないが、世の中が亂れてゐた時にはそれはそれで之を治める爲めに多くの仕事があつたのである。そこで活躍した人達の子孫が今、然る可き地位を得て世を治めてゐる。今日とて若しもさういふ時代にあつたならば、勇氣を以て命を捨てゝでも國の爲め家の爲めに手柄を立てようとする良き者もゐるであらう。だが餘りにも泰平無事の世となれば、それも叶はず、地位の低き人らも、まづまづ無事に毎日を送ることだけをやつととして壽命を迎へるのである。生まれて既に地位の高い人は兔も角、蔑まされて生きるよりほかない人達は、心の中では何か自分でも手柄となるやうなことをしたいと思つてみても、泰平の時勢に從つて生涯を過ごすのみなのだ。
 抑も軍學者や兵法家が、世の中が亂れてくれゝば良いと思うてみたところで自分の思ふ通りに亂れるものではない。抑も一人や二人が何とかして大きな働きをしたい、功名を遂げたい、と願うてみても、泰平の世に隨はなければ今日の生活も儘ならなくなるので、仕方なしとして日々を過ごしてゐるのである。これは已むを得ないことである。或は、上に立つ人の威勢が餘りにも強いならば、無情であつても、非道であつても、心は兔も角、態度は服從するほかない。かういふ人が、自分の時代では何うにもならないけれども、武藝や軍學、兵法を學んで子孫に傳へ、事の起こつた時に役に立つやう養成して置くことも、これはまた良いことではないだらうか。何でも無事に生きてをれば、泰平の世に我が一族、我が家が安泰ならば良いと思ふよりも、今は兔も角やがて又た世が亂れた時に國の爲めに役立てるやう子孫に習はせ、心掛を養つてゆくことは頼もしい心掛けであり、これを一概に世の亂れるを願ふ者などといつて排斥するには及ばない。
 又た、さういふ武藝などを重んずる者はどうも心が猛々しく、人を敵にする氣分が多いから、惡い者だと云ふ人がをるけれども、決してさうではない。
 本當に武藝を重んずる者は決して無暗に人を敵對する者ではない。尤も中にはさういふやうに、人を敵視するやうな者もゐるだらうけれども、それは寧ろ例外である。それならば武藝を學ばない人は皆、平和な心持ちで人を敵することなき優しい者達ばかりか、と云へば必ずしもさうではない。たゞ武藝を學ぶ人は目立つものであるから、偶々さういふ人が有つて全體もさうに違ひないと思つて語つてはいけない。若しも一旦、大事が出來した時こそ、さういつた人達が頼母敷くなるものなのだ。皆が、たゞ毎日無事であれば宜しい、泰平が長く續いてくれゝばそれで宜しいなどと思うてゐるだけでは、一ト度び何か大事が起きた場合、その亂れを收めてくれる人がゐなくなつてしまふのである。今は確かに泰平無事であるけれども、世の中はいつまでもこの樣な状態が續くものではなく、將來は誰れも豫想し得ないのだ。よつて今、世が平穩だからと云つてそれで良しと思ひ込み、武藝などを輕んじたり、又たはこれを習ひ學ぶ者を惡しき者であると蔑視したりする領主は、まことに愚るかであると云はねばならない。


●又た曰く、
時の心にかなふ(叶ふ)をのみよし(善し)とおもふは、其主の愚かなるなり。多き從者(ずさ)の中には、さまゝゝ(樣々)有(ある)こそよけれ。物の本たけき(猛き)をむね(旨)として、こゝ(此處)かしこ(彼處)に、隱れをる猛者をも、おこらせず。又顯(あらは)れて、いきほひ有(ある)をも、おそれしむるより外なきなり。たゞなべて(竝べて)の人、おもて(面)をなだらか(平穩)にすれば、心もしか(然)なりとおもふにや。心の僞りは、人毎に有ものなり。少しも、人の上なる人、隨かふものは、いかにも成べしとおもふにや。暫くやむ(止む)へからずしてしたがふなり。たとへ主從の約(やく)有とも、大かたにめぐみ(惠み)ては、誠に辱(かたじけな)しとおもはじ。其惠も、凡(すべて)の人、よきことをば忘れて、わろきことをば、深く思ふものなり。然れば、一度よきとて、いつまでも、忘れまじきと思ふはおろかなり。こゝをよく心得べし。又少しもよき人の、從者百にも餘(あま)れらんは、皆軍(いくさ)の道をまね(學)ふべし。たゞ一わたり、こゝには、かくかまへ、かしこには、そなへなどせるを、まね(學)ぶことなれど、其かまへも、備も、猛き軍人(いくさびと)のなくては、有(ある)べからず。其人ありても、心より隨はではかな(叶)はず。もしいま、馬を出さんに、人の隨はずは、いかにとおもふ心、おのづからつくべし。さらば、隨ふことをせんとするに、たれかは俄に隨はん。親あり、妻子あり、かくて死なんよりはなど思ひて、迯(にげ)かくれ、せんかた(詮方)なく隨ふもの、などかは、心をまとめむや。よりて、餘りに、みづから貴を示さず、上下と打やはらぎ、親しみて、子の如く思はんには、主てふ名の有が上に、かたじけなき心は、骨にしむべし。さる時には、此國のならはし命をを(惜)しまず、おや子をもかへりみぬほどならめ。凡人は物のかひなくては、事の情も深くおこらぬものなり。よりて佛の道は、是をとなふれば、今生後生をたすかり、富貴と成といひて、引入侍るなり。人皆なづみ行(いき)ぬ。武の道も、たゞに、こはわろし(此は惡し)、かはあしゝ(彼は惡し)と教てのみは、かひなきまゝに、理りとはおもへど、人の心の引かたにつきて、教のとほるはなし。さて從者、誠に辱けなしと、こぞりておもはゞ、百人五百人にすぎずとも、其いひおもふこと、天が下に聞(きこえ)ん。さあらば、馬を出さんに、まねかずして、人集りぬべし。これをもて、大にか(勝)つべき道なりけり。よりて、たけきを學ぶに、及(しく)はなし。かくいはゞ、たゝ軍の時の爲とのみおも(思)はめ。しか從者をしたしまば(親しまば、※「勤王文庫」では「爲給はば(したまはば)」と記される。果していづれぞ)、心を用ひずして、家も富榮えまじ。誠に武の道は、直ければ、おろそかなし私なし。手をたむたきて(※「勤王文庫」では「拱きて」(こまねきて)と記述)、家をも治べし、天が下を治べし』と。

 人を用ひ有用することは寔に難しいものであつて、啻に今日、兔に角役立つ者のみ善しと思つてしまふ主は、愚ろかである。多くの從者の中には、皆長所もあり短所もあり、その能力も樣々あるから良いのであつて、夫々の長所や才能を上手に振り分け、活かすことが肝心なのである。人の上に立つ者は、たゞ人を服從させたり、持ち上げてくれるやう望んで人を使つてはならぬのである。
 凡そ、人の心といふものは猛きを旨とせねばならぬ。自分の信ずることは何處までもやる、無暗に人に頭を下げぬといふくらゐの人間が頼母敷いものなのである。さういつた者らは、取り分け人や世の中に認められないものであるから、さういつた者らは頼母敷い反面、うつかりすると不平を起こして叛亂するものである。それであるからあちこちにゐる、さういつた猛者を怒らせぬやうにする爲めにも、それらを排斥するでなく、有用することが大切である。若し、勝れた者が重く用ひられるやうな政策が執られゝば、たとひ今は用ひられなくても、やがて自分らも用ひられるだらうと思ひ、不平はおろか一所懸命努力するものである。逆に若し、猛き心なくたゞ御辭儀ばかりしてゐる他に何も取り柄が無いやうな者を重寶してばかりゐれば、いざといふ時に有用なる者らは、かういふ時代に生まれ合せた自分は實に不幸はせだ、といふ考へとなり、やがて世の中が騷がしくなるものなのである。
 又た世の中に、その才能が顯はれて相當な勢ひを有した者は、上に立つ者が幇間ばかりを重寶有用する無能な主であれば、やがて見限つてしまひ我が儘をするであらう。さうなると主は恐れるより仕方なく、さうならない爲めにも、上に立つ人は確りとせねばならないのである。又た上に立つ人は確りとするだけでなく、人の心までも知らねばならない。下々のオベツカを使ふ人の多くは、顏こそ表情をなだらかにして御辭儀をするが、それを見て主が、自分は偉い、皆は服從してゐると過信してしまふのは無能な主と考へることで、心の中では蔑まれてゐることもあるのだ。心に僞はりが無い者と有る者は、夫々であることを知らねばならない。
 又た縱令小數たりとも人の上に立つ程の人、下の者が無條件で隨ひ、その者らを「いかにも成る可し」どうにも主人の思ふ通りになると考へることは、寔に考への足らぬことである。さういつた無能の主人の下にある者は、先づ大概の者は已むを得ずして從つてゐるのである。そこを能く能く知らないで、上下の身分の差があり下は從ふと思ひ込み、安心するは大變な間違ひなのである。たとひ主從の約束があつても、「大かたに惠て」いい加減に何か惠んでやれば良いなどといふ考へでは、下々の民は、まことに辱けない、などと思ふ筈が無いのである。大概の人は、良いことは忘れてしまひ、惡きことはいつまでも覺えがちである。然るに一度、つまりいい加減な惠を與へて、いつまでもそれを忘れないであらうから、心服するであらうと考へるは愚ろかな考へである。本當にいざ事が起きた時に、皆が無心に努力するやうにして欲しいと考へるならば、平生より深く惠を施して、心で上下の關係を構築することである。これを能く辨へ、心得なければならぬ。
 又た、少しでも地位が高くて、自分の下に屬する者が百人以上もある人ならば、その下の者に戰さの道を學ばせる可きである。一朝事ある時には、夫々の働きをするやうに、平生に於て心と身體の訓練をしておかねばならぬ。一通り、此處にはかう構へ、彼處には斯う云ふ風にして敵を打ち斥けるといふやうに學ばせておかねばならないが、その計畫が出來てゐても、計畫だけでは守り切れず、やはりいざと云ふ時にその計畫を實行し得る、命をも惜しまぬ猛き軍人がゐなければ、有效ではないのである。そして有效な警備計畫があり、有能な武人が揃つてゐても、その猛き武人が心の中では上の人を敬つてをらず、從つてゐないやうでは、やはり有效とならない。若し今、有事が出來して、「馬を出さんに」戰爭が起こり出兵する際に、平生人が心の奧底で隨つてゐないならば、命懸けで戰ふ者は皆無と心す可し。人には親もあれば妻子がある者もゐるのであるから、上に立つ者から恩惠を賜はつてをらねば、こんな所で死ぬよりは逃げた方が宜い、と思つてしまふのも仕方ないことなのである。もし軍令が嚴しくして逃走を防がんとするも、それは逃げられないから詮方なく從つてゐるだけであつて、心を纏めて一致協力したことにはならない。有事出來の際、かういふ樣にならない爲めにも、上の者は能く人々の氣持ちを察して徒らに自分を貴いとせず、上下は互ひに和ぎ親しみ合ふやうに心掛け、下の者には恰も子を思ふやうに接すれば、主がこれほど自分を可愛がつてくれてゐる、信じてくれてゐるとの有難い心が骨身に沁みるであらう。さういふ關係となれば、元々、日本人は武勇に秀でた性質を持つてゐるのであるから、一朝有事の際も、命を惜しまず、自分の家や親をも顧みず、國を守る爲めに戰ふのである。
 おほよそ、人は、「物のかひ」乃はち報酬の見込みなくては誰れも骨を折りたがらないものなのである。報酬と云へば物品金錢のことゝ思はれるかも知れないが決してさうではない。人に自分の骨折りが認められるといふことも、報酬なのである。それであるから、佛教などでは、一所懸命、念佛を唱へればこの世も安樂であり、後の世も助かるとか、信心を一所懸命にすれば來世は極樂に行ける、或は家が榮える、暮しが樂になるだとか云つて、人を佛の道に引入れてしまふのである。たゞ信心しろと云つても、人は中々信心するまでには至らないので、このやうに、報酬を與へるやうなことを云ひ、人は皆佛教に泥んでしまふのだ。
 武士を養育するのもその通りであつて、たゞ單に、かういふことは惡い事である、あゝいふことは惡いから止めろ、といふだけの教へでは、報酬があるわけではなく、たとへそれが道理の上では適つたものであつたとしても、心の中では釋然とせず、教へられても結果に繋がりにくいものなのだ。若し從臣たる者が理窟ではなく、本當に有難い、辱けない、主を誇りと思ふ、といふやうであれば、自分達の努力が正しく認められて、或は主に認められたいと思ひ努力するものである。さうなればわづか百人か五百人くらゐしか人數がゐなくても、その一致團結の結果は天下に聞こえるであらう。そのやうな素晴しい主の名聲は轟き、若し愈々戰爭ともなり主が兵を出さんとすれば、招かずして兵となるを志願し集つてくる人が増えるものである。平生が肝心で、かういふやうな素晴しい主であり續けることが、乃はち勝を制するべき道なのである。
 よつて猛きを學ぶ、つまり平生に於て、戰爭の時のやうな覺悟を民に學習させておくことが大事であり、主も又たその心得を學んで置くことは決して無駄なのではない。しかし、たゞ、猛きを學ぶ、は、戰爭の爲めのみではないことを忘れてはならぬ。かういふ心得が上下共に滲透して、上に立つ者が下に立つ者と平生から親密にして、下の者もいざと云ふ時にこの主の爲めならば命を捨てゝも働く、といふ氣持ちが育てば、有事の時のみならず、平生も一所懸命働く筈であつて、結局、國も家も富み榮えるのである。本當の武の道とは、かういふやうに疎かなることも私心に支配されることも無いのである。
 であるから、之に基いて物事を行なへば、上に立つ人がそれほど骨を折らずとも、家も齋ひ國も治まり、自然と天下は平らかになるのである。
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by sousiu | 2013-04-09 11:40 | 先哲寶文

贈從三位 賀茂眞淵大人 その十六。 『國意考』その十四 

 おはやう御座います。

 昨夜は愛倭塾の山口會長の仕事場へ。和歌山縣へ行くのに山口會長から借りたトラツクを返へしに行つたのである。
 山口會長は優しい。寢る寸前であつたにも拘らず、起きて仕事場まで來てくれた。野生、廿一時過ぎに到著する豫定が交通澁滯の爲め優に十時を超え、それでも嫌な顏一つ見せずに待つてゐてくれた。結局解散は深夜0時。今ごろ寢不足で野生の惡口を獨語してゐるのではないかと、少し心配だ。
 申し譯ありません。
  
 
  ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~


承前。
●賀茂眞淵大人、『國意考』に曰く、
○佛の道てふこと渡りてより、人をわろくせしことの、甚しきはいふにもた(足)らず。其(その)誠の佛心は、さは有べからず。それを行ふものゝ、おの(己)が欲にひかれて、佛をかりて、限りもなき、そらごと(虚言)どもを云(いふ)ぞかし。それもたゞ、人にのみ罪あることにいへり。生とし生るものは、同じ物なるに、いかなる佛か、鳥獸に教(をしへ)たるや。さてむくひ(報い)などいふことを多くの人、さ(然)ることゝおもへり。其事古(ふるき)世よりの證どもいはむもわづらはし。人の耳にも猶(なほ)疑(うたがひ)ぬべし。たゞ今の御世にてたとへむに、先(まづ)罪報(ざいほう)は、人を殺せしより大なるはなかるべし。然るに、今より先(さきつ)世、大きに亂て、年月みな軍(いくさ)して人殺せり。其時一人も殺さで有しは、今のなほ人どもなり。人を少し殺せしは、今の旗本侍(はたもとさむらひ)といふ。今少し多く殺せしは、大名と成ぬ。又其上に、多く殺せしは、一國のぬしと成ぬ。さてそを限(かぎり)なく殺せしは、いたりてやむことなき御方とならせたまひて、世々榮え給へり。是に何のむくひ(報い)の有(あり)や。人を殺(ころす)も蟲を殺も同じこと成(なる)を知(しる)べし。すべてむくひ(報い)といひ、あやしき(怪しき)ことゝいふは、狐狸のなすことなり。凡(およそ)天が下のものに、おのがじし(各自)、得たることあれど、皆み(見)えたること成(なる)を、たゞ狐狸のみ、人をしもたぶらかす(誑かす)わざ(業)をえ(得)たるなり。もし今往昔(いまむかし)、人多く殺したれば、うまご(孫)に報やせんと、おもふ人あれば、狸やがて知て、むくひ(報い)の色をあら(現)はして、なぐさみ(慰)とすべし。たゞ人多く殺せしは、ほまれ(譽れ)ぞかし。もし此後もさる世にあ(會)はゞ、我なほ多くころ(殺)して、富をまし、名を擧むとおもふには、狸もえより(得寄り)がたし(難し)。然るに、かく治りては、さる(然る)こともなければ、はへ(蠅)蚊を殺すゝら、いらぬことよといふ樣になりて、憎にも狸にもばかさ(化かさ)るれ』と。


 佛教が日本に渡來して、既に一千數百年が經つが、この佛の道が又た日本の風俗習慣を惡くして甚しいことは云ふに足らない。
 尤もその本當の佛の道、佛の教へといふものは、今日巷に溢れるクソ坊主の云ふやうなことでは無かつたのであるまいかと思はれる。しかし此の佛の教へを世に弘めるインチキ坊主どもが、己の欲に心奪はれ、佛の教へを藉りて果ても無き僞はりを説いて世人を惑はすものであるから、その弊害が甚大になつてゐるのである。
 おほくの物臭坊主どもの説くところによると、人間が佛の教へに違ふから、人に罪があると云ひ、世が亂れるのである、と。故にその罪の犯すことを戒めなければならぬといふ。つまり佛の教へを遵守せよといふことだ。だが生きとし生けるものは皆同じである。もし人間だけが教へを守らねばならぬ、他の動物は教へを守らないでも宜しいといふ理窟ならばそれは洵に偏つた説と云はねばならぬ。人のみ罪人と見做すのであれば、一體いつ佛が鳥や獸に教へを説いたといふのであるか。佛は啻に人間のみを説いてゐるといふことである。であれば、佛の教へなんていふ理窟は、狹義であつて、決して絶對的なものではないと考へられるのだ。
 ところで錢ゲバ坊主は、人間のしたことには必ず報いがあると説いて、多くの世人を信じさせてゐる。あとで自分自身に報いが訪れると嘯き、恐れさせて行なひを愼ませたり、佛法とやらに從はせやうとしてゐるのである。だがそのやうな應報など行なはれないといふ實際の例を擧げれば、まことに幾らでもあるのである。古い時代からの例を擧げればキリが無く、煩はしいので暫く措くが、今の世の中のことだけを聞いても、甚だ奴らの云ふ應報などは疑はしいのである。
 多くの罪報の中でも、殺人より大なるものはない。佛法では之を「殺生」といつて嚴しくこれを戒め、この殺生の罪を犯した者は必ずその報いを受け、後に自分に禍ひが來ると云つてゐる。ところが能く能く考へてみると、先の時代では大變世の中が亂れた所謂る戰國時代に、年月絶え間無く戰爭が行なはれ、皆々多くの人を殺してゐる。その時一人も敵を殺すことが出來ずにゐた者は戰功が認められず、商賈や農家とせられ、その子孫は今猶ほ身分の低き者らである。武家社會では身分制度が嚴しく、子々孫々賤しい身分の者は、身分の高い人との違ひとして、先祖に戰場の功が無かつたからである。先祖が人を少し殺してゐたならば、その子孫である今の人は旗本や侍ひとなつてゐる。もう少し殺してゐる子孫は、大名となつてゐる。それよりも多くの人を殺してゐる子孫は、一國の主となつてゐるのだ。そして限りなく戰功のあつた者の子孫は、將軍といふやうになつて、全ての大名を風下に立たせ代々榮えてゐらつしやる。はて。彼れらを見るに、應報などどこにあるのだらうか。
 若し人を殺してはならぬといふのであれば、人も鳥も獸も蟲も皆天地自然のなかに住む同じ生き物であるのだから、同じく殺してはならぬのである。だがそれを應報といふ怪しいマヤカシなどを用ひるのは、狐や狸のすることで、この天地の間に在るものは、各々見えてゐることを着實に間違ひなく、爲してゆけばよいのである。狐や狸は人を誑かす能力を持つてゐるから、それで人の思ひがけないことを仕出かすのであつて、普通に世の中にあり得ないことを申して人を惑はせるのは、要するに人間でありながら狐や狸の眞似をしてゐる愚ろか者といふことである。先祖が殺生したからと云つて、その報いが自分や子孫に及ぶであらうなどと考へると、狸坊主がこれを知つて、何か昔の報いがあると面妖なことを云ひ出し、正直な人を惑はし、それを慰みとしてするのであるから、それこそ人間としてしてはならないことなのである。
 もしもその昔、先祖が戰國時代に生きたとして、そこで武勳を立てたとする。その子孫は應報などを信じて先祖を恥ぢたり、應報を恐れるあまり先祖を辱めて自分が助からうとしたり、先祖を恨んだりしてはならない。その時代には眼前に戰場があつて、與へられた使命があつて、そして武勳を立てたのであるから、それはそれで先祖の譽まれとして然る可きなのである。それであるからさういつた子孫は若し今後又た世が亂れて自國や一族や家が危機に瀕した時には、先祖に恥ぢぬやう勇氣を以て敵を多く討ち殺し戰功を立てなければならず、でなければ子孫が榮えないのである。このやうに先祖を敬ひ、國や家を榮えるやう努力する心があれば、狸のやうな者共も近寄らず、妖言に惑はされることも無し。
 ところがこのやうに世の中が治まつて久しくなると、戰爭も無いのであるから、人を害する蠅や蚊などを殺しても、何か罪惡感を覺えるやうになる。かういふやうに無條件で淺薄な善ばかりに氣をとられると、欲深坊主や狸などに誑かされるのである。





 因みに、眞淵大人は、これまで讀んでも判るとほり、儒教に對しては過ぎるほどの酷評を以て挑んでゐるが、佛教に對しては批判してゐるものゝ、儒教ほどに斧鉞を加へてゐない。これは時代の背景によるものであるのか、然もなくば國學の成長に於ける過程としてある可き態度であつたのか、おそらく兩方であらうと思はれる。何となれば古道論、復古神道論が發展すればするほど、儒佛は排斥されねばならなくなるが、眞淵大人の現時點に於ては、未だその發展をみない段階にある。これを顧慮せず大人の佛に對する姿勢が手緩しと見做すのは、不當であらう。

◎清原貞雄博士『國學發達史』(昭和二年十一月廿五日「大鐙閣」發行)に曰く、
斯く支那の儒教は、眞淵の考によれば徹頭徹尾惡い教である。然らざれば實行不能の空想である。之に對して佛教は如何と云ふに、佛教其ものに就ては眞淵は儒教に對する程の反感を有つては居ない。「佛の道てふことの渡りてより人をわろくせしことの甚しきはいふにもたらず」と云つて佛教の弊害を認めて居るが、然し誠の佛心は斯の如きものではあるまい、それを教ふるもの即ち僧侶抔が己れの慾に惹かれ、佛を道具に使つて限りなき空ごとを云ひ出したものである、人に罪があるので佛教其ものが惡いのでは無いとし、其佛教家が説く所の事も何等の根據も無い造言である證として
「先づ罪報は人を殺せしより大なるはなかるべし。然るに今より先つ世、大きに亂れて、年月みな軍して人殺せり。其時一人も殺さで有しは、今の直(たゞ)人
(※上記「賀茂眞淵全集」では「今のなほ人」と記される)どもなり。人を少し殺せしは今の旗本侍といふ。今少し多く殺せしは、大名と成ぬ。又其上に、多く殺せしは一國のぬしと成ぬ。さてこそ(※仝「さてそを」と記される)限なく殺せしは、いたりてやむことなき御方とならせたまひて世々榮え給へり。是に何のむくひのあらんや(※仝「有や」と記される)
と云つて、所謂因果應報説の取るに足らざるを論じて居る。勿論之は小乘佛教の末であつて、大乘の眞諦に觸れて居ないとの非難も立ち得る譯であるが、當時佛教が國民の思想生活と關係あるは專ら斯の如き方便説の部分であつたのである。故に眞淵の云ふ所も全く無意義とは云へない。又我國は古來武勇を以て立つて居る國である。然るに佛教が輸入せられ、因果應報抔の妄説が行なはるゝに及んで此國民の武勇の徳が大に害はれた事を論じて居る
』と。




 こののち、本居宣長大人、平田篤胤大人他の一大碩學が陸續出現し、國學はおほいに發展を遂げることゝなる。
 然るに佛教は平田篤胤大人による講談及び著述である『出定笑語』『出定笑語附録』『印度藏志』『悟道辨・尻口物語』などによつて猛烈に筆誅されるのであるが、尤もそれはまだ後の話しである。
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by sousiu | 2013-04-08 09:06 | 先哲寶文

贈從三位 賀茂眞淵大人 その十五。 『國意考』その十三 

 今日(四日)は、時對協の定例會が行なはれた。宮城縣から、自他共に認める病人、・・・でなく、變人(あまり違はんか)坂田昌己君が參加した。野生は竊かに、彼れは何かに憑依されてゐると見てゐる。が、このことに就て深く穿鑿すると、彼れに呪ひ殺されるかもわからんので、これ以上の推測は無用だ。いづれにせよ時對協は、一風變はつた漢の集まりだ。
 又た今度びは新らしく、福田議長に伴はれて、國學院大學の學生も參加した。
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承前。
●賀茂眞淵大人、『國意考』に曰く、
○世の中の生(いけ)るものを、人のみ貴しとおもふはおろか(愚か)成ことなり。天地の父母の目よりは、人も獸も鳥も虫も同じこと成べし。夫(それ)が中に、人ばかりさとき(聰き)はな(無)し。其さときがよきかとおもへば、天が下に、一人二人さとくば、よきことも有べきを、人皆さとければ、かたみ(互)に其さときをかま(構)ふるにつけて、よりゝゝに、よこしまのおこれるなり。夫もおのづから、こと少き世には、思ひよもにはせ、たゞまのあたりのみにして、ことをなす故に、さとさも少し。よりてちひさき事はあれど、大なることなし。たとへば、犬の其里に、多く他の里の犬の來る時は、是をふせぎ、其友の中にては、くひもの、女の道につきては爭へども、たゞ一わたりの怒にして、深くかまふることなきがことし。唐にては、事を人にしらせず、上なるものゝみ知て、おこなふぞよきとて、萬の事を、をぐらく(小暗く)、たとへば、堯舜を佛家の云、あみだ(阿彌陀)釋迦のごとく立て、其次の夏殷周を證據とするなり。堯舜も、夏殷周も、いひ傳ふるごとくはあらで、いとわろきことの多かりけむを、さては教にならずとして、かくして本ををぐらく(小暗く)して、人をまどはしむるなり。是を傳へて、此國にも、のちゝゝは、さることをいひおもへど、今おもふにさては天が下の人、よく心得ず、上つ代の事をも、何もみな少しも僞らずいひ開て、天が下にものなきことをしらせて、後に然はあれど、かく後の世と成りては、とも有べしかくすべしと、よきほどに、教を立べきものなり。物(※「勤王文庫」では「扨」と記される)少(すこし)も物學びたる人は、人を教へ、國を經濟とやらむをいふよ。かれが本とする孔子のをしへすら、用ひたる世々、かしこ(彼處)にもなきを、こゝ(此處)にもて來て、いかで何の益にかた(立)ゝむ。人は教にしたがふ物と思へるは、天地の心を悟らぬゆゑなり。をしへねど、犬も鳥も、其心はうつゝゝ(※「勤王文庫」では「かつゞゝ」と記される)有(あれ)ば、必(かならず)四時の行はるゝが如し。同姓をめとらずといふを、よしとのみ思ひて、此國は兄弟相通(つうじ)たり。獸に同じといへり。天の心にいつか鳥獸にことな(異)りといへるや。生(いき)とし生(いけ)るものは、皆同じことなり。暫く制を立るは人なれば、其制も國により、地により、こと成るべきことは、草木鳥獸もこと(異)成が如し。然れば其國の宜(よろしき)に隨て、出來る制は、天地の父母の教なり。此國のいにしへのはらから(同胞)を、兄弟とし、異母をば兄弟とせず、よりて、古へは人情の直ければ、はらから通ぜしことはなくて、異母兄弟の通ぜしは常に多し。たまゝゝはらからの通ぜしをおもき(重き)つみ(罪)とせしなり。物の本をいへば、兄弟姉妹相逢て、人は出來べきことなり。然れども、人の世と成りて、おのづから、はらからの制は有しぞかし。其獸にわか(分)たむとして、同姓をめとらずてふ國の古へは、母を姧(左上「女」+左下「女」+干=おか)したることさへ見ゆる。たまゝゝ文に書出たるをおもへば、隱しては、いかなること(事)かせしならむ。ふと一度制を立れば、必(かならず)天が下の人、後の世迄守るものとおもふは、おろかなるわざなり。其同姓おかさぬ教も守るほどならば、君を弑し、父をころす制は破(やぶれ)て、同姓めとらぬをてがら(手柄)とおもへるは、如何なる愚昧にや。凡(およそ)天が下は、ちひさき事は、とてもかくても、世々すべらきの傳りたまふこそよけれ。上傳れば下も傳れり。から(唐)人の云(いふ)如く、ちりも動(うごか)ぬ世の、百年あらむよりは、少しのど(閑)には有とも、千年治れるこそよけれ。此天地の久しきにむかへては、千年も萬年も、一瞬にあらねば、よきほどに、よきもあしきも、丸くてこそよけれ。方(かと)なることわりは益なし』と。


 世の中の生きとし生けるもものゝ中に於て、人間のみが貴いと思ふことは寔に愚ろかなことである。
 天地と云ふ親の目からみれば、人も獸も鳥も虫も、生あるものは皆、同じものである。その中に於て、人間だけが知惠に就ては大いに勝れてゐる。その知惠有ることが素晴しいことであるかといふと、天下に一人や二人の者だけ知惠があつて、その知惠を振うて多勢を纏めれば、それは世も治まり易く素晴しいことであらうけれども、人が皆知惠を有せば、互ひに其の知惠を降り囘して優劣を競うたり、素直に意見を聞入れなかつたりするやうになるから、爭ひが甚しくなつて、邪な事ばかり多くなるのである。
 尤も昔から、我が儘な者が居つたには居つたが、昔は人間が直く事が少ない世であつたから、その我が儘をするといふことも只目の當たりのことのみに止まつてゐたので世の中全體からみれば本當に小さい出來事で濟んだのであつた。よつて小事はあつたが大事は無し。
 例へば犬がゐる里へ、他の里から多くの犬が來たとする。その里の犬は侵入する犬を禦いで入れないやうにするのだ。それであるから同じ里の犬同志は洵に仲が良く、偶には食ひ物の事とか女の事に就て爭ふことくらゐはあるであらうが、それも一通り怒つて吠えたりしてゐる内に濟んでしまふので、いつまでも深い確執にはならず、又た仲よくなるものなのである。
 ところが支那では、地位のある人らは頻りに知惠を振ひ、成る可く物事を人には相談しないで一部の地位のある者同志で萬事を計畫し、法律や命令を澤山作つて、人々には之を突然實行させたりするので、上下に隔りが生じてしまふのである。後世に傳はつたところを見ると、昔の堯とか舜とかいふ王は非常に優れた人で、佛教で云ふ阿彌陀とか釋迦とかと同じやうに考へられた。その次の夏(禹)や殷(湯王)や周(文王、武王)とかいふやうな聖人が出たといひ、これらを證據として優れた國であることを誇つてゐる。しかし實際は彼れら支那人が聖人と見做してゐる堯舜も、夏殷周の君主にしても、傳へられるほど優れたものであつたかと云へばさうではなく、惡いことも少なくはなかつたやうだ。しかしさういふことを全て包み隱さず傳へてしまふと、教へにはならなくなつてしまふから、儒教ではさういつた事實は成る可く匿せるだけ匿し、取り繕へるだけ取り繕ひ、善いことばかりを教へて人を惑はしてゐるのである。
 このやうな嘘僞はりの教へが日本にやつて來て、之を手本としてしまふから、兔角支那のやうに治まり難く、長期間且つ大規模に亂れてしまふのも、或は已むを得ないのである。
 それなので早く日本の本來の面目を取り戻して、昔はお互ひが直き心を持つて接し合つてゐた、僞はりも少なく、世の中は能く治つてゐた、といふことを皆に知らせたいと思ふのである。尤も、世の中が進んでしまつてゐるので、後になつて來れば、全く昔の通りにはならないと思ふ。でも、しつかりと以前の日本人や日本國はかうであつたと教へ傳へていくことは大事なことなのである。
 さて。少しでも支那の學問をした者は、人が生きていく爲めには「教へ」といふものがなくてはならぬ、又た國民が勠力協心して國を盛んにする所謂る「經濟」といふ理窟を頻りに云つてゐる。これは一應尤もな言ひ分であるが、實際やつてみるとこれが中々理窟通りにいくものではない。彼れらのその道の立て方は、專ら孔子の教へに基くものださうだが、その孔子の教へも實際にはその通り實行し得て、治國平天下の實現した成功例が、支那に於て殆ど見當らない。何事も理窟通りに上手に治まるものではないのである。
 人には自然の道と云ふものがある。先づこの自然の道に順ふを以て萬事を爲し、已むを得ない場合に於て教へとか戒めといふものも必要になるのであらうが、教へにさへ從へばそれで世の中が上手く治まり、人は皆滿足するものなのだと信じることは、天地自然の心を悟つてゐないが爲めである。
 犬も鳥も、何も教へられなくとも皆それぞれ上手に治まり生活してゐるところをみれば、自然界に春夏秋冬が必ず巡るやうなもので、人間も教へに頼らずとも天地自然の心と一致すれば、お互ひに亂れず治まることが出來る筈なのである。
 漢學をやる者は支那を崇拜し、儒教を本來の人の道と誤解してゐる。例へば同姓相ひ娶らず、と云つて直接の親戚でなくとも同じ姓の者同士は結婚をしないといふ定めがあるが、これこそ正しい教へであつて、日本では昔は兄弟姉妹も夫婦になつたことがあるので獸と同じであり人の道など存しなかつたと云ふ。併しながら彼れらの教へに則しないものを人の道に外れてゐると云ひ、獸と同じであると云ふが、獸を非常に賤しい生き物に考へてゐるがこれは抑も間違ひなのである。天地の間に生まれたものは、皆それゞゝ天地の力によつて生まれたものであつて、鳥獸にもやはり天地の心が通つてゐると考へるのが當然である。生きとし生けるものは人も鳥も獸も同じなのである。しかし人だけが知惠が勝れてゐるので、鳥や獸よりは複雜な生活をしてゐる。併し同じ人間であつてもそれゞゝ性質が違ふし環境も異なるので國により地域により法制も異同があつて當たり前である。草も木も鳥も獸も、それゞゝその形や種類が違へば生活の樣式も違ふのである。
 それであるから其の國々の宜しきのまにゝゝ、自然に生活の仕方や制度が異なつて出來てくるのが當たり前で、之が天地自然の道なのである。
 日本では昔から一切、兄弟が區別がないといふわけではない。たゞ母親が違ふと、母親の兄弟と同樣には考へないで、母親の違つた兄と妹が夫婦となつた例は度々ある。併し昔の人は正直であるから、さういふ慣はしがある以上は、母親が同じ兄と妹で結婚するやうなことは無かつた。異母兄妹同士が夫婦になつた例があるといふことだ。若しも同じ母親を持つ兄と妹が通じてしまつた場合、重罪に處せられ世の中から排斥され、殆ど人間社會の交際も出來なかつたほどである。
 固より初めを辿れば、兄弟姉妹といふものがあつて、その間から子孫が殖えたのであらうから、必ずしもさういふことを喧しく云ふには及ばなかつたのであらうけれども、併しながら社會が出來てくると自づと規律といふものが出來てくるので、そこで日本では母親が異なれば夫婦になることは宜しいけれども、母親の同じ者同士は夫婦となれぬ制度が自然に出來てきたのである。これは昔からの制度で、つまり日本國民の性質に適つたものであるから、それが久しく行なはれてゐたものであつて、それを支那の教へと異なると云つて人間の道に外れてゐる、獸の心である、支那の方が貴いなどといふことは間違つてゐるのである。
 支那では直ぐに、人間と獸との違ひはこれだ、などと云つて、同姓を娶らずといふことを非常に大切で尊貴なものゝやうに自負してゐるけれども、實際は書物に現はれた所だけ見ても、母子が通じてゐたなどといふ事實が度々見えるではないか。さういふ極端なことさへ書物に書かれてあることを思へば、おそらく世に傳はらない、つまり匿されたる歴史上の事實として、隨分見苦しいことが澤山あつたに違ひないのである。抑もこれほどまでの事實がある國である。昔に一度さういふ制度を立てた既成事實があるのだから後世に至る皆がそれを守つてゐたなどと考へることも全く愚ろかと云はざるを得ない。大體支那人が、遠い昔に立てられた「同姓娶らず」の教へが後世まで守られてゐるやうな連中ならば、君を弑したり、父を殺してはならぬ聖賢の教へを守られてゐる筈ではないか。王君を弑し自分が之に代はり、父を殺し手柄として何とも思はない連中が、同姓娶らずの教へは頑なに守り續けたなどといふ言葉は到底信じることが出來ず、若しさうであつたにせよ、逆臣、不孝にして同姓通ぜぬの制だけは守り續けたといふことが、どれほど彼れらにとつて誇れるものであるといふのか。
 兔にも角にも、小さい事は扠措いて、世の中は 天皇の思し召しを臣下は奉り、それを下々の民にまで普くこれを傳へていくことが大切なのである。さうして國は一致するのである。この點から考へれば、支那は、到底日本に及ぶものではない。
 支那の云ふやうな、塵も動かないといふ時が百年續いて直ぐに變はるよりも、少しは緩みがあつても、まア、大體に於て能く治まつて千年續く方が宜しいのである。また天地の悠久を考へれば、千年も萬年も瞬き一つする間のやうなもの。そこで善なるか然らずんば惡なるか、などといふ嚴格な理窟で世を計るのではなく、丸くて、即はち自然の道を本として治めて行く方が好い治め方なのである。角張つた教へや理窟なぞ、實際に行なひ難きものなれば、それは無益と申すものである。



 
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by sousiu | 2013-04-05 01:24 | 先哲寶文

贈從三位 賀茂眞淵大人 その十四。 『國意考』その十二 

 相變はらず「道教」の本を讀んでゐる。「道教」を讀み續けてゐると、「國意考」が何處までだつたか、何の別の書物を引用しようとしてゐたか解らなくなつてしまふ。これは若年性(ん?若年・・・乎)アルツハイマーであるのか、それとも勉強の仕方が間違つてゐるのか。

 本日は早朝から病院が開くのを待ち、いそぎ病院へ。こゝ數日間、身體が痛痒くて滿足に寢ることも出來ず、遂にネを上げた。本來ならば今日、青梅の大東神社で執り行なはれる祭事に參加する豫定であつたが、已むを得ず、不參。
 醫師の診察ではアレルギーであるとか。藥をいたゞき一ト安心。これまでは數年に一度しか病院へ行かなかつた野生であるが、徐々に病院へ行く頻度が増えてゐる。身體維新したいものだ。
 
  ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

承前。
●賀茂眞淵大人、『國意考』に曰く、
○たゞ其國の、天地のまにゝゝ、古へよりな(爲)し來るがごとく、板のやね(屋根)、土の垣、ゆふ(木綿)のあさ(麻)の衣、黒葛卷(つゞらまき)の太刀とやうにして、すべらき、御みづから、弓矢を携へて、獵(かり)したまふ程ならば、などかか(斯)くうつ(移)りゆかむ。人の心はうつくしきにつき、高ぶるを好むもの成(なる)に、唐人のさまを羨(うらやみ)てせし頃より、たゞ宮殿衣服をのみ、よろしく成て、上の身いと貴に過て、心はおろかに、女のごとくなりたまひ、かしこきにあまりて、上の位をしのぎ、まつりごと臣に取りたまへれば、上は御身のみ貴くて、御心はいと下れり。臣ぞ古への上のごとく成て、唐のごとく名をおかし、上を穢することはせぬども、上はあれとも、無が如く成ぬ。さらば臣は、夫にてとほるにやと見るに、其古、臣も後の臣にな(無)みせられ行て、其名の傳(つたは)るのみなり。是こゝの道を忘て、人の國に、ならひたるあやまちより、なれることなり。或人問(あるひととふ)、さらば、古へは皆あ(惡)しき人はな(無)きか、世は亂れざるかと。答(こたふ)。此問(このとひ)はまたよく直きてふ意をしらぬ故なり。凡(およそ)心の直ければ、萬に物少(すくな)し、もの少ければ、心にふか(深)くかま(構)ふることなし。さて直きにつきて、たまゝゝわろきことをなし、世を奪んとおもふ人も、まゝあれど、直き心より思ふことなれば、かくれ(隱れ)なし。かくれなければ、忽(たちまち)に取ひしがる(取り拉がる)、よりて大なる亂なし。直き時は、いさゝかのわろき事は常あれど、譬へば村里のをこ(嗚呼)のものゝ、ちからをあらそふがごとくにて、行ひしづめ(鎭め)やすきなり』と。


 日本は、萬事が簡易であつた。これは天地自然の理りに隨つて、古へより經營されてゐたからである。たとへば家の屋根も板であり、垣も土をもりあげて造り、服も麻の衣を着て、太刀なども黒絲で柄を捲いて差し、支那人のやうに袞龍の服なるものゝやうな、恐ろしく仰山な姿などしなかつたのである。それで 天皇おん自ら弓矢を携へて狩に御出でになり、國民はみな 天皇の御服裝や裝飾ではなく、ありのまゝの御姿を仰ぎ見て、心から有難く思ふのである。寔に君臣上下相睦じく、かふいふやうな昔の風が何時までも行なはれてゐるならば、後世のやうに時が移り行き物事が面倒になり、國内に爭ひが多いといふことも無かつた筈なのである。
 さても人は美しいものを好み、又た相當の地位が與へられゝば其の地位に驕り、多くの人の上に立つて威嚴を示したいといふやうになりがちである。やがて支那人を羨むやうになると、段々支那風を取入れて、高い地位にある者は立派な御殿に改築し、身なりも派手になつてゆき、上位の人と下々の民との格差が激しくなり、やがて心の觸れ合ひが疎遠となつていつた。高位の人達は奧深い所に引つ込んで、世の中仲睦じくするよりも貴賤を氣にするやうになつてしまつて、心は寔に愚ろかに、みな女のやうになつてしまつて、自ら貴きに過ぎるあまり世の中のことは家臣に任せるばかりで政治に就てはサツパリ解らなくなつてしまつた。上に立つ人は、身分や身なりこそ貴くなり續けるが心は下落していつたのである。
 さらば臣下は本當に臣としての務めを果して、上の人たちを補佐してゐるかといふと、これが又たさうではなく、自己保身から立身出世のことばかりを考へるやうになつてしまつて、自分の勢力をつくつて上を凌がうとする。さうなると、その者の臣下も又たそれを見て、自分も同じことを考へその者を凌がうとするわけで、結局人心が亂れて上下の別は名目のみであり、實態は無いと申す可きものである。かういふ譯であるから世の中に騷亂が絶えなくなつてしまつた。昔のやうに安らかに治まるといふことが少なくなつてしまつた根本を考へてみると、日本の古へに行なつて來た自然の道を忘れ、「人の道」つまり支那の人工的な眞似をしてしまつたことが原因だつたのである。
 かういふやうに日本の本來の姿に戻れ、といふと、ある人が疑問を投げ掛けてきた。それならば古へは皆正しい人ばかりであつたといふのか。支那の學問が入つてくる前には、世の中は少しも亂れてゐなかつたといふのか、と。
 眞淵大人答ふ。この問ひは、前述した「眞つ直ぐな心」といふ意味を能く理解してゐないからである、と。
 人間の心が直くある際には、世の中に大事や大變な出來事は少ない筈である。少なければ、色々理窟を捏ねて説明したり、自分の過ちを取り繕ふ爲めに僞善を裝つたりする必要もないのである。それであるから、若しも不覺に過ちを犯しても、或は故意に世を奪はうとする惡謀を計畫しても、元來素直で正直な風習であるから、巧みに隱し通すやうな考へは思ひ付くべくも無いのである。それ故に萬が一何か惡事を企てゝも、その計畫が直ぐに判明するから、周圍の人が皆用心して、大事に至る前にその惡い者は制裁を受けて矯正されるか、さなくば社會から排斥されてしまふのである。よつて大亂には及ぶべくもないのである。
 昔、人間の心が素直であつた時代には、時として世の中が亂れた時もあつたけれども、その亂が國家全體に累を及ぼすやうなことは無かつたのである。たとへばその國の亂れにせよ、そこらの村里に不心得者があつて、少し亂暴を働くくらゐなもので、直ぐにその亂暴者は周圍の者の爲めに取り押さへられてしまふから、その實害は大きくならないで濟んだのである。



 かうして見ると縣居大人は、自然の道を繰り返し唱へてゐる。
 野生の説明文では野生の讀解力、文章力不足が災ひして、よく判らないと思ふ。
 こゝまでのおさらひとして、又たしても清原貞雄博士の言を拜借せねばならない。
       ↓↓↓↓
    http://sousiu.exblog.jp/18847140/

 又た、
◎清原貞雄博士『國學發達史』(昭和二年十一月廿五日「大鐙閣」發行)に曰く、
或人は又我國の古代には仁義禮智と云ふ事が無かつたからそれに當る國語も無かつたと云つて居るのは一を知つて二を知らぬものである。支那に之等の教を立てそれに違ふを惡いとして居るが、凡そ天下に五常の道は自づから備はつて居る事、恰も四時がある樣なものである。春夏秋冬の名目は無くとも寒暖の移り變りは自然に存する如く、五常の目を立てずとも、五常の道は自然に人に備はる心である。それを支那にばかり道徳が備つて我國に缺けて居る樣に人が思ふのは何故であるかと云ふに、我國の古道は天地のまにゝゝ丸く平らかにして却て人の心詞に言ひ盡し難いから人が氣が附かないのである。此丸いと云ふ事、支那の教の如く稜々しくないと云ふ事が大切である。凡そ天地自然のものは、日月を初めとして皆丸い。恰も平らかなる草葉に置いた露が自然に丸みを帶びて居るやうなものである。故に世を治めるにも此丸きを本として治むべきである。あせつてはよくない。萬事自然のまゝがよい。斯く自然のまゝに任する時は或は好ましからぬ事もあるかも知れない。然し人間の心には自づから其所に格制があつて、極端に趨るものでは無い。支那の如く嚴重なる教を設くる時は、一時は治まる事が出來ても何時かは却て君を弑し父を殺すが如き甚しき亂倫の事が起るものである。塵も動かぬ世の百年あるよりは、多少の緩みはあつても大體治まつて居る事が千年續く方が望ましい。即ち到底實現せられない極端な理想を畫くよりは、却て大凡の所を保つて千萬年の無事を續くる方がよい。
 以上が其の國意考に見えた所の古道の大要である』と。

 ・・・う~ん、さすがに上手に纏め、且つ説明されてゐる。

 今日はこゝまでとしたい。
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by sousiu | 2013-04-03 11:04 | 先哲寶文

贈從三位 賀茂眞淵大人 その十三。 『國意考』その十一 

 昨夜から今朝に掛けて實家へ歸つた。母は七十三歳になる。まだ元氣だが、野生の少年期の頃にあつた迫力は既に無い。(野生は怒られてばかりであつた。汗)
 野生、十年ほど前からか、遲まきながら親孝行を考へてくるやうになつた。
 前々囘だつたと思ふが「歌道講座」で眞由美先生から、「本當の親孝行とは肩たゝきをしたり、お金を渡したりするものでなくて、親が我が子を誇れるやうな人になること」と教はつた。

  ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

承前。
●賀茂眞淵大人、『國意考』に曰く、
○唐國の學びは、其(その)始(はじめ)人の心もて、作れるものなれば、氣々に(※「勤王文庫」では「聞くに」と記される。果して如何)たばかり有(あり)て、心得安し。われすべら御國の、古への道は、天地のまにゝゝ丸く平らかにして、人の心詞に、いひつくしがたければ、後の人、知えがたし(知り得難し)。されば古への道、皆絶(たえ)たるにやといふべけれど、天地の絶ぬ限りは、たゆることなし。其はかり(計り)やすき、唐の道によりて、かく成れるばかりぞや。天地の長きよりおもへば、五百年千年、またゝき(瞬)の數にもた(足)らぬことなり。ことせばく(事狹く)、人のいひしことを、あふぐ(仰ぐ)てふ類には侍らず。凡(およそ)天地のまにゝゝ、日月を初(はじめ)て、おのづから有(ある)物は、皆丸し。是を草の上の露にたとふ。その露くま(曲阿)ある葉に置(おく)時は、したがひてことなる(異なる)形となれど、又平らかなる上にかへ(返)して置(おく)は、もとの丸きがごとし。されば世を治めたまふも、此丸きを、もとゝしてこそ治(おさま)るべけれ。けたにこと(事)せり(競り)がましきは、治らぬと、唐の世をみて知べし。かくて天地の心なれば、さるべき時には、もと(本)にかへし(返し)たま(玉)ふべし。いや(賤)しくせば(狹)き、人の心もていそぐは、かへ(返)りてみだれ(亂)となれゝ。唐人は上なる人は、威をしめし、貴をしめすといへど、おろそけなるをしめすはよし。尊きをしめすは、みだ(亂)るゝはし(端)なり。其威をしめす、ものゝふの道の外なし。是をわすれずして、行ふべし。ことに、我すべら御國は、此道もて立たるをみよ。又おろそげなるをしめすのよ(善)きは、上のおろそげなるをみて、かたじけなきおもひをおこし、おのがじしも、夫にしたがひて、こと少に成ぬ。事の少ければ、ふ(好)み少し、ふみ少ければ、心易し、心易ければ、平らかなり。貴をしめすのわろきことなり。先(まづ)宮殿衣服をはじめて、宮女衣をかざり、宮人あや(綾)をまとひ(纏)するを見て、誠に貴とみて、心よりあがむる人は、貴をしめさずとも、事もあらじ。夫(そ)が中に、天地に心いたれるを、ますらをとして、かくてあらむこそ本意なれ。い(最)とせばき命かは、天に任せて、行はんなど、おもふものも、たまゝゝ有て、うばゝむ謀をなすめり。又さのみ勢(いきおひ)及ばぬまゝに、おもひしひてあるも、心のねたみ、いかばかりならむや。いでや我こそあれ、いか成(なる)所よりか、亂(みだれ)よかし。ついで(序で)にの(乘)りて、さるべく謀らんと、おもふ心は、宜(よろしき)者は皆侍るべし』と。

 支那の儒教などといふものは、人間が色々工夫して作り上げたものだから、一通り聞いてみると如何にも有難いやうに思へるが、その實行し難いといふことは已むを得ない。
 我れらの 皇御國は、昔から天地自然の理りに從ひ、神代より人代までこれが續いてゐるのである。それは恰度、支那では角ばつてゐるのに對して、日本の理りは丸く、平らかであるといふことだ。自然の儘であるから、それを理窟で言ひ表はさうとしても中々詞では言ひ盡くし難い。從つて、後の世に之を學ぶ人があつたが、甚だ學び知るのも難しくなるわけだ。だからと云つて、それは日本獨自にあつた古への道が絶えたかと云へば、決して絶えたわけではなく、天地が絶えない限り、天地自然の理りに即した日本の道も決して絶えないのである。
 ところが日本に支那の教へや考へ方が入つて來て、自然でなく人間の拵へた理窟を説いた爲めに、人心は狡猾になり、自然の儘に安らかに生きて行くといふ習慣が亂れ、現在のやうな面倒な世の中が現出したのだ。
 尤も、世の中が長く續く内には、亂れることもある。併しながら天地の間の非常に長い時間に比べれば、五百年や一千年とかいふ時間は瞬きする間と同じなのだ。
 抑も、天地の理りに隨つて、日月を初めとして、自然の儘のものは皆丸いものなのである。これを草の上の露に喩へてみたい。その露を四角いやうな木の葉の上に落ちてゆくと、この葉の形に順つて形を異ならせるものだけれども、それが平らかな地面の上に落ちると、再び元の通り丸いものとなるのである。
 それと同樣に、世の中を治めようとするならば、露が元の通り丸くなるやうに世も元の通りにして、キチンと治めることが出來るのである。それを角を立てゝ、これが仁だ、義だ、禮だ、智だといつてお互ひに爭ひ合へば決して丸くは治らないのである。その證據は支那の實際を見れば能く解るのである。聖人だの賢人だのの教へと云ひながら、結局彼れらの國は治つてゐない。
 斯う云ふわけであるから、若し人間が天地の心と一致してをれば、天地の力も自ら人間に加はつて、たとひ一時は亂れても、また元に復し人は安らかな生活を送ることが出來るであらう。これに反して天地の心を辨へず、勝手に賤しく狹い理窟などを以て人心を變へようと急げば、却つて亂れるばかりである。
 支那では、多くの人の上に立つ者は、威を示し貴きを示すのが必要であると考へ、家の建て方から儀式制度といふものが非常に喧しくあり、之によつて初めて君臣上下の別が立つのだと主張するけれども、上の人が正直に自分の心を打明け、誠心を以て下の者と接し、一體となる點に於て甚だ缺けてゐる。それであるから帝王などといふ位にある者は、非常に貴い者としてあるのみで、人民とは全く懸け隔てゝゐる。それを見て之を羨む人民らが、自分も之に取つて代はらうといふ考へを起こす者らが出來るのであるから、たゞ上の者が、私を尊べなどと示すといふことは、國の亂れを促す端初に過ぎないのである。本當に威を示すといふことは、國内に謀反を企む者が出るとか、外から攻められた時、自ら武士となりてそれらを撃退する勇氣があることなのである。それにしても、それは敵が出でた際已むを得ずのものであつて、平時に於て徒らに武威を見せ付けることではない。そこを能く考へねばならぬのである。日本では自然の理りに即した安らかな國であることを本とする。徒らに威を示すといふことを決して望むものではないのである。
 又た、上の人が安らかな心を以て正直に下の者に接するといふことであると、下の者も上からの信を得てゐることを實感して、忝なき思ひも起こり、自分達も正直に、誠心を以て上や下の人に接するやうになり、事が簡易に行なはれてゆくものなのである。事が少なければ人間に好みも少ない、つまり利慾も少なくなる。利慾が少なければ、爭ひも少なくて、常に御互ひ心は安らかとなるのである。皆の心が安らかであれば、世は平らかとなるのだ。
 貴きを示す、といふことは全く惡い事である。上の人が威嚴を立てゝばかりでは、人の心は離れて行く。そのやうなことをせずとも、それ程にせずとも、先づ御殿といふやうな造りや平生着てゐる着物でも、身分の高い人は一般の人とは自づと違ふのである。御殿に宮女といふ人が仕へてをれば、やはり淑やかな風をして 君に傅いてゐる。當然その他の宮中の者も皆身なりを整へてゐる。かういふ樣子を見れば誰だつて貴いと解り崇めるのであつて、これ以上やたらに威張つたり、武威を見せ付けたりする必要などはないのだ。いつも天地の心と同樣に、安らかな心持ちで君臣上下相ひ睦間敷くことが本當に國を建てゝいくといふことの意義と申さねばならぬ。
 支那では偏狹な考へ方から、天命を享けて王を稱する者が多いことから、自分も天の命を享けたなどと云ひ出す者らが出でて、王位を奪はむとする謀が多發する。又た、迚も自分では力不足ゆゑに王位を奪ふことが出來ないと思うて諦めてゐる者も多いが、これは要するに諦めによつて隨つてゐるだけであるから、今の地位に決して安んじてはをらず、其の心底には嫉みや憤りといふ念が如何程あるのか計り知れない。支那のやうな宜者とは乃ち知惠者で、彼れらはその知惠を發揮して少しでも高位に登らむと、その機會の到來を首を長くして待つてゐる。要するに平和な世に於てはそれを充分發揮し得ず、亂世こそ存分に自分が試せる好機と見做し、さうした時代が來れば宜いと願つてゐるものなのだ。これらの事を考慮すると、たゞ形を整へたり、言葉を飾つたり、威を示すといふことがどれほど弊害を多く生むかといふことを、皆は知つておかねばならないのである。
 
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by sousiu | 2013-04-02 23:51 | 先哲寶文