カテゴリ:日々所感( 142 )

・・・・で、義公。  

 林道春の曰く、
『論に曰く、東山の僧、圓月(字は中巖、中正子と號す、剏めて妙喜庵を建つ)嘗て日本紀を修む。朝議協はずして果さず。遂に其書をやく。余、竊かに圓月の意を惟ひ、諸書を按ずるに、日本を以て呉の太伯の後となす。夫れ太伯荊蠻に逃れ、髮をたち身を文し、交龍と共に居る。其子孫筑紫に來たる、想ふに必ず時人以て神となさん。是れ天孫日向高千穗峰に降るの謂ひ乎』
『想ふに其れ大己貴、長髓彦は、我邦古昔の酋長にして、神武は代はつて立つ者か、嗚呼姫子の孫子、本支百世、萬世に至つて君と爲るべし。亦た盛ならずや。彼れ強大の呉、越に滅ぼされると雖も、而も我邦の寶祚は、天地と與に窮りなし。余是に於て、愈々太伯の至徳たるを信ずるなり。設し圓月をして復び生れしむるも、余の言を何とか謂はんや』と。

 恐る可き哉、道春は先に名を記した愚僧、中巖圓月による皇祖泰伯説の信服者だ。然も徳川幕府初期に於て、この説は國中を驅け巡り、世人を信じて疑はせなかつた。況んや幕府の御用學者どもに於てをや。
 されど圓月は吉野朝時代にのみあるものではない。最近では小澤一郎の如く、騎馬民族云々と兔角、魔説を國内外に廣告する徒輩がある。固より道春もひとり安土桃山の時代に生を享くるものではない。そして、日星のごとき臣下の分があることも識らぬ御用學者は、江戸時代ばかりに逞しくするものではない。




 昨日は時對協定例會があつた。その後の懇親會に於て、期せずして、小田昇氏より、中巖圓月の話題が出された。大阪の志賀氏より、髮長に就て同志の忌憚なき意見を乞ふとの申し出があつたことが因となしたのである。
 小田氏は自稱、病人だ。憂國病を患つてゐるといふ。廣島縣より上京した國信氏と病人同士、肝膽相照らすものがあつたか、終始、崎門學に就て議論を重ねてゐた。鳥取縣の中上氏にあつては、神代の話題。
 健全且つ極めて常識人の野生はと云へば、久々に參加された平澤次郎翁の隣で、翁による苦言の集中砲火を浴びてゐた。翁の出費を少しでも抑へんと獻策したことにも御説教。韓非の「韓非子」も、平澤翁の「酒」には全く齒が立たないとみえる。固より酩酊した翁の折角の苦言も、野生の耳にかゝつては右から左だ。これが、健全且つ常識人の應對だ。
 何にせよ、時對協の懇親會は上記が如く、病人による熱辯と泥醉先生による御説教と醉拳。十數名の懇親會參加者があつたが、この空氣のなか、たれ一人としてAKB48の話題を出すの勇者はなかつた。心ゆくまで可愛い後輩に説教を浴びせて滿足し、併せて、自らを病人であると告白し些かも憚らぬ時對協會員は、今後時對協の門戸を叩く者が、おそらくさうはをるまいことを承知しておかなければなるまい。



 ところで道春は幕府の命により、彼れの三男坊である春齋と修史編纂事業に著手、寛文十年、「本朝通鑑」を完成させた。
 水戸の義公、この折り、登城。休所に入るの時、執政某に本朝通鑑をもたせ一讀す。
 この時の樣子を安藤爲章翁の「年山紀聞」(文化元年)から識らむとするに、曰く、
時に公(義公のこと)一、二卷(本朝通鑑のこと)を電覽ましましければ、天朝の始祖は、呉の太伯の胤なるよし書きたるに、大に驚かせ給ひて曰く、抑も是は如何なる狂惑の所爲ぞや、唐土の史、後漢書以下に、天朝を姫姓のよししるしたるは、往昔亡命のもの、あるひは、文盲の輩など、彼處に渡りて、杜撰の物語せしを、彼方のものは、眞にさなんと意得て書き傳へたるなり。天朝には自ら日本紀、古事記等の正史あり。それに反きて、外策妄傳によりて、神皇の統を涜さんとす。甚だ悲しむ可し。昔、後醍醐帝の御時にや、魔僧ありて、此の流の説を書きしをも、制禁ましまして、其の書を焚き捨てられしとかや承る。かの厩戸皇子のころは、學問未熟ありしかど、日出處天子、日歿處皇帝と書きて、同等に抗行せられしぞかし。呉太伯の裔と云へば、神州の大寶長く外國の附膺を免かれ難たからん。されば此の書は、醜を萬代に殘す事と云ふべし。早く林氏に命じて、此の魔説を削り、正史の儘に、改正す可きなり。さは侍らぬかと給へば、尾紀の二公にも、うなづかせ玉ひ、執政の人々も、御確論に感伏せられ、梓行を止められ侍りぬ』と。

 あゝ、痛快なる哉、痛快なる哉。これにて本朝通鑑の出版は中止となつた(しかれども大正時代に至り、刊行をみる)。

 固より義公と云へば「大日本史」編纂といふ一大事業を發起した稀代の偉物であり、それ、啻に水戸のみならず、皇國中興の大恩人である。然も義公の本道の偉大は、大日本史編纂の一事にみるべからず。水戸が徳川御三家の一であるにも關はらず、猛烈なる 尊皇忠義の臣であつたことに他ならない。
●蘇峰 徳富猪一郎翁曰く、
『何れにしても光圀の一喝(上記のこと)は、日本國史の、主要なる大問題を解決して、餘りありと云ふも、過言ではなかつた。爾來我が 皇祖を以て、呉の泰伯とし、若しくは夏の少康とするが如きは、消滅し去つた』と。


 圓月も道春も御用學者も現代に栖息、氾濫する。無論、政財官界内部もこの例外とせない。野生は只管らに義公の如きひとりの出現を懇祈せずんば已まず。
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by sousiu | 2012-01-13 13:50 | 日々所感

有志の誰れか文運の興隆を願はざる  

 昨日、神奈川縣維新協議會、海法文彦兄との雜談の折り、兄が『少年日本史』を購入したことを聞いた。
 云ふまでもなく、『少年日本史』は、平泉澄先生の著述による全國民必讀の書。哀しむべき哉、戰後から現在に及び保守派言論界は、戰前に比して 皇國史觀を考究、堂々たる氣概もて江湖に發表する人も激減したやうであるが、古本と雖も一代の碩學、平泉先生の書籍が流通してゐることは吾人の感謝措く能はざることである。而、今猶ほこれを求める人士のあるといふその一事を以てして、亂麻の如き世にあつてせめてもの慰めならむといふよりも、轉じて 皇國の將來に希望が持たれるのである。
●九段塾「平泉澄博士遺文」↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t9/l50
●仝「さあ、『少年日本史』を讀みませう!」↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t34/l50

 又た本日は、廣島縣の病人・・・、ぢやない(書き間違ひ、失敬)、賢人國信隆士兄より電話を賜はる。
 聞くに、兄は古書肆を巡り、錦陌講堂 淺見絅齋先生の『靖獻遺言』を求めたが、何處にも置いてゐない。仕方なく某書肆の主に頼み、やうやく入荷の聯絡を受け入手したものゝ、そは板本にて解讀する容易ならざる代物とのこと。されど斷念することなく、今度は法本義弘先生の『靖獻遺言精義』を注文したとの由。國信兄、落掌の日を鶴首、待望してゐるのだ、と。

 はからずも兩兄の入手せる書籍は、共に山崎闇齋先生を祖とした崎門學に縁り深かりし書。
 崎門の學は明治維新と到底切つても切り離せぬ干繋であり、兩兄のみならず野生も又た淺からぬ關心を抱いてゐるものだ。
 
 にはかに原點囘歸といふ言葉を耳にすることが増えて來た。陣營の友人からだけではない。凡ゆる分野に生きる者に、原點囘歸が叫ばれんとしつゝある。固より野生も、大晦日に記した如く原點囘歸を志す一人だ。だが、それ野生は時代の變動しつゝあるを以て理由に擧げるのではない。平穩無事な時、乃至は順調の期にはついぞ忘れがちであるが、常に「初心不可忘」「温故知新」は肝膽に銘じておく可き言と心得るが爲めである。況や壁にあたる乃至前途の多難が豫想されるに於てをや。尤も今日、原點囘歸の語が身近に聞かれるのも決して因なきものとせないが。
 そして原點囘歸は、運動を動機付け、理論の根幹を構成する思想そのものにまで及ばんとしてゐる。冒頭に戰後保守の言論人に皇國史觀が減つたことを悲嘆したが、正しく、日本の保守思想それ自體、原點囘歸の要される可きところであらう。

 こゝへきて、崎門學に興味を抱く有志が出でつゝあることはまことに頼母敷きことではないか。
 さう云へば時局對策協議會の小田昇兄が主催する「望楠社」も、淺見絅齋先生の御高弟である若林強齋先生の學舍「望楠軒」を仰慕するゆゑもて名付けられたといふ。

●仝「崎門學筌蹄――埀加靈社・山崎闇齋先生の學問。」↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t22/l50



蘇峰學人翁、『近世日本國民史 ー徳川幕府上期 下卷 思想篇ー』(大正十四年四月廿日「民友社」發行)第十章 「闇齋及び其の一派」項に曰く、
『闇齋の朱子學は、世の所謂る朱子學ではなく、山崎流の朱子學であつた。彼は朱子學を日本化し、併せて山崎化した。そは彼が何等朱子學に就て、特殊の新見、發明を加へたと云ふでなく、只だ彼の人格もて、然らしめた。言ひ換ふれば、彼は朱子學をば、學問界より人間界に引き下した。從來學問は學問、實行は實行と、自から區別してゐたものを、闇齋に至りて、學問即ち實行、實行即ち學問とした。此に至りて學問は、儒者の性理空談に止らずして、人間萬事の規法となつた。而して闇齋は、然かせしむ可く務めた。 ~中略~

 併し若し山崎闇齋の特色、何れにありと云はゞ、其一は、彼が國體觀念の極めて濃厚であつたことに歸せねばならぬ。彼は勤王家として、別に幕政の現状を、顛覆せんとするが如き徒ではなかつた。然も國體觀念に至りては、熊澤蕃山以上にして、山鹿素行と相駢ぶの位置を占めてゐる。 ~中略~

 彼は決して支那を精神的母國として、崇拜しなかつた。彼は儒者であるが、日本の儒者であるとを自覺した。彼の國體觀念は、極めて徹底してゐた。而して彼の勤王思想は、決して現在の幕政に向つて、挑戰する如き、實務的のものではなかつたが、一般儒者流の湯武放伐論には、甚だ不服であつた點から演繹すれば、其の結論は期せずして知る可しだ。 ~中略~

 闇齋彼自身は、只だ君臣の義を明らかにせんが爲めに、此論(下記、①)を作つた。然も此の論旨を推し詰むれば、日本全土皆な 天皇の土にして、日本擧國の人、上は將軍より皆な 天皇の臣たらざるはなき也。彼は遂ひに其處までは、突進しなかつたが、彼の流を酌むものは、遂ひに之に至らざれば息まなかつた』と。
(①)は、『先哲叢談』に掲げられる逸話のこと。掲げんに、『嘗て群弟子に問うて曰はく、方今、彼の邦孔子を以て大將となし、孟子を副將となし、數萬騎を率ゐ、來りて我が邦を攻めば、則ち吾が黨孔孟の道を學ぶもの、之を如何とかなす、と。弟子みな答ふる能はず。曰はく、小子爲す所を知らず、願くば其説を聞かん。曰はく、不幸にして若し此厄に逢はば、則ち吾が黨、身に堅を被り、手に鋭を執り、之と一戰して孔孟を擒し、以て國恩に報ぜん。此即ち孔孟の道なり、と』



 王陽明による「知行合一」の言を誘致拜借するまでもなく、蘇峰翁の言にあるがごとく、必然、崎門學派は學問即ち行動、行動即ち學問となつて、國をも動かさむの勢ひを呈した。水戸學も文武不岐、文武一致を理念とした實學である。
●蘇峰學人翁、同、卷頭言に曰く、
『然も此間(徳川專政時代に於ける學問の興隆と各般思想の擡頭期)に於て、個人として最も記憶す可きは、江戸に於ける徳川光圀と、京都に於ける山崎闇齋だ。光圀は水戸學の開山だ。闇齋は山崎學の始祖だ。此の兩者は、互ひに交渉あるが如く、互ひに交渉なきが如く、而して有心無心の間、遂に維新大改革の鴻業を翼襄するに於て、期せずして、協同一致の力を竭した。
 水戸學の根據は、史學であつた。されど義理の詮議、王霸の區別は、朱子の通鑑網目の説に原くものが多かつた。山崎學の根據は、朱子學であつた。居敬窮理、誠意正心は、其の要目だ。されど其の治國平天下に至りては、必ずや之を史學に原かざるを得なかつた。闇齋彼自身も、日本書紀の編者舍人親王を尊崇した。而して彼も亦た修史の志が在つた。高足の門人淺見絅齋の靖獻遺言に至りては、實に史學を以て經とし、義理を以て緯としたる著述であつた一代の雄たる山鹿、熊澤諸子の説、固より看過す可きではない。されど水戸學と、山崎學とは、一川の中を、一は左岸に副うて流れ、一は右岸に副うて流れ、而して其の水勢の浩蕩、汪洋たるに至りては、一川に充溢して、更に兩岸の外に汎濫するに至つたものと云はねばなるまい。
 吾人は必ずしも、思想方面のみを重視して、他を無視するものではない。されど人類が本能の衝動に驅遣せられて、盲進する場合は兔も角も。苟くも其の自覺的大運動の場合には、必ず一種の確信一種の理想一種の信仰が、之れが主とならねばならぬ事を、歴史的事實の上からも證明する。而して人類の思想を支配する者は、人類の肉體を支配する者よりも、更により有力の王者であるを疑ふ能はぬ』と。※括弧内は野生による。



 三百年の時を經て、決して安價ならざる古書を購入し、戰前囘歸に止る能はざるして更らに己れの信ずる道統を深究せむとする、其の意氣や宜し。
 要するに、海法兄も國信兄も、病人、元へ、變人なのだ。・・・ま、病人と云ふも變人と云ふも、どちらも似たやうなもんか・・・。笑止。
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by sousiu | 2012-01-06 23:31 | 日々所感

吉い御年を

 平成廿三辛卯歳もはや過ぎ去らむとする只今、本年を振り返り、まことに多事多難な御年であつたと思ふものである。

 而、自身を省察すれば、兔角憂世憤慨を口にすれども已んぬる哉、餘りにも無力にして、いつの間にやら日々の雜用を消化することに滿足し、先づ第一に己れの勤皇の誠を涵養するに務めねばならぬのところ、誠に反省せざる可からざるの御年であつた。

 啻に日本ひとりのみならず、世界は行き詰まりを露呈してゐる。既に賞味期限のきれたものは社會主義だけでなく資本主義も然りだ。固より社會主義や資本主義だけに限つたことではない。今後世界は亂れる麻のごとく垂んとせるであらう。
 かうした時流に際して、今後日本はより苦汁の選擇を迫られることがあるかも識れない。以前、日乘にも記したと思ふが、日本人に本來宿られる大和魂が溌剌となるにはまだ少し時間が掛かりさうだ。要するに更なる試練が要せられるのだ。
 その時に、吾人の備ふ可きものは何であるか。金であるのか武器であるのか、將た又た發言力であるのか。
 來年は野生も原點に囘歸し、日本人とは何であるかといふことを學ぶことから始めたいと思ふのである。
 庶はくは諸賢、來年も、皇國中興の御爲め、御垂示あらむことを。

 吉い御年を。

                       河原博史 謹拜
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by sousiu | 2011-12-31 18:48 | 日々所感

たゞいま。  

 長らく冥想してをりました。
 昨夜、宮城縣の自稱變人・三森兄より電話をいたゞき、はつと我れに返つた次第で御座います。


 冥想してゐる間、金正日が瞑したさうだ。
 讀賣新聞の報道によれば、自由北韓運動連合の朴氏曰く、『正直言つて、やつと死んでくれたと思ふ。國營テレビで悲しむ住民らが映つてゐるが、あれは大半が演技だ』と。もしも事實ならば獨裁者に共通してみられる、あはれな末期であるといふほかない。

 嘗て支那には秦の始皇帝と名乘る、嬴(えい)政(せい)といふ者が登場した。支那の歴史が始まつて以來、最強の統一國家であつた筈の秦は、その滅び方に於ても他に例をみないスケールの大きさを示した。獨裁者・嬴政の死後、秦は足掛け三年、僅か滿廿七ケ月といふ短期間で、その版圖を跡形もなく消え失せたのである。無殘、木造建築としては歴史上最大とされる阿房宮も、嬴政の宮殿であつた咸陽宮も項羽によつて燃やされてしまつたのである。(參考文獻、司馬遷『史記』。但し、阿房宮を燃やした者は項羽ではないとする異説あり、どちらが本當かわからんが、ま、今は如何でも宜い)

 經綸を顧みることなく人心を慮ることなき獨裁政治の末路は、古今にたゞ、慘たるものである。肯定的に考へれば、獨裁政治の持つ意義は、次の英雄の出現を促す爲めのものであるのか。

 今こそ北朝鮮に拉致された日本人を救出する好機であるといふ意見が目立つ。
 拉致された方々の家族には希望が芽生え、政治家にはその期待に應へるだけの結果が求められる。結果には繋がらなかつたが努力はした、といふ事後報告だけではさう何年も胡麻化せるものではない。家族が鶴首して待望するものは結果なのである。
 但し誤解を恐れずに云へば野生はそれ丈で足れりとするものではない。今日、野生の遺憾とするは、かういふ千載一遇の機會に遭遇し、未だ日本の實力が萬全でない、換言すれば未熟、極言すれば無力であるといふことに他ならない。野生とて一日も早く被害者が、皇國の土に歸せるやう懇望する一人ではあるけれども、憚ることなく有體に申せばそれは理想の最高位ではない。拉致被害者の救出は政治家達に課せられた當面の目標であるし、率直に云へば義務だ。我れら北朝鮮と直接交渉の權限を與へられぬ者は、無事歸還をひたすら懇祈し、時にはその任にある者を激勵乃至叱責することだ。而して我が理想を申すならば、一日でも早く北朝鮮の民が再び皇謨に服し、眞の道に開眼することである。さすれば彼れらは衷心の謝罪と共に一刻も早く拉致した日本人を歸へすこと火を見るよりも明らかである。
 噫、我れらの惜しむらくは、獨裁者の歿する彼の地に日本の影響力乏しくあることだ。加之、現在の我れら日本人が、彼の國民の指導者たる可き資格も自覺も失せんとしつゝあることだ。轉じて見遣れば時期尚早、混亂を招來するであらう獨裁者の死を迎へるに際して、遺憾乍、未だ我れらに快刀亂麻を斷つ可くの實力が養はれてゐない。本來大和民族は彼の如き獨裁的國家體制・恐怖政治を容認する考へを持たない。壓迫され虐げられる民を一衣帯水の近くで指をくはへ傍觀する義なき民族でも無い筈だ。神功皇后の御偉業をみよ。
 だのに今日の爲體を看るに付け、野生はそれ啻に我れらが能力如何の問題にとゞまらず、六合を兼ね八紘を掩ふの聖敕、萬里の波濤を開拓して國威を宇内に宣揚するの大詔を必謹する姿勢そのものが弛緩してゐるゆゑと苦情を漏さずにをられない。

 大東亞戰爭に於ける敗戰は決して恥辱ではない。昭和廿年八月十五日、大詔を奉戴した我が父母祖父母の選擇は申すまでもなく正しいものであつた。誠の恥辱と呼ぶ可きは、以後の我れらが敗戰を口實に、詔を奉戴するその民族の大事を忘却せむとすることである。恐る可し、思ふ可し。
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by sousiu | 2011-12-21 00:48 | 日々所感

所謂る、道。 

 昨日は、大東會館で行はれてゐる「歌道講座」に參加。
 大行社の木川智君、仲村之菊女史も參加した。
 福永眞由美先生は、教へ方が大變御上手だ。武道の極意は刀を拔かないこと、といふ御話しなど、深い感銘を受けた。單なる歌の添削のみならず。歌を通じて、人格の形成や精神の向上、價値觀の修正に繋がるところ尠しとせないのである。
 元來、「道」とはかういふものなのだらう。技術的、智識的、能力的向上を以て足れりとするでなく、それに伴ひ見識や人格も高めることが求められるのである。と思つた。
 だから歌道講座の諸先輩は、みな、素晴らしい人達だ。それが故あつてか、「歌道講座」の空氣は迚も澄んでをり、而して、嚴肅な雰圍氣は終始一貫して漲つてゐる。數日前、我が日乘で、偉さうに銀杏道を講釋してゐた野生を恥づかしく思ふのである。落ち着いて考へてみれば、抑も銀杏道など聽いたことがない。インターネツトで檢索してみても、「同血社主人の一艸獨語」以外には、その文字が出て來ないではないか。

 木川君は、初めての參加であるにも關はらず、二首を詠んで來た。大東神社で祝詞を拜聽したときの思ひと、現在、天下の大道場にて坐する友のことを詠じたものだ。野生は、・・・恥づかしながら、聽講のみの參加であつた。赤面。

 講座が終はつた後の直會に參加。ほどなくして軍歌熱唱會となつた。大東塾では、祭事は嚴かに、直會は歌あり踊りありの賑やかなものであるといふ。先輩である菅野さんの歌は素晴らしい。その菅野さんの御指名で野生も一曲、「若鷲の歌」を。木川君は「麥と兵隊」を。
 木川君は初參加であるにも關はらず、歌を詠み、歌を歌つた。彼れは將來、有望な若者だ。
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※軍歌を熱唱する木川選手。以謂く、次に彼れの麥兵が出るのは時對協の忘年會だ。
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by sousiu | 2011-11-27 14:06 | 日々所感

平澤次郎翁の口癖に曰く、「酒でも呑まねばやつてられネエ」と。 

 昨日は日中から平塚市内で行はれた故人の納骨の儀に參じ、その後の「偲ぶ會」にも參加。
 終はり一旦、着替へて深夜まで、阿形先生の事務所で御教示を乞うた。先生は垂示される傍はら、とある祭事の自作DVDを二百枚も複製して下さつた。
 深夜と云うても、歸宅して少し待てばもう夜明けだ。阿形先生には遲くまで、本當に感謝してもし盡せないのである。
 

 ところで。「左翼にだつて、貴方達とは質も形も違ふかも知れないが、愛國心がある」といふ話しを聞いたことがある。
 それはさうかも識れない。如何なる理想にせよ、思想を以て社會を改造せんとするの志は、それ丈で、大まかに分類すればそれは既に愛國心なのかも識れない。屈折してゐるか、否か。未熟か成熟か、などの別は扠措くにせよ、だ。・・・實際、極左の機關紙に於てすら、「愛國」の文字も皆無ではないし、吾人は文科省の云ふ「愛國的教育の導入」に大いなる不滿と疑問を抱いてゐることからも、その語に拘はる理由を探せない・・・。
 野生はそれら玉石混交、雜多混在する愛國心の、一體誰れのどれが正しいかなどといふ不毛な研究や議論をする積もりは毛頭も是れ無い。尤も呉越同舟の如き「左翼にも愛國心があるをみた」なぞと與するに於てをや。
 抑もそのやうな議論はとつくに出盡してゐる。加之、結論だつて出てゐる。然もそれ、こゝ數年のことを云ふに非ず。近年で最も明瞭に判の下されたのは、王政復古の大號令である。
 野生は、「愛國心」の有無、是非を論じること欲せず。「尊皇心」の有無是非こそ、今日に議論されて然る可きだと考へる。こと政治家一人々々の點檢こそ最重要である。從つて不肖河原、たとへ世捨て人と雖も、『民主黨に愛國心があるやいなや』などといふ議論する時間があるならば、銀杏の皮を向いてゐるはうが餘程充實するといふものだ。

 斯くすれば、兎角、民主黨に「尊皇心」があるとは觀ぜられない。個人々々では居るかも分からないが野生は知らない。さうしたことに通曉される同志があつたらば、是非、御教示下さることを。
 固よりかの黨は以前から口ばつかり達者で尊皇の念、薄弱にして。であるからこそ鈴木田選手の血判状送付、國信君の斷指勸告ほか全國にある勤王一團の猛攻を一身に浴びてゐる所以であるが、この頃は、正に開き直つてゐるかのやうである。
 日本が 皇國であるといふ自覺無き者どもの執り行ふ政治は、景氣對策、エネルギー政策、外交成績等、たとひ如何なる功成さむとするも、それは精々數年間の効果、甚しくは一時的に過ぎない功利であつて、凡ては砂の上に樓閣を築いた功と均しくあると看取す可し矣。

 佛道に身を置く西行法師をして、

   なにごとの おはしますかは 知らねども
     かたじけなさに 涙こぼるゝ

 と詠ましめたほどの、神國日本の偉大を知ることが刻下、政官財民なべて肝要急務の大事なのである。

 民主黨連中による、穢らはしき言動を一々、日乘で書く氣は、さらゝゝ起こらない。そのやうなものはサンケイ新聞に一任する。
 よつて今日は蘇峰 徳富猪一郎翁の言を抄録し、野生の鬱憤を少しでも晴らさむことゝする。酒よりは身體に良いだらう・・・。


●大正十四年二月十一日「民友社」發行『國民小訓』に曰く、
日本帝國は決して其の國民に利益を分配する株式會社でもなく、又た國民は、株式會社の社員でもない。實に我が日本帝國は、世界唯一の國體を持つ、世界唯一の國である。而して其の國體の中樞は、我が萬世一系の 皇室である。故に我が國民の愛國心の根本原理は、之を 皇室中心主義に繋ぐを以て、適當の解釋と爲す。故に吾人の愛國心は、一夜作りの愛國心ではない。祖先以來幾千年の光榮ある歴史を有する愛國心である。此の愛國心は、時代の進歩と與に、其の形式を變じ、又た其の作用を變ずるも、其の根本原理に至りては、終古一定、決して搖く可きものでなく、又た動かす可きものではない』と。

●昭和三年五月廿五日「民友社」發行『中庸の道』に曰く、
『世界には、民族ありて國家なき。猶太人の如きがある。彼等は二千年來、世界の漂泊者として、他の廡下に立ち、籬邊に倚りてゐる。之を思へば、三千年來 皇室を家長とし、其下に統一せられ、融合せられ、一大家族的國家を構成し、發育し、扶植し、擴張し來りたる吾人は、世界に於ける第一の仕合者と云はねばならぬ。其の報謝感恩の心を稱して、忠君愛國心とは云ふ。
 何れも君主國でも、此心はある可き筈だ。されど或國に於ては、國君を他から招聘し來た。或國に於ては、國君が他から乘り込んで來た。其の方法は相談づくにて君臣となり、或は暴力づくにて君臣となり、若くは其他の手段にて、君臣となりたる例が多くある。然も未だ我國の如く、皇室を中心として、我等臣民それを圍繞し、家族的に國家を構成したる者は、現在の世界には、未だ一個半個だに見出さない。されば我等の忠君愛國心は、世界自餘の君主國民の心掛同樣である可きものではない』と。

●昭和四年九月廿五日「民友社」發行『日本帝國の一大轉機』に曰く、
窮極の問題は、國家の爲めに個人存在する乎、個人の爲めに國家存在する乎、にある。他の諸國はいざ知らず、我が大日本帝國としては、吾人は大日本帝國の爲めに存在するものである。此れが我が大日本帝國の信念の第一であらねばならぬ。而して我が 皇室は、實に我が大日本帝國と不可分の元首にて在す。されば吾人臣民は、皇室に向て、忠を盡す可く生存してゐるものである。言ひ換ふれば、國家に奉仕するは、皇室に奉仕する所以、皇室に奉仕するは、國家に奉仕する所以。 ~中略~
 吾人は國家を以て、高尚なる一個の倫理的團體と信ず。吾人は國家を以て、人類の發達、進歩、安寧、幸福に必須なる有機體と信ず。而して個人は則ち其の細胞にして、其の共同作用もて、此の有機體を支持す可きものと信ず。吾人は政治の倫理化を説く必要を認めない。何となれば、國家は本來の倫理的有機體にして、政治の要は、其の倫理的使命に奉仕す可きものであることを信ずるが故に』と。

●昭和十四年二月十一日「東京日日新聞社」發行『昭和國民讀本』に曰く、
『惟ふに我國には 皇室なる一大求心力ありて、一切の人も物も悉く皆な之に向つて吸集せしめた。熊襲も、隼人も、蝦夷も、凡そ我が國内にある民族は、悉く皆な一視同仁、皇室の忠良なる臣民と化し來つた。されば若しこの大なる求心力なくば、到底日本の統一は、不可能であつたと云はねばならぬ。それは決して 皇室の武威、武力に是れ由るものではない。其の威力の奧に、更らに至仁、至愛、廣大無邊の皇徳の恩被に是れ頼るものである。~中略~
 我等は日本國が其の人種の錯綜によりて、其の地形の延長によりて、其の統一の困難なるを思ふ毎に、彌々我が 皇恩の至大、至高なるを感戴せねばならぬ。乃ち我等が日夜惓々として、皇室に奉仕するは、祖先以來享受し來れる皇恩の萬分の一だにも奉報せんとするの丹心に外ならない』と。

●昭和十五年二月十一日「日本電報通信社」發行『滿洲建國讀本』に曰く、
『肇國の古に於て、天孫民族は之に歸順せる民族を愛撫扶育し、決して之を虐遇討滅などのことを爲さなかつた。總てを 天皇の大御寶として包容し、愛育して來たのである。此の事實は二千六百年の永きに亙つて、連綿として行はれて居り。我國に歸化せる總ての外來民族は、この精神に同化して、大和民族に歸一し、團結し、同じ民族意識の中に、溶け込んでしまつたのである。之れ偏へに萬世一系の 皇室を戴く、我が國體の尊嚴の然らしむるところであり、八紘一宇の皇道精神に、光被された結果である ~中略~
 我が日本帝國は、三千年來、金甌無缺の獨立國として、儼存して居る。これは我が 皇室の賜だ。而して 皇室を奉戴したる、忠良なる吾人祖先の賜だ。我等は我が皇恩、祖徳に酬ゆることに於て、決して尋常一樣の心持を以て足れりとすべきではない。特別の恩徳に酬ゆるためには、特別の奉仕を必要とする』と。

●昭和十六年十二月十五日「東京日日新聞社」發行『日本を知れ』に曰く、
『私は我國の歴史を常に研究してをりますが、政治が 天皇を中心として動く時には、我國運は常に隆盛であります。政治が 天皇陛下から離れて、他の方に移つて行けば、常に國家は亂脈になるのであります。御承知の通り、神武天皇の御時より、例へば 崇神天皇の御代、或は 景行天皇の御代、或は 應神天皇の御代、仁徳天皇の御代、天智天皇の御代、桓武天皇の御代、醍醐天皇の御代、それらの歴代の列聖の中で、最も我が 皇國の歴史の光り輝いた時代には、何れも政治上の力が 天皇を中心として動いてゐる。即ち萬機親裁の御代に於いて、始めて日本が光りあるところの歴史を創り出してゐるのであります』と。

●昭和十九年二月十一日「毎日新聞社」發行『必勝國民讀本』に曰く、
日本は 天皇のしろしめす國土なれば、之を 皇國と稱するは當然であり、人民は 天皇の臣民として、祖先以來繼續し來りたるものであれば皇民と稱するは當然である。同時に 天皇は現身神に在はし、現身神のしろしめす國であれば 神國と云ふべく、又た 神國に居住する我等は神民と稱するも、決して不遜ではあるまい。~中略~
 我等に大切なるはただ此の 皇國と皇民との自覺である。日本國の前途はたゞ此の 皇國、皇民の自覺如何に依つて之を卜することが出來る。苟くも我が皇民にして、極天皇基を護るといふ三千年來の臣道を遵奉實踐するに於ては、平和の時も戰爭の時も、安樂の時も、艱難の時も、如何なる場合に於ても日本國の運命は萬々歳である。即ち今日の難關を突破するに於て何かあらんやである』と。
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by sousiu | 2011-11-21 23:52 | 日々所感

銀杏道 番外篇  

 筋肉痛も和らいできた。昨日、今日と、銀杏の果肉向きに專念してゐる。
 これで思ひ殘すことなく、今晩から文章報國に取り掛かれるといふものだ。

 先日のコメント欄に記したとほり、以謂く、銀杏が高價であるのは、その收穫後の手間の爲めである。
 果肉をとる作業は本當に手間の掛かる作業である。
 先日、はからずも平澤次郎翁に御會ひしたことは既に述べたが、その際、翁の御忠告に曰く、
 「その銀杏を觸つた手で小便するんぢやねえぞ」と。理由を尋ねるに、曰く、
 「乃公は前に銀杏の皮を觸つて小便したら、こ~んなに金●が大きく腫れてしまつて自分では如何ともし難く、泌尿器科へ行つたよ。待合室は性病の連中ばかりだし、平澤次郎、二度とあんな恥づかしい思ひをしたくはないよ」と。
 これで御分かりだらう、先日掲載した翁と野生の寫眞に於ける、翁のあの手振りは、御自身の●玉の大きさを野生にくはしく説明してゐる場面である。引いては、野生の身を案じて眞劍に注意を促さむとしてをられるその瞬間だ。おゝ、焉んぞ時對協の師弟愛と云はざる可けむや。野生はこの一葉を見る度びに、師を持つ己れの光榮を都度、實感せざる能はぬのである。

 熟々思ふ銀杏道は本道に荊の道であることを。キツイ・キタナイ・キケン・クサイ+●玉の5Kを伴ふものなのである。

 だのに虚け者氏のみならず、先日、神奈川の某先輩からも「君の日乘、下らないことばかり書いてあるなア。先哲寶文も愈々ネタが竭きたとみえる」と云はれた。
 何をか云はむ、侮る可からず。道に生くる者こそ、前囘、前々囘の銀杏結社項に、理會するところ多くあらねばならぬ。これでは野生も意を決して瑞●塾總本部に果肉付き銀杏を郵送せねばなるまい。

 みよ、さきたまの女傑も又た、克苦精勤、隣組の精神を遺憾なく發揮してをられる。↓↓
 http://yaplog.jp/yamato00/archive/745
 

 さあて、愈々言ひ譯も竭きた。今日から執筆活動だ。
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by sousiu | 2011-11-18 13:52 | 日々所感

現代的保守派の集會と傳統的右翼の祝賀會  

 六日は日比谷公會堂で行はれた、「けんむの会」主催の國民大集會及び大行進に參加。
 「けんむの会」なる一團を、野生は能く識るものではないが、南出喜久治氏やチヤンネル桜の水島総氏などが加はつてゐるところをみると、つまり今に云はれる保守派の一つなのであらう。
 案内状には、「錦の御旗けんむの会」と書いてある。錦の御旗?う~む・・・。

 陣營の先輩から誰れでも參加出來ると誘はれたので、興味本位で參加したのであるが、會場に行けば、諸先生や諸先輩、知人ばかり。これ、誰れでも參加出來るといふより、主催者側が我が陣營に動員を願ひ出たものではないかな、と思へなくもない。

 さて。一々、日乘で批判する積もりは毛頭ないが、全員坐させたまゝ、詔を暗讀・・・然も間違ひは一度二度ならず、ツマリは終始に及ぶ・・・したり、おそれおほくも「天皇をお守りする」と。野生は、常、否、肇國以來今日に至り、而して永遠にわたり、國民が 天皇陛下に御守護されてゐるといふ自覺に基くので、かうした主張には首を傾げざるを得ない。時局や戰略、或いは法律論に就て彼れらは優れてゐるかも識れないが、九重に對します謹愼たる心ばへに於ては、右翼陣營の諸先生や諸先輩のはうが遙るかに學んでをられることを改めて知らされた。まア、●●の保守、仕方ない。


 その後、同血新聞社二名はそのまゝ大行進に參加し、野生は河野敏明君と共に「大日本生産党結黨八十周年記念 交流懇親會」に參加する爲め、日本青年館に向かふ。こゝでは諸先生が内田良平先生に就ての御話しや足跡、或いは、皇國中興に對する衷情を發せられた。
 珍しく福永武兄も祝辭を述べられた。會場を覆ふ、見ゆる能はぬけれ共、確かに存在するこの何とも云へぬ空氣が、やはり野生は好きなのである。
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 寫眞は黨首の阿部右善先生。寫眞をみて御解りか、生産黨の黨旗が僅かに、日の丸より小さく作られてゐる。啻に寸法上のことに留まらず、かうした謹愼たるの姿勢が、「錦の御旗」を自稱することよりも全然大切なことなのである。

 餘談であるが、今度びは醉つた三澤浩一先輩に絡まれ、御説教を受けた。野生がこの先輩から御説教を受けることは決して珍しいことではない。何せ三澤先輩は「河原をヤツける會」の實質上の責任者だ。
 だがこの日の御説教は、頗る考へさせられた。アルコールの入つた鹿島先生、三澤先輩の御説教は殆ど説教の名のみで實がない。だが、稀れに胸にズンとくるものがある。それは百ある説教の内に一つくらゐの極く僅づかなものであるが、その一つが、驚くほど效く。
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by sousiu | 2011-11-08 14:01 | 日々所感

動かぬ香車ですが・・・・  

 陣營の集會や行進は、進行や仕樣がそれゞゝ異なる。整列するところとしないところがあり。出動服着用、或いは不可、どちらでも可といふところも尠くない。
 どれが宜くてどれが宜しくない、なんていふものはない。自分達の行つてゐるものより宜いものがあれば、それを吸收するかしないか、である。肝心なことは、他の宜いものを認める力と吸收する力を養ふことであると思ふ。
 それとは別に、野生が他の縣で開催される運動に參加する際は、その土地柄とでも云ふのか、瀰漫する空氣とでも云はうか、それを肌で感じることを忘れない。これまたどの縣が宜くてどの縣が宜しくないなんていふこともない。それゞゝの雰圍氣の良所を學んで歸へるのである。
 さういつた點に於て、宮城縣陣營の雰圍氣も又た、多く學習する點がある。皆で陣營の基盤を沃土たらしめんと努力し、若者の成長を促す爲めに團體の別を越えて暗中模索してをられる。かうした努力が軈て實りあるものとなれば、若しかすると、三年後、五年後、十年後には宮城縣は人材の寶庫となるかも識れない。
 中々人は自分一人で育つことは困難だ。けれ共、「擧國一致」を訴へる人達が、たとへ右翼といふ限定された一つの世界であれ、限定された一つの縣に留まるにせよ、かうして夫々が自づと自分の持ち場職場をすゝんで全うし、分擔され、一丸となるに至れば、若者はその環境の中で屹度、伸び伸びと育つてゆくに違ひない。如何なる優れた種子でも岩の上では發芽すれども木にならず、沃土ありてこそ巨木となり得るのである。
 その一人が青年意志同盟青水塾の廣田大介氏(通稱、棟梁)だ。彼れは五年ほど前に青水塾に入塾。野生はその頃から彼れを識る一人であるが、自ら、人前で話しをすることが苦手だと云ふやうに、確かに口數尠く、話せば口下手であつた。

 ところが今度び仙臺での演説大會で、野生が街宣車に引き籠もり、久し振りに棟梁と話しをしてみると、これが又た面白い意見の持ち主で、更らに流暢に弁じ、彼れの主張凡てに於て同意出來る出來ぬは措くとして、その一所懸命物事を追求しようとする心意氣には感心せざるを得ない。嘗て人前で話しをすることが苦手だ、と云つた棟梁では無かつた。これも坂田氏を筆頭とした青水塾の土壤あつたればこそ、のものか。
 いかんせん、野生の尤も苦手な唯物史觀の話しや科學の話し。迂闊にも押され氣味となつてしまひ、このまゝ押され放しで歸つては關東軍の沽券に關はると木川智選手を招き、彼れに全てを託した。棟梁、木川選手と氣が合つたのか、更らに辯舌爽やかとなり、暇になつてしまつた野生は、今度は山川裕克兄を呼んで彼れと銀杏の話しとか、あまり覺えてゐないが、兎に角記憶に無い程度の話しをして時を過ごした。
 演説大會であるといふのに・・・。かういふ河原のやうな輩が、維新の駒の飛車角を、一トマスづつしか動けぬやうにしてしまふ不屆き者なのである。反省。
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↑↑皆に付き合はつてもらひ引き籠もつてゐるの圖(於:義徳塾街宣車、撮影:赤心義塾澤口真司氏)。多分野生の目の錯覺だとは思ふが、野生以外は皆樂しさうぢやないな・・・・・。



 ・・・こんな四隅にあつて、終始、動かぬ香車の如き野生に對しても、飛車角のやうな木川選手は優しい。彼れの日乘で、野生の日乘を宣傳してくれた。彼れは軈て、飛車から「龍王」に、或いは角行から「龍馬」となるかも識れないのに、精々「成香」にしかなれない野生を立てゝくれた。彼れの優しさに對するせめてものお返へしとして、野生は又た銀杏を拾ひに行かねばなるまい。
 啻に木川選手のみならず、今の求學求道に專心する若者には飛車角が多い。野生は四隅でぢつとしてゐる香車かも識れないが、尠くとも敵に奪はれて敵に左袒するやうな愚か者ではないので、それ丈は安心して欲しい。
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by sousiu | 2011-11-05 15:56 | 日々所感

變人襲來。  

 昨夜は、坂田昌己君が來訪。現場仕事を終はり、遊びに來たと云ふ。
 遊びに來た、と云うても、仙臺から新幹線で來たのである。朝方まで語り、先程起きると、既に布團はもぬけの殼、彼れがゐない。仕事があるので仙臺に歸つたといふ。滯在時間は僅か數時間。第三者からは、よくゝゝ大事な話しでもあつたかと思はれるだらうが、全然さうではない。彼れの妖しげな結界の話しを拜聽した丈だ。
 坂田君の來訪を聞きつけた愛倭塾、山口會長と小林君がやはり昨晩、來訪し、神奈川縣維新協議會の變人、海法君も加はり、拙宅は正さに變人の巣窟と化したのであつた。極めてマトモな野生としては、頗る息苦しい空間であつた。世が世、新撰組に乘り込まれたならば、みな、斬り殺されたであらうな・・・。
 昔、TBS(だつたと思ふが)、『密着!少年右翼』といふ番組で、未だ廿歳の相原修兄が、「本當ならばかういふことをやつてゐる僕が女の子に圍まれてモテヽヽでなければいけないのですけれどね、全然モテないのと一緒で・・・」と世の中のアベコベを訴へて居た。こゝ數年來、女の子との會話など、買ひ物をする時に店内の女の子から「いらつしやいませ」と云はれるくらゐ。見渡せば、一風變はつた漢(をのこ)ばかりだ。今更ら乍ら、相原兄のボヤキが痛いほど分かるのである。
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by sousiu | 2011-10-30 14:06 | 日々所感