カテゴリ:日々所感( 142 )

自己逃避と自己鬪爭  

 オタク生活が始まつた。
 機關紙の執筆作業に時間を縛られる生活である。
 今日、午前中までの成果は一頁分。コツヽヽゆくしかない。

 先日參加した、既報の「歌道講座」で福永眞由美先生から、歌を學び、詠むに就ての留意す可きいくつかの點を御指導いたゞいた。心得る可きことを少からず御教示いたゞいたのだが、そのなかで野生が筆頭とも解釋したものは、
「飾らない、言葉のテクニツクで良く見せようと思はない」
といふことだ。
 三思せば、これはひとり歌の道のみに非ず。機關紙の文章も然り。人間關係も、而、己れの道に對する姿勢に於ても、他ならぬ人生に於ても相通ずることだ。

 先生は、背伸びをしないこと、理屈は云はないこと、格好を付けないこと、と。
 日本人は格好を付けないのに格好良いのが本道に格好良いことなのよ、と仰つた。う~む・・・。目から鱗の落ちる思ひだ。
 とかく、言ひ譯をしたり、自分の身の丈以上の事を望んだり或いは言を發したり、又たは屁理屈をくどゝゞ述べたり、とは自分を成長させる爲めの努力を怠ることの方便に過ぎないのだな。つまり、自己との戰ひを逃避した、云はゞ敗者の常套手段だ。
 先生は、急がずとも、先づはありのまゝの自分を曝し、その自分を認めた上で、且つ努力を怠らないことが大事と説かれた。それが何につけても正しく成長するといふことなのかも識れない。確かに人の年を重ねるといふことは、自分との戰ひの連續をいふのかも識れない。

 上手な人が字餘りを以て更らに歌に深奧なものを加へるらしいが、始めから五七五七七といふ法則から逃げ出し字餘りも可と思ふことはならない、とも教はつた。ふむ。確かにこれも逃避だ。先生曰く、「最初から逃げることを考へずに、收まるやうに苦しんで苦しんで苦しみ拔いてこそ得られるものがある」と。

 野生問ふに、「次囘までに歌を收めねばならぬとの由、もう少し時間の猶豫をいたゞき、御講義のみ拜聽するわけにはまゐりませんか」と。
 先生答ふるに、「覺えるといふことは自分との戰ひ。苦しむことを避けて延ばし延ばしして勝つことは出來ない」と。
 愚問賢答とはこのことだ。かうして文字にすると流石に恥づかしい。汗。

 正直な氣持ちを著はして、それで何か缺けるものがあるとするならば、それは自身の及ばぬがゆゑだ。
 大人になる程に、人は穢れてゆくものなのだらうか。日々、他者に對して、廣汎な意味での義務に對して、道に對して、いやさ自分に對してさへも言ひ譯や理屈を捏ねくり廻して正當化しようとしたり、同情を頂戴しようとはかる人がある。知らず識らず、野生にも、さうした一面があるかもわからない。若しかすれば、社會に出て、他者や世間との戰ひには負けじと思うても、自分との戰ひからは逃避してしまつてゐるのかも識れないな。それによつて蓄積する自己の穢れが、人をして自己矛盾や葛藤等の多くを生ぜしめるのかも識れない。大人になるにつれ、人交際や世渡りのテクニツクを覺えて、それを驅使することで利口だと考へるのは大きな間違ひで、實は幼な子にも劣る馬鹿になつてしまつてゐるのだ。福永武兄の、幼いころの歌を拜聽したが、確かに美辭麗句は皆無で、されど何やら感じるものがあつた。

 機關紙を執筆しながら先日の「歌道講座」を思ひ返してみたことを記した。
 野生が土曜日に、機嫌の宜くなつた理由は、目から鱗が落ちた爲めだ。
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by sousiu | 2011-07-18 18:06 | 日々所感

兎ぢやなかつたよ  

 本日は晴天ナリ。・・・こゝのところ毎日晴天だけど、たまには書き出しに變化を付けたくて・・・笑

 今日は、頗る機嫌が宜しい。
 と、いふのも、大東會館で行はれてゐる「歌道講座」に出席した爲めだ。
 詳しくは、同講座で福永眞由美先生の御話しを拜聽し、歌道の入り口を覗いた爲めだ。
 五七五七七を通じて、かくも人格を養成する作用があり、同時に尊皇の精神が涵養されることを初めて識つた。それが新鮮で、そのやうな世界があつたことを知り、嬉しく、氣分が良いのである。

 弊社門下生の中野君と大東會館に向かふ途次では、まるで獅子の住む檻中に抛られる兎の心境であり、加へて會館に着くと野生を誘つた福永武大兄はをらぬといはれるし、寂しいと死んぢやうといはれる兎そのものゝ野生であつた。
 だが、講座が始まると、先生の懇切叮嚀な御指導で、徐々に河原は兎ではなく、人間であることを思ひ出し、而もおぼろげながら草莽微臣であることの自覺が出て來た。

 まだ何も分からぬのであるが、兎に角、今日からピカヽヽの一年生。伊勢神宮に於ける式年遷宮の如く、人生、たまには一年生になるのも宜し。
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※入り口。撮影:河原(兎時の)
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by sousiu | 2011-07-16 20:55 | 日々所感

批判の時代は終はつたんぢやない?と思つてみた。 

 一昨日深夜の鹿島さんとの會話で思つたことがある。
 ・・・唐突な書き出しで申し譯ないが、まア、日乘なので、勝手氣儘な振る舞ひも惡しからず・・・

 東北地方の復興が遲々として捗らないことは罹災地の方々は固より、純粹に義援金を投じた人も、又たは遠くより見守つてゐる人、結局は全國民の憤りを覺えるところだ。
 放射能汚染もさうだ。最早隱し難きものが出る可くして徐々に露見され續けてゐるのか、或いは實際に被害が擴散し止む能はぬのか、若しくはその兩方かはわからぬが、日毎に被害は顯はとなり、而、甚大となり。食生活は地域の別なく脅され始めた。食糧に對する不審は全國平等となりつゝある。いや、野生はこれに不平を申す積りは更々無い。かの大變を東北地方のみとす可きでなく、國家國民の共有す可きものと考へる點から云へば、これに不平を云ふこゝろは毛頭ない。國内隈なく大難に見舞はれてこそ大難であり、維新の氣運はこれを以てして上昇するのだ。
 ともかく、これ以上、食糧、水、大氣の汚染が擴散されれば、正に現代は安政とダブらせて看ることが出來る。
 安政は、二年に江戸大地震が出來した。
 次いで安政五年、虎列刺病(コレラ、當時はコロリと云つた)が大流行。江戸だけで十萬人の犧牲者を出したと云はれる。まさしく地域の別なき點に於ては、平成の放射能汚染擴大は安政の虎列刺病大流行みたいなもんだ。安政は、嘉永六年の彼理(ペルリ)襲來、即はち外患を引き連りつゝ、まさしく國難に次ぐ國難の連續であつた。


 閑話休題。鹿島さんとの會話で思つたことはこゝからだ。
 かうした現在、國民の不滿や不平、不安はひとしほ募つて當然だ。だが、政府や東電に批判を何萬語ブツけてみても、現實的に復興が成されるわけではない。放射能汚染が物理的に寸毫も息むわけではない。餘りにも大難の度合ひが巨大過ぎて、そして複雜過ぎて、批判で世直しをしようにも、それは恰も波濤に向かつて砂丘を築くかの如くあるのだ。
 つまり、批判のみを繰り返してゐても、全くと斷言せざるまでも、凡そ結果には繋がらない時代であるといふことだ。
 尤も現実的に看ても、既に我が國の危機的状況は、批判で如何斯う成る段階では無い。この場合ひの「危機的状況」とは被災地に限定した狹義ではなく、日本全體を指して云うてゐるのである。勿論、自虐に就ても同じ事が云へる。自虐を繰り返してみても、復興は成されないし放射能漏れは止まらない。而して我が國の危機的状況は自虐すれば如何斯う成る問題では無い。

 破壞は建設を生む。いや、破壞の後には建設が生まれなければならぬのだ。希望的破壞は後に建設あつてこそ然る可きだ。建設の豫定も實行もなき破壞は、つまり絶望的破壞だ。
 而、今の度びの天災は人災を伴ひつゝ大なる破壞の役目を擔當した。さらば批判と云ふものに「砂漠に水」「糠に釘」とまでは云はんまでも、無力感や疑問視の生ずるは、寧ろ、當然の歸結と云ふ可きではあるまいか。斯うした無力感とまでは云へないまでも、飽和に近しい氣分が蔓延されると、次に俟たれる可きは次代へ引率する力強く逞しき救世主の出現である。日本で云ふ救世主とは他でもない、純乎たる勤皇家のことである。
 結論を云へば批判の時代は終はつた。三月十二日以降は建設の時代である。・・・と斯う考へてみた。

 では建設とはナニか。我々は復古維新を指して云ふのである。つまりこれを更らに具體化し、それだけではなく、實行化してゆかねばならぬ。それに就ては野生の場合ひ、恥づかしながらまだゝゞ學究す可き餘地が相當にある。
 鹿島さんとの會話で氣付いたことだ。早速このやうなことをつらゝゝ記して、野生にとつて頭痛の種たる「芳論新報」の原稿を今終へたところ。苦笑。

 おやすみなさい。


※追記・確認したところ、安政五年のコロリの犧牲者數が間違つてをりましたので訂正致しました。九時五十四分以前に御高覽くださいました人へ、御笑恕あらむことを。
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by sousiu | 2011-07-15 08:28 | 日々所感

猶存社  

 昨日は藤澤市の舊友諸兄と久々に歡談。
 終はり夜に實家へ行き、母の世話をしてそのまゝ泊まつた。

 さて深夜。猶存社の鹿島政晴さんより電話あり。鹿島さんは青年思想研究会の副議長も努める陣營の大先輩だ。
 知る人ぞ知る、深夜の鹿島さんの電話は出るな、と。それには理由がある。平澤次郎翁に輪を掛けた酒飮みで、一度電話に應じたが最後、絡まれてなかゝゝ電話が切れない。酒客といふほど大人しいものではなく、酒仙といふほど風流でもない。いづれにせよ、呑んだら始末に負へない先輩だ。
 着信履歴が殘つてたもので、うつかり電話を掛け、鹿島さんへの呼び出し音を聽きながら、上記の事實を思ひ出したのだ。
 因みに小生は、以前、醉つた鹿島さんから、電話で一時間半も謂はれなき御説教をいたゞいたことがある。

 だが珍しいこともあるもので、電話の鹿島さんは醉つてはゐなかつた。
 「ブログ見てゐるよ」と。次いで、國難を迎へて今日の日本についての御話しであつた。時代の變革を感じ、今後何をす可きか眞劍に考へる必要がある、と。
 酒の切れた鹿島さんからは學ぶところがある。
 思ひ返せば、鹿島さんは若かりし頃、横須賀のミツドウヱイ入港に際して抗議文と刃物を持參し市長に面會。まだ若き田丸美寿々女史による横須賀市長のインタビユーに亂入し、テレビカメラの眼前で堂々、民族の良心を訴へ現行犯逮捕された。以前は繰り返へしその緊迫した始終の樣子がテレビで放映されたものだ。


 ところで猶存社といへば、尠からず小生の興味を引いて已まない大川周明博士が中心となつて設立された團體だ。
 博士の著述は多く、『國史概論』『日本的言行』『大東亞秩序建設』『日本精神研究』『米英東亞侵略史』『日本及日本人之道』『亞細亞建設者』等々、小生も以前、すゝんで拜讀した。まだ讀んでゐないのが、大川周明博士の『清河八郎』。如何しても讀みたいのだが、殘念ながら未だ入手出來ない。

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 民族や、國家を思ふ時、小生にとつて印象深い一節がある。
 ●大川周明博士『國史概論』(昭和四年十一月廿日「文録社」發行)序に曰く、
 『國家主義・國民主義を奉ずる者に對して挑まるゝ議論は、常に下の如きものである。曰く「人は第一に人間であらねばならぬ、人間たるの根本が立つて、初めて國民たることも出來る。それ故に日本國又は日本人といふことに固執するのは、決して眞個の人間となる所以ではない」と。此の主張は、一見甚だ道理あるが如く見えて、實は抽象的斷見に陷れるものである。試みに問ふ、いづれの處にか櫻に非ず、梅に非ず、牡丹に非ざる「花」があるか。花は一個の理念としては存在する。而も此の理念は、必ずや櫻・桃・梅・菊等の特殊の花として咲き出づることによつて、初めて實在となるのである。それ故に梅花は、梅花として咲く以外に、決してたることが出來ない。梅花として咲くことによつて、の理念が初めて實現せられ、花の花たる所以が發揮される。こは正しく人間の場合に於ても同然である
 拒むべきもなき事實として、一切の人間は必ず孰れかの國家又は民族の一員として生れて來る。日本人に非ず、支那人に非ず、米國人にも非ざる「人間」は、實在としては決して存在しない。そは唯だ一個の理念として存在するだけであり、而して此の理念は必ず民族又は國民として實現される。故に日本人は日本人として、米國人は米國人として、それゞゝの面目を發揮することが、取りも直さず人間の面目を發揮することゝなる。從つて眞個の國民となりてこそ、初めて眞個の人間となり得る道理である。吾等日本國に生れたる者は、第一に日本人であらねばならぬ』と。(太字は原文マヽ。赤字は小生による)

又た、
●猶存社、鹿島政晴先生曰く、『河原お前、酒も飮めなくて何が右翼だ。バカヤラウ』と。
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by sousiu | 2011-07-14 19:54 | 日々所感

時間の窓  

 本格的な炎暑襲來だ。皆さんは如何御過ごしか。
 かう暑いと、冬が懷かしく思つてしまふ。冬になれば冬になるで、夏を戀しく思ふもの。昨年の冬も恰度今頃の季節を待ち望んだものだ。即ち、無い物ねだりといふか、要するにワガマヽ主義なんだな。

 だが時局までをもかうした無い物ねだりやワガマヽで看て、語つては困つたものである。
 個人主義に汚染された觀念の土壤で、かう思ふ、さう思ふ、と云うてもそれでは一向に收拾が附かない。
 表層では右を裝つて居るか、左を裝つて居るかの別こそあれども、骨髓に個人主義や西歐思想、或いは淫祠邪教の病魔を患つては、結局は思想の混亂を招く丈である。社會に對する不滿や不平は盡きることがなく、如何樣に日本が變はらうとも、絶えず民衆の不滿に耳を貨さなくてはならないことになる。個人崇拜の民主主義がいつまでも完成しないのは、この缺陷を内包して居るからだ。

 然るに、我々は我々の立場で時局を語るやうでありたい、といふ考へにも小生は不承知だ。
 時局を睨み、語り、改變の道順を摸索する爲めに必須なるは、「日本人としての正しい目、耳、口」があるかないかだ。
 左翼にはこの場合の「日本人として」の目・耳・口を持たない。持つ氣もない。右翼としての立場や、左翼としての立場や、政治家としての立場なぞ如何でも宜しい。
 從つて、政、官、財に向けて不平を漏らすのであれば、その前に、先づ、おのづから眞正日本人としての相應しい目、耳、口、觀念を養ふ必要がある。要するに、尊皇の精神を固うすることなのだ。

 野生は時局對策協議會の末席に連なつて居る。讀んで字の如く、時局問題の對策を協議する會合だ。
されど我々は時對協の一員である前に、右翼の一人である。而して、右翼の立場を有する前に、日本人である。
 これを忘れて時局のみに眼中捉はれ語らむとすれば、「前進」や「解放」の論調と變はらなくなることも已むを得ない。
 尊皇なき右翼(尤も、彼れらは右翼勢力を勤皇一團と認識してゐないのかも識れないが)のなかには、時局の收拾・對策のみに心を奪はれてゐるものもあるらしい。日本人としての眼力・聽力を失ひ、合理性のみを求めれば、反日左翼と握手して、而、隊伍を組み、運動するはうが效果的の場合ひもあるだらう。だがそのやうな運動では、夏になれば冬を欲し、冬になれば夏を戀しく感じ、永遠に繰り返してしまふ丈だ。

 近年の保守派を稱する人達は、本道に時局問題に詳しい。それは感心する。
 尤も情報化社會なので、それを十二分に活用しないテはない。
 だが、彼れらは、所謂る開放された空間(二次元としての)の窓を覗くことには巧みだが、時間の窓を覗くことには苦手らしい。精々が大東亞戰爭の是是非非までだ。GHQは、彼れらの占領政策に於いて、この時間の窓を堅く閉ざすやう強要したのだな。思へば民族にとつて、これほどまでに殘酷なことはない。だが今は占領期ではない。再び時間の窓が開放されたのであるから、往來しないテもないのである。
 決して國史を繙く作業を惜しんではならない。國史は 皇史そのものだ。「神皇正統記」「大日本史」「日本外史」などを拜讀すれば、正に國史が即 皇史であることを識る。
 古今、眞性の保守派と呼ばれる人で國史を輕んじた人は皆無だ。國史を輕んじた評論家は如何に保守派としての立場を有するとも、皇史を忽諸に付する左翼と大なる相違もなく、云ふなれば腹背ではなく、皮一枚の別だ。それはさうだ。戀闕といふものを全く識らないからだ。

 であるからして野生は目下、眼病を患はぬ爲め、難聽とならぬ爲め、心病に苦しまぬが爲め、遲まきながら猛暑に夏の宜きを識り、嚴寒に冬の宜さを識らうと修行に日々勵まうと思ふのである。
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by sousiu | 2011-07-13 20:10 | 日々所感

三田忠充之命神葬祭參列 

 七月十一日。菊水國防連合・三田忠充之命の神葬祭に參列。
 棺のなかで、まるで寢てゐるかのやうな顏をしてゐる三田會長をみた。神奈川縣に於ける、野生の好きな先輩のひとりであつた。

 三田會長は、弊社發足以前からの先輩であり、弊社發足時にも大變御世話になつた。
 近年は中止してゐるが、野生主宰のバーベキユー會も、毎年炎天下のなか、三田會長は自ら大勢の同志を連れて參加してくれてゐた。
 野生が共産黨の旗を毀損して逮捕され、その釋放時、三田會長をはじめ大變多くの同志が地檢前で出迎へてくれたこともあつた。たかゞゝ廿二日間の拘留であつたが、それにも關はらず三田會長が呼び掛けをしてくれ、五十名もの同志が門前に出迎へてくれたことは、何よりも嬉しいことであつた。
 後輩に對して實にかうした心遣ひをしてくれる人であつた。本道に色々なことが思ひ出される。

 我が陣營には實に樣々な人があり、演説が上手な人、文章に巧みな人、求心力のある人、刑務所を別宅のやうに考へられる人、物知りの人、先賢の明に富む人、求學熱心の人、信仰の深い人、後輩の養育に巧みな人。いろゝゝな人があつて、それゞゝの得意とする分野が糾合されて、大きな力たり得るのである。
 例へば一國の防衞を可とすべくは、陸・海・空軍の總力戰である。個々がバラヾヽでは、夫々如何に有能であつても一國を護り拔くこと期し難い。固より如何なる才能に惠まれても、目的に向かふの熱量が乏しくては、それは無能に均しい者であることは云ふまでもないが。

 さういふ點では、三田會長には三田會長ならではの持ち場があり、さういふ御陰で學ぶことのできた野生や多くの後輩達がゐて、而してその持ち場を貫くことには嘘僞りの無い人であつた。
 神奈川のみならず、陣營にとつてもまことに惜しまれる存在であつたことは云ふまでもない。
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by sousiu | 2011-07-12 23:55 | 日々所感

道の深奥なるを識る。  

 昨日は時對協の定例會があり出席。
 參加者が多く、室内は留置所の如き狹さであつた。
 遲刻した小生、籍、いや席すら既に無いと思うたのであるが、どうにかあつた。
 この日は、洗心會の島田・小林兩兄が初登場。さすが國信氏の門をくゞつてゐるだけあつて、初參加であるのに臆することなく、發言も堂々たるものであつた。

 兩兄の歡迎會を名目にした二次會に參加。
 木川選手と靈的國防について意見交換。
 最近、小生も關心をもつて勉強してゐるものだ。↓↓↓參考↓↓↓
 ■靈的國防の本義 拾遺  http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t28/l50

 以前、九段塾の管理者である備中處士樣から數册の教本を賜はつたことがある。内容が六カ敷くあつて、なかゝゝ吸收しきれなかつたが、こゝへきて、大切重要であることに氣が付いた。目下、研學の日々を送つてゐる。先進のスヽメには留意すべきものがある。

 靈的なものに關して、輕々しくネツトで引用す可きでない旨、嚴重なる御忠告を賜はつたことがある。御忠告はかたときも忘れず。尤も未熟にして、抄出するだけの眼力も見識もないのであるが、先日拜讀した典籍の中から差し支へなきものと存して、謹んで拜記したい。

 河野至道大人、『神仙の存在に就て』(昭和十三年六月廿五日「神道天行居」發行)「眞■(言+告=こく)」に曰く、
神は太陽の如くにして精は太陰の如し。元と精は陰なりと雖も神を纏ふ。故に神の光を受けて倶に陽氣あり。此の陽氣より又た陰陽生ず。人間のみにはあらず萬物これに均し。此の神精を見んと欲せば卵を割て見よ。黄赤なるは神、自身は精也。併し是れも割ては死となる。故に誠の神精にはあらず。誠を見んと欲せば割らずして見るべしと云ふ。然るに割らずして見ること得がたし。其訣(そのわけ)はと問へば、見ること得がたしと思ふ筈也。併し卵を割らず見る眼なくば誠の敬神とは謂ひがたしと云ふ。尤も余は未だ修行中の事ゆえ誠の敬神には至り申すまじく、去りながら此節にては御講義も絶えず聽聞、又た神を敬することは旦(あした)に醒めて夕に臥するまで忘るゝこと無し。それにても誠の敬神にあるまじくやと答ふれば、その旦に醒め夕に臥すまでの敬神は人竝の敬神なり。夕に臥して旦に醒めるまでの間も夢に敬神を見よ、此修行至るに及んでは己が寢姿迄も夢にて知る。又た時々刻々魂の居所替らんとするを知る。是れを知て己が腹中の世界を知る。此世界にも住み給ふ神あり。日月星の世界に住み給ふ神のみには非ず、己が身中にまで神住ませ給ふ事を悟るべし。依つて神精を見るには卵を割らずして見よとは此譯也。己が腹は割り難し、たとひ割て見るとも死したる屍には魂なし、故に生きたる身中を見て知るべし。魂は神精一つなりと雖も精化して神となる』と。

 固よりわからないことだらけであるが、最近は迚も充實してゐる。
 輕薄に聞こえるかも知れないが、識る、といふことは實に樂しいことだ。上手に云へないが、この場合の「識る」とは「知る」のはうではない。
 道の深さを識らされる毎日である。
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by sousiu | 2011-07-08 04:25 | 日々所感

電子書籍つてどうなんだらう

 北九州に據點を置く殉国青年塾が機關紙を發行するといふ。創刊號に寄せる文章を依頼され、今朝、脱稿。
 小生、晝間に原稿を書くことが出來ない。夜のはうが靜かで、滅多に人と話すこともないから集中出來るのだ。結果、徹夜となり、朝を迎へる。
 今朝は寢ようと思つたら若干の搖れを感じた。東北地方では震度五弱であつたとか。
 大地の鳴動もなかゝゝ收まらんな。

 晝には起きて都内へ。今歸宅して、これから少々假眠、その後、鎌倉へ行き、戻り又た執筆だ。


 こゝ近年、機關紙を發行する團體が頗る増えた。大變宜いことだと思ふ。
 こゝでいつもの如く、蘇峰 徳富猪一郎翁の言葉を拜借し、『文章報國』について記したいと思ふのだが、何處にその文章があるのだか容易に探すことが出來ないので諦めた。蘇峰翁の書籍だけで三百册はある。

 ところで、インターネツトがこれだけ普及してゐるのに、何を今更ら「機關紙」乎、と思はれる御仁もあらう。
 だが、やはり紙の文化は見捨てたものではない。

 保管場所に困り、持ち歩く不便を解消せんとするかの如く電子書籍が話題となつた。
 だが話題を集めたその電子書籍も、期待されてゐたほどの成績でもなく、現在、伸び惱みであるとの報道を目にした。
 電子書籍に不滿のあるユーザーは、書き込めない、讓渡や貸し借りが出來ない等々の缺點を擧げてゐるとか。
 又た、古書マニアでは、初版に價値を認める人がある。初版とそれ以降とではまつたく値段が變はつてしまふものがあることが、それを裏付ける。電子書籍にはさういつた價値認識も無い。


 當日乘で書いたのか、何處で書いたか失念したが、小生、電子書籍には一切興味がない。

 小生の凝る和本であるが、ヤフーオークシヨンなどで、和本の電子書籍が販賣されてゐるのをみた。
 これつて、和本の良さがあるのだらうか。然もスキヤンして、後はコピーするだけだといふのに値段が高い、吃驚だ。小生なら、DVD代と送料のみで送付してあげるのに。
 酷いのになると、實際の和本より値が高く賣られてゐる電子書籍があつた。それにも關はらず、落札者がゐるのであるから理解に苦しむ。單に安い和本を探すのが面倒なのか、それとも分かつてゐながら、敢へて値の高き電子書籍のはうを選んだのか。
 後者だとするならば、一體何んな魅力があつて電子書籍を選んだのか皆目見當が付かない。まさか和本は古くて汚いけれ共、電子書籍は清潔だから、といふのでもあるまい。
 いやはや、それもこれも小生がアナログ人間であるといふことか・・・。
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by sousiu | 2011-06-23 19:36 | 日々所感

自己維新の研磨に。

 昨日は、阿形充規翁のもとへ。
 深夜の一時過ぎまで、事務所でさまゞゝ御教示を賜はつた次第である。
 翁も御自分の長い運動の御經驗から、こと現在の時代の趨勢を鑑み、今後の在り方は、先づ、自身が變はらねばならぬことを力説してをられた。

 はからずも先日、西日本地區で小生が仰慕する、日本皇民党の大島竜珉党主より御電話を賜はる。
 大島先生曰く、『日本も大變な時代が來たな。我々今後は更らに眞劍にならなあかんで』と。

 兩先生の仰る、本道に其のとほりである。まことに我々自身の小さからぬ問題なのだ。
 それゞゝ人、一身に時代を背負ふの氣概が無ければならない。
 おのれ、啻に抗議や不平に口を揃へて、他力本願乃至は現在の政治家に期待を託しても、一向に實の結び難きは明々白々である。

 幕末。志ある士は、かくいふ氣概に漲り、東奔西走、或いは家を捨て、一心不亂國事に奔走した。
 この奔走に日を過ごしたる有志は、全てとは云はぬが中央政權の住民ではない。諸藩の有志達である。
 その藩を背景とした有志すら、自藩を背景とするに至るまでには心血を注がざる可からざる御勞苦があつた。南洲翁の決して順風満帆ならざる青年期は餘りにも有名なので割愛するが、贈正四位、武市瑞山先生の土佐勤王黨をみよ。
 贈従一位勲一等、大久保甲東先生然り、早くに時代を背負ふの氣概逞しくあり。甲東先生の晩年唯一の圍碁癖は、元々島津久光公に近付かんとして學んだものであつた。その周到を思ふ可し。わづかの好機をも見逃さず、久光公が手にする書籍に前以て、こつそり自身の認めた建白書を挾んだことから奇縁は結ばれた。因みにその書籍は平田篤胤先生の『古史傳』だ。
 贈正四位、清河八郎先生はその背景となる可き藩を持たなかつた。いや、持てなかつたのだ。脱藩の身のうへに、御尋ね者である。逃亡生活にあつて、日々苦慮苦悶。つひに幕府そのものを騙して浪士組を結成、京都へ登つて尊皇攘夷の建白書を 朝廷に奉つたのである。

 今日は幕末の志士を紹介することが本意ではない。
 されど、心有る日本人は先達のさうした氣概と姿勢を以て今後の時勢を睨む必要がある。

 兩先生から賜はつた訓言は、則ち野生の箴言だ。
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by sousiu | 2011-06-22 22:41 | 日々所感

日々發見、日々求學  『萬物の靈長』  

 まつたく日々は發見だ。

 原稿を書いてゐると、時折り、使用するに戸惑ふ言葉がある。
 言葉に戸惑ふ、とは乃はち、概念の曖昧さから生じるものである。これは一言にして盡せば小生の未熟なるが爲めだ。

 例へば、昨日分斷抄録した、『玉くしげ』のなかに説明されてゐる髮長用語の「因果應報」だ。
 我が機關紙でも「因なくして果の出づることなし」と記したことがある。が。言ひ譯のやうだが、これでも書きながら、惱んだ部分なのだ。
 得てして使用するに躊躇する語彙は、後々、相應しくないことが屡ば判明する。
 從つて、弊社の機關紙、號を重ねる毎に消滅した單語が尠くない。讀み返へすと、存在し得ぬ語句が陳列されてゐるのであるから、それは赤面の至りだ。

 未だ、不安な單語?概念?がいくつかある。

 そのうちのひとつ、『萬物の靈長』だ。以前、使用する前にヤフーの辭書で確認したところ、『萬物の中で最も靈妙すぐれたもの』とあつたので、う~ん、と思ひながらも使用した。小紙を御清讀くださる御方はこの語を散見したであらう。そのなかには違和感を持たれた方もあるに違ひない。さう。これはやはり野生の觀念の歪みであつた。それを賀茂眞淵先生によつて今の度び教へられたのである。


●賀茂眞淵大人『國意考』(文化三年)に曰く、
『又た、人を鳥獸に異なりと言ふは、人の方にて、我れ賞(ほ)めにいひて、外を侮るものにて、又た唐人の癖なり。四方の國を夷と卑しめて、其の言の通らぬが如し。凡そ天地の際(あひだ)に生きとし生けるものは、皆、蟲ならずや。それが中に人のみ、いかで貴く、人のみ、いかなることあるにや。唐にては、萬物の靈とかいひて(・・・こゝから耳が痛い)、最と人を貴めるを、己れが思ふに、人は萬物の惡しきものとかいふべき。いかにとなれば、天地日月の變はらぬままに、鳥も、獸も、魚も、草木も、古の如くならざるはなし。是れ憖(なまじひ)に知るてふことのありて、己れが用ひ侍るより、互ひの間に、樣々の惡しき心の出來て、終に世をも亂しぬ。又た、治まれる中にも、片見に欺きをなすぞかし。若し、天が下に、一人二人物知ることあらむ時は、善きことあるべきを、人皆智あれば、如何なることも、相打ちとなりて、終に用なきなり。今、鳥獸の目よりは、人こそ惡ろけれ、彼れに似ること勿れと、教へぬべきものなり。されば、人のもとをいはば、兄弟より別れけむ。然るを、別に定めをするは、天地に背けるものなり。見よ見よ、さることを犯すものの多きを』と。


 眞淵大人は、人をして“天下に最も優れてゐる”といふ傲慢より出でた理り(儒教や佛道など)なぞ、天地の心の悟るを阻害する原因であると説いてゐるのだ。從つて「萬物の靈長」なる觀念は、全然百害あつて一理なし、邪なるものである、とかういふわけだ。
 ・・・恐れ入りました。改めます。


○又た曰く、
世の中の生けるものを、人のみ貴しと思ふは、愚かなることなり。天地の父母の目よりは、人も獸も鳥も蟲も、同じことなるべし。夫れが中に、人許り聰きは無し。其の聰きが善きかと思へば、天が下に一人二人聰くば、善きこともあるべきを、人皆聰ければ、互に其の聰きを構ふるにつけて、よりよりに邪の起れるなり。夫れも自づからこと少き世には、思ひよもにはせ、唯、面眼(まのあたり)のみにして、事を爲す故に、聰きも少し。依りて小き事はあれど、大なる事はなし。
~中略~
 扨、少しも物學びたる人は、人を教へ、國と經濟とやらをいふよ。彼れが本とする孔子の教へすら、用ひたる世々、彼處にもなきを、此處にもて來て、如何で何の益にか立たむ。人は教へに從ふ物と思へるは、天地の心を悟らぬ故なり。教へねど犬も鳥も、其の心はかつゞゝあれば、必ず四時の行はるゝが如し。同姓を娶らずと言ふを、善しとのみ思ひて、此國は兄弟相通じたり。獸に同じといへり。天の心に、いつか鳥獸に異りといへるにや。生きとし生けるものは、皆同じ事なり。暫く制を立つるは人なれば、其の制も國により、地により、異なるべきことは、草木鳥獸も異なるが如し』と。


 言葉を正す可し、と力説した先哲は尠くない。こと國學者は多くの人が研究し、而、言擧げには細心の注意が拂はれてゐる。
 それは、言葉を正すことが即、觀念を正すことに相通ずることを誰れよりも良く存じてをられたのだ。これを逆言すれば、言葉の亂れは即ち思想の亂れ、觀念の亂れである。


 言葉を正すと云つてもそれは例へば、「頭痛が痛い」「談合し合ふ」のやうに文法上、相應しいか否か、などと云ふ瑣末なことではない(賣文屋や國語學者からみれば決して瑣末なことゝはいへまいが)。心ない人や國學を識らぬ人から能く聽かれる話で、インテリぶる爲めにわざゝゞ難しい用語を使ふ、など一聽の價値に滿たない理由を以て、言擧げを正せ、と主張したのではないのである。

 
 以上、小生の誤りは、うつかりしたことによる字句の誤用などではない。歴然たる心得違ひから生じたものだと認めねばなるまい。固よりかうした小生の觀念の歪み、誤謬には如何なる言ひ譯も用を成さぬ。
 であるからして、日々の求學は盡きる事なく、小生の好奇心を擽り續けるのだ。

 また發見したことがあれば、赤裸々に當日乘で懺悔と共に告白したい。・・・ん?「懺悔」も髮長用語、歟。こりやいかん。
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by sousiu | 2011-06-17 01:59 | 日々所感