カテゴリ:日々所感( 142 )

人をして徒らに慷慨せしむるは、國民教育に大害あり

 昨年暮れより、facebookなるものを始めてみたものゝ、Twitter同樣、開帖ほどなくして殆ど更新する能はず。
 備中處士翁同樣、野生もまたこれらの機能を充分使ひこなせぬことから、專ら友人や知人の近況を樂しむ程度に利用してゐる。

 然りながら人傳てにあちらこちら閲覽してゐると、なんと樣々、人々の主張や煽動が喧しくあることか。情報化社會による正だか負だかわからぬ産物として、誰れしもが手輕に發信出來る時代であるから、それを否定するものではないけれども、受信する側があやしむべき牽強付會の邪説や荒唐無稽な煽動に振り回はされぬことを危惧するあるのみだ。


○波多野烏峰翁、『靖獻遺言』(明治四十三年十月廿八日「文會堂書店」發行)の序に曰く、
「冀はくば言ふを止めよ、人をして徒らに慷慨せしむるは、國民教育に大害ありと。
 嗚呼、安んぞ知らん、人能く徒らになりとも慷慨し得るが如くんば、實に以て謂ふところの自然主義に化せらるゝの恐れ無きを。はた實を以て、謂ふところの社會主義を奉ずるの憂ひ無きを。
 故に予は斷言せむと欲す、忠君愛國の精神にして、鼓吹するの要あらば、須らく人をして、先づ徒らになりとも慷慨し得るの資格を與へよ、と」と。

 つまりいたづらに人に慷慨を與へるは不可なり、慷慨する可くの見識を與へよ、といふことである。然らずんば、詰まるところ、自然主義・自由主義・社會主義らの勢力に利を齎せてしまふだけである、と。そこで烏峰翁は、淺見絅齋先生の名著『靖獻遺言』を世に弘め、正しく當時の國民精神作興を志したのである。

 明治四十三年といへば既に大正デモクラシーの兆候が顯著となつてゐたころだ。自由主義の思潮が澎湃し、人をしてより多くの權利を獲得せんがため、國家に要求するのである。
 さながら現代は、少しでも多くのその獲得した權利を行使せねば、恰も損であると云はんばかり、自由の名の下に無責任な言論を投じてゐるやうにも見える。

 明治四十三年と云へば約百年前のこと。烏峰翁の憂ひは今尚ほ古きものとしない。






 
[PR]

by sousiu | 2016-03-10 23:40 | 日々所感

讀書の秋です。 

 讀書の秋といふ。
 實は野生、成人となつてこの道に身を投じるまで、殆ど本を讀んだことが無かつた。あ、いや、漫畫本は別だ。汗。
 小學生のころ、『風の又三郎』といふ本を讀みきつたことがある。最後まで讀んだのは實にこの一册だけだつた。
 人生とは可笑しなもので、今は讀書してゐる時間が野生の仕合はせな一ト時であるのだから、人は變はれば變はるものだ。

 三土忠造氏の『湘南方丈記』に我が意を得たる一文があるので下記したい。少し長くなるが、讀書の秋ならでは、暫しお付き合ひ願ひたい。
f0226095_3404340.jpg


『書籍を繙けば、幾千年も過ぎた昔の人の意見を聽くことも、幾千里も隔てた遠い國の事物を見ることも、意のまゝに出來る。
 王侯といはず、將相といはず、聖賢といはず、我れより求むれば、直ちに來つて我が問ふ所に答へる。
 アレキサンダーでも、成吉思汗でも、ハンニバルでも、ナポレオンでも當年遠征の雄圖を尋ぬれば、勇んで之を説く。韓信でも、諸葛孔明でも、徳川家康でも、ネルソンでも當時の戰略を問へば、喜んで之を談ずる。
 支那へ渡つて、顏回、子夏、子路、子遊などの諸弟子と、孔子の講話に席を同じうすることも、印度に遊んで、伽葉、阿難陀、目連、舍利佛等の諸菩薩と、釋迦の説教に座を共にすることも自由である。
 ギリシヤ、ローマの昔を尋ねて、デモセネスやシセロの雄辯も聽かれる。大和の御所に、中大兄皇子、藤原鎌足等の蘇我入鹿を誅し、咸陽の宮裏に、荊軻の匕首を懷にして、秦王に迫る活劇も見られる。エジプトの宮廷深く、女王クレオパトラの色香に溺るゝアントニーの痴態、朔風身を剪る胡地の空、獨り馬上に泣く王昭君の悲哀も、ありゝゝと目のあたりに現はれる。
 幽玄なる宇宙觀を學ばんとすれば、プラトンや、アリストテレスや、カントや、ヘーゲルや、デカートや、スペンサーを喚べ。神祕なる自然を探らんとすれば、ニウトンや、ダーウインや、ライプニツツや、ヘルムホルツや、アインシユタインを招け。彼等は皆快く我が請ひに應じ、心力を傾けて懇切に説明してくれる。~中略~

 かくの如くにして、我々は心の欲する所に從ひ、東西古今の人類中、最も秀俊なる人々を招いて、自在に之を頤使することが出來る。何たる特權であらうか。何たる通力であらうか。此の絶大無限なる特權と摩訶不思議なる通力とは、獨り讀書の能力を具へ、趣味を有する者にのみ附與されるのである。~中略~

 此の世界に於て、吾々の享有すべき樂しみには殆ど限りがない。されど多くの場合に於て、樂みの後には多少の苦みを伴ふものである。唯讀書の樂みのみは、樂みの後にも更に之に伴ふ樂みの續くを常とする。故に朱子も、「四時讀書樂」と題する詩を作つて、「讀書の樂み、樂み窮まり無し」「讀書の樂み、樂み陶々たり」と叙して居る。

 更に讀書の樂みほど、安價に且つ容易く得られる樂みは、他にその類を見ない。何れの國何れの時代の偉人でも、勝手に喚び寄せて其の教を受けながら、何等の報酬をも捧ぐるの要がない。イタリーの詩人ペトラークの曰へるが如く、「彼等は茅屋の一隅なる書架の上に安置すれば、それで滿足する」のである。

 是れ程の天與の特權と通力を受けながら、之を有難しとも思はず、讀書の樂みを味はない人の多いことは、余の常に怪訝に堪へない所である。

 讀書の樂みは能く之を解すれども、如何せん毎日の業務に追はれて、其の暇がないといふ。是れ多くの人々の唯一の理由とする所である。本居宣長は一首の歌を以て、輕妙に之を反駁して居る。

     折々に 遊ぶ暇は ある人の
            いとまなしとて 書(ふみ)讀まぬかな

 尤も、是等の人々は皆讀書人として、一生を終始したのである。其の讀書慾を以て、一般世人に待つことは出來ない。然し何といつても、知を研ぎ、徳を修め、正氣を養ひ、品格を高むるの道、讀書に如くものはない。而して吾々の如き境遇の者といへども、讀書に深き趣味を有すれば、少閑を見出して此の無上の惠澤に浴すことも、亦必ずしも至難ではない』(昭和十一年十一月卅日『千倉書房』發行)と。
[PR]

by sousiu | 2013-10-03 03:35 | 日々所感

短氣はやはり損氣なのだなア・・・。 

 前囘の記事を更新し終へた後、我がパソコンが到頭クラツシユしてしまつた。
 異樣に重くなつたので、ビジー状態を待つことなく、電源ボタンで強制終了したのが運の盡きた瞬間だ。
 再起動すると、覺えてもをらぬ「パスワード」を入力せよ、といふ畫面が出る。五十通りくらゐ試みるが入力したパスワードは全て不可。それ以上、畫面は進まず結局起動しないのだ。

 然るに昨日は二、三時間フテ寢して晝からパソコンシヨツプだ。どうやら修理には日數もお金もかかるといふので已む無く斷念。データは取り出してもらはねばならないのだが、これも完全に凡て取り出せるかわからぬとのこと。住所録、これまでの原稿、寫眞、資料、書類關係、書き進めてゐた原稿など、失すれば泣きたくなるものだらけだ。
 くはへて昨日更新後、朝まで掛かつて抄録した記事の續きも消えてしまつた。

 更らに困つたことはWindowsXPは既に無く、店員の勸められ8を購入させられたことだ。たゞでさへ機械の苦手な野生、8など譯がわからん。

 この不滿をば、どうやつて解消してやらうか。大久保にでも行つて、不滿や不平の權化の如き連中の仲間にでも入れてもらはうかしら。呵々。


 以上の理由から、野生のメールアドレス、douketusha@ever.ocn.ne.jpは目下見ることが出來ないので、御用の方は、can2667@ozzio.jpまで。
 
[PR]

by sousiu | 2013-07-19 12:54 | 日々所感

所謂る「運動家」でありたいのか「尊皇家」でありたいのか 

 歴史を識ることは國民の一人として、民族の一員としての使命の一つであると考へる。
 殊に日本の場合、歴史を繙くにつれ、その大變革、大變動に際して濃淡の異同こそあれ 皇室の係はらざるものは全く無いとまでは云はぬけれども極めてそれに近いと云つて過言ではない。
 かく考へれば、吾が歴史は常に 皇室と共に重ねられ、詳言すれば、ある時は 皇室が國家を牽引し、之を守護し玉ひ、又た國家の迷妄せる時には 皇室が善導乃至善誘してゐたのである。

 野生の場合は江戸時代を主として歴史を學んでゐる。尤も江戸時代といふ最近の歴史のみでは到底之を知悉する能はざるけれども、何とも現時點に於ける野生の學習能力では仕方ない。野生の學生時代では、公教育による歴史教育などあまり役に立つものではなかつたし、この年になつてしまへば結局獨學に頼らざるを得ない。況して學生時代に勉強した方でも無かつたので、近代から溯つてゆくのが理解し易いのである。

 歴史は一方面から見るだけでは偏狹に陷る。目下、幕末を識る上に於て徳川家、幕府側からの目線で學習してゐるのである。

 餘談をば。時對協の有志と語る話題の一つに、討幕を果たした勢力が「尊皇」であつたからと云つて幕府に尊皇心が無かつたと判別するのは早計であるといふものがあつた。
 今更ら眞新しい意見でも無いが、こは全くその通りで、若し幕末、鎖國乎、開國乎とした當時のあの葛藤が、朝廷對幕府の確執乃至對立に發展したとしよう。その際、野生は決して士民のみならず、大名も朝廷を孤立に陷らしめることは無かつたと確信して之をうたがはないのである。

 「運動する」といふことに心を奪はれ、いつしか知らず識らず焦躁すると、兔角「敵」を欲しがちとなる。「對立」することは手輕な「運動」となり得るからだ。
 だが「尊皇」や「敬神」はスローガンではない。産土神社へ御參拜申上げることや、祭事を執り行なふことを「運動」として考へてはならぬのだ。以前、確か木川智兄だつたと思ふが「運動は見返り(「結果」だつたかも)を求めるものだ」といふ發言を聽いたことがある。その通りであると思ふ。運動が不必要であると云ふのではなく、運動も時として必要であるが、他國ならばいざ知らず 皇國にあつてそれ以上に大切なことがらのあるを忘れてはならぬのである。

 現に賀茂眞淵大人や本居宣長大人は、今日我れらが考へるやうな「運動」らしき運動はしてゐない。
 荷田春滿大人が、今で云ふ「國學の學校」を創らむとしたことはそれに近いが、一般的に云はれる國學者から運動らしき運動を見ることは出來ない。況んや人を斬るに於てをや。
 然るに後々、瑞山武市半平太先生が頼山陽先生の「日本外史」及び平田篤胤先生の「靈の眞柱」を常愛讀し、土佐勤王党を結成、運動を行なつたやうに、時代が開かれるに到つて國學は政治の現象面に作用を及ぼす。別言すれば時代の幕が開かれるまで、國學は大和魂を固むる大效果を齎し、それに觸れた見識者達と、時代の要求が相俟つて運動は展開され、而、國家が盤根錯節の岐路に立たむとする節、彼れらによつて正しき針路を選擇することが出來たのである。逆言すれば、皇國學を修めることなくして啻に自己の不滿や小なる義憤を頼りに起した運動なぞ、大なり小なり「革命」の色彩を含有するものに他ならず、後世正しき識者の登場をみれば、指彈乃至批判の的となるに相違ないのである。

 それを裏付けるかの如く、當時に於て、眞淵大人も宣長大人も討幕などといふ言葉を發してゐなければ、按ずるにその思ひすら皆無であつたことであらう。
●清原貞雄翁、『國學發達史』(昭和二年十一月廿五日「大鐙閣」發行)に曰く、
『一般には、國學者は幕府に對しては強い反感を抱いて居つたやうに考へられて居るのであるが、事實は之に反して眞淵の如きも武家政治に對して反對の態度を示して居らず、殊に宣長に至つては大に其時代を謳歌して居るのである。此事は復古國學思想を考察する上に於ては看過してならぬ問題であると思ふ』

『徳川時代に入つて我國に未だ嘗て見る事の出來なかつた太平の夢を樂しむ事が出來たのである。從つて其初期、戰國時代から生き長らへた武士が殘つて居つた頃、それらの老人は、其昔騷がしく殺伐であつた時代に比較して安らかに治まつた御代の有難さをしみゞゝと感じたのは當然であつて、それらの人々が徳川の政治を徳とし其太平を謳歌する聲は一種の先入主となつて後繼者に傳へられたのである。~中略~
 復古國學の中心思想は 皇朝推尊であるから、常識的に考ふる時は當然此逆流に加はるべきであるが、事實は前にも云つたやうに、純然たる武家政治謳歌、現代讚美の思想の中にあつた。殊に宣長に於て其色彩は極めて鮮明であつた。今其理由を考ふる前に、其時代謳歌の思想其ものを叙して見よう。玉鉾百首には、
     やす國の やすらけき代に うまれ來て やすけくてあれば 物思もなし
 と云つて現代に何等の不滿も無い事を示して居る。即ち「今の世は今のみのりをかしこみて、けしき行ひおこなふなゆめ」と云つて居る。而して斯の如き芽出度き御代となつて居る事も、一に東照神家康の功蹟であると見る思想が「玉くしげ」に見えて居る事は前きに述べた所である。猶、臣道(之は宣長の遺稿にあつて元來無題であつたのを全集を編纂した時に附けたのである)にも、東照神の掟に從ふのが君に事へ國を治むる道であると見えて居る。玉鉾百首には「東照る神の命の安國としづめましける御代は萬代」と云つて其政治と徳川家の運命とを祝福して居る』と。

 淺慮する勿れ。對幕の氣概が乏しいからと云つて、國學者が決して臆病でなく文弱でなく、況んや日和見主義でなく。皇國に對する強い確信あつてのものであり、寧ろその確信が肝の坐つた見解に至つたのであると見て差し支へあるまい。

 曰く、
『然し宣長の徳川政治謳歌には今少し根本的な所がある。それは其一流の神道觀から來るのであつて、世の中の事は只何事も 皇祖の神々の思召に依ると云ふ事である。世の中の事はよきもあしきも只神意のまゝであると云ふ事に就ては既に其古道説を述べた際に述べた所である。又今天下の政を徳川に委任せられてあると云ふ事もやはり 天照大神の神意に出づるものであるとするので、其事は「玉くしげ」の中に見えて居り、之も前に述べた。即ち徳川幕府を奉ずる事は、やがて 天照大神の神意を奉戴する所以である。故に此徳川幕府に反抗して朝廷の御親政に還さうとする勤王運動の如きは、天照大神の神意に逆く事でもあり、無理な人爲を避けておのづからなる勢に任する事を主張する古道にも反する事である。之が徳川の政治に滿足して之を謳歌し祝福して居る所以である

 又た曰く、
『故に神道家は多くは徳川謳歌者である。吉川惟足の如きもさうであつた。眞淵も亦さうであつた。徳川幕府の忌む所となつて遂に郷里に隱退する事を餘儀なくせられた平田篤胤の如きでさへも、其古道大意には、徳川政治の齎した太平の餘澤を謳歌して居るのである。~中略~
 要するに尊王思想即ち倒幕思想であると云ふ風に考へらるゝに至つたのは後の事であつて、徳川氏盛世に在ては尊王と斥霸とは必ずしも繋がつた思想では無くして尊王敬幕とでも云ふべき思想が寧ろ一般であつて、宣長の如きも其思想が極めて鮮明であると云ふ事は注意すべき事實であると思ふ』と。


 餘談のまゝ終はつてしまふことをお許し願ひたい。伊勢の下山君あたりは反論したがるであらうが、これを結論とせずして、更らに續ける積もりであるから、電話は不要である。
[PR]

by sousiu | 2013-06-03 18:16 | 日々所感

「國學」に就て。その三 

 大川周明博士が『以來、予の魂は專ら祖國を跋渉』し、『予は勇躍して予の全心身を日本其者の爲に献げねばならぬと感ぜざるを得なかつた』として、魂の遍歴を重ねつゝ、皇國に歸結したことは昨日述べた。
 これは思想信仰の偉大であり、その齎せた結果であると認めざるを得ぬ。敵を罵倒して生れる結果が幾許であるかは不明だが、思想や信仰に偉大なる力が籠められてゐるのことは、最早うたがふ餘地もあるまい。

 而して、その思想や信仰が外來の模倣に過ぎぬ代物ではならんのである。くどいやうであるが、こゝに「國學」の重要視されなければならぬ理由がある。

 前囘[「國學」に就て。その二]http://sousiu.exblog.jp/18706474/に於て、「國學」の名稱に就て記したが、今度は皇學館大學の教授でもあつた重松信弘翁の論を拜讀しつゝ、も少し「國學」に就ての認識を深めてゆきたい。


●重松信弘翁『國學思想』(昭和十八年七月一日「理想社」發行)に曰はく、
『國學は長年月に亙つて發達した學問であるから、その概念は全般を見渡して考究すべきであるが、一般に國學に魂を入れた荷田春滿、或は學的に最も發達せしめた本居宣長等の説によつて考究するのが常である。この二人によつて國學の概念は定められたとも云へるから、ここでもこの二人の説を中心として考へて行くが、先づ自己の學に就いて精しく物語つてゐる宣長の説から見よう。宣長が古事記傳の大著を完成して、彼の學の最も圓熟した六十九歳の時に書いたうひ山ぶみは、最もよく自己の學の全貌を示してゐる。先づ「皇朝の學問」のすぢが四種あるとして、第一には神代紀を主として道を學ぶ神學第二には官職・儀式・律令・故實・裝束等を學ぶ有職の學第三には六國史其他の古事より後世の書に迄及ぶ國史の學第四には歌をよみ又古い歌集物語等を學ぶ歌の學とした。春滿も精しくはないが神道・法制・國史・和歌の四方面を研究の内容として擧げてゐる』と。

 曰く、
『宣長は漢學が當時單に學問と云はれたのと區別する爲に、和學・國學等云ふのはよくない。漢學をこそ分けて漢學と云ひ、皇朝の學はただ學問と云ふべきである。紛れる時は「皇朝學」とも云へばよく、和學・國學など云ふは 皇朝を外にした云ひ方である。皇國の事は内の事だから國の名を云ふべきではない。此事は大和魂を堅める一端になるから云ふのだと説いてゐる。玉かつまでは「國學と云へば尊ぶかたにもとりなさるべけれど、國の字も事にこそよれ、なほうけばらぬいひざまなり」としてゐる。春滿の創學校啓の流布本には國家之學・皇國之學・國學等とあり、草稿本には國家之學・皇倭之學・倭學等とある。「倭」「和」はよくないとしても、國學は宣長自身も「尊ぶかたにもとりなさ」れるとするのであり、今日に於いてはその「尊ぶかた」の意にとり、宣長の云ふ 皇朝學の意に用ゐてゐるものと云へる。春滿が國家之學・皇國之學等と云ひ、國學がそれらの約言と考へられる用法をしてゐるのも、宣長の云ふ 皇朝學の意と異るものではないと思ふ』

併し問題は國學と云ふ事の當否にあるのではなく、宣長が自己の學についてそれ程潔癖に云ふ事の精神そのものにある。即ち國學の名稱が 皇國の學とか日本國の學とかの意にとられるとしても、それ程の指稱さへも他との對立意識の上に立つが故に宣長には不愉快なのである。儒學・佛學其他種々の外國の學は「皆よその事」なのであり、自國の事はそれらと位次を異にする獨自の地位を占むべきものとするにある。「吾はあたら精力を外の國の事に用ひんよりはわがみづからの國の事に用ひまほしく思ふ」のであり、「よその事にのみかゝづらひてわが内の國の事をしらざらんはくちをしきわざ」なのである』

『宣長には外國の學問をするのもそれは自國の學問の爲であつた。漢籍を讀まねば日本の古代の事は判らないから讀むべきであるとして、「からぶみを見るには殊にやまとたましひをよくかためおきて見ざれば、かのふみのことにまどはさるゝことぞ。此心得肝要なり」と云ふ。平田篤胤が漢籍・佛典・切支丹の書迄を研究したのも、叙上の意味に於いてであつた。その學は支那を認識する爲に支那學を研究し、印度を識る爲に印度學をやる立場ではない。その立場はあくまで自國を識り自己の道を識る事、殊にそれが古學たるが故に、自己存立の根元を究める殊に外ならない。宣長の國學は 皇であり、自ではあつても、日本の意とはしたくないのである。何となれば日本國の學と云ふ名稱は第三者の立場からの名で、他國人が研究する場合の學問の性格を表はすが、宣長の學は他國人の日本研究とは立場を異にする「御國の學」であるからである』(下線は本文のマヽ)と。



 本道ならば、春滿、眞淵兩大人に次いで、宣長大人、篤胤大人と續く可きであるが、注目に値する文獻も甚だ多く、研究不足であることから、他の文獻やことがらに即しつゝ、兩大人を紹介してゆきたい。氣長にお付き合ひくださりますやう、乞ひ申す。
[PR]

by sousiu | 2013-05-08 00:29 | 日々所感

新歳乃御慶芽出度申納候らふ。

新年明けまして御芽出度く存じます。

  紀元二千六百七十三年
  平成第廿五年 癸巳


 本年は、伊勢神宮式年遷宮、出雲大社御遷宮が行なはれる御年。
 國歩轉換の機や、よし。
 及ばぬ乍ら、野生も生まれ變はる氣持ちで鋭意求道、頑張つてまゐりますので、何卒、宜敷く御垂示御叱責くださいますことを。

河原博史 謹拜
[PR]

by sousiu | 2013-01-01 17:42 | 日々所感

克苦啓蒙 

 野生は和本マニアだ。
 和本は、洋書と違ひ、紙は和紙で柔らかく、表紙の「平」と呼ばれる頁も厚くなく、更に「和綴ぢ」と云つて絲で止めてある丈なので、立てゝ保管することが困難なのである。
 おまけに本の「背」の部分がないので、積み重ねてしまふと探して出すのも一苦勞となる。
 (因みに鈴屋刊行本は表紙の色に青若しくは水色が多く、氣吹廼舍は濃紺、水戸學系は黄或は紺、とそれゞゝ獨自の愛用する色があるのか、大凡區別されてあるので分り易い)
  ※本の部分の名稱→http://www.library.pref.osaka.jp/nakato/osaka/book_bui.html
 扱ひも愼重にせねばならず、亂雜にすれば紙は破れ(既に蟲が喰つて破れ易くなつてゐるものも珍しくない)、絲が切れ、悔しい思ひをせねばならない。
 だが、それでも、和本の魅力は、強ひられる面倒を倍して猶ほ餘りあるものがある。

 今でこそ、印刷技術や紙の製造は發達し、人家に普及されてゐるが、當時は大變貴重なものであつた。
 現在は出版が安價であるとは云はないが、嘗て書を刊行するといふことは、それこそ難儀至極であつたのである。

 當時は紙が貴重であつたことに加へ、印刷も木版印刷で、所謂る版木といふものを彫つてこれに用ひた。ま、判子みたいなものだ。
 見ていたゞきたい。下記寫眞のやうに、一頁一頁木を彫刻するのである。これは今日より見れば、實に大がかりなものだ。加へて印刷も又た、もちろん一枚一枚が手作業だ。↓↓↓
f0226095_0563743.jpgf0226095_0461790.jpg

















↓↓↓これが版木だ。相當細かく彫つてある。
f0226095_0463477.jpg

↓↓↓この版木で印刷すると、                      ↓↓↓かうなるわけだ。
f0226095_0465325.jpgf0226095_0471446.jpg
























 であるから、いゝ加減な心構へや淺薄な學問では、書籍を刊行するに値ひしなかつた。
 刊行に係はる資金繰りは當時の國學者達の、絶えず附いて廻る苦惱であつた。今日のやうに「言論の自由」などといふものを謳歌し、又た、手輕に發言を書き込むことが出來なかつたのである。
 翻つて、かうした條件下にあつたからこそ、思想學問は自づと洗煉され、一書は人の心を動かしたのではあるまいかと思ふ。尤も需要者たる讀者も、今日の如く情報が溢れ、主義主張も馬に喰はせるほど餘りある環境で無かつたらうから、やうやく購入した一書を後生大切にし、幾度も幾度も拜讀したに違ひない。
 以爲らく、發信者も受信者も、すぐに抗議、抗議と口角泡を飛ばして自己滿足に浸りたくとも浸れぬがゆゑ、生まれるものがあつたのであらう。

 その苦勞人たる發信者の一人に、六無齋 林子平翁がある。
●子平翁、自著「海國兵談」の刻成りたる年(?・・・年號が記載されてゐないので不確かである)つまり寛政三年五月二日、藤塚式部氏に送るの書翰にて曰く、
『~略~ 海國兵談も、初め九百日と見詰懸り候處、其九百日の待遠さ中々日夜心惡く存じ罷在候得共、無力一日々々と相送候内、九百日疾く相過漸く千六十日めに相成候。先々是にて一安堵は致候得共、今迄とちがひ一度に五兩も十兩もなければ摺事難叶候。此おもひが今迄の思ひより又々ひどく相成候。依而一首あり。
小刀を起しては、速やかに彫終らん事を思ひ、既に彫終りては、又紙の足らざるを恨めりと書きて
   紙なきの今日の恨みにくらぶれば
       昔はものをおもはざりけり
』と。
 支拂ひの目處を立て、彫刻の仕上がるまでに九百日を要すると云はれた翁は、その日を一日千秋の思ひで待ち、遂に一千六十日目にして版木は刻され(正味三年だ)。すると今度は紙不足に惱まされ。これを購入するお金無きに苦惱してゐることを訴へてゐる。その悲心、他者に推量し難し。
 翁は文末に金子の無心を藤塚氏に懇願する。曰く、
『~略~ 可相成者、當歳まで金十切借用被仰付被下度奉存候。此度此方にて仕立候處わづか三十八部出來申候。此三十四人の入銀の人々へ三十四部は贈り物に仕候。左候へばあとの三四部はなんの役にも立不申候。役に立ねば當暮まで摺可申儀無御座候仍而せめて又々三十部もすり立候而うりに遣申度候得共此方にて小子に金子などかす者は無御座候。可相成は十切恩借被仰付被下度、偏に奉願候。またも勝手千萬ながら此人に御かし被下候得ば猶以て銘肺腑奉存候。萬一十切不相成候はゞ其内にても不苦候得共、餘り内にては摺立の用に立不申、殘念に奉存候。何卒、何卒、十切か三兩恩借被下度偏に々ゝ奉願候。大晦日限りか元朝までに必以て返上仕る事に御座候。~中略~
   五月二日
       藤塚知明樣足下
尚以て皆々樣へ被仰達可被下候。恩借願は何卒々々御叶可被下候。奉頼候。以上』と。

 これを河原流に譯せば、
『相成る可くは、今年まで金十切の借用を仰付け下さりたく存じます。此の度び、當方にて仕立てたところ、僅か卅八部出來ました。この三十四人のスポンサーへ卅四部を贈り物しなければなりません。さすれば殘りは三、四部だけで、何の役にも立ちませぬ。それでは暮れまでに摺るといふことは出來ません。よつて、せめてもう卅部を印刷し、賣りたく存じますが、既に私にお金を貸してくれる者は御座いませぬ。相成る可くは、十切ほど恩借仰付け下さりたく、偏へに御願ひします。また勝手ながら、(郷黨の)人も御貸し下されば、猶ほ以て有難いことです。萬一十切借り入れ出來なければ、印刷する能はず、殘念に存じます。どうか十切か、さなくは三兩を恩借下されたく、どうか御願ひします。大晦日か元旦の朝までには必ずお返し致します。~中略~
   五月二日
       藤塚知明樣
なほ、皆さんへも仰せ下さいますことを。願はくは恩借のどうか叶ふことを。御願ひします』

 翁の辛苦悲情、書面にて想ふ可し。
 餘談ながら、郷の人はこれを狂人視し。金など貸す者もなく。翁、彫刻だけでも覺束なきところ、紙など買ふ金もなく、印刷する金もなく。更らに如何なる貧乏神に好まれたか、翁は、『海國兵談』を上梓した直後、『寛政の改革』の影響を受け、版木を沒收されてしまつた。今日、稀本として世にわづかに傳はる『海國兵談』の古書は、祕かに隱し持つてゐた副本によるものだ。
 謹愼を申し渡された翁、放吟して曰く、
     親もく妻く子く板木
             金もけれど死にたくも
 これが號となつた六無齋の所以だ。

 大壑平田篤胤先生も、出版には苦心したといふ。名著『靈能眞柱』の版木が質屋に入つたといふ逸話も殘つてゐる。

 主義主張を手輕に發せられる環境から何も生まれることはない、とは云はない。
 環境はあくまでも環境であつて、環境の所爲にばかりしてはいけないだらう。いづれも言を發するのは人であるからだ。
 但し、人その者が手輕に言を發する能ふ環境に甘んじてしまつては、そこからは生まれ出でるものは期待薄しであらうと思ふ。溺れたくなるほど自由が與へられてゐる現在にあつて、自ら謹愼の心得を忘却せず、勉學し、探求し、發言することは、決して容易なことではないのである。
[PR]

by sousiu | 2012-10-18 00:37 | 日々所感

閑話休題。 

 『帝室論』考も途中のまゝで、又たしても無沙汰してしまつた。
 言ひ譯すれば、伊勢、紀伊へと出掛けたり、「不二」「芳論新報」「防共新聞」の原稿を執筆したり、封筒つくりを行なつたり(苦笑)と、何かとせはしき日々が續いた爲めだ。

 さて。日本政府の腑甲斐なさにもほとほとあきれ返るばかりであるが、その分同時に、輿論も愼重にならなければならないと思ふのである。

 固より他國による領土領海の侵犯を閑却してはならぬこと云ふまでもない。
 はからずも日本はこの一年半に於て、二つの招かざる客を水平線より迎へた。そは云ふまでもなく、津波と支韓だ。
 日本は島國だ。林子平翁の古書を繙くまでもなく、日本は海防を徹底せねばならぬのである。

 ところで國難には、小難、中難、大難とがある。歴史的にみても、これらの小中大國難はみな、海の彼方より襲來した。蒙古然り。彼理然り。勢力と暴力と武力を恃み彼れらは訪問した。又た一方では、佛教、耶蘇教らの邪教然り。自由主義、共産主義然り。これらは救濟と甘言を用ひた信仰及び思想と云ふ名の好ましからぬ訪問者であつた。小中大の別こそあれども、いづれも彼れらは期せずして國難を惹起した。
 
 だが日本人が最も恐れる可きは、最大難だ。
 古今、最大國難はいつも國内より出來してゐる。
 我々が眞に恐るゝ可きは、蘇我父子。足利逆臣一族。或は弓削道鏡の出現である。
 高杉東行先生の曰く、『國を滅ぼすは外患にあらず内憂にあり』と。極言せば、野生は、長門に襲來せる十四萬蒙古より、神州の結界の内にあるたつた一人の道鏡や尊氏を恐れるのである。

 今日澎湃するこの輿論を無條件に歡迎せば、やがて行き着く可くして行き着く先は軍備の確立だ。
 この點に就て野生は竊かに危惧するところありとする。
 皇軍の再誕ならぬ、民選にて決定されたる一部の臣民が、昔で云ふところの兵權を握ることに、危惧しないわけにはゆくまい。況んやこゝまで 皇國の面目を貶しめ、未だ自省なき痴漢どもに委ねるに於てをや。地盤・鞄・看板を不屆きにも三種の器と信じてやまぬ爲政者なぞ、一體何の偉人ぞ。何の見識者ぞ。誰れかある、現内閣が近代の室町幕府にならぬの保障を。


 支那韓國を罵倒するのは簡單だ。手輕だ。
 しかし今日の苛立ちの原因は、對手國が強大なるがゆゑに在らずして、我れが惰弱に過ぎるからである。惰弱から再生する道は、罵倒の連呼ではない。抑も何を以て惰弱といふか。それ、軍備的國防無きが爲め丈ではなく、肝心要たる思想的國防無きが爲めである。延いては皇國の民たる誇りも責任も、自覺も無きが爲めに、かゝる問題は現出したことを識る可し矣。
 野生は軍備再建に反對の聲を擧げるものではない。されど軍事的國防を裏付ける思想的國防を疎かにしてはならぬと云ふ。萬全なる國防體制を欲せばそれ、思想と沒交渉であつてはならない。然もその思想が、他國からの借り物であつてはいけない。
 然るに刻下は、警鐘を亂打する中にあつて警笛を吹かねばならぬほど、愼重に愼重を持する秋だと思ふのである。

 毎度とまでは云はぬが、惡意こそなからうけれども、凡そ最大國難へ誘導してしまふ擔當者は君側の奸や、現代的に云へば保守と呼ばれる徒だ(所謂る「行動する保守」なる者は果たして本當に保守なのだか何だか野生にはわからん)。
 我々は今日の外敵を抑止する爲め、未來の内敵を製造してはならぬ。外敵の訪問を抑止しつゝ、内敵の出現も抑止するやうでなければならぬ。
 目前の小國難を囘避せんが爲め、卅年乃至五十年後の最大國難を誘發してしまふ、そのやうな過去の復轍を踏まぬやう、我れらは腰を据ゑて、皇國なんたるものか、その眞相に就て、幾度も復習することを要す可き秋である。
[PR]

by sousiu | 2012-10-06 20:36 | 日々所感

神縁。 

 九月八日土曜日は、山口健太郎兄の御誘掖を以て奇縁を賜はつた。
 關西より上京された御影舍大人は、「平田派の學問とその實踐面としての神仙道」を研究されてゐる人だ。
 新宿某所の待ち合はせ場所に著くと、既に到着してゐた近藤勝博、木川智兩兄と合流。先方は御影舍大人と健太郎兄の他に神職や神道研究家などもをられた。
 謂はゞ古神道家と右翼運動家との面會だ。

 野生は現在、馬に喰はせるほど溢れた机上の時局評論では、到底今日の現状を突破前進し得ないと確信してゐる。弊社など大した實績もないが、それでもこれまで、己れの出來得る範圍のことは全力で行なつてきた積もりだ。その挫折と敗北を繰り返し經驗して、到達した結論だ。

 氣の毒にも唯物史觀や無神論に淫された者たちは、安易に權利の得失を以て今日の日本を繰り返し憂慮するが、如何にみてもそこには批判のみあつて思想らしきものは見當らない。
 言論が淺薄なら、行動は曾ての解同の如き代物。解同の正體は何ぞや。

 元來、思想や信仰に偉大なる力が存してゐることは云ふまでもない。
 尤も資源や權利の保護、或は獲得を忽せにせよと云ふ積もりは毛頭ない。野生は大衆を説得するには、これらの方便に即效性のあることも認めてゐる。
 だが、それには偉大と呼べるほどの力は存してゐない。
 權利思想はいつの間にやらどこまでも伸張し、遂には戰爭に撞着することは、西洋史にみても明らかだ。

 よつて野生は日本固有の思想や信仰に興味が少なくなく、古神道に就ても學ばねばならぬところ大と思ふものである。然るに今度びの健太郎兄の御誘ひは大變難有く思ふ次第である。

 御影舍大人から、所謂る神仙道と支那の道教との相違や、古神道からみる尊皇觀を御教示いたゞいた。
 又た、解散のころ、傳法を我れら三人に授けて下さつた。
 固より無知に近しき野生であるが、次々に無知を知らされることが則はち、日本の深奧を知らされるやうで、これが實に嬉しい思ひなのである。
[PR]

by sousiu | 2012-09-10 14:50 | 日々所感

明治天皇の御偉業をしのぶ 

 昨日は 明治天皇が崩御遊ばされて百年の日でありました。
 宮中では嚴かに「明治天皇百年式年祭」が執り行はれました。「皇靈殿の儀」におかれまして、天皇陛下は束帶をめされ、おそれおほくも國民の仕合せと國家の繁榮を御祈願あそばされる御告文が奉られました。
 京都の伏見桃山御陵では、勅使を御差遣あそばれ、「明治天皇百年式年祭の儀」が齋行されました。
 明治神宮では廿九日の十五時から「明治天皇百年祭前日の儀」が行はれ、昨日卅日は 天皇陛下からの幣帛が奉られまして、「明治天皇百年祭」が執り行はれました。
 懸けまくも畏き、明治天皇は、御若年にして、國内二分、外壓滔々、まことに稀有の國難に際せられました。 それにも關はらず 皇國は恰も亂れる麻の如き國情を一刀の下に兩斷し國内平定、加之、國威發揚、皇國の眞面目を發揮するに至つたことは、明治天皇の御威徳であることは申し上げるまでもなく、併せて、先人の 皇業を翼贊する、皇運を扶翼せむとする赤心が、忝くも神慮に達せられた爲めであることも決して忘却す可からざることである。

 今日、天變地妖未だ息む能はず。御時勢をみれば不安も累々、人心は是れ又た失望と猜疑と怯懦に支配され、政界をはじめ之を挽囘せむとの思案と試みが重ねられるも如何ともし難く、手を置く有り樣である。
 民間では、不平黨と不滿黨が跋扈し、自ら世直し氣分に浸るもその實、民主思想から出で來る無責任、他力本願なる苦情を連投し、混濁の世を一層、混亂せしめてゐる。
 斯くなる折、明治天皇百年祭がおこなはれましたことに、野生は寓意あるを思はざるを得ない。
 如上、明治御一新の偉業は、雲上より神慮冥助を給ひましたのみならず、下々の赤心、力めて皇恩に報ぜむとする民の志があつたことも忘れてはならない。

●福永武兄、不二歌道會發行『不二』(通卷第七百五十一號、平成廿四年七月廿五日發行)、卷頭言に曰く、
 『明治天皇百年祭を迎へるに當り、明治大神の御前に、我々は改めて祖國再建の祈りと誓ひを捧げねばならない』と。

 忠義の狗となるとも亂離の人とならず・・・。野生の常肝膽に銘ずるのことばだ。
[PR]

by sousiu | 2012-07-31 16:22 | 日々所感