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荷田春滿大人を知る その三 『創學校啓』坤  

承前。

○荷田大人、『創學校啓』に曰く、
今や洙泗の學(※孔子の學なる由)、處に隨ひて起こり、瞿曇の教(※釋尊の教、乃はち佛教なり)、日を逐うて盛んに、家々仁義を講じ、歩卒廝養も詩を言ふことを解し、戸々誦經を事として、閹童壺女も空を談ずることを識る。民業一たび改まり、我が道漸く衰ふ。紀土州(紀貫之のこと也)嘗て嘆ぜり。田園競ひ捨て、資産傾き盡す。善相公深く痛めり。臣竊かに以(おも)ふ、是亦以て太平日久しきの象を見るに足れりと。唯爲めに痛哭長太息すべきものあり。我が  神皇の教へを在(み)るに、陵夷一年は一年より甚しく、  國家の學廢墜して十一を千百に存す。格律に書氓(亡+民=びん)滅して復古の學誰れか云(こゝ)に問はん。詠歌の道敗闕して大雅の風、何ぞ能く奮はん。今の神道を談ずるもの、是皆陰陽五行家の説。世の詠歌を講ずるもの、大率(おほむね)圓鈍四教儀(※天台宗のことなり)の解、唐宋諸儒の糟粕に非ざれば、則ち胎金兩部の餘瀝。鑿空鑽穴の妄説に非ざれば、則ち無證不稽の私言。曰く、祕、曰く訣と。古賢の眞田何(いづく)にか有る。或は蘊、或は奧と。今人の僞造是多し』と。

 文運の興隆せることを云ふ。とは云へ、儒教、佛教が家々、民心に擴がり、それは到底 神皇の教へであるとか、國家の學であるとか、復古の學であるとか、詠歌の道であるといふに及ばない。たとひ之を論ずる者あつたとしても、それ儒佛に支配せられ、神道は儒佛と習合し、互ひに祕傳といひ、祕訣と稱し、妄説横行、古典の精神は減ぜざる能はざることを指摘する。


臣少(わか)きより寢となく、食となく、異端を排撃するを以て念と爲し、以て學び、以て思ひ、古道を興復せざれば止むことなし。方今設(も)し臂を振ひ、膽を張り、是非を辨白するに非ざれば、則ち後必ず耳を塗り、心を塞ぎ、邪正を混同するに至らん。退かんと欲すれば、則ち後必ず耳を塗り、心を塞ぎ、邪正を混同するに至らん。退かんと欲すれば、則ち文已に漂ひ、已に晦(くら)く、進まんと欲すれば則ち老い、且つ病み、且つ憊(つか)る。猶豫決する所なく、狼狽爲す所を失ふ。伏して此に請ひ望む。或は京師伏陽の中(うち)、或は東山西郊の間、幸ひに一頃の閑地を賜はり、斯(こゝ)に  皇國の學校を開かんことを。然らば則ち臣少(わか)きより蓄ふる所の祕籍奧牒少からず。老に至りて訂する所の古記實録も亦多し。盡(ことごと)く皆(みな)此(こゝ)に藏めて、他日の考索に備へん。僻邑の士絶えて及び難しと爲すもの或は有らん。寒郷の客(かく)志(こゝろざし)有りて未だ果さざる者間々(まゝ)多し。之を借して之を讀ましめ、才(わづ)かに一書に通ぜば、百王の澆醨(西+漓の右側=げうり、澆漓)此に知らん。千古を洞覽せば、萬民の塗炭拯(手偏+丞=すく)ふべし。幸ひに命世の才あらば、則ち盡敬王の道地に委ちず。若し啄玉の器出でなば、則ち柿本氏の教へ再び邦に奮はん。六國史明かならば、則ち豈(あに)翅(たゞ) 官家民を化するの小補なるのみならんや。三代格起こらば、則ち抑も亦  國祚悠久の大益ならんか。萬葉集は國風の純粹、學ばば則ち面牆の譏なからん。古今集は歌詠の精選、知らずんば則ち無言の誡めあらん』と。

 愈々翁の素志であり素願が披露される。それ云ふまでもなく、古道の復興だ。その爲めには異端邪説を排撃するを念と爲さねばならない。今にしてこれを行はざれば古道は荒廢するあるのみ。然るに今や老い、病み、憊ると云ふ状態である。茲で遂に意を決し、倭學校の創建を幕府に嘆願するに至る。そこで即はち京都、或は東山近郊に於て、一頃の閑地を賜はり、皇國の學校を開かむと願ふのである。されば茲へは大人が、所藏せる祕籍や奧牒、古記や實録などの書籍を備へ、廣くその學問を傳へ、名世の才、啄玉の器の出現を後世に待ち、以て復古の學を興さんとする抱負を披瀝したものである。


夫れ本邦學校を設け施こすことは近江の  朝廷に權輿し、文道を主張することは  嵯峨天皇に濫觴す菅江家に分彰院あり。源、藤、橘、和、繼いで起こる。太宰府に學業院あり。足利、金澤延及す。然れども藏する所は三史九經、俎豆を雍宮に陳ね、其の講ずる所は四道六藝、蘋(草冠+頻)薠(草冠+煩)(※蘋も薠も浮き草の意。清潔にして神祭の供物とされる)を孔廟に薦む。悲しいかな先儒の無識なり、一も  皇國の學に及ぶことなし。痛ましいかな後學の鹵莽なる、誰か能く古道の潰(つひ)ゆるを歎かん。是の故に異教彼が如く盛んに、街談巷議至らざる所なし。吾が道此(かく)の如く衰へ、邪説暴行虚に乘じて入る。臣が愚衷を憐み、業を國學に創め、世の倒行を鑑み、統を萬世に垂る。首(はじ)めに成し難きの功を創む。經國の大業に非ずや。繼ぐに用ひ易き力を續く。眞に不朽の盛時なるかな。臣の至愚なる、何ぞ之を知らん。敢て自ら讓らざる所のものは語釋なり。國字の紕■(糸偏+繆の右側=びう)多き、後世猶之を知るものあらん。典籍猶存す。古語の解釋少き、振古之に通ずるものあるを聞かず。文獻足らず。國學の講ぜざる實に六百年なり。言語の釋ある僅かに三四人のみ。其の巨擘たる、新奇是競ひ、極めて超乘なし。骨髓何ぞ望まん。古語通ぜざれば則ち古義明かならず。古義明かならざれば則ち古學復せず。先王の風迹を拂ひ、前賢の意荒(すさ)むに近し。一に語學を講ぜざるに由る。是臣が終身、精力を古語に用ひ盡くす所以なり。伏して以(おもん)みるに斯(こ)の文の興ると廢ると、固(まこと)に此の擧の取ると捨つるとにあり。願はくは、閣下意を留めて幸ひに察したまへ。臣東麻呂誠惶誠恐。頓首謹言』と。

 これは大人の復古の學に對する一家言を述べ、古語研究の必要を強調して趣旨を結んだものである。
 乃はち、皇國に於ける學校の創建は、天智天皇の近江朝に始まり、大寶令の大學、國學の制度となり、奈良朝を經過して平安朝に至り、文運益々興隆。ことに 嵯峨天皇は深く詩文の學を好ませられ、大學はその組織を完備し、經學・詩文の學等、漢學の隆盛は未曾有の状態に到達した。大學の完備と相俟つて、各氏族がその子弟の教育を競ふやうになつた。和氣氏の弘文院、菅江兩氏の文彰院、藤原氏の勸學院、橘氏の學館院、王氏の獎學院など相前後して興る。貴族の子弟はこれらの學問を以て教養を積んでゆく傍ら、地方では古く太宰府に學業院があり。學問が衰微したと云はれる武家時代でも尚ほ足利學校、金澤文庫あり。併しながらこれらの學校に於て講じ學ぶものは悉く漢學であり、漢籍であつて、皇國の學を講ずるものが一つとして存在してをらぬ。
 その結果、國學振はず、古義は失はれ、異端邪説は横行するに至つた。これを打開する爲めには 皇國の學を復興せねばならない。皇國の學を復興する爲めには、古義を明らかにせねばならない。而して、古義を明らかにする爲めには、古語に通じなければならない、といふことである。

 以上、これが荷田大人の終身、努力を捧げた所以であり、大人にとつて畢竟、語釋は復古の學に於ける重大な一つの分野であらねばならなかつたのである。
 これより後、復古の學問は多くの碩學によつて大いに唱道せられ、益々闡明となり、皇國なんたるかを世に弘めるに至つた。

◎大壑 平田篤胤大人『入學問答』(文化十年正月)に曰く、
『さて契冲は。元祿十四年正月廿五日。行年六十三歳にて。身まかりたるが。其著書凡(すべ)て二十五部。卷數百二十卷餘あり。此人に追(おひ)すがひて荷田東麻呂。[通名は羽倉齋宮。]と云ふ翁の出られ候て。大きに。
皇國の學問を弘められ。既に   公の御免を蒙り。御國學びの學校を。京都東山に建むと。其地を卜せられ候に。其事果さず。病に依て身罷られ候。
此翁も著書五部。百卷あまりこれ有り候。
此翁の著書は。故有りて。世に傳
(つたは)れる者少けれども。凡て吾が古學の規則は。此翁にて相立初(そめ)申候』と。
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     ※平田篤胤大人『入學問答』↑↑↑

 荷田春滿大人歿して二百七十七年。今尚ほ仰慕される、國學の一大恩人である。
 
 そこで改めて思ふのことがある、相原修神主を。
 相原兄は平田篤胤大人の歿後門人の一人として、篤胤大人の識見と功績を平成に再び露はさむと、勞力と私財を惜しまず『伊吹廼舍先生及門人著述集』として復刻、同志への配布を行なつた。
 五册を一卷として三卷、計十五册を以てして幽界へと旅立つたのであるが、最初に復刻した書は、この日乘でも紹介した『荷田大人啓』であつた。
 彼れの眼識、奈邊に存したかを想ふ可し矣。
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     ※相模圀御民相原修謹編『伊吹廼舍先生及門人著述集』卷一↑↑↑ 

 參考までに、『春葉集』に收められる啓文と、野生の稚拙な説明を省いた訓み下し文を掲げておきたい。

◎刊本『創學校啓』、「春葉集」(寛政十年刊行)所收
『謹ンデ請フ蒙リ  鴻慈ヲ創造センコトヲ國學校ヲ啓

        荷田東麻呂

誠惶誠恐頓首頓首。謹聞。伏惟。
神君勃興シテ山東。霸功一タビ成リ。平章ス天下ヲ。艸上之風。孰カ越エン君子之志ニ。維新之化。始メテ建ツ弘文之館ヲ。庶アリ且富メリ。又何ヲカ之ニ加ヘン。
明君代々作リ。文物愈々昭ニ。光烈相繼ギ。武事益々備レリ。濟々焉タリ。蔚々焉タリ。鎌座氏之好ム儉ヲ。庸何ゾ及バン于斯ニ乎。郁々乎タリ。斌々乎タリ。室町氏之尚ブ文ヲ。豈同日之談ナランヤ哉。應ジ此昇平之化。天生ジ寛仁之
君ヲ。以テ其天縱之資ヲ。國ニ見メス不嚴之教ヲ。野ニ無キコトハ遺賢。傚ヒ陶唐之諫鼓ニ。朝ニ多キコトハ直臣。擬ス有周之官箴ニ。
上尊ビテ
天皇ヲ。專ニシ不譎之政ヲ。下懷ケテ諸侯ヲ。而來タス包茅之貢ヲ。道齊ヒ有レバ暇。則チ傾ケ心ヲ於古學ニ。強化不レバ周。則チ深ク治ヲ於先王ニ。贖フ奇書ヲ於千金ニ。天下聞達之士嚮ヒ風ニ。探リ遺篇ヲ於石室ニ。四海異能之客結ブ軾ヲ。
臣嘗テ遊ブ都下ニ之日。幸ニ蒙リ射策之捷ヲ。忝クス不顧ミ謭(言偏+剪=せん)劣ヲ之義ヲ。偶有リ校書之  命。浴ス于忘ル布衣ヲ之恩。誰ガ爲ニカ爲サン之ヲ。誰ヲシテカ令聽カ之ヲ。子遷氏之言深ク有リ取ル焉。雖モ有リト智慧。不如カ待ツニ時ヲ。鄒孟子之意。良ニ有リ以ユエ也。當時既ニ有リ意於頼リテ
幕府之威靈ニ。起シ此大義ヲ借リテ
大樹之庇蔭ヲ。達セントスルニ臣素願ヲ。而ルニ不ル敢テセ者ハ。私心竊ニ以フ。跬(足偏+圭=き)歩不レバ已マ。跛鼈モ千里。犬馬之年。未ダ滿タ六十ニ。今日之美。安ンゾ知ラン不ルヲ爲ラ異日之醜。後進之知。豈識ラン不ルヲ如カ先輩之能ニ。愚ニ而シテ自ラ用レバ。難ク免レ蟷斧向フ車ニ之謗ヲ。賤クシテ而自ラ自ラ專ゼセバ。似タリ忘ルルニ燕石衒フ人ニ之羞ヲ。有リテ志而不遂ゲ。千里遲々トシテ歸ル。豈圖ランヤ率ニ有リ採薪之憂。騏■(馬偏+冀=き)徒ニ伏ス槽櫪之間。何ゾ意ハンヤ爲ニ造化小兒ノ苦ミテ。鴻鵠長ク繋ル樊籠之中ニ。口不能ハ言フ。同ジ陳仲子之居ルニ於陵ニ。脚不能ハ行ク。似タリ卞和氏之在ルニ楚山ニ。爲ラバ世ノ廢人ト。噬ムトモ臍ヲ何ゾ及バン。遇ヒ時ノ窮阨ニ。嚬(口偏+頻=ひそ)メテ眉ヲ獨リ泣ク。天之將ニ喪ント斯文ヲ也命也。天之未ダ喪サ斯文ヲ也時也。時之不可カラ失フ。不ル敢テ不ンハアラ告ゲ也。今也洙泗之學。隨ヒテ處ニ而起リ。瞿曇之教。逐フテ日ヲ而盛ニ。家々講ジ仁義ヲ。歩卒廝養解シ言コトヲ詩ヲ。戸々事トシテ誦經ヲ。閹童壺女識ル談ズルヲ空ヲ。民業一タビ改リ我ガ道漸ク衰フ。紀ノ土州嘗テ嘆ゼリ。田園競ヒ捨テ。資産傾キ盡ク。善相公深ク痛メリ矣。臣竊ニ以フ。是亦足レリ以テ見ルニ太平日久シキ之象ヲ。唯有リ爲ニ可キ痛哭長太息ス者。在ルニ我ガ
神皇之教ヲ。陵夷一年ハ甚シク於一年ヨリ。
國家之學。廢墜シテ存ス十一ヲ於千百ニ。格律之書氓(亡+民=びん)滅シテ。復古之學誰カ云ニ問ハン。詠謌之道敗闕シテ。大雅之風何ゾ能ク奮ハン。今之談ズル神道ヲ者。是皆陰陽五行家之説。世之講ズル詠謌ヲ者。大率ネ圓鈍四教儀之解。非レバ唐宋諸儒之糟粕ニ。則チ胎金兩部之餘瀝。非レバ鑿空鑽穴之妄説ニ。則チ無證不稽之私言。曰ク祕。曰ク訣。古賢之眞田何ニカ有ル。或ハ蘊。或ハ奧。今人之僞造是レ多シ。臣自少キ無ク寢ト無ク食ト。以テ排撃スルヲ異端ヲ爲シ念ト。以テ學ビ以テ思ヒ。不レパ興復セ古道ヲ無シ止ム。方今設非レバ振ヒ臂ヲ張リ膽ヲ。辨白スルニ是非ヲ。則チ後必ズ至ラン塗リ耳ヲ塞ギ心ヲ。混同スルニ邪正ヲ。欲スレバ退ント則チ已ニ漂ヒ已晦ク。欲スレバ進マント則チ老且病ミ且憊ル。猶豫無ク所決スル。狼狽失フ所ヲ爲ス。伏シテ此ニ請ヒ望ム。或ハ京師伏陽之中。或ハ東山西郊之間。幸ニ賜ハリ一頃之閑地ヲ。斯ニ開カンコトヲ
皇國之學校ヲ。然ラバ則チ臣自リ少キ所蓄フル。祕籍奧牒不少カラ。至リテ老ニ所訂スル。古記實録モ亦多シ。盡ク皆藏メテ于此ニ。備ヘン他日之考索ニ。僻邑之士。爲ス絶エテ難シト及ビ者或ハ有ラン。寒郷之客。有リテ志而未ダ果サ者間々多シ。借シテ之ヲ讀シメ之ヲ。才カニ通ゼバ一書ニ。百王之澆醨(西+漓の右側=げうり)此ニ知ラン。洞覽セバ千古ヲ。萬民ノ塗炭可シ拯(手偏+丞=すく)フ。幸ニ有ラバ命世之才。則チ盡敬王之道不委チ于地ニ。若出テバ啄玉之器。則チ柿本氏之教再ビ奮ハン於邦。六國史明ナラバ。則チ豈翅
官家化民之小補ナルノミナランヤ乎。三代格起ラバ。則チ抑々亦
國祚悠久之大益ナランカ。萬葉集者國風之純粹。學バヾ焉則チ無面牆之譏。古今集者謌詠ノ精選。不ンバ知ラ則チ有ラン無言之誡。夫
本邦設ケ施スコト學校ヲ。權輿シ于近江ノ
朝廷ニ。主張スルコト文道ヲ。濫觴ス於
嵯峨天皇ニ。菅江家ニ有リ分彰院。源藤橘和繼イデ起ル。太宰府ニ有リ學業院。足利金澤延及ス。然レドモ所ハ藏スル三史九經。陳ネ俎豆ヲ於雍宮ニ。其所ハ講スル四道六藝。薦ム蘋(草冠+頻)薠(草冠+煩)ヲ孔廟ニ。悲イカナ哉先儒之無識。無シ一モ及ブ
皇國之學ニ。痛イカナ矣後學之鹵莽。誰カ能ク歎カン古道之潰ヲ。是ノ故ニ異教如ク彼カ盛ニ矣。街談巷議無シ所不ル至ラ。吾ガ道如ク此ノ衰ヘ矣。邪説暴行乘ジテ虚ニ入ル。憐ミ臣ガ愚衷ヲ。創メ業ヲ於國學ニ。鑑ミ世ノ倒行ヲ。垂ル統ヲ於萬世ニ。首ニ創ム難キ成リ功ヲ。非ズ經國ノ大業ニ邪。繼ニ續ク易キ用ヒ力ヲ。眞ニ不朽ノ盛時ナルカナ哉。臣之至愚何ゾ之ヲ知ラン。所ノ不ル敢テ自ラ讓ラ者ハ語釋也。國字之多キ紕■(糸偏+繆の右側=びう)。後世猶有ラン知ル之ヲ者。典籍猶存ス。古語之少キ解釋。振古不聞カ通ズル之ニ者ヲ。文獻不足。國學之不講。實ニ六百年ナリ矣。言語之有ル釋。僅ニ三四人耳。其ノ爲ル巨擘。新奇是レ競ヒ。極メテ無シ超乘。骨髓何ゾ望マン。古語不ンバ通セ。則チ古義不明ナラ焉。古義不ンバ明ナラ。則チ古學不復セ焉。先王之風拂ヒ迹ヲ。前賢之意近キハ荒ムニ。一ニ由ル不ルニ講ゼ語學ヲ。是レ所以臣ガ終身精力ヲ。用ヒ盡ス古語ニ也。伏テ以ミルニ斯文之興ルト與廢ル。固ニ在リ此擧之取ルト之與ニ捨ツル。願クハ
閣下留メテ意ヲ幸ニ察シタマヘ。臣東麻呂誠惶誠恐。頓首謹言。』


◎『創學校啓』 「春葉集」所收、啓文訓み下し
『謹みて鴻慈を蒙り、國學校を創造せんことを請ふ啓。

荷田東麻呂

誠惶誠恐頓首頓首。謹みて聞す。伏して惟みるに、神君山東に勃興して、霸功一たび成り、天下を平章す。艸上の風、孰れか君子の志に越えん。維新の化に、始めて弘文の館を建つ。庶あり、且つ富めり。又た何をか之に加へん。明君代々作り、文物愈々昭らかに、光烈相繼ぎ、武事益々備はれり。濟々焉たり。蔚々焉たり。鎌座氏の儉を好む。庸何ぞ斯に及ばんや。郁々乎たり。斌々乎たり。室町氏の文を尚ぶ。豈同日の談ならんや。此の昇平の化に應じ、天寛仁の  君を生じ、其の天縱の資を以て、國に不嚴の教へを見めす。野に遺賢なきことは陶唐の諫鼓に傚ひ、朝に直臣多きことは有周の官箴に擬す。上  天皇を尊びて、不譎の政を專らにし、下諸侯を懷けて、包茅の貢を來たす。道齊ひ、暇有れば、則はち心を古學に傾け、強化周からざれば、則はち治を先王に深くし、奇書を千金に贖へば、天下聞達の士、風に嚮ひ、遺篇を石室に探ねれば、四海異能の客、軾を結ぶ。

臣嘗て都下に遊ぶの日、幸ひに射策の捷を蒙り、謭(言偏+剪=せん)劣を顧みざるの義を忝なくす。偶々校書の命あり。布衣を忘るゝの恩に浴す。誰が爲めにか之を爲さん。誰をしてか之を聽かしめむ。子遷氏の言深く取る有り。智慧有りと雖も時を待つに如かず。鄒孟子の意、良に以有るなり。當時既に 幕府の威靈に頼り、此の大義を起こし 大樹の庇蔭を借りて、臣が素願を達せんとするに意あり。而るに敢へてせざるものは、私心竊かに以(おも)ふ、跬(足偏+圭=き)歩已まざれば跛鼈も千里と。犬馬の年未だ六十に滿たず。今日の美、安んぞ異日の醜たらざるを知らん。後進の知、豈先輩の能に如かざるを識らん。愚にして自ら用ふれば、蟷斧車に向ふの謗りを免れ難く、賤しくして自ら專らにすれば、燕石人に衒ふの羞を忘るゝに似たり。志有りて遂げず。千里遲々として歸る。豈圖らんや率かに採薪の憂ひあり、騏■(馬偏+冀=き)徒らに槽櫪の間に伏す。何ぞ意はんや、造化小兒の爲めに苦しみて鴻鵠長く樊籠の中に繋がる。口言ふこと能はず、陳仲子の於陵に居るに同じ。脚行くこと能はず、卞和氏の楚山に在るに似たり。世の廢人と爲らば、臍を噬むとも何ぞ及ばん。時の窮阨に遇ひ、眉を嚬(口偏+頻=ひそ)めて獨り泣く。天の將さに斯の文を喪はんとするや命なり。天の未だ斯の文を喪はざるや時なり。時の失なふ可からざる、敢へて告げずんばあらざるなり。

今や洙泗の學、處に隨ひて起こり、瞿曇の教、日を逐うて盛んに、家々仁義を講じ、歩卒廝養も詩を言ふことを解し、戸々誦經を事として、閹童壺女も空を談ずることを識る。民業一たび改まり、我が道漸く衰ふ。紀土州嘗て嘆ぜり。田園競ひ捨て、資産傾き盡す。善相公深く痛めり。臣竊かに以ふ、是亦以て太平日久しきの象を見るに足れりと。唯爲めに痛哭長太息すべきものあり。我が  神皇の教へを在るに、陵夷一年は一年より甚しく、  國家の學廢墜して十一を千百に存す。格律に書氓(亡+民=びん)滅して復古の學誰れか云に問はん。詠歌の道敗闕して大雅の風、何ぞ能く奮はん。今の神道を談ずるもの、是皆陰陽五行家の説。世の詠歌を講ずるもの、大率圓鈍四教儀の解、唐宋諸儒の糟粕に非ざれば、則ち胎金兩部の餘瀝。鑿空鑽穴の妄説に非ざれば、則ち無證不稽の私言。曰く、祕、曰く訣と。古賢の眞田何にか有る。或は蘊、或は奧と。今人の僞造是多し。

臣少きより寢となく、食となく、異端を排撃するを以て念と爲し、以て學び、以て思ひ、古道を興復せざれば止むことなし。方今設し臂を振ひ、膽を張り、是非を辨白するに非ざれば、則ち後必ず耳を塗り、心を塞ぎ、邪正を混同するに至らん。退かんと欲すれば、則ち後必ず耳を塗り、心を塞ぎ、邪正を混同するに至らん。退かんと欲すれば、則ち文已に漂ひ、已に晦く、進まんと欲すれば則ち老い、且つ病み、且つ憊る。猶豫決する所なく、狼狽爲す所を失ふ。伏して此に請ひ望む。或は京師伏陽の中、或は東山西郊の間、幸ひに一頃の閑地を賜はり、斯に  皇國の學校を開かんことを。然らば則ち臣少きより蓄ふる所の祕籍奧牒少からず。老に至りて訂する所の古記實録も亦多し。盡く皆此に藏めて、他日の考索に備へん。僻邑の士絶えて及び難しと爲すもの或は有らん。寒郷の客志有りて未だ果さざる者間々多し。之を借して之を讀ましめ、才かに一書に通ぜば、百王の澆醨(西+漓の右側=げうり)此に知らん。千古を洞覽せば、萬民の塗炭拯(手偏+丞=すく)ふべし。幸ひに命世の才あらば、則ち盡敬王の道地に委ちず。若し啄玉の器出でなば、則ち柿本氏の教へ再び邦に奮はん。六國史明かならば、則ち豈翅 官家民を化するの小補なるのみならんや。三代格起こらば、則ち抑も亦  國祚悠久の大益ならんか。萬葉集は國風の純粹、學ばば則ち面牆の譏なからん。古今集は歌詠の精選、知らずんば則ち無言の誡めあらん。

夫れ本邦學校を設け施こすことは近江の  朝廷に權輿し、文道を主張することは  嵯峨天皇に濫觴す菅江家に分彰院あり。源、藤、橘、和、繼いで起こる。太宰府に學業院あり。足利、金澤延及す。然れども藏する所は三史九經、俎豆を雍宮に陳ね、其の講ずる所は四道六藝、蘋(草冠+頻)薠(草冠+煩)を孔廟に薦む。悲しいかな先儒の無識なり、一も  皇國の學に及ぶことなし。痛ましいかな後學の鹵莽なる、誰か能く古道の潰ゆるを歎かん。是の故に異教彼が如く盛んに、街談巷議至らざる所なし。吾が道此の如く衰へ、邪説暴行虚に乘じて入る。臣が愚衷を憐み、業を國學に創め、世の倒行を鑑み、統を萬世に垂る。首めに成し難きの功を創む。經國の大業に非ずや。繼ぐに用ひ易き力を續く。眞に不朽の盛時なるかな。臣の至愚なる、何ぞ之を知らん。敢て自ら讓らざる所のものは語釋なり。國字の紕■(糸偏+繆の右側=びう)多き、後世猶之を知るものあらん。典籍猶存す。古語の解釋少き、振古之に通ずるものあるを聞かず。文獻足らず。國學の講ぜざる實に六百年なり。言語の釋ある僅かに三四人のみ。其の巨擘たる、新奇是競ひ、極めて超乘なし。骨髓何ぞ望まん。古語通ぜざれば則ち古義明かならず。古義明かならざれば則ち古學復せず。先王の風迹を拂ひ、前賢の意荒むに近し。一に語學を講ぜざるに由る。是臣が終身、精力を古語に用ひ盡くす所以なり。伏して以みるに斯の文の興ると廢ると、固に此の擧の取ると捨つるとにあり。願はくは、閣下意を留めて幸ひに察したまへ。臣東麻呂誠惶誠恐。頓首謹言』

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by sousiu | 2013-03-05 21:05 | 先哲寶文

荷田春滿大人を知る その二 『創學校啓』 乾 

 『創學校啓』は、享保十三年九月、春滿大人が養子である在滿翁を江戸に下向せしめ、幕府に國學の學校を創建せんと上申せしめた啓文である。本書は春滿大人その人が立案したものであることは疑ふべくもないが、この草稿は大人の門人である懦生、山名竹内翁(靈淵と號す)の筆によることからも、靈淵翁が推敲を行なつたものと傳へられてゐる。
 『創學校啓』はこの草稿のほかに、寛政十年に刊行された春葉集にも收められてゐる。
 その後、福羽美靜、長尾武雄、平田篤胤などの碩學によつてそれゞゝ刊行されてゐるが、草稿と刊本とには多少の相違が見受けられることは前記した。

 然るに本稿では、刊本に從ひ、この全譯文を掲載せんとする。

○荷田大人、『創學校啓』に曰く、
『謹みて鴻慈を蒙り、國學校を創造せんことを請ふ啓。

荷田東麻呂

誠惶誠恐頓首頓首。謹みて聞す。伏して惟みるに、神君山東に勃興して、霸功一たび成り、天下を平章す。艸上の風、孰れか君子の志に越えん。維新の化に、始めて弘文の館を建つ。庶あり、且つ富めり。又た何をか之に加へん。明君代々作(おこ)り、文物愈々昭らかに、光烈相繼ぎ、武事益々備はれり。濟々(せいゝゝ)焉たり。蔚々(うつゝゝ)焉たり。鎌座(かまくら)氏の儉を好む。庸何(なん)ぞ斯(これ)に及ばんや。郁々(いくゝゝ)乎たり。斌々(ひんゝゝ)乎たり。室町氏の文を尚ぶ。豈同日の談ならんや。此の昇平の化に應じ、天寛仁の  君を生じ、其の天縱の資を以て、國に不嚴の教へを見(し)めす。野に遺賢なきことは陶唐の諫鼓に傚ひ、朝に直臣多きことは有周の官箴に擬す。上  天皇を尊びて、不譎の政(まつりごと)を專らにし、下諸侯を懷(なづ)けて、包茅の貢を來たす。道齊(とゝの)ひ、暇有れば、則はち心を古學に傾け、強化周(あまね)からざれば、則はち治を先王に深くし、奇書を千金に贖へば、天下聞達の士、風に嚮(むか)ひ、遺篇を石室に探(たづ)ねれば、四海異能の客、軾を結ぶ』
と。
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   ※氣吹廼舍板本『荷田大人啓』

 前段にある「神君」とは徳川家康のことだ。東照宮に祭られて後東照神君と謂はれたるより云ふ。
 餘談ながら、尊皇則反幕、國學則討幕と考へるは甚敷き誤解である。尊皇家や國學者がいつの時代に於ても幕府に敵愾心を懷いてゐた、と云ひ切ればそれは明らかに事實に反する。

○徳富猪一郎翁『近世日本國民史 第四十九巻~尊皇攘夷篇~』(昭和十年「民友社」発行)に曰く、
『尊皇攘夷は此の如く、大義名分の上から、学者の研究問題として宣示せられ、やがては現在の政治問題として討議せられ、遂ひに志士の活動事件となりて実現せられた。之を時代的に云へば、天保、弘化までは、政治問題であつた。而して万延、文久、元治、慶応に至りては、実行問題となつた。尊攘の文句は、何れの時代も同一であるが、その主義と手段とは、亦た時代と共に変化した。而して其の文句が、愈よ実際運動の旗幟となつたのは、文久、元治の間であつた』と。

 尤も、年月を經るにつれ、先哲偉傑による討幕の氣焔は激甚となつていつた。幕府の飽きることなく繰り返される、國内への因循姑息、國外への叩頭平伏は 皇國の面目を汚し、その激甚となるや敬神家尊皇家の憤慨も比例し激甚となるに何ら不思議なことはない。結果、國學者の學恩と尊皇家の赤心とによつて、明治の御一新へと時代は激動した。だがそれにしても『創學校啓』草稿から、尊攘の因を製造したるペルリ來航、乃はち嘉永六年まで百二十五年を待たねばならなかつたことを三思せよ。
 逆言すれば、國學は發達する性質を持つ、といふことに他ならない。さらば尊皇心より發せられたる主張も變化するといふことである。然もそれ、急激な發達であつてはならぬし、固よりさうであらう筈がない。高級なワインであればあるほど、價値ある木材であればあるほど、年月が要せられるものなのだ。荷田大人、寛文の代に生まれ、元祿の代に國學その萌芽を見、享保年間に『創學校啓』を草し、その百二十五年後、俄はかに(あくまでも俄はかに、だ)討幕の志氣あがる、果して現代はいつごろぞ。遺憾ながら野生は未だ現代に於ける『創學校啓』をみず、且つ荷田大人の登場を知らない。

 話頭前に復す。家康、天下を平定して後、漸く戰國の世も終はり、殊に幕府は文治政策を行なひ、學問を獎勵、結果、朱子學の學府である「弘文館」成り、皇室を尊ばれ、文物昭らかなること到底、鎌倉室町の比ではないことをいふ。これにより世は泰平無事となり、加之、學問は四民の間に弘められた。こゝに於て學問は、和漢の書だけでなく、古書古典も蒐集せられ、古學の勃興しつゝあることを大人は述べてゐる。


 續けて曰く、
『臣嘗て都下に遊ぶの日、幸ひに射策の捷を蒙り、謭(言偏+剪=せん)劣を顧みざるの義を忝なくす。偶々校書の命あり。布衣を忘るゝの恩に浴す。誰が爲めにか之を爲さん。誰をしてか之を聽かしめむ。子遷氏の言深く取る有り。智慧有りと雖も時を待つに如かず。鄒孟子の意、良(まこと)に以(ゆゑ)有るなり。當時既に 幕府の威靈に頼(よ)り、此の大義を起こし 大樹の庇蔭を借りて、臣が素願を達せんとするに意あり。而(しか)るに敢へてせざるものは、私心竊かに以(おも)ふ、跬(足偏+圭=き)歩已まざれば跛鼈も千里と。犬馬の年未だ六十に滿たず。今日の美、安(いづく)んぞ異日の醜たらざるを知らん。後進の知、豈先輩の能に如かざるを識らん。愚にして自ら用ふれば、蟷斧車に向ふの謗りを免れ難く、賤しくして自ら專らにすれば、燕石人に衒ふの羞(はぢ)を忘るゝに似たり。志有りて遂げず。千里遲々として歸る。豈圖らんや率(には)かに採薪の憂ひあり、騏■(馬偏+冀=き)徒らに槽櫪の間に伏す。何ぞ意(おも)はんや、造化小兒の爲めに苦しみて鴻鵠長く樊籠の中(うち)に繋がる。口言ふこと能はず、陳仲子の於陵に居るに同じ。脚行くこと能はず、卞和氏の楚山に在るに似たり。世の廢人と爲らば、臍を噬むとも何ぞ及ばん。時の窮阨に遇ひ、眉を嚬(口偏+頻=ひそ)めて獨り泣く。天の將さに斯(こ)の文を喪(うしな)はんとするや命なり。天の未だ斯の文を喪はざるや時なり。時の失なふ可からざる、敢へて告げずんばあらざるなり』と。

 これは大人が、皇國に相應しき(皇國に要せられる可き、といふ可き乎)學校創建の素志を進言するも、未だ達せられずして病を患ふことゝなり、空しく最後の衷情を訴へてゐるものである。
 大人は江戸にあるころ、その才を認めた幕府から屡々恩賞を賜はつた。かくなる關係が構築されるや、大人は素願であつた倭學校創建の時節到來かと考へたこともあるが、結局、それを願ひ出る事なく、志を果たさぬまゝ歸郷したのである。その理由は大人、未だ六十に滿たず、自身の學の未熟を考へたからであつた。歸郷し猶ほ學問と研究に專心し、後に大成を期さんとしたのであつたが、無念なるかな病魔の犯すところとなり、言發する能はず、脚行く能はず。遂に大人の内に宿れる素願を披露し、學校創建の時期を決意せしめたものである。



 續く。
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by sousiu | 2013-03-03 00:12 | 先哲寶文

「國學」に就て。その二 

●鈴屋 本居宣長大人『宇比山蹈』(寛政十年)に曰く、
世に物まなびのすぢしなゞゝ有て云々、物學びとは、皇朝の學問をいふ。そもゝゝむかしより、たゞ學問とのみいへば、漢學のことなる故に、その學と分むために、皇國の事の學をば、和學或は國學などいふならひなれども、そはいたくわろきいひざま也。みづからの國のことなれば、皇國の學をこそ、たゞ學問とはいひて、漢學をこそ、分て漢學といふべきことなれ。それももし漢學のこととまじへいひて、まぎるゝところにては、皇朝學などはいひもすべきを、うちまかせてつねに、和學國學などいふは、皇國を外(よそ)にしたるいひやう也もろこし朝鮮於蘭陀などの異國よりこそ、さやうにもいふべきことなれ。みづから吾國のことを、然いふべきよしなし。すべてもろこしは、外の國にて、かの國の事は、何事もみな外の國の事なれば、その心をもて、漢某(かんなに)唐某(たうなに)といふべく、皇國の事は、内の事なれば、分て國の名をいふべきにはあらざるを、昔より世の中おしなべて、漢學をむねとするならひなるによりて、萬づの事をいふに、たゞかのもろこしを、みづからの國のごとく、内にして、皇國をば、返りて外にするは、ことのこゝろたがひて、いみしきひがごと也。此事は、山跡魂をかたむる一端なる故に、まづいふなり』と。

 鈴屋大人は、「和學」や「國學」などと殊更らに云ふは宜しからぬと云ふ。漢學は、よその國の學問であるから、「漢學」と呼んでも結構であるが、皇國の學問をば一々「國學」などといふは、皇國を外にして見てゐる證である、と。

 ところで野生は近年、年號を記する際、一々「皇紀」と記することに遲疑するものだ。皇國の民が紀元を記すに、殊更ら「皇紀」と記す必要があらうか。
 それを別言すれば、耶蘇暦を愛用とまで云はずんば、常用されることをどこかで認めてゐることにつながり、他國人に向けて「皇紀」と記すのであれば兔も角、日本人同士に於ては「紀元二千六百七十三年」或は單に「二千六百七十三年」だけで充分なのである。皇國に於て紀元は一つあるのみ。二つとあらう筈は無いからだ。元號を愛用すればそれで宜い。殊更に神武紀元を使用したいのであれば、紀元で宜いのだ。寧ろ、「2013年」と耶蘇歴で表記せねばならぬ場合にこそ面倒臭いが「西暦2013年」さなくは「基督紀元2013年」と一々記する可きである。その面倒が厭ならば、そんな耶蘇暦など使用せずとも宜いのだ。

 上記の抄録から多少脱線したが、鈴屋大人は大和魂を固める爲めにも、殊更ら「國學」と稱するは僻事であるといふ。これは全くその通りであり、考へさせられる一文である。
 但し、語彙に貧困な野生としては、已むなく、今暫くの間はこの「國學」といふ言葉を使はざるを得ない。

 さて。先哲の遺文を拜讀してみると、なるほど、「國學」なる言葉は古へから使はれてゐた言葉ではない。

 たとへば荷田春滿大人の著作として有名な『創學校啓』は、草稿(享保十三年九月)があり、後に刊本(寛政十年)が廣く流布されるのであるが、この草稿と刊本には、屡々文字の異同あるを見逃せない。
 同じ書でありながら草稿と刊本とを見比べてみれば、草稿「倭學校」→刊本「國學校」、「皇倭之學」→「皇國之學」、「古學」→「古道」、「倭學」→「國學」、「倭語」→「古語」、「古學」→「國學」など、明らかに使用されてゐる文字の相違が散見されるのである。
 蓋し、刊行するに際して、後學の士が修正をなしたものであらう。こゝで注目す可きは、草稿に於てその全文を通じ、「國學」なる文字が見當らないことである。當時は未だ「國學」なる言葉が無かつたか、或は不通であつたか、兔も角春滿大人は專ら、「古學」「倭學」「國家之學」「皇倭之學」と書いてゐる。(參考文獻『荷田東麻呂創學校啓文』)
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    ↑↑↑山田孝雄氏著『荷田東麻呂創學校啓文』昭和十五年十二月十五日『寶文館』發行


 鈴屋大人は『宇比山蹈』にてこれを「和學」「國學」ならぬ「古學」とし、古學に就て、かく述べる。
●仝
古學の輩の、古學とは、すべて後世の説にかゝはらず、何事も、古書によりて、その本を考へ、上代の事を、つまびらかに明らむる學問也。此學問、ちかき世に始まれり。契沖ほふし、歌書に限りてはあれど、此道すぢを開きそめたり。此人をぞ、此まなびのはじめの祖(おや)ともいひつべき。次にいさゝかおくれて羽倉の大人、荷田の東麻呂の宿禰と申せしは、歌書なみならず、すべての古書にわたりて、此こゝろばへを立ち給へりき。かくてわが師あがたゐの大人、この羽倉の大人の教をつぎ給ひ、東國に下り江戸に在て、さかりに此學を唱へ給へるよりぞ、世にはあまねくひろまりにける。大かた奈良の朝よりしてあなたの古への、もろゝゝの事のさまを、こまかに精(くは)しく考へしりて、手にもとるばかりになりぬるは、もはら此大人の、此古學のをしへの功にぞ有ける』と。

 契沖大人に就ては後ちに記するであらうけれども、兔も角、鈴屋大人は契沖大人が歌書の學究を通じて古學の先鞭をつけ、東麻呂(春滿)大人が更らにこれを發展的に弘めたとしてゐる。これを文中にある「あがたゐ」、つまり縣居 賀茂眞淵大人が繼ぎ、縣居大人を師と仰ぐ鈴屋大人によつてより深められたるは疑ふべからざる事實である。
 後に鈴屋大人の門人となる吹氣廼舍 平田篤胤大人あらはれ。荷田春滿、賀茂眞淵、本居宣長、平田篤胤をして今日「國學四大人」と稱せられるのである。


 では一體、今日所謂る「國學」と呼ばれるものはいつのころからその建設が試みられたのであらうか。鈴屋大人は「此學問、ちかき世に始まれり」と述べてゐる。

 樣々な意見があると思ふが、こゝでは國學院大學の教授でもあつた竹岡勝也氏の論より抄録したい。
●竹岡勝也氏、『日本精神叢書四十六、創學校啓-國學の建設』(昭和十五年九月八日、教學局編纂、内閣印刷局發行)に曰く、
『國學の主張が漸く明瞭に現れて來たのは、眞淵以降の事であつたが、眞淵の國學は荷田春滿に出で、春滿に創學校啓があつて、國學の建設に先覺としての地位を示して居る事は、注目されなければならなかつた。併しながら、この春滿の國學は一朝にして成立したものではなかつた。一方には彼に先立つて萬葉研究に一つの時期を劃して居る契沖があり、中世神道の流れを汲み新に勃興の機運に際會して居る流派の神道があり、殊に儒者の祖國運動・復古運動は直接國學の創設を刺戟するものあり、中にも垂加神道を創始しその晩年寧ろこの神道に移つたとも云はれる山崎闇齋及びその門弟の間からは日本精神獨立の主張が現れ、これが國學の建設に重大な作用を及ぼしたと云ふ事も考へられなければならなかつた。國學建設の時期を明確に決定する事は困難であるが、かくの如き風潮に促され、和學は次第に古學となり、古學は更に古道學としての性格を示して來るのであつて、この古道學としての國學の發達を導く關係に於て、國學の建設なる言葉を使用する事が許されるとするならば、その建設に與つて居るものは矢張り契沖・春滿・眞淵等であり、宣長や篤胤の國學は已にこの時に胚胎されて居ると云はねばならない』と。

 而して竹岡氏、その原因に就て探るに、曰く、
國學の發達を導く直接の關係をなすものは、中世以來繼續されて來て居る古語古文學の研究であつた。即ち一般に學問が衰微したと稱せられる中世の社會に於て、兔に角注目せらるべきものに古語古文學の研究があり、しかもこの古語古文學の研究には二つの中心があつた事が見られるであらう。一つは古今・萬葉・伊勢・源氏と云はれる中にあつても特に平安朝文學を對象とする和學の發達であり、次は寧ろ神道意識に促されその間から現れて來て居る古事記・日本書紀の研究であつた
 武家の勃興に伴ふ平安末期の社會の動搖は、我が國の歴史に一つの時期を劃するに足る出來事であつた。その結果武家の幕府が開設せられ、武家意識は著しくこの時代の文化に作用して來るのであるが、その反面に於て京都には尚朝廷が存續せられ、朝廷を中心とする公家社會がこゝに殘されて來て居ると云ふ事は、矢張り中世文化の性格を考へる上に、閑却される事の出來ない關係であつた。そして中世和學と稱せられるものは、先づこの公家社會に擡頭して來て居る事が見られるのであつた。固よりこの時代の公家は、平安朝貴族ではあり得なかつた。併しながら平安朝文化の傳統は、兔に角彼等の間に繼續されて來て居る。換言すれば彼等の文化の源泉は平安朝に求められ、この意味に於て、平安朝は彼等の心の故郷であり、しかもそれはこの世に再現せらるべくもない彼岸の世界として、常に彼等の夢相を誘ふ處の理想世界でなければならなかつた。彼等はかくの如き意味に於て平安朝文化を仰ぎ見たのであつた。~中略~

 次は古事記・日本書紀の研究であるが、これは平安朝研究とは多少その趣を異にして居る。中世は一面神道哲學の興起した時代であつて、外官神官の間だからは神道五部書及びこの五部書を典據とした伊勢神道の發達が現れ、これが一つの權威をなして、この時代の神道思想が導かれて來ると云ふ關係が見られる。殊に吉田神道は、古來古典研究の一つの傳統を持つた吉田家の内部から、矢張り伊勢神道の影響の下に、一派の神道として發達して來たものであつて、中世末期に至つて著しくその社會的勢力を擴大して來た。その他佛教の内部からはまた佛教各宗の神道が擡頭して來る等、神道の哲學的な發達は、兔に角この時代に於ける注目せらるべき現象であつたと云はれなければならなかつた。その性質から云ふならば、固より是等の神道は我が國古典の神道であるとは云はれなかつた。或は佛教と習合し、或は佛教或は道家の思想と結合し、煩瑣であつてしかも雜駁である事を免れなかつたのであるが、兔に角それが神道であるためには、古典の神々にそれゞゝの地位を與へなければならなかつた。これに依つて古典に對する新なる注意が喚起せられ、古典研究の一つの契機がこゝに胚胎されたと云ふ關係を見逃す事は出來なかつたのである。そしてこの古典研究が漸く平安朝研究と相接觸し、和學の發達に就いて新なる豫想を示して來て居るのも矢張りこの時代であつた。~以下略~』と。

 これを踏まへて、中世「和學」と、近世「國學」の持つ性質に就て三つに大別されるとする。曰く、
一つは研究の對象であつて、中世和學にあつてはその對象は主として平安朝文學であり、神代紀の研究がその次に位すると云ふ状態であつたのであるが、近世に至つて新に注意を集め、寧ろその研究がこゝに集中されて來たとも云はれる地位に置かれたものは萬葉であつた。即ち平安朝文學と神代紀との中間に置かれる萬葉であつて、しかもこの萬葉の研究を階梯として、次に古事記の研究に導かれて來て居る事は注目されなければならなかつた
 契沖、春滿、眞淵の諸大人は、萬葉の研究に專心され、次いで宣長大人は古事記の研究に偉大なる功勞あることは周知の事實だ。

『次に擧げられるものは文學論の問題である。即ち中世の文學論は、一般文化現象と共に、甚しく佛教的である事を免れなかつた。 ~中略~ 狂言綺語である源氏の物語を、げにゞゝしく書き連ねた罪業に依つて紫式部は地獄に墜ちたと稱せられ、時にはまた紫式部は觀音の權化であつて、この源氏に依つて人生の無常を悟らしめ、之を弄ぶ物を佛道に導く事をその目的とするものだと解せられる等、彼等の夢想がかけられて居るこの源氏と雖も、佛教的文學論の批判の外に置かれる事は出來なかつたのである。然るに近世に至つて、物語に對するかくの如き解釋は、儒教的な勸善懲惡論と共に、再び國學者の批判の對象とされなければならなかった
 國學が發達するにつれ、復古神道はおほいに唱道されるに至つた。二月廿二日に記述した、「その立場の上に明確に日本的立場を以て純粹日本的なるものを闡明しようとする學問」がつまりこれだ。

『次に今一つの問題は、近世國學に至つて、古語の研究がその面目を一新し、著しく科學的な性格を加へて來たと云ふ事にあつた。中世和學と雖も、古語の研究を無視するものでなかつたに相違ないが、その方法に於て、未だ學問以前の状態に置かれて居たと云はれなければならないものがあつた。然るに近世國學に於ては、國語の語法に注目し、廣くその用例を古典に求め、古語の解釋と云ふ新なる學問の分野がこの近代的な方法に照らされる事に依つて、こゝに無盡藏とも云はるべき問題を示して來たのであつた。そして學問的な立場から云ふならば、國學の立脚する處は寧ろこの分野にあつたとも云はれるのである』と。

 このやうに、竹岡氏は、中世にあつては「和學」とし、近世にあつては「國學」と呼び、その相違を分析した。
 竹岡氏、續けて曰く、
和學が中世から近世に到達するためには、かくの如き性格の轉換を行はなければならなかつた。併しながらこの轉換が行はれた事は、直ちに近世國學の性格が完成された事を意味するものとは見られなかつた。國學は更に古道學として發達し、古道學として完成しなければならない使命を持つて居る。それは中世和學に於ける神道的要素を發揚する事としても見られるであらう』と。



 ところで野生の未見の友人に秋風之舍といふ三重縣在住の若者がある。
 以前、とある御縁によつて書翰の交換を繰り返すやうになり今日に至る。その時、彼れは未だ学生であつたかと記憶する。かく考へれば、筆の交はりを始めてから、かれこれ十二、三年。これで未見といふのも、また凄いことだ。
 秋風之舍主人、最近では求學求道を專らとしてゐるとのこと。↓↓↓↓
              ◆◆うひまなびのともがら◆◆  http://yaplog.jp/akikazenoya/

 関西方面に於ける若手の行動右翼として注目された彼れが、道に目覺めて只管ら學究の日々を送るといふのも、また、時代の移り變はりと申す可き乎、將た又た時代の要請と見做す可き乎。

 未見の有志に敬意を表しつゝ、謹みて左のリンクへ登録させていたゞきます。→→→
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by sousiu | 2013-03-01 17:22 | 先哲寶文

人心・思想の亂れる麻の如し、さればこそ、神國日本への確信を。

●壽永三年二月、源頼朝公、後白河法皇の近臣刑部卿泰經公に送るの意見書に曰く、
我朝ハ神國也。往古(ノ)神領、相違無ク、其外、今度始テ又各新加せらるゝ歟。就中、去ル此鹿島大明神御上洛ノ由、風聞出來ノ後、賊徒追討、神戮空しからざる者歟

●延元四年、源親房公、『神皇正統記』卷一に曰く、
大日本者神國也。天祖始て基を開き、日神長く統を傳へ給ふ。我國のみ此事有り。異朝には其類无し。此故に神國と云ふ也

●文明十二年七月、一條兼良公、『樵談治要』に曰く、
我國は神國也。天つち開けて後、天神七代、地神五代あひつぎ給ひて、よろづのことわざをはじめ給へり

●天正十九年七月廿五日、豐臣秀吉公、印度國副王に與ふる書翰に曰く、
夫れ、吾が朝は神國也。神は心也、森羅萬象一心を出でず。神に非ざれば其の靈生せず、神に非ざれば其の道成らず』(原文ハ漢文)

●慶長十七年六月附、徳川家康公、濃毘數般(ノビスパン)國主に答ふる書翰に曰く、
抑も吾が邦は神國なり。開闢より以來、神を敬ひ佛を尊ぶ。佛と神と垂跡同じくして別なし。君臣忠義の道、霸國交盟の約を堅くし渝變する無き者、皆、誓ふに神を以て信の證となす』(原文ハ漢文)

○又た、慶長十八年十二月、同公、「耶蘇教禁制」に曰く、
夫れ日本は、元是れ神國也。陰陽測られざる、之を名づけて神と謂ふ。聖の聖たる、靈の靈たる、誰れか尊崇せざらんや』(原文ハ漢文)

●正保三年二月一日、徳川義直公(敬公)、『神祇寶典』に曰く、
夫れ、本朝は神靈の挺生して棲舍する所なり。故に神國と推稱し、其の寶を神器と號す。其の大寶を守る、則はち曰く、神皇と。其の征伐する、則はち曰く、神兵と。其の由りて行ふ所、則はち曰く、神道と』(原文ハ漢文↓↓序文)
http://www.aichi-pref-library.jp/wahon/pdf/1103263574-001.pdf

●林道春、『本朝神社考』に曰く、
夫レ本朝ハ神國也。神武帝、天ニ繼ギテ極ヲ建テシ已來、相續キ相承ケテ、皇緒絶えず、王道惟(これ)ニ弘マル。是レ我ガ天神ノ授クル所ノ道也』(原文ハ漢文↓↓右頁)
http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0000302OSH&C_CODE=FJ.896.3&IMG_SIZE=&IMG_NO=3

●寛文八年、匹田以正翁、「神風記」卷一に曰く、
葦原ノ國は、太古より神のまします國なれば、國、もとより神の國。民、もとより神の苗裔也

●寛文九年十一月廿七日、山鹿素行翁、『中朝事實』に曰く、
唯中國(日本のこと)開闢より人皇に至る、二百萬歳に垂んとし、人皇より今日に迄び、二千三百歳を過ぐ。而して天神の皇統違はず』(原文ハ漢文)

●文政八年三月、會澤安翁、『新論』上に曰く、
『謹で按ずるに、 神州は太陽の出づる所、元氣の始まる所、天日の嗣、世々宸極を御し、終古易らず、固に、太陽の元首にして、萬國の綱紀なり』(原文ハ漢文)




 以上、限が無いのでこのへんにしておくが、驚く可きは、慕夏思想の權化とも云ふ可き羅山(林道春)でさへも、(他意あるにせよ)日本が神國であることをハツキリ認めてゐる。
 家康にしても然り。屈折してゐるが爲めか、あまり大したことは云うてゐないが、一應は神國であることを認めてゐる(因みに申すまでもなく、天地開闢當時には佛など存さない。日本に於ての佛教徒は、單なる客人の如きだ)。
 腦裏の奧底で異國の魔説に支配されてゐるのか、今日、多くある日本の保守派から、日本乃はち神國といつた主張が滅多に聞かれぬは、賣國思想の持ち主であつた羅山にも及ばぬといふ感あり、何とも頼りなき思ひに驅られると云へば些か過ぎたる言か。

 野生は竊かに、松陰先生を尊敬すると申す者が、終末思想に支配される有樣をみて、寔に滑稽と思はざるを得ないのである。松陰先生の内なる信念を知らずして、一體何を以て尊敬してゐるといふのであるか。
●安政六年、吉田松陰先生、「堀江克之助に與ふる書」に曰く、
神勅相違なければ、日本は未だ亡びず。日本、未だ亡びざれば、正氣、重ねて發生の時は、必ずある也。只今の時勢に頓着するは、神勅を疑ふの罪、輕からざる』と。

 愚案。刻下に最も要せらるゝ可きは、神國に對する確信である。
 野生は必ずしも己れ乃至は國民の權利が侵害されるに對して無頓着たれ、と云ふでない。けれ共、それ以上に、それよりも遙るかに神州の清潔が涜されること、天業の遂行を妨碍せむとする輩の跋扈することを懼れる可きと思ふのである。

 今日、吾人が頭上に漂へる暗雲は少々ならず、かりそめにも國の前途を憂はざる者はないだらう。
 されど、權利の奪還乃至護持を訴へんが爲めの絶叫では日本は動じない。皇國の眞相を明らかにせんと欲する赤心によつて動ずるのである。
 強ひて云へば、日本を滅ぼしてはならぬといふ迂闊にも終末思想に憑依された怯懦者と、皇業を翼贊せんとする立志者との違ひであり、その差は正さに千里の懸隔あると云はねばなるまい。


●明和六年、賀茂眞淵先生、『國意考』に曰く、
『凡ソ世の中は、あら山荒野の有か、自ら道の出來るがごとく、こゝも自ら 神代の道のひろごりて、おのづから國につけたる道のさかえは 皇いよゝゝさかえまさんものを

●安政二年六月、紀維貞先生、『國基』に曰く、
『我が 皇朝 天祖 天孫、國紀を基としてより、以て今日に至る。皇統連綿として、高きこと山の如く、重きこと地の如く、長く天地と、窮極あることなし』と。


 近年に於て時流の速度は加速してゐる。來たる年も來たる年も「反共」「反ロ」或は「反米」と、たゞ「反」それ丈を云へば足る時代は終はつて既に久しいのだ。
 時局を追うても追うても、陸續として頭痛の種は發芽する。
 國難を前にして、恰も國内は亂れる麻の如し。國民が一致團結せずんば、何うして將來、之を乘り越えられるであらう。
 では、皇國に於て、國民の一致團結が可能となるに、果して現在何を缺いてゐるのであるか。

 以爲らく、幕末に於ける時代の趨勢は、今日の速度の比では無かつたであらう。
 勤皇の志士が、それでもブレなかつた唯一と云はずんば第一の理由は、神國に對する確信であつたと野生は信じて疑はないのである。

●文政七年、平田篤胤先生、『古道大意』上卷に曰く、
『扠、世間ノ人ガ、誰モ々ゝ此國ヲサシテ、神國々々と云ヒ、マタ我々ハ、神ノ御末ジヤ、ナドト言マスガ、實ニ是ハ世間ノ人ノ申ス通リニ、違ヒモ無イコトデ、我御國ハ、天神ノ殊ナル御惠ニ依テ、神ノ御生ナサレテ、萬ノ外國トハ、天地懸隔ナ違ヒデ、引比ベニハナラヌ、結構ナ有難イ國デ、尤神國ニ相違ナク、又、我々賤ノ男シヅメメニ至ルマデモ、神ノ御末ニチガイ無イデ厶(厶=ござる)。デハ有レドモ、惜イコトニハ、其神國、マタ神ノ御末ナル所以ノ本ヲ、知ンデ居ル人ガ多イデ厶。夫デハ一向ムチヤクチヤデ、折角神國ニ生レテ、神ノ御末ジヤト云センモ、ナイト申モノデ厶』と。

●天保七年、中林成昌先生、『知命記』に曰く、
『我 皇國は、天地の初より、人倫正しく、君臣上下の分、明かなること日月の如し。故に、神跡盡く則とるべし。茫然しるべからざる漢土の開闢と、同じさまに心得るは、道理にくらきの甚きなり。今にいたりて、君臣正しく、人心清明なるは、一に上世 神明の化育によりてしかる所なり。されば、皇國は神代を主として道を立て、教をなすべし。舍人親王の書紀、竝古事記、舊事紀につきて、神代以來の道をはかり察スべきことなり』と。
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by sousiu | 2012-09-03 06:35 | 先哲寶文

竹内式部先生と、『奉公心得書』 

●竹内式部先生、寶暦七年六月『奉公心得書』(全文)

夫れ 大君ハ、上古伊弉册尊天日を請受け、天照大神を生み給ひ、此國の君とし給ひしより、天地海山よく治まりて、民の衣食住不足なく、人の人たる道も明らかになれり。其後、代々の帝より今の 大君に至るまで、人間の種ならず、天照大神の御末なれば、直に神樣と拜し奉つり、御位に即かせ給ふも、天の日を繼ぐといふ事にて、天津日繼といひ、又宮つかへし給ふ人を雲のうへ人といひ、都を天といひて、四方の國、東國よりも西國よりも京へは登るといへり。譬へば今床の下に物の生ぜざるにて見れば、天日の光り及ばぬ處には、一向草木さへ生ぜぬ。然れハ凡萬物、天日の御蔭を蒙らざるものなけれハ、其御子孫の大君ハ君なり、父なり、天なり、地なれハ、此の國に生としいけるもの、人間ハ勿論、鳥獸草木に至るまで、皆此君をうやまひ尊び、各品物の才能を盡して御用に立て、二心なく奉公し奉ることなり
故に此の君に背くものあれハ、親兄弟たりといへども、則之を誅して君に歸ること、吾國の大義なる。況や官祿いたゞく人々ハ、世に云ふ三代相傳の主人などといふ類にあらず。神代より先祖代々の臣下にして、父母兄弟に至まで大恩を蒙むる人なれハ、其身ハ勿論、紙一枚絲一筋、みな 大君のたまものなり。あやまりて我が身のものと思ひ給ふべからず。わけて御側近く奉公し給ふ人々ハ、天照大神の冥加にかなひ、先祖神靈の御惠みに預かり給ふ御身なれハ、いよゝゝ敬まひかしつき奉る心しばらくも忘れ給ふべからず。
然れども只わざにのみ敬まひて、誠の心うすけれハ、君に諂らふに近うして、君を欺くにも至るべし。本心より二心なくうやまふを忠といへり。忠ハ己が心を盡すの名にして、如才なき本心をわざと共に盡す事なり。其御側近く事ふる身ハ、始めの程ハ恐れ愼むの心專らなれども、慣れてハ衰ふる物にや。古より、忠怠於宦成、病加於小愈、禍生於懈惰、孝衰於妻子といひ、又禮記にも、狎而敬之、畏而愛之といへり。わけて 君の御寵愛に預かる人ハ、幸ひに天地萬民の爲めに君を正しき道にいざなひ奉り、御前に進みてハ、道ある人を進め、善をのべ、邪なる人ハ勿論、はなしをもふせぎ、只善き道に導き奉り、共に天神地祇の冥助を永く蒙り給はん事をねがひ給ふべし。然らハ若き人のあまりいきすぎたるハ、憎ましきものなれハ、言葉を愼しみ、時をはかり給ふべし。此道を忘るれハ只恩になれ愛をたのみ、いつしか始めの愼みを忘れ、睦まじさのあまりより、口に道ならぬ戯れをいひ、人の善惡をまげて、君をくらまし、身に越えたる奢りを好むより、無禮不敬の事も起り、君をして淫がはしき御身となし、人に疎ましめ、遂に神明の御罰を蒙る事恐るべし
又、君に疎まるゝ人ハ、少しも 君を怨むる心など出たらば、勿體なき事と心得、只 天神につかふると心得、猶も身持を大切にして、奉公を勵み給ふべし。譬へば今大風、大雨、飢饉、流行病等ありても、天を怨むる人なし。吾君ハ眞に神といふ事返す々ゝも忘れ給ふべからず。然るを淺はかに心得、君を怨みねたむ人ハ、其身ハ勿論、父母兄弟の家の害となり。推してハ天下の亂にも及ぶ事、古今其例多し。愼むべし。楠正成の言葉に、君を怨むる心起らハ、天照大神の御名を唱ふべしとあるも。天照大神の御恩を思ひ出さハ、則、其御子孫の 大君たとひ如何なるくせ事を仰せ出さるゝも、始めより一命をさへ奉り置く身なれハ、いかで怨み奉る事あるべきや。まして至誠神明に通ずれハ、造化と功を同うすといひ、不能感人誠未至也ともいへハ、誠だに至らハ、などか君のかへりみ給ふ事なからんや。其誠に至るの道ハ、心に如才なきのみにてハ至り難し。すべて心を盡すハ、業にある事なれハ、平生身にする事の道にそむかざる樣に愼しみ、心一ぱいを身と共に盡す故、身心内外相そろひて誠に至る事なり。さハいへども、餘り恐れおのゝきてハ、離るゝと云ふ事あり。只我身を顧み、造にそむく事だにあらずんハ、云ふ事すべき事ハ、すべかりとしたまふべし。
皇后に奉公し給ふも同じ事なり。皇后ハ 大君と並び給ふ御方にて、天地陰陽日月とならび給ふ御方ゆゑ、君と同じく敬ひ給ふべし。
又女子は嫌(きらひ)をさくると云ふ道あり。風と男のうはさしてハ、不義の名を受くる事あり。故に古人も男女五十にならざれハ、同じ居間にて物語せずとも云ひ、又、既に嫁してハ、兄弟たりとも、男たるもの、同じ居間に居らずとも見えたり。心ハ潔くとも、不愼より不義の名を蒙りしハ免れがたく、故に女ハ夜行くに燭を以てすとて、くらき所へ行かざるも、嫌をさくる教へなり。
兔角本心の誠を盡して天命を待給ふべし。心の誠を盡すを仁といひ、言行此仁義の道にかなふ人を聖人賢人ともいひ、此道に背く人を禽獸同然の人と云へり。朝より夕まで、喜ぶにつきても、哀しむにつきても、仁義の造にそむかんかと恐れ慎しみ、奉公し給ふべし。

 寶暦七年丁丑六月 竹内敬持 謹述


※明治廿四年九月 香川敬三公の版による。
※句讀點、改行は野生による。振り假名は原文マヽ。
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 氣分も乘つたし、氣合ひも入つたので、、敢へて全文を掲載した。
 この玉書に就て、先人の御意見を添へて、更らに記事を充實させたく希望するが、本當に『芳論』を書かねばならぬ。いや、その前に、戰鬪的睡眠が必要・・・か。
 兔に角、それでは、また。

 ~續く・・・かも識れない。
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by sousiu | 2012-04-19 02:44 | 先哲寶文

ひとむきにかたよることのあげつらひ  

 月曜日は「神奈川有志の會」の懇親會。
 この日、野生の天敵である伊藤満先輩が缺席。説教右翼の先輩が不參加であつたことは、ちと殘念であつたが、有志の會はこの日も活氣充分であつた。
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 この會の宜いところは、皆が意見を持つてゐるといふことだ。
 最近はあまり無いが、これまで論爭となることも決して稀有ではなかつた。しかし、その論爭も決していやらしきものではなく、いふなれば發展的で、いづれも有志ならではの論爭といふべきものだ。
 野生は、左翼の如く、自分の派以外を敵視したり、更らには自己總括に名を借りた肅正の如く、なんでもかでも批判することに聊かも共鳴するものではない。
 だがしかし、逆に云ふ可きこと、云はねばならぬことまでをも云へず、或いは云はさずの關係も又た、決して健康ならぬ間柄だと思ふわけである。このあたりのバランスは上手に説明出來ないが、兔に角、アラ探しや敵探しであるとか、その正反對としての友達集めやゴツコのどちらも、兩極端に位置してはゐるが、共通する部分があるやうに思はれる。建設的ではないといふことだ。
 さういつた意味で「神奈川有志の會」は一人ひとりの個性が隱れることもなく、いふなれば浪人的な空氣が充滿してをり、野生は好きなのである。


 この日、木川選手から「玉勝間」の話しが出たので、野生もお付き合ひして、「玉勝間」から引用をば。

●鈴屋 本居宣長大人、『玉勝間 卷四 わすれ草』(寛政九年)「ひとむきにかたよることの論ひ」項に曰く、
『世の物しり人の、他(ひと)の説(ときごと)のあしきをとがめず、一(ひと)むきにかたよらず、これをかれをもすてぬさまに論(あげつらひ)をなすは、多くハおのが思ひとりたる趣をまげて、世の人の心に、あまねくかなへむとするものにて、まことにあらず、心ぎたなし。たとひ世人は、いかにそしるとも、わが思ふすぢをまげて、したがふべきことにはあらず。人のほめそしりにハかゝハるまじきわざぞ。大かた一むきにかたよりて、他説(あだしときごと)をバ、わろしととがむるをバ、心せばくよからぬこととし、ひとむきにハかたよらず、他説(あだしごと)をも、わろしとハいはぬを、心ひろくおいらかにて、よしとするハ、なべての人の心なめれど、かならずそれさしもよきことにもあらず。よるところ定まりて、そを深く信ずる心ならバ、かならずひとむきにこそよるべけれ。それにたがへるすぢをば、とるべきにあらず。よしとしてよる所に異(こと)なるハ、みなあしきなり。これよければ、かれハかならずあしきことわりぞかし。然るをこれもよし、又かれもあしからずといふは、よるところさだまらず、信ずべきところを、深く信ぜざるもの也。よるところさだまりて、そを信ずる心の深ければ、それにことなるすぢのあしきことをば、おのづからとがめざることあたはず、これ信ずるところを信ずるまめごゝろ也。人はいかにおもふらむ。われは一むきにかたよりて、あだし説をバわろしととがむるも。かならずわろしとは思はずなむ』と。(板本による原文マヽ)
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○譯文『研究社學生文庫 玉勝間』(昭和十五年十一月一日「研究社」發行)尾見修一氏による。
『世間の識者が、他人の學説の惡い點を(指摘し)非難せず、一方面にばかり傾かず、これもあれも捨てぬやうに(生ぬるい態度で)議論をするのは、大多數は自分が正しいと信じてゐる趣旨を枉げて、世間の人の心に、おしなべて迎合しようといふのであつて、誠實ではなく、心事が陋劣である。たとへば、世間の人が、どんなに惡くいはうとも、自分の信ずる道理を枉げて、他人に從ふことはいけないのである。他人の毀譽襃貶には關係のない問題なのである。大體に於て、一方向に偏して、他人の學説を、惡いととがめるを以て、心が狹隘であり、よくないことであるとなし、一方に傾かず、他人の學説をも、わるいといはないのを、心が廣量で、大人しく、よいとするのは、一般の人の心事であらうけれど(さういふ風であいまいで、どつちつかずの日和見的態度は)、必ずしも大してよいといふ事ではない。自分の據り所とする點が確乎としてをり、それを深く信ずる心があるならば、必ずその一方向に傾く筈であるそしてそれに反對する道理をば採用する筈はない。自分がよいとして信ずる所と違つてゐる所説は、皆惡いのである。一方が是ならば他は必ず否である理窟であるのだ。それだのに、これも可である、同時にあれも惡くはないといふのは、據り所とする點が確乎としてゐなくて、信ずべき所を、少しも信じないのである。根據が確乎としてゐて、それを信ずる心が深ければ、それに違つてゐる道理の惡い點を、自然ととがめなくてはならぬわけである。これ即ち我が信ずる所を信ずる忠實なる心である。人はどういふ考へだらう。それは知らぬが、自分は一方向に偏つて、他人の學説を惡いと非難するといふ態度を、かならずしも惡いとは思はないのだ』

 人は如何云ふ考へだらう。それは知らないけれ共、野生は宣長大人の、このお説に共鳴するものである。
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by sousiu | 2012-02-15 02:11 | 先哲寶文

直毘靈、抄録  

 『文章報國は予の天職である』と、蘇峰徳富猪一郎翁は云つた。
 固より野生の文章なぞ、如何に思案を重ねたとて報國といふ域には至らない。
 されど、決してこれを卑下するものでない。國に報いらむとするの意氣込みだけは野生にも、ある。一寸の蟲にも五分の魂だ。内容では翁の見識や學究にとほく及ばずとも、せめて姿勢だけは「とほく及ばぬ」などと云つてはいけない。

 とは云へ、日乘も更新が滯りがち。
 そんな折、先日、木川選手から、「腱鞘炎知らず」を戴いた。尻を叩かれる思ひだ。
 彼はよい男だ。このタイミングでこの臺詞を云うては、いかにも、といふ感じだが。笑止。
 日乘は止まつてゐたが、彼から頂戴した「腱鞘炎知らず」に申し譯なく、こゝ數日、機關紙の執筆作業に餘念がない。
 はて。日乘停滯の言ひ譯も藪蛇であつたか・・・・。なにせ機關紙は一號分まるゝゝ遲れてゐる。もう五ケ月も滯つてゐることになるのだ。冒頭の文句の意氣込み云々は、まるで空々しくなつてしまつたな・・・・。


 さて、野生の空しいひとり突つ込みはこゝまでとして。・・・昨日、お笑ひ觀たから、つい、ね。

 前囘廿四日は、先人の抗議に就て、一例を記したつもりだ。
 今日は、何故に、國賊・・・でもない、にはか反日がかうも多く存在するのか。それに就て先人の文章より考へてみることにする。(一應、廿三日の記事から繋がつてゐるつもり)



●本居宣長大人『直毘靈』(文政八年)に曰く、
皇大御國ハ、掛まくも可畏き 神祖天照大御神の御生坐せる大御國にして[萬ノ國に勝れたる所由ハ先づこゝにいちじるし。國といふ國に此ノ大御神の大御徳かゞぶらぬ國有らむや]』と。
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仝、『古への大御世には道といふ言擧もさらになかりき[故古語に、あしはらの水穗の國ハ、神ながら言擧せぬ國と云り]其はたゞ物にゆく道こそ有りけれ。[美知(みち)とは、古事記に味御路と書る如く山路野路などの路に、御てふ言を添たるにて、たゞ物にゆく路ぞ。これをおきては上つ代に道といふものはなかりぞかし]物のことわりあるべきすべ。萬の教へごとをしも、何の道くれの道といふことは、異國(あだしくに)のさだなり[異國は天照大御神の御國にあらざるが故に、定まれる主(きみ)なくして、狹蠅なす神、ところを得て、あらぶるによりて、人心あしく、ならはしみだりがはしくして、國をし取りつれば賤しき奴(やつこ)も、たちまち君ともなれば、上とある人ハ、下なる人に奪ハれじとかまへ、下なるは上のひまをうかゞひてうばゝむとはかりて、かたみに仇(あた)みつゝ、古より國治まりがたくなも有りける。其が中に、威力(いきほひ)あり智(さと)り深くて、人をなづけ、人の國男奪ひ取て、又、人にうばゝるまじき事量(ことばかり)をよくして、しばし國をよく治めて後の法ともなしたる人を、もろこしには聖人とそ云ふなる]

『そもゝゝ天地のことわりはしも、すべて神の御所爲(みしわざ)にして、いともゝゝゝ妙に奇(くす)しく、靈(あや)しき物にしあれば、さらに人のかぎりある智(さとり)もては測りがたきわざなるを、いかでか、よくきはめつくして知ることのあらむ。然るに聖人のいへる言をば、何ごともたゞ理(ことわり)の至極(きはみ)と、信たふとみ居るこそ、いと愚(おろか)なれ

『されば聖人の道ハ、國を治めむために作りて、かへりて國を乱すたねともなる物ぞ。すべて何わざも大らかにして事足(たり)ぬることは、さてあるこそよけれ。故(かれ)皇國の古へは、さる言痛き(こちた-き=うるさき)教へも何もなかりしかど、下が下までみだるゝことなく、天の下は隱(おだひ)に治りて、天津日嗣いや遠長に傳はり來坐(きませ)り。されば、かの異國の名にならひていはゞ、是れぞ上もなき優たる大き道にして、實は道あるが故に道てふ言なく、道てふことなけれど、道ありしなりけり。そを、ことゞゝしくいふあぐると、然らぬとのけぢめを思へ。言擧せずとは、あだし國のごと、こちたく言立つることなきを云ふなり。 ~中略~ たとへば猿どもの人を見て、毛なきぞとわらふを、人の恥て、おのれも毛はある物をといひて、こまかなるをしひて求(もとめ)出て見せて、あらそふが如し。毛ハ無きが貴きをえしらぬ。癡人(しれもの)のしわざにあらずや

『漢國(もろこし)などは、道てふことはあれども、道はなきが故に、もとよりみだりなるが、世々にますゝゝ乱れみだれて、終には傍(かたへ)の國人に、國はことゞゝくうばはれはてぬ。其は夷狄といひて卑めつゝ、人のごともおもへらざりしものなれども、いきほひつよくして、うばひ取りつれば、せむすべなく天子といひて、仰ぎ居るなるは、いともいともあさましき有樣ならずや』

神の道と申す名は、書記の石村池邊宮(※用明帝の朝、也)の御卷に、始めて見えたり。されど其は只、神をいつき祭りたまふことをさして云へるなり。さて難波長柄宮(※孝徳天皇の朝、也)の御卷に、惟神者謂隨神道亦自有神道也(※かむながらの道とは、神の道に隨ひたまひて、また自ら神の道に有るを謂ふなり)とあるぞ。まさしく皇國の道を廣くさしていへる始めなりける。さて其由は、上に引きていへるが如くなれば、其の道といひて、ことなる行ひのあるにあらず、さればたゞ神をいつき祭り給ふことをいはむも、いひもてゆけば一つむねにあたれり

『いにしへの大御代には、しもがしもまで、たゞ天皇の大御心を心として[天皇の所思看(おもほしめす)御心のまにゝゝ奉仕(つかへまつり)て己が私心はつゆなかりき]、ひたぶるに大命をかしこみ、うやひ、まつろひて、おほみうつくしみの御蔭にかくろひて、おのもゝゝゝ祖神を齋祭(いつきまつり)つゝ[天皇の大御皇祖神の御前を拜祭(いつきまつり)坐すがごとく、臣連八十伴緒(おみむらじやそとものを)天の下の百姓(おほみたから)に至るまで、各祖神を祭るハ常にて、又、天皇の、朝廷(みかど)のため天ノ下のために、天神國神諸(もろゝゝ)をも祭り坐すが如く、下なる人どもゝ、事にふれてハ福(さち)を求むと、善(よき)神にこひねぎ、禍をのがれむと、惡(あしき)神をも和め祭り、又、たまゝゝ身に罪穢れもあれば、祓清むるなどみな人の情(こゝろ)にして]、かならず有るべきわざなり。然るを、心だにまことの道にかなひなば、など云ふめるすぢは、佛の教へ儒の見(こゝろ)にこそ、さることあらめ、神の道には甚(いた)くそむけり。~中略~ されば神は、理の當不(あたりあたらぬ)をもて、思ひはかるべきものにあらず。たゞその御怒を畏みて、ひたぶるにいつきまつるべきなり。されば祭るにも、そのこゝろばへ有りて、いかにも其神の歡喜(よろこ)び坐すべきわざをなも爲(す)べき。そは、まづ萬を齋忌清まはりて、穢惡あらせず、堪(たへ)たる限り美好物(うまきもの)多に獻(たてまつ)り、或は琴ひき笛ふき歌■(人偏+舞=ま)ひなど、おもしろきわざをして祭る、これみな神代の例にして、古の道なり

『然るを中ごろの世のみだれに、此の道に背きて、畏くも大朝廷に射向ひて、天皇尊をなやまし奉れりし、北條義時泰時、又、足利尊氏などが如きは、あなかしこ、天照大御神の大御蔭をもおもひはからざる、穢惡(きたな)き賊奴どもなりけるに、禍津日神の心はあやしき物にて、世の人のなびき從ひて、子孫(うみのこ)の末まで、しばらく榮え居りしことよ。抑、此の世を御照し坐します天津日神をば、必ずたふとみ奉るべきことを知れども、天皇を必ず畏こみ奉るべきことをば、知らぬ奴もよにありけるは、漢籍意(からぶみごゝろ)にまどひて、彼國のみだりなる風俗を、かしこきことにおもひて、正しき皇國の道をえ知らず、今世を照しまします天津日神、則ち天照大御神にましますことを信(うけ)ず、今の天皇すなはち天照大御神の御子に坐しますことを忘れたるにこそ』


 大人は、當時、國内を瀰漫してゐた漢意(からごゝろ)を取り祓はむと、皇國の眞姿を説く。
 而して、それは、啻に日本が他國に比して優秀であり、また、單に他國を蔑視するものではない。天照大御神の大御徳は、萬國萬民、禽獣蟲魚草木土塊有形無形すべてに齎せられることを云ふ。決して耶蘇教や佛教にみられるやうな狹量な且つ高慢な世界觀ではない。
 抑も『直毘靈』は、大著『古事記傳』一之卷に記されたもの。古事記傳を讀むに當つての、簡單に云へば心得とも申す可き乎。だが今日、その意は措く。
 今日、學校で、人間の祖先は猿である、と教へられる我々には、鈴屋大人の玉文はまつたく妄想狂のごとく思へてならないであらう。今にいふ、保守派なるも愛國者なるも、權利思想に犯されし者少くなく、日本の眞姿を近代、或いは皮相を以て諒解せんとする。左なる次第であるから、鈴屋大人のごとき日本の説明がついぞ聞かれなくなり久しくあることは、まことに日本の爲めに殘念と云はねばならぬ。
 餘談となるが、それは戰後教育の弊害と簡單に云ひ切れるものではない。佛意、漢意の拂拭によつて推進乃至達成されたはずの明治維新であつたが、時日措かずして、新たな招かざる客、西歐文化、洋意が襲來した。三百年のヒキコモリから轉じて諸國の交際を專らとした新政府は、武力の多寡が壓倒的に外交の要であることを認識する。近代軍備を充足する爲めに物資、技術、學問の輸入に急いだことは、或いは仕方が無かつたのかもしれない。だが、技術に進み産業に富む彼れら西洋に追ひ付け追ひ越せの國是は、知らず識らず上下にわたる國民人心に西洋崇拜の念を併せ持つやうになり、耶蘇教解禁にも至つた。
 西洋哲學、思想の流入は齒止めが聞かず、加之、おほいに之を歡迎した。科學やデモクラシーを金科玉條の如く盲信し、それは今日も省みられない。
 とは云へ、世界的に行き詰りを呈してゐる今日、樣々な分野に亙つての見直しが索められつゝある。若しも今日、鈴屋大人がをられたとしたならば、現代の有樣を如何にみるであらう。大人による、皇國の眞相を闡明せんとするの試みは、日本が諸國に率先して近代の閉塞を打開を可能するべく一助となるかも知れないと考へることは、飛躍のし過ぎといふものか。
 いづれにせよ、次代に要される可きは全くでないとするも、軍備が第一でもあるまい。昨日の指導者が、必ずしも明日の指導者でなければならぬ理由は無い。西歐霸權の時代は、瓦解せんとしてゐる。

 ともかく、日本が嫌ひな反日の日本人も、日本をよく識らないで濟まさんとする日本人も、まづ好き嫌ひを口にする前に、もう一度、日教組教育を疑ひ、自分自身の手で、日本を調べてみてからでも遲くはあるまい。案外、新しい發見の少くないことを識ることが出來ると思ふ。

 又た、漢籍は外來ものと云つて、食はず嫌ひな人達へも、鈴屋大人はかう教へ諭してゐる。
『直毘靈』に曰く、
但し古き書は、みな漢文にうつして書きたれば、彼の國のことも一わたりは知りてあるべく、文字のことなど知らむためには、漢籍をも、いとまあらば學ぶつべし。皇國魂の定まりて、たゞよはぬうへにては害はなきものぞ』と。
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↑↑↑↑ 『直毘靈』と『腱鞘炎しらず』。



(注)掲載は「直毘靈」本文の順序に非ず。振假名は本文マヽ。※は野生による。
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by sousiu | 2012-02-02 14:18 | 先哲寶文

山陵志   

●蒲生君平先生、享和元年正月、『山陵志』卷之一に曰く、
『古之帝王 其奉祖宗之祀 而致仁孝之誠也、郊以配乎天、廟以享乎 祖、配乎天則作之靈畤、至尊至嚴 禮弗敢■(三水偏+賣=けが、涜)、享乎祖則立之大宮 以置祝宰百世弗毀、特報其有盛徳丕烈者焉、而其餘各就山陵 以時將常典、有事而■(示偏+壽=いの-り、祷)告、於是諸陵寮之職掌喪祭之禮供幣之數及陵戸名籍與其禁令、而正其兆域、修其垣溝、虔共所職其有儀則、故曰、山陵猶宗廟也、苟無有之則臣子何仰焉、臣子惟仰乎此而祀焉、則其禮隆矣、律謀毀山陵謂之謀大逆、與居八虐之一焉則其刑重矣、是王者之以孝治天下、所由而基也、胡其可不畏敬哉
○この譯文を掲げんに、
『古の帝王、其の 祖宗の祀を奉じて、而して仁孝の誠を致すや、郊には以て天に配し、廟には以て祖に享す。天に配しては則ち之れが靈畤を作り、至尊至嚴禮して敢て涜さず。祖に享しては則ち之が大宮を立て、以て祝宰を置き百世毀たず。特に其の盛徳丕烈有る者に報ゆ。而して其の餘各山陵に就き、時を以て常典を將ひ、事有り而して祷り告ぐ。是に於て諸陵寮の職、喪祭の禮供幣の數、及び陵戸名籍と其の禁令とを掌り、而して其の兆域を正し、其の垣溝を修め、職とする所を虔共して其儀則ち有り。故に曰く、山陵とは猶宗廟の如きなり。苟も之れ有ること無きときは、則ち臣子何をか仰がむ。臣子惟々此に仰ぎて祀るときは、則ち其の禮隆なり。律に謀りて山陵を毀つ、之を大逆を謀ると謂ふ。與りて八虐の一に居るときは則ち其の刑重し。是れ王者の孝を以て天下を治め、由りて而して基づく所なり。胡んぞ其れ畏敬せざる可けむや』(『勤王文庫 山陵記集』大正十年七月廿日「大日本明道館」發行)

○更らにこの現代譯文を柴田實氏の著書に委ねるとすれば、曰く、
昔の 天皇が御祖先の御祭をして孝行の誠をおつくしになるには、天神に對しては靈畤(まつりのには)を作つてお祭り申上げ、御祖天照大神の御爲には神宮をお立てになつてお齋ひ申上げてあるが、その他の御歴代に就いては山陵において時々のお祭をなされ、事あるときにはこれに告げ、これにお祷になつた。そのためには諸陵寮といふ役所がおかれて御葬祭のこと、幣物をお供へすること、お守りの家のこと竝びにその禁令等のことを掌り、御陵の兆域を正してその堀や垣を直したのである。それ故にこそ「山陵猶宗廟也」、山陵といふものはみたまやと同じである。それがなければ臣民として何を仰ぎ、何にお參りしよう。君民はただこれを仰ぎまつることによつて國の禮は隆んとなるのである』と。(『蒲生君平の山陵志』昭和十七年九月十五日「日本放送出版協會」發行)

 愚案。文武帝の御宇に制定せられた律に於て、山陵を毀つ者は 皇居を破壞するものと同樣のことゝ看做され、共に大逆罪として所謂る、八虐の第二に算へられた。當然のことながらこれは最も重罪の一つであつて、絶對に赦す可からざる罪であつた。
 後々、律令の制度が緩み、次第にかやうな刑罰も有名無實と化していつたのである。だがしかしこれを更らに深めて觀察すれば、果して制度上の形骸化を以てしてのみ、前日前々日に記したやうな、御陵に對する餘りにも寒心耐へざる状況が惹起されたのであらうか。現代の國旗國歌に對する法制化も、現時點を鑑みれば諒とす可きと頷きながら、吾人は、これで心安らかなる能はず。抑も法制化を必要とせねばならぬその現實を鑑みれば、已然、暗澹たる思ひを禁じ得ないのである。
 よつて吾人は『山陵志』が、單なる太古への郷愁や地學的好奇心から出でた研究にとゞまらず、蒲生先生の眞意を茲に看取す可きであらう。事實として、蒲生先生の素志は、後の勤皇維新、皇政復古に翼贊したところ多しと云はねばならない。これ野生が皇政維新を念ずるひとりとして、所謂る過剩過大に先達を評するものにあらず。只だ儼然たる事實を記したまでである。



 ところで、誤解を被らむ虞れのあるが爲め、おほけながら敢へて餘談を付加す。
 如上、『郊以配乎天、廟以享乎祖』とは、神武天皇が大和御平定に當たり鳥見山に靈畤を立て御祭り遊ばされたことゝ、崇神天皇が初めて 天照大神を大和笠縫にて齋き祭らせられたことを差してゐるのであるが、これは支那思想に基く云ひであつて(支那では「郊」は、天子が天を祀ることを意味し、「享」は死した人の靈を祀るの意なり也)、日本に於ける、この場合では言葉に適當を得る能はず。ものゝ逸話によれば、蒲生先生が「山陵志」を平田篤胤大人に提した時、篤胤大人が一讀してこれを指摘なされたと云ふ。蒲生先生、篤胤大人のこの批評に、頗る承伏するところ大なりとなん。
 當時は皆、漢文を學び用ゐ、漢文によつて思想を示さむとするの時代、仕方なきことゝ思ひながら、亦た即座に異を申上げた篤胤大人の見識も瞠目す可きところありと敬服すべし。

 ・・・續く。
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by sousiu | 2011-12-06 20:20 | 先哲寶文

これだけ書くなら「天地無辺」やれ、と?

 昨日は横濱で行はれた、先輩某氏の忘年會に參加。
 大行社諸兄も來られ、そのなかに木川君がをり、彼れと時對協忘年會に於て、中斷された意見交換の續きを行なつた。
 野生は、「民主主義」を全面否定してみても其の後の展開をみないことから、先人がやつてのけた、儒教の日本化に倣ひ、一層のこと民主主義を進化させて日本化を達成すべきとの意見だ。
 木川選手は民主主義を政治の枠内に止め、活用し得るところは善用す、併しあくまでも個々の觀念から社會に至るまで擴大的に利用し且つ影響されてはならない、といふ意見だ。・・・違つたかな。
 勿論、御互ひに試論の域を出でぬものであつて、進んで研鑽してゆかねばならない。だが、未熟なれども、かういふ意見交換は非常に樂しい。他には崎門學や荻生徂徠の話しなどで盛り上つた。
 あツといふ間に二時間が過ぎてしまつた。會場の皆はゲストである歌手や物眞似に耳目を貸して、又た拍手を投じてゐた・・・やうな氣がする。冷靜に考へてみればクラブで行なつてゐる忘年會に、淺見絅齋先生や荻生徂徠、民主主義の話に夢中になるつて、今思へば、一寸、ヤバいだらう。
 だが、ヤバいのは木川君だけであつて、野生は全然ヤバくない。何せ、この話しを挑んできたのは彼れだからだ。野生は付き合うたに過ぎない。さう云へば先日、某所で三澤浩一先輩が仙臺市の坂田君と野生を民族派の變人と云うた。だが三澤先輩は誤解してをられる、坂田君のことはともかく。
 昨日にしても、慥かに第三者から見れば、野生が木川選手に六ケ敷い話しを付き合はせてゐるやうに映つたかも識れない。けれ共、耳を澄ませば、彼れの方が野生をリードしてゐたこと何びとにも諒解せられるであらう。飛車に睨まれ、出來得可けんば、先輩の面目なぞもう如何でも宜いから、投了したいとさへ思うてゐたくらゐだ。
 最近の野生に友人が減り續けてゐる其の最大の理由は、陣營内で野生を變なヤツだと、誰れしもが薄氣味惡くなるやうな噂を流す御仁があるからではなからうか。でないとするならば、あとは政府の陰謀だ、苦笑。



 さて。早速、昨日の續きを記したい。
 奇しくも、數日前、田中光顯伯のことを記した。
 伯の、御陵に關する意見を抄録したい。

●昭和四年『伯爵 田中青山』(田中伯傳記刊行會發行)に曰く、
『(田中青山)伯、曾て歴代の御陵墓巡拜の志あり、公務多忙のため其の志を果さゞりしが、明治三十六年夏寸暇を得、即ち八月十八日東京を發し一ケ月餘の日子を費やして京都、大阪、奈良、丹波、和歌山等の各地に出張し、五百有餘の御陵墓を歴拜した。歸來其の所感を述べて曰く。

「余は多年御陵墓巡拜の素志ありしも公務多忙なるを以て、暑中の休暇を利用せんとせしが、毎年殆んど無休暇の爲め、其の志を果さゞりし。然るに三十六年夏期圖らずも大命に接し、八月十九日帝都を發し、京阪地方に於ける五百餘個所の御陵墓を歴拜せり。
~中略~
 抑も山陵の事たる、政權、武門に歸せし以來、頽■(土+已=き、たいき)に委するの概ありしと雖、徳川氏に至り、綱吉將軍の時、細井知愼の議に基き、大に修造を加へ、民間にありては、松下見林の前王陵廟記の如き、蒲生君平の山陵志の如き、上下の注意を怠らざる所なりき。當時余が歴拜せる所其の詳細に至りては、僅少時間の悉す所にあらず。
~中略~
 謹んで惟るに、我皇室歴代、山陵の事たる宗教上の根據以外、要するに、皇子孫をして列聖の宏謨を欽仰し、且髣髴として當時の形勢を追想せしむるにあり。故に其修理の方針に關しては、必ずや一定の主義に法り、濫りに古制を變更して徒に外觀を裝はんとするが如きは最も採らざる所なり。且つ夫れ天災地異は測るべからず、不祥の言なりと雖、假令如何に壯麗なる陵墓と雖、何ぞ一朝壞頽の變なきを保すべけんや。此を以て徒に多大の費用を投て其外觀を美にせんよりは、如かず總て其當時の制に從ひ堅牢摯實を旨とし、一は以て萬民懷徳の情を導き、一は以て列聖儉素の風を示さんには。特に況や歴史は生ける事實なり。一朝陵墓の變あるも、二千五百餘年來國民の胸に生ける列聖の威烈は萬世赫耀として到底泯滅する能はざるなり。余は平常此意見を持し、當時の巡拜に就ても終始茲に留意し、歸京後、此點に附て特に詳細に奏上せり。試みに見よ彼の楠公碑の如き、壯時余が京攝往來の際に在つては湊河畔萋草離々たるの間に建て、轉た當年の情勢を追懷せしも、今や四圍俗臭紛々たるの裡に在りて亦た殆んど懷古の情を惹く能はざるにあらずや。偉人傑士の碑の如き、至大の影響を風教の上に及すものに至ては、其の修理に關して特に意を注がざるべからざるなり。我郷國の偉人、武市瑞山先生の墳墓は長岡郡吹井村(現在三里村)に在り。往年其の修理の議起るに及で、或は其の規模を改擴し壯麗なるものとなさんとするの説ありしも、余は固く之を贊せず。唯だ相當の修理を施し、別に當時の同志二十餘名と倶に瑞山會を組織し、以て其の事蹟編纂に着手し、今や既に成るを告ぐるに至れり。余が家の墳墓の如きも亦世俗の顰に倣へば、今日の境遇に從ひ應分の修理を加へ得ざるにあらざるも、余は徹頭徹尾如上の主義に據り唯だ古來の情況を變ぜざるの範圍に於て堅牢の修理を施せるのみなりき

 げに山陵修理の議は勤王思想の勃興と共に志士、學者の間に唱道せられたる所にして、彼の蒲生君平の山陵志をはじめ、川路聖謨、淺野梅堂、平塚飄齋、水戸烈公、戸田忠至、谷森善臣等が是に就て熱心なる努力をなしたことは人の知る所であるが、伯が繁劇なる公務を割いて此行に上つた其の意知るべきである』
 と。
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by sousiu | 2011-12-05 17:26 | 先哲寶文

先人の曰く、努力すれば成るもの也、と。

 今日は、またゝゝ歌を詠まうと、常に歌のことばかり考へてゐた。
 まだ習ひたてなので當然なのであるが、これが本當に六ケ敷いものなのだ。
 福永眞由美先生は、おほいに惱んで苦しむことは、自分との戰ひであり、それを乘り越えて初めて得るものがあると御教へ下さつたが、何せ四十路われ、だ。野生の胡桃のやうに固くなつてしまつた腦味噌では、ちと不安である。

 されど、野生の好きな言葉は『求學求道』。ヘコたれずに頑張らねばならない。
 野生は、かうした時、本居宣長先生の『うひ山ぶみ』の一節を拜讀し、野生の勵みとしてゐるのである。


●本居宣長大人、『宇比山踏』に曰く、
『詮ずるところ學問は、ただ年月長く倦ずおこたらずして、はげみつとむるぞ肝要にて、學びやうは、いかやうにてもよかるべく、さのみかゝはるまじきこと也、いかほど學びかたよくても、怠りてつとめざれば、功はなし、又人々の才と不才とによりて、其功いたく異なれども、才不才は、生れつきたることなれば、力に及びがたし、されど大抵は、不才なる人といへども、おこたらずつとめだにすれば、それだけの功は有物也、又晩學の人も、つとめはげめば、思ひの外功をなすことあり、又暇のなき人も、思ひの外、いとま多き人よりも、功をなすもの也、されば才のともしきや、學ぶことの晩きや、暇のなきやによりて、思ひくづをれて、止ることなかれ、とてもかくても、つとめだにすれば、出來るものと心得べし

 拙きながらも譯文すれば、
「詰まるところ學問は、たゞ年月長く倦まず怠ることなく勵み努めることが肝要であつて、學び方はどの樣でも宜いもので、それほど拘はるところではない。如何ほど學び方が宜いにせよ、努力を怠れば功は無い。又た個々の才があるのと無いとによつて、其の功は結構異なるものだけれども、才不才は生まれつきのものなので、努力では及ぶものではない。しかし大抵は、不才の人と雖も、怠らず努力すれば、それ丈の功は成すものだ。又た、學問を遲く始めた人でも努力し勵めば、案外に成功することもある。又た、暇の無い人でも、案外、暇のある人よりも功績を成すものである。だから才能の乏しい事や、遲く學び始めた事や、暇の無い事を理由として、學問に對する思ひを諦めて止めてしまつてはいけない。兎に角、努力すれば、學問は出來ることを心得る可し」といふことになる・・・・のだと思ふ・・・。

 先進は、いづれも嚴しく、そして優しい。
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by sousiu | 2011-09-28 00:04 | 先哲寶文