カテゴリ:日々所感( 142 )

キーワード 

 先月だつたか、exciteブログをやつてゐる人は御存じだらうけれども、レポートの表記が變はつた。
 ブログアクセス、記事別アクセス、リンク元url、檢索キーワードが見られるやうになつた。

 當日乘の閲覽者が、どのやうな文字を入力し、此處を訪問下さつたか、ふと興味を覺え、これまでの「檢索キーワード」を確認してみた。
 野生の開帳する日乘であるから野生の名前があるのは固より當然のことゝして、諸先輩や友人、そして團體の名が多くある。賑やかなものだ。蓋し、躊躇はず、諸先生や諸兄のお名前を拜記してゐるので、檢索網に掛かるのであらう。尤も、野生の場合は、正漢字表記なので、必然と檢索に引つ掛かるのは限定される。

 興味深いことに、檢索キーワード項の履歴に遺される文字は、必ずしも現在に活躍される士や團體名ばかりではない。

 「本居」「玉勝間」「篤胤」「高山彦九郎」「清川八郎」「山崎闇齋」「景岳」「弘道館記述義」「靖獻遺言」・・・・。
 かうした、前(さき)の維新に關する先人の御尊名や、マニアツクな書籍のキーワードが散見され、面白い。而も、これは少々ではない。

 さらには、
 「迪彜篇」「徳川光圀壁書」「大橋訥庵」「闢邪小言」「山陵志」「男女の中をもやはらげ、たけきもののふの心をも慰む」「伊勢神宮不敬事件」「洗心洞箚記」「鐵石藤本先生」「河上彦歳」(※正しくは「彦齋」)「玉松操」「玉乃世履」等々、普通の人との普段の會話に於て、先づ、出て來ないやうなものまである。
 これは隨分、心強いといふものであり、皇國の復古中興をひたすら望む野生にとつても歡迎す可きことである。
 それが紅葉屋主人の云ふ、『歴史オタクや歴女なる人物』か否かまでは知る由もないが、意外にも百五十年以前に關心を寄せる人の多いことは紛れもなく事實である。かういふ「文字」の檢索を試みた人と是非、直接意見交換してみたいものだ。

 それにしても、世の中は廣い。上記に羅列したキーワードも相當マニアツクだが、更らに上を行くマニアの有段者は存在する。

 「西野文太郎」「思誠塾」「奇廼舎」
    ↑↑↑↑↑↑
 案ずるに、このへんのキーワードが、正しくレベル5だ。
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by sousiu | 2012-04-25 00:38 | 日々所感

新井白石公 番外 王號考 

 白石公に就て、野生は彼れの政治的手腕を認めながら、一方、彼れの缺くる重大要素を呈した。
 それ極言すれば畢竟、新井白石公は、幕府中興の功勞者であるといへるも、決して、皇國中興の功勞者たり得ぬといふ結論となる。
 しかし、彼れの、將軍を國王と看做す重大なる過誤に就て、野生は必ずしも彼れひとりを責めるものではない。有體に云へば、當時の者らは大凡、大同小異であつた。

●徳富猪一郎翁、『近世日本國民史 ~豐臣氏時代 戊篇~朝鮮役 中卷』(大正十五年二月十七日「民友社」發行)に曰く、
『當時は固より幕府全盛期で、誰一人將軍が、事實上に於ける、日本の統治者であるを、否定するものはなかつた。されば學者の中には、名實共に然かせんことを希うたものは、決して少くなかつた。中には彼等自身に、斯く信じ、斯く言ひ、斯く行うたるものさへあつた。例せば、太宰春臺の著と稱する、三王外記などには、將軍を稱するに王を以てし ー 憲王は即ち綱吉、文王は即ち家宣、章王は即ち家繼 ー 日本全國の統治者であることを表現し、天皇と稱するに、山城天皇を以てし、單に山城なる一地方の部分的の君主であるかの如く唱へてゐる。而して其の勅使を稱するに、聘使を以てし、將軍と 天皇とを、對立のものとしてゐる
 更らに又た將軍職を繼を稱して、大統を承くると云うてゐる。大統と云へば、固より天子以外に用ふ可き言葉ではあるまい。此れは太宰春臺一人ではない、所謂る徂徠流儀の學者などは、何れも其の通りであつた。否な、それが一般の通用であつた。乃ち多くの學者は、將軍あるを知りて、天皇あるを忘れてゐた』と。


 白石公歿して猶ほ、吾人は、王政復古を唱導した高山彦九郎先生の誕生まで、廿二年を俟たねばならなかつた。
 而、高山赤城先生の歿し、王政復古の大號令が渙發されるまで、吾人は更らに七十五年を俟たねばならなかつた。

 高山先生の未だ生を享けぬ白石公の存する此の時代、斯くの如き暗澹たる地上に於て、ともすれば當時の時代の趨勢に即掻き消されたるも、白石氏の「王號」に反對する意見、全く無いでも無かつた。

●雨森芳洲公、白石公への文書に曰く、『~前略~ 向(さ)きに聞く、這囘(このたび)信使(※前記したる朝鮮信使のこと)の來るや、接應の事例、前時と異るあり。而して其説皆な執事(※白石公のこと)の主張に出づと。思慮既に精しく、處置宜しきに適す。交隣の禮を正くし、無名の費を省き、沿路の臣民をして、患苦する所無からしむ。苟も執事微(なか)りせば、孰(たれか)能(よく)之に及ばむ。眞に所謂る仁人の言、其利博いかななるもの也』と。
 ↑↑この言は雨森公、前記したる白石公の朝鮮國信使に對する禮遇更革に就て評價したもの。固より批判の出でよう筈もない。

 併し乍ら、雨森公の云ひたいことは、これからだ。
○『 ~承前~ 尋(つ)いで承るに、内議、王と稱するの擧あり。而して其説亦た執事の主張に出づ。と。僕一たび之を聞き、且つ驚き、且つ痛む。竊かに怪しむ、執事の學問、見識、素より春秋の義に明なるを以て、而して乖剌顛倒、一に何んぞ此に至る哉。區々の褊性緘默するに忍びず、成事説かずの戒、聖訓に出づと雖も、過を改むるに、吝なる勿れの義、將さに執事に望まむとす。幸ひに採察せよ
 いつの世も、どこの地にも、喧嘩好きはゐる。而して、この喧嘩は、賣つた雨森公にではなく、賣られた白石公に原因も落度もあらねばならぬ。

○『 ~承前~ 竊かに惟ふに、源平相ひ軋りて以來、王綱日に弛る、絶えざること綫の如し。徒らに虚器を擁して、域内の共主となる。而して世々兵權を掌る者、名は大臣と雖も、實は乃ち國主たり。爵祿廢置皆な其手に出づ。遂ひに域内の人をして、復た天に對し、日に竝ぶの聖統の、巍々然として億兆臣民の上に據るあるを知らず。冠裳倒置、此より甚だしきと爲すは莫し。唯だ臣子恭順の一節、以て餼(左「食」+右「氣」=き)羊の告朔に當つ可きものは、敢て公然自から王號を朝鮮に稱せざるある耳(のみ)。
 夫れ我を稱して君と爲し、而して我辭せずんば、我即ち君也。我を呼んで臣と爲し、而して我怒らずんば、我即ち臣也。歴代の將家、敢て自ら王たらず、而して朝鮮稱するに殿下の書を以てし、欣然として輸納す。未だ嘗て之が爲めに一たびも辭せざるは、是れ王を以て自ら居る也。夫の自ら王たる者と、固より自ら間(へだて)無し』
 上記前段は歴史的にみて、武家政治の繁昌したる一方、皇室式微を述べたもの。臣子恭順を説くにある。後段は日朝國間の從來の慣例に就て述べたものだ。而、白石への批判は展開さるる。
○『 ~承前~ 然も此れ猶ほ恕す可き者ありて存す。今、乃ち歴代特に起るの定例を廢し、一切無稽の新規を創め、上は則ち恭順の義を失ひ、下は則ち祖上の法に悖る。吾、以爲らく、凡そ臣子たるもの、固より當(ま)さに從容規諫し、繼ぐに犯し爭ふを以てし、務めて其君をして、上に偪り、下を欺くの地に陷らざらしむべし。然して後、乃ち聖賢の書に負(そむ)かずと謂ふ可し、と。若し一言半句、恿(上「甬」+下「心」=よう)愚に渉り、必ず魏家の荀彧たらんと欲す。則ち但だに自から誤るのみならず、且つ以て君を誤る。吾は執事の必ず此を爲さゞるを知るや久し』

 雨森公は朱子學者、木下順庵の門下だ。白石公と同門だ。白石公は兄弟子のみならず、今や押しも押されぬ幕府直參であることに加へ、家宣の寵愛を得てゐる。對馬の一介の文學者に過ぎぬ雨森公では如何ともする能はず。けれ共、白石公に向うて、かの如き酷評の矢を放つたことは、當時と云はむよりも、後世にとつても頗る模範を示したと云うて宜い。

○『~承前~ 以聞(きくなら)く、諸侯王例の説あり、と。此れ甚だ謂れ無し。何となれば則ち、或は日本國武藏王と稱し、或は日本國關東王と稱す。是れ問ふことなくして、其の我が國諸侯王たるを知る可き也。若し專ら國號を以て王字の上に加ふ、則ち國内無上の尊稱たる、豈に昭然に非ずや。設し或は此の如くして、而して以て我が國諸侯王たる可くんば、則ち彼の是れ朝鮮國王なるもの、亦た將さに以て其國諸侯王たらんとす。烏乎(いづくん)ぞ可ならんや』
 白石公が、嘗て、諸侯に王字を冠した例ありといふことを聞いたので、將軍=國王も可也、といふのであれば、それは誤りである、と説いたもの。百歩讓つて、その例ありとして、武藏王や關東王と稱する者ありとするならば、日本國王はやはり、天皇であらねばならぬ、と訴へたものだ。實に痛快とはこの文句のことではないか。

 而して、雨森公曰く、
○『大君の稱、固より穩(おだやか)ならざるに似たり。王と稱するの擧、亦た失と爲す。宜なるかな後世、今日の羅山を罪する者を以て、執事を罪すべきを。即ち吾は執事の將た何を以て、自ら諉(左「言」+右「委」=あざむく、この場合、あざむか)んことを恐る。請ふ、三思を加へよ。慷慨の極、累(しき)りに狂言を發す、切に自ら振慄す。唯だ鬼門の一謫を待つ耳。謹此不備(つゝしんでこゝにふび)。(正徳元年)三月十四日』と。

 雨森公の他にも王號反對の見識者あり。同じく木下順庵門下の松浦霞沼公だ。松浦公は、白石の著したる『殊號事略』に對して、『殊號事略考正』を著して、その不足と云はんか非と云はんか、改める可きを改め正す可きを正し江湖に説いた。

 これに對して白石は、その著『折たく柴の記』に兩人をして『對馬の國にありつる、なま學匠』と揶揄してゐることからも、如何に件の癪に障つたことか、思ひ知ることが出來る。

 野生は同門にある彼れらの喧嘩を紹介することを目的としない。
 小數派であることを知りながら、皇室を尊ぶの心構へを天下に向うて訴へた人士があつたことを紹介出來れば、それで足る。

 以下、ふたつの新井白石觀を紹介し、一ト先づ筆を措く。


●内藤恥叟翁曰く、『其幕府を以て、毎事古の皇朝にひとしくし、其典禮を定めんことを謀りしは、名分を知らざるの甚しき者と云ふべし。既に此持論あり、故に國王と稱し、某廟と稱す、其他の名義、皆王朝にひとしくす。是、白石の罪を、萬世に得る所以なり』と。

●徳富猪一郎翁曰く、『白石は歴史家だ。されば日本の國體に就ても、極めて博大の知識を持てゐた。彼は 皇室に對しても、惓々の誠を竭したことは、少くない。彼を稱して、臣節を解せざる者と云ふは、彼の心事を誣ふる者である。されど彼は其の仕ふる所に忠なるの餘、皇室對幕府の干係に於ては、彼の眼中には、幕府ありて、殆んど 皇室はなかつた』と。




※いづれも括弧及び括弧内は野生による。
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by sousiu | 2012-04-08 21:28 | 日々所感

三百年前の日本は如何なる哉。  

 凡そ二百七十年續いた徳川幕府に於て、その初期たる家康、二代目將軍秀忠の當時は開國時代である。
 而、三代目將軍家光の時代から鎖國時代が開始せられ、徳川幕府の末期となると再び開國の時代に戻つた。つまり一囘轉したのだ。
 この中間時代に於て、諸外國との對外交際は唯一の例外國を除き、斷絶された。而、その例外國とは他ならぬ、朝鮮半島であつた。
 その朝鮮すらも、將軍の代替はりの際、來聘の使節が一囘づゝ來日する程度に過ぎなかつた。

 從來、日本と武で對して悉く負けたる朝鮮は、文事を以て日本を侮辱し、其の優勢を試みんとせんか、ともかく鬱憤を晴らした。固より榮螺が蓋を閉めるのと同樣、外界との交流を遮斷した日本だ。家光以來二百年もの間、何人にも何物にも妨碍されず、爲めに精神文化が純々然として發達したことは必ずしも無益ならざるとするも、そは、結果論として暫く措き。中間時代に於ける唯一の外交相手であつた朝鮮人からみれば、蜻蛉州に籠城したる日本人の無學をいつの日か、侮る可き素材として認め、勢ひ、彼れらの威信と自信とを増大せしめるに至つた。

 三百年前。六代目將軍として家宣があつた。この時代に、新井白石なる者が登場した。
 朝鮮國信使一向の鼻柱を折るべく白石は、正徳元年、朝鮮信使來聘に就て、之を擔當した。
 白石は日本、朝鮮との儀式的國交に對して、對人的國交に對して、文書的國交に對して、之を挽囘せんと幕府に建議を行ひ、舊例を改めさせ、日本が無學の徒ならぬことを相手國に承知させんと力めた。
 新井白石に就て、蘇峰徳富猪一郎翁はかう評してゐる。
 曰く、『彼は學者としては、徳川時代を通じて、殆んど比類少き一人だ。其の詩の如きは、專門の大家も、彼には一著を輸(ゆづ)る程の作手であつた。されど彼の本色は、寧ろ支那學問の知識を以て、日本の學問を開拓したるものであらう。彼は日本の歴史、日本の言語、日本の制度、日本の典禮、日本の軍器、日本の經濟等、あらゆる方面に向つて、其の手を著けた。而して彼の研究は、何れの方面に向つても、必ず多少の效果なきはなかつた。彼は單純なる考證家でなく、亦た説明家であつた。單純なる説明家でなく、亦た創見家であつた』(『近世日本國民史 元祿享保中間時代』)と。

 さて。正徳元年朝鮮信使來聘に挑まむとする白石の意氣込みとは。
●新井白石『折たく柴の記』(享保元年?發行)に曰く、
『遠く和漢の故事引くまでもなし。近く山本道鬼と聞こえしものは、甲斐の武田が家の軍師也。武田越後の上杉と、信濃の國川中島といふ所に戰ひし時に、みかたの軍破れぬと見えしかば、かの山本まつさきに討死してける。少しく恥ある事をしらんものは、かくこそありけれ。我、もし、此たび議し申せし事の一つも仰下されし事の如くならざらんには、たとひ仰下さるゝ御事こそなからめ、我何の面目ありてか、再び見え參らする事のあるべき。されば此事仰かうぶりし始より、我身はなきものとこそ思ひ定めたれ。かく思ひ定めたりつるは、我國中の事はいかにもありなん。此事もし過つ所あらんに、我國の耻を殘すべきなりと思ひしがゆゑ也』と。
 かの意氣込みをして、その意氣込みを天晴れと申すべし。然も白石を、斯くなる決意にまで及ぼしめた當時の朝鮮來聘一團の増上慢が思ひ遣らるゝではないか。ともあれ、今日の外交官は白石に見習ふところ大とせねばならぬ。況んや朝鮮半島に監禁さるる日本人救出外交の擔當官に於てをや。

 さて、白石の外交は成果を收めた。所謂る儀式上に於て、或いは掛合ひに於て、學問に於て、文筆に於ても、對手國の正使通政大夫・趙泰億、副使通訓大夫・任守幹、從事通訓大夫・李邦彦を相手に一歩も引かざるどころか、數歩を自ら進み、一方、彼れらは下らざるを得ずして歩を下らしめた。

 この一事を以て、徳富猪一郎翁は、斯く感想する。
 曰く、『幕府は朝鮮の聘使を迎ふるに、一方ならぬ緊張味を示した。吾人は白石が此事に就て、殆ど有らん限りの力瘤を出したのを見て、必ずしも之を怪しまぬ。彼は只だ日本國の國威、國光と云ふ一點に心を用ひて、斯く取り計らうたのだ~中略~
 若し白石をして、嘉永安政の時代にあらしめば、彼は必ず相應の働らきを、日本開國史上に於て、留めたであらう。但だ相手が、眇乎たる朝鮮であり、その爲めに折角白石の入れたる力瘤も、今日から見れば、鷄を割くに牛刀を用ふるの類として、聊か仰山過ぎる感を免れぬは、彼の爲めにも、日本の爲めにも、遺憾であつた』(仝)と。

 これから出掛けねばならぬので、・・・續く。
 斷わつておくが、野生は新井白石を評價し彼れを宣傳する積もりではない。
 前半は前半の意あり。後半には後半の意あり。たゞ歴史は繰り返すといふ言葉に頷き、三百年前を想起するある而已。吾人が學ぶ可きは歴史なのだ。而、戒む可きは將來だ。
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by sousiu | 2012-03-30 07:26 | 日々所感

道の嶮しきを知る  

 土曜日は、第七十九囘 歌道講座に出席。

 野生の詠みしうた。

     春遠き 世に先立ちて 咲く梅に
        日本の目覺めは いつぞと訊ぬ

     とほきより 姿うつくし 富士の山
        ふもとに在れば けはしきを知る


 二首目は、勤皇臣民實踐の道、悠遠なるを知りつゝも、未だ我が身は麓に在り、而、山頂を仰ぐの登山家の心境を詠んだのである。
 斷わつておかねばなるまいが、と云ふよりも、斷わるまでもないが、歌道講座竝びに眞由美先生に就ての感想を詠んでゐるのではない。乞、誤解めされぬことを。
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by sousiu | 2012-03-19 19:39 | 日々所感

言に發すは輒く行ふは難し。  

 國信兄による壯絶なるDVDを拜見した。
 漏れ傳はるところによれば、兄が中井洽宛てに「斬奸状」「庖丁」「斷指」を送付した日が十日の土曜日である。
 その早朝、當日乘に於て、日乘ジヤツカーなどと稱してコメントを投じるなど、その豪放磊落な性格が思ひ遣らるゝではないか。而して同時に、中井本人にしてみれば、決して呑氣に構へる能はざる相手であらう。

 そのやうな兄の決意の凄じきは、正視する能はざるDVDに顯著である。
 竊かに望む。中井が、或いは人が、國信兄による行ひの是非を論ふよりも、斯くの若く明朗、磊落な彼れをして、斯程にまで怒氣迫らせたる原因は何にあつたるか、三思することを。
 彼れが短見眼、短氣病の持ち主ではないことは、我が日乘に於て會話の遣り取りを讀み返してみても明白だ。

 不可解なるは中井の側である。被害屆けを提出せないものであるから、出頭した國信兄は取り調べを受けたのみで現在猶ほ拘束されてゐない。尤も、當局による嚴重な監視下にあるにせよ。


 文仁親王同妃兩殿下に對する中井の不敬なる言は、全國民に惡感情を惹起し、熊本の鈴木田兄による血判状提出に及ばしめたことは、テレビや新聞でも報じられたとほりである。↓↓↓
  http://sousiu.exblog.jp/15244534/

 次ぐ國信兄は斷指を敢行、その苦衷を吐露せしめた。更らに中井のごとき徒輩が『皇室の傳統・文化を守る議員連盟』の會長に就任するといふ珍事をして愈々憂憤止み難く、今度びの擧に出でたものであらう。
 「言論の自由」を絶對視し、殊更らに主張せば、「不敬發言」といふ言葉は存在そのものが否定されなければならぬ。
 だがしかし、皇國に於て、果してこのやうな無道理が罷通るのであらうか。
 「言論の自由」などてふ權利を只管ら謳歌し、而して惑溺し、いさゝかも省察せぬ癡人が蔓延る現在、一體誰れが、法的處罰をも覺悟・超越した彼れを非難し得るといふのであるか。


 ともかく。彼れに心配、同情、或いは理解を寄せる人は、決して彼れと面識のある人だけに止るまい。↓↓↓
  http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t19/254



『斬奸状』

 中井洽よ 貴樣は
天皇・皇后兩陛下 皇族に對し奉る、不忠・不敬を犯した奸賊である
天皇に對し奉り 謹みて御詫びすることも無く 先般の訪中による二重外交 そして 皇室の傳統文化を守る議員連盟の會長就任劇といふ一連の奸計は 一昨年の不敬發言 國家公安委員長時代の破廉恥行爲を帳消にする爲の 私利私欲にまみれた選擧對策であることは 明らかである
行幸啓の警衞警備に携はる現場の警察官が 無私の精神で 警衞の任務にあたつてゐる事を忘れるな 貴樣は 國家公安委員長といふ 行幸啓警備の最高責任者であつた身ぞ
 貴樣は 私利私欲 選擧對策の爲に 畏れ多くも
皇室を政爭の具とし奉つた 大罪人である貴樣に 小生の小指と包丁一本を贈呈する
 この包丁で 身削ぎせよ それによつて 罪 穢れを祓へ
 貴樣は 天地の怒りに觸れた 身削ぎを濟まさなければ 必ずや 天誅が降るものと覺悟せよ

皇紀貳仟六佰七拾貳年彌生乃月

   日本國家救濟會議
      洗心會 會長 國信 隆士
               手形血判
 中井 洽 殿

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by sousiu | 2012-03-14 18:19 | 日々所感

發送報國  

 備中處士さんから御惠投賜はつた『靖国神社の真実』を二百册、本日を以てほゞ、發送し終はつた。
 一册一册が手作りの封筒だ。これは別に深い意味はなく、啻に紙を捨てることが出來ない性質から、溜まるに溜まつた紙を再利用しただけ。
 氣付けば弊社の分の御本も送つてしまひ無くなつてしまつた。まア、度量の廣い備中處士さんのこと。困つたものだと思ひつゝも數册、改めて御惠送くださるに違ひない。

 以前にも申上げたかと思ふが、野生は街宣車を持たなくなつて久しい。
 街宣車の維持費は馬鹿にならず、野生の體力では到底何臺も維持すること困難となつた。
 されど、その分の費用を、發送費や印刷費(機關紙は現在、止まつてゐるが・・・汗顏)に有用してゐる。
 從つて、誰れから感謝される謂はれもないのである。街宣車で演説を行ひ、抗議をする人も、誰れかから感謝されたくて續けてゐるわけではない。野生の場合、ガソリン代が切手代に代はつただけなのである。
 だがその分の充實感は、ある。
 くだらない雜誌や所謂るビニ本を送る作業ではこの充實感は得られまい。
 これは發送報國の醍醐味だ。然るに、この充實感を與へてくれた泉水隆一翁と備中處士さんには感謝、感謝だ。

 さて、本日、平澤次郎翁より、封筒が屆いた。平澤先生による、發送報國だ。
 例によつて例の如く、裏返しされた封筒だ。野生の封筒の再生利用は、平澤次郎讓りだ。
 平澤先生も文章報國、出版報國、發送報國の御方。このへんも野生、平澤次郎讓りなのかも知れない。
 ・・・ちよつと、待てよ?何か書いてある。
 え~と。なにゝゝ、『◎郵便屋さん、料金が不足でしたら河原からふんだくって下さい。おねがい致します。平沢拝 ◎140円也


 「新約聖書」に曰く、『弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも十分に修行を積めば、その師のやうになれる』と。
 『ルカによる福音書』もまるであてにならぬ。少なくとも、『發送報國』の度量に於て、弟子は師を超えたとみて差し支へもあるまい。
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by sousiu | 2012-02-29 00:48 | 日々所感

愛國乎、尊皇乎、  

 本日、道の先輩から、今月都内で行なはれる全教の大會に就て貴社は如何するか、と電話をいたゞいた。
 野生は、その日は抗議するの積もりはない旨、御答へした。

 彼れらのわづかにでも、「いつも怒濤の如く押し寄せる抗議が何故、今日に限つて行なはれないのか」と、その理由を考へさせることは、啓蒙と云ふ觀點からみても決して無意義ではない。樣々な考へもあらうが、野生はその日はしづかに雲近き九重を拜し、御平癒を御祈り奉り、過ごすといふことを申上げたものだ。
 日本人としての姿勢を「みせる」といふことも大切だが、かく「過ごす」ことも大切であると野生は信じる。

 某先輩、『(彼れら全教に對して)「やらない」といふことを「やる」といふことだらう』と。
 さすが先輩、宜いことを仰る。
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by sousiu | 2012-02-13 18:30 | 日々所感

現代日本人に缺けるは、皇國の確信也矣。 

 昨夜は、靖國會・沼山光洋事務局長と、大行社・木川智兄とで、會食をしながら某神職の御高話を拜聽。すなはち四人會だ。
 この御方の御話しは、頭に沁み入るのではなく、心に沁み込む。よつて、背筋の伸びる心地がする。
 どこまでも廣がる時局論議ではなく、終始、皇國の眞相に就て、君臣の分に就てであつた。學校ではかういふ話しは聽かれない。テレビに於ても。「ゴーマニズム宣言」に於ても。
 説明もまことに御上手だ。先日、とあるお笑ひ藝人が、ある映畫の話題に觸れ、「放映時間が長いのにも係はらず、何を傳へたかつたのか不鮮明であるのは監督の未熟が爲めである」といふ旨、どこかのテレビだか何だかで話してゐたことを聽いたが、某神職の場合はその反對だ。御説明は、極めて鮮明で分かり易く、時間を感じさせない。勿論、説得力もある。だがそれ、啻にこれまでの苦學勉勵された知識の賜物だけではないと拜察する。その説得力とは、見識に倍して猶ほ餘りある、皇國に對する信念の裏付けではないだらうか。


●日本大學皇道學院々長、神宮奉齋會々長、今泉定助氏『講演通信 第四百十四號「皇道と王道と霸道」』(昭和十四年一月廿五日「日本講演通信社」發行)に曰く、
『天皇の御本質を本當にお話ししなければ皇道といふことは出て參りませぬけれども、大體、皇道と王道とを比較して見ますれば、大體は王道は人間の道であります。皇道は其の上の神の道であります。
 それは何故か。支那でもやはり皇道を狙つたのでありますけれども、皇道迄にはどうも支那では來られないのであります。人間が拵へたものでは皇道には登れない。支那でも皇道を狙つて居るのであります。それですから御承知の通り、皇帝を天子といふ、天の子だといふ、或は天子は民の父母だといふ、天の子であるから天に代つて天の心持を國民に行ふのである。それから又、民の父母であるから民意を行ふのである。斯う王道では言つて居るのであります。天に代つて天の心持を實行する、民の民意の綜合したところを實行して行くのが天子である。斯う言ふのであります。
 どうしてさういふことを言ふかと申しますれば簡單に申上げますと、自分は天の子であると言つて異民族を纏めようとするのであります。支那では御承知の通り、南蠻とか、北狄とか、夷とか、東西南北悉く異民族であるから、その異民族を統一するのには、天の力を借りなければ出來ない、そこで天子といふ。けれどもそれは嘘です、天の子ぢやない、實質を有たない、それであるから民の父母といふことも嘘である、民の父母でも何でもない。只、異民族を綜合する便宜の爲めに天の子である、民の父母であるといふ。そこで天の意を行ふ、民の綜合した心持を行ふのであるからこれは有徳の人でなければ出來ない。大いなる徳望を持つた人でなければ出來ない、そこで王道の標準は徳であります。これは支那の古い物には皆さう書いてあります』

『支那には皇と帝と王といふ三稱がありまして、「皇」は「大也天也」といひ、又「帝より大なるを云ふ」と解したるもあり、蔡邕獨斷といふ書には「皇帝は至尊の稱なり、上古天子庖犧氏神農氏皇と稱し、堯舜帝と稱す、夏殷周王と稱す、秦竝に以て號と爲し、漢これに因つて改めず」とあります。
 又、「帝」は説文に「天下の王たるの稱なり」といひ、白虎通に「徳天に合するものを帝と稱す」といひ、管子兵法篇には「道に察するものは帝、徳に通ずるものは王」などと言つ居ります。それから「王」は「大也君也」と解し、「無偏無黨王道蕩々」などと言ひ、或は「天地人の三才を一貫したるを王と云ふ」と申して居ります。
 斯樣に色々申して居りますけれども、以上三者は支那に於きましては同一性質の語でありまして、皇、帝、王を三級の等差あるものとして、「皇」とは生れながらに君主たるもの、「帝」は徳を以て君主たるもの、「王」は道を以て君主たるものを云ふものだとして、この三者は區別があるのだといふ説がありますけれども、必ずしもそんな區別はないのであります。但し皇と帝とは、王の徳を大にしたるもの、即ち嘆美の意を含めたものであることは云ふまでもありません』

『結局、王とは天と民との間に立つて、天に代つて天意を行ひ、民に代つて民心を行ふものを云ふのであります。伏羲が王であり、神農が王であり、黄帝が王であり、堯舜禹湯文武が王であり、さうして桀紂が王でないと言はれるのは、實にかくの如き意義に外ならないのであります。王はかくの如く、天地と其の化育を共にし、徳を以て下民を潤し惠むべきものであるのに、時として霸者、即ち力を以て國に王たるものが現れ、暴政を以て下民を壓制したり、無辜の民を虐殺したりする場合には、易姓革命を行はねばならぬものとしまして、王道に於きましては易姓革命を認めるのであります。印度にも輪轉王と云ふ道を生命とする王の理想があります。釋迦も「王法政論經」と云ふ書に、種姓尊高と言つて、先天的血統が王の第一の徳であると説いて居りますが、徳と血統の一致は、遂に理想に過ぎませんでした』


『然るに我が國家の成立はどうか。
 支那の王の如く天命を受けて天を祭り、天子と稱するが如き漠然たるものではなくて、天照大御神より皇統連綿として今日に至る 天皇にましますのであります。所謂先天的天皇國であります。
 而して天照大御神は、天地創造の天御中主神の神徳も、國土經營の伊弉諾、伊弉冉二神の神徳も綜合統一遊ばされて、唯一絶對の神にましますことは、今更云ふまでもありません。我が國に於ても、古來支那に倣つて、 天皇のことを天子と申して居りますが、それは全くその意味を異にして、天神の御子、即ち皇祖の御子孫といふ意味でありまして、天の子と云ふ義ではないのであります

我が國に於ては 天皇を以て國の體となすのであります。 天皇は即ち國の主體であります。それだから 天皇を除けば國もなく體もない、 天皇即國體、國體即 天皇であります。猶ほ詳しく言ひますれば、皇家の延長が國となり、國の縮刷が家となるのでありまして、斯樣に國と家とが不二一體でありますから、宗國一致と言ひ、家と國とが同じであるから、忠孝一本と説くのであります

皇道と王道とは斯樣に霄壤の差があるのであります。王道の一番大切なことは、天命を受けるといふことであり、天命を受けることによつて王道が成立ち、天命を受けなかつたならば王道は成立たないのであります。從つて天命の革ること、即ち革命が王道には附物であります。
 然るに日本國は天御中主神から伊弉諾、伊弉冉の二神が命令を御受けになり、その伊弉諾、伊弉冉の二神の御子樣が天照大神で、その御子樣が歴代の 天皇であらせられるのでありますから、天命を受けたと云ふのではないのであります。ずつと一本の系統で來て居ります。所謂皇統連綿であります。約言すれば、皇道は先天的であり、王道は後天的であります。釋迦が「王法政論經」に於て説いた理想は、たゞ我が皇道によつて實現せられたのであります。

 又、王道では君主と臣下と對立的であります。君主の方からは臣下に向つて忠義を要求する、臣下の方からは君主に對して、我々に仁愛なれ、我々に幸福を與へよと要求します。日本を除いた總ての國家がさうであります。日本獨りさうではない。 天皇からは國民は「大御寶」であります。「農は天下の大本なり」として、何時も民本主義を以て愛撫せられ、國民からは又、君本主義を主張して、大宗家として奉仕し來つたことは昔も今も變ることはないのであります。皇道では君主と臣下とが對立するものでなく、不二一體であり、絶對のものなのであります』と。



・・・・引用抄録が長いのにも係はらず、何を傳へたかつたのか不鮮明であるのは、畢竟、河原の未熟が爲めでアルヨ。野生の未熟をご叱責くださる方は↓↓に。
douketusha@ever.ocn.ne.jp
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by sousiu | 2012-02-10 17:08 | 日々所感

『戰後史觀の脱却』で諒とすべきか。  

 昨日は都内で五人會。
 御互ひに近況報國・・・ぢやない、報告で時を過した。
 一人の女性は最近、專ら、古事記を愛讀してゐるといふ。素晴しいことだ。神社崇拜の念も篤い。それも理屈からではなく、感性といふのかインスピレーシヨンといふのか、さういつたものから崇拜してゐるやうだ。
 崇拜があつて、信仰があつて、確信があるが、それつてやはり、本來理屈から生ずるものではないのだな。理屈の力つて、かうした方面では案外邪魔だ。科學的結論と、信仰的確信とは全く異る。もとゝゝ、日本人て、感性や靈性に優れてゐる民族だと思ふのだけれども。左翼と呼べる人らは可哀さうに、この邊の能力が發達せぬまゝ大人になつてしまつてゐる。だから、反日なのだ。


 さて、歸つてからは、そのまゝ布團へ。中斷したまゝの「原稿」を考へないやうにし、パソコンの前の「腱鞘炎知らず」を見ないやうにし、布團に直行すれば、心は亂れることなく、安らかだ。この氣持ちの切り替への早さは、一種野生の能力だけれども、汗、それを云ふと木川選手から、返せ、と怒られさうなので、さうは云はない。

 寢る前に小册子『皇國勤勞體制の理念』を拜讀。
 發行は「大日本翼贊壯年團」。すごい名前だ。考へてみれば、青年と名の付く團體は多いが、壯年と名の付く團體て、現在はあるのかな。
 ともかく、『皇國勤勞體制の理念』(昭和十八年二月廿五日「大日本翼贊壯年團」發行)大政翼贊會事務總長、小畑忠良氏の曰く、
『體制といふ言葉は四五年この方盛んに使用せられるやうになつた一種の新語である。體は體格、制は制度で、組織機構といふのと大體同意義の言葉と思ふ。自由主義、個人主義、營利主義の社會組織、經濟機構を舊體制と呼ぶならば、舊體制は明治以後英米から輸入した體制である。この外來の體制が爛熟し老化し、圓滑な運轉をしなくなつた時、これに代るべき體制は如何なる姿をとるべきか。舊體制は英米であるから今度は獨逸流のナチズムか、伊太利張りのフアツシヨか、但しはロシアか。新體制といふと近頃の人々は動もすれば歐米の眞似でないと承知しない傾向があるのであるが、これが間違の基である。借り物は結局、行き詰る。天壤と共に極りなき皇運を扶翼し參らせる日本帝國の國民組織は、永久に融通無碍でなければならぬ。一時の間に合はせは絶對にいけない。日本國の國體に相應し日本人の本性に適合する體制が彌榮の國民組織である。外國の眞似事は差し當り都合が好いやうでも早晩は動かなくなる。新體制は日本國の眞の體制であり、日本人の惟神の體制でなければならぬ。新といふと新奇な舶來物といふ感じを與へるが、大化の改新といひ、明治の維新といひ、國民組織の變革の場合には不思議に復古を意味してゐる。昭和の新體制もこの意味において復古體制であつて、神武の昔、神代の昔の國民組織を當代に適するやうに再現せんとするものである。
 新體制を理解するには、國體と相そぐはない舊體制が如何にして我國にはびこるやうになつたか、そしてそれが如何にして行き詰つて來たかを探求するのが捷徑である』と。

 七十年前からこのやうに、今とさして變はらぬ論調が既に出でてゐたことを鑑みれば、果して『戰後史觀及び體制の脱却』の實現だけで日本の前途は宜いのであらうか。
 強國日本が再現すればそれで宜しいと考へる人達はともかく、正しく復古を志す人は、單純な『戰前囘歸』では滿足し得る能はぬであらう。それを踏まへて、先日、記した鈴屋大人や、そのほかの碩學の教へを學ぶならば、一層、感性や靈性が鍛へられるのではあるまいか。・・・我れながら、おあとが宜しいやうで。苦笑。

 だが、上の小畑氏、戰後、公職追放となり、一轉、平和運動家に變心した者である。この人の場合、おあとがいくない。
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by sousiu | 2012-02-04 11:34 | 日々所感

おはやう、ぢやないよ、おやすみなさいだよ。 

 毎月、依頼されてゐる『芳論新報』の原稿をたゞいま脱稿。
 締め切りを大幅に延ばしてしまつた。汗顏。

 今囘を終へて、連載から算へると漸く廿囘だ。大體、毎囘が四百字詰め原稿用紙を九枚から十枚。これから芳論新報社事務所にフアクスして、布團に入り、假眠して又た出發だ。

 先月だつたか、大阪の志賀智仁君に「山陵志に就て書かうかな」と呟いたところ、當日乘で「山陵志」を記したことを識つてゐる彼れは「禁じ手ではないか」と云はむばかり、苦笑してゐた。怒。
 だが、さうも口にしたくなるほど、書くに苦惱する時がある。正確に言を用ゐれば毎月、毎囘・・・かも。

 嘗て、籍を置いてゐた弊社々員が月刊機關紙を發行してをり、ネタ(といふのが適切かどうか解らぬが)に盡きつゝあることで、苦々たる心境を漏せたことがある。野生はこの言に對して一丁前にも説諭したものだ。
 野生の云はむとしたことは、かうだ。
 反日政策や反日發言がある際、筆意雄健、墨痕淋漓となるのは宜しとしても、これらが出現せぬ時に書くに惱むといふことは如何なるものか。それでは反日が活性すれば共に活性し、反日が沈默すれば均しく沈默するといふことに他ならない。紙面が面目躍如ならんとする爲めには、心の知らざる何處かで、反日的言動を欲してしまふからして、實に怪しからん。畢竟、右翼といふも左翼といふもそれは戰後史觀といふ胴體に於ける、腹背の干繋ではないか、と。

 以前、福永武道兄と、これに似たやうな話題となつたことがある。兄曰く「然り、それは負の祈りともなつてしまふのだから」と。さすが、兄ならではの答へだと思つた。

 固より左翼の對義語が右翼であるといふのは、それは固有名詞の別から考へるならば、なるほど、さう云へなくもないが、決して反日活動家あらねば尊皇家あらぬ、といふことではない。
 以前、東西冷戰構造も終はり暫らくして、野生は、陣営の外堀の住人から、「左翼が停滯し右翼も存在意義を失つたでせう」と意見されたことがあつた。全く見當違ひも甚しい。だが、若しも野生の側に、見當違ひをされる理由があるといふ御指摘を受けるのであれば、そは今でも眞摯に受け止めるつもりである。




 目立つた反日的話題がなくとも、記さねばならぬことは山の如くあるし、それに困るのであれば、別段時局を論じるに急ぐ必要も無い。ひとり心しづかに歴史を繙き私見を發表するも宜し。近眼視が良いといふものでもなし、ものごとを大觀、我が道を檢證するも宜し、だ。
 いくら神國と雖も、無論、衰微はある。しかし滅亡はない。終末思想に捉はればこそ焦燥にはしりがちだ。だがそれも義侠心あるが爲めに生ずる正義感だ。故に苦情をいふつもりは無い。たゞその貴き義侠心も正義感も、より神國に對する確信が加はり終末思想を捨て去れば、さらに光輝を増し有効なる力となること疑ふべくもない。
 
 ともあれ、さうした二人との會話を思ひ出し、脱稿後の解放された氣持ちを堪能しつゝ、珈琲を飮んでゐる。結局、野生もまだゝゞ未熟だといふことだ。


 ん?福永氏?さうだ、今週は「歌道講座」があるのだつた。・・・また産みの苦しみを味ははねばならない。

 取り敢へず、おやすみなさい。
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by sousiu | 2012-01-18 08:44 | 日々所感