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ほめ殺しを受けました 

 及ばずながら、維新政黨・新風に命ぜられ、今月廿四日、ニユー新橋ビル地下二階で、野生が卑見を披露することゝなつた。十四時半開場、十五時開演とのこと。
 大した話しも出來ないので、野生から廣告することも躊躇するが、一應、お約束として憚りながら宣傳を。


 それにしても、このチラシを作成したのは金友君であると拜察するが、これまた、持ち上げてくれたものだ。
 彼れの國士舘大學在學時分から識る一人として野生は、彼れが大きく成長したことを認めねばならない。
 何となれば、これまで猪武者の如く、或いは鐵砲玉の如く、抗議一徹、猪突猛進型の彼れが、姑く見ない内に、「ほめ殺し」なる高度なテクニツクを身に付けたからだ。古言に曰く、男兒三日會はずば、刮目してみよ、と。
 既に氣も重たくなつて野生はヒキコモリを再開した。つまり自らの選擇によつて外出禁止、面會謝絶となつたのだ。
 渡●●樹氏はじめ、反日の者らでは野生にこれほどのダメージを與ふる能はず。排害社、侮り難し。
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※維新政党 新風 →→ http://www.shimpu.jp/?hombu48
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by sousiu | 2012-03-06 22:22 | 報告

これで、寝ます。 

 今日といふか、昨日といふか、廿日月曜日は、憂国清心同友会本部へ。
 月刊誌『実話時報』の企畫で、有志による座談會が行なはれ、これに出席する爲めだ。
 參加者は、瑞穗塾・伊藤満塾長、新風義勇隊・鈴木浩己隊長、義信塾・市村悟代行、和心塾・吉岡茂樹塾長、護國鐵拳隊・海法文彦總體長、愛心翼賛会・山川裕克本部長、野生は司會だ。
 終始、熱氣ある座談會であつた。皇室典範に關する有識者會議に就て、現政權や將來の見通しに就て、これまでの運動に關する夫々の總括と今後の抱負など。諸先輩や道友の忌憚のない意見が交はされ、あツと云ふ間の二時間であつた。論爭こそ無かったものゝ(無いにこしたことはないのだが)、始終白熱した議論に、「実話時報」關係者も、歸り際には、「いやあ凄いもんですねえ・・・」と、滿足してをられたやうであつた。
 このやうな場を與へてくれた統亜連盟改進党・松尾秀雄党首と、清和塾・草壁悟塾長には本統に感謝、感謝である。
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 ところで、方言や、習慣の違ひがあるやうに、一口に右翼と云うても、各縣それぞれ微妙に特色や個性があると思ふ。
 以謂く、皆、一長があると思ふが、神奈川も又た、一長がある。
 木川兄の日乘で、彼れは、「神奈川有志の会」を斯う評してゐる。
 曰く、『藤田省三は「維新の精神」において、幕末の海防議論の沸騰により処士の横議、横行、横結なる新たな社会的連結に「維新の精神」を見るが、神奈川有志の会はまさにそんな「維新の精神」漲る集ひである』と。
 その「神奈川有志の会」を産んだのも、畢竟、神奈川縣の土風であるし、氣風である。

 神奈川縣は嘗て、神奈川條約なる屈辱的條約を交はし、こと横濱は異國人の生活圈とさへなつた。
 おほくの志士がこの地を憤慨し、野生の欽慕するひとり、清河八郎正明先生も燒き打ちを計畫した。
 當時の雪辱を晴らさむとの氣構へが根柢に存してゐるのか否かはわからぬが、兔に角、諸先輩がつくりあげてきたこの環境に野生も又た、育てられてきたのである。若し御興味のある方がをられるのであれば、來月號の『実話時報』を乞、ご購読。
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by sousiu | 2012-02-21 02:13 | 報告

腰痛の日曜日。

 十九日、日曜日は、不覺にも腰痛甚しく、引き籠る。以前、日乘にも記したが、渡邊文樹氏と、木川兄・河原兩選手が鼎談したDVDと、次いで大阪で日本實踐奉仕團の志賀智仁兄が對談したDVDが屆いたので、複製して關係者に發送する。
 改めて觀ると、野生の至らぬ發言もあつて、恥かしい限りだ。啓蒙とは、實に六ケ敷い。
 野生を識る人は氣付いてゐるかもわからないが、野生は日頃、どうやら注意力が足りないやうだ。自分ではさう思つてゐないのだが、生半可な返事をしてゐることを、古くからの知人に指摘されることが少くない。思ひ返せば、小學校の通信簿で先生が氣付いたところを書く欄に(名稱は失念したが)、何度か注意力が缺けてゐる、と小言を書かれてゐる。實話だ。
 であるから、かういつた對談では殊更ら集中せねばならないのであるが、挑撥にも乘らず、諭すことを目的とすると、どうしても囘りくどくなつてしまふ。
 皇國に於て、尊皇の人は、教師たる可き心掛けを以て啓蒙に當るべきだと思ふのであるが、野生はまだゝゞだ。
 木川選手も志賀選手も物怖ぢせず、實に堂々たるものだ。
 渡邊氏も、繰り返すが聞く耳を持たないでもない。
 東京で、我れらが少し駒を進め、その不足部分を志賀選手が補つてくれ又た更らに駒を進めてくれた。
 渡邊氏が今、何處を廻つてゐるのか分からぬが、四十七都道府縣を巡り終へるころには、氏は、すつかり考へ方を變へてゐるかも識れない。これこそ、有志による組織的大同團結ではなく、志による大同團結だ。若しそれが成せれば、我が陣營も中々のモンだ。
 野生は、直接渡邊氏に會つたにもかゝはらず、迂闊にも本人に云ひ逸れたことを、日乘といふ本人不在の空間であれこれ云ふほど卑怯者ではない。渡邊氏の信ずるものと、チーム木川河原志賀の信ずるものを御互ひにぶつけ合ひ、その判斷は第三者が自身で決めることなのであるのだから。それが爲めの公開對談だ。渡邊氏に軍配が上るのならば、それは木川兄や志賀兄や河原の未だ至らざることを認めなければならない。だが若し、さうだとしても、彼れらも野生も、いつまでも非力なまゝでは終はらない。若し御興味のある方がをられるのであれば、提供してくれた南南プロダクシヨンから複製、提供の許可を得たので、乞、御一報。
※「今日は大行社な気分」か「紅葉屋主人の日々實踐」でも一報投ずれば、複製してくれると存じます。
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by sousiu | 2012-02-21 01:12 | 報告

奇縁。

 一昨日の十八日。奇廼舎の御主人である山口瀛丸兄と木川智兄とで三人會。
 瀛丸兄は神仙道に生きてをられる人だ。
 木川兄と共に益々思想的にも研鑽を深めんと、都内某所に伺つた。
 敬神なき尊皇に就て、當日乘で觸れたことがある。尊皇なき愛國に就ての危險性を最早、語るまでもないが、敬神なき尊皇も結局、大同小異だ。不覺ながら、野生もその類ひであるかも知れない。時折、草稿しながら自分の文章に力がないと感じる時があるのだが、きつと、そこに原因があるのだ。

 これらのことがらを理會する爲めには、書齋的空論を幾ら重ねても覺束ない。うまく云へないが、感性、靈性を高めるには、あまり理窟に捉はれてはならないのではないかと思ふ。理論や哲學を輕視するものではないが、そのやうなものに頼り過ぎるのも、どうかと思ふ。近代の混沌も、このあたりに起因するのではなからうか。

 今は、何もわからない。以前、備中處士樣からも、靈的なものは輕々しく發言せぬやう、釘を刺されたことがある。感性や靈性を高め、或いは深め、ひたすら自身の志を研磨せるあるのみ。三人を識る、相原修命も此度びの三人會を喜んでくれてゐるに違ひない。
 何れせよ、これからだ。
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 追記。瀛丸兄より、「暘廼舎」(あけのや)てふ屋號を賜はつた。
 「暘」の意味は、「日の出」の意味で、「太陽がのぼると考へられた東の果ての場所」といふものだ。
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by sousiu | 2012-02-20 23:53 | 報告

國信氏は、もうこゝには來ない。  

 國信隆士氏が日乘を開帖したといふ。結構なことだ。本當に。

 下記、御紹介申上げます。↓↓↓

  右翼民族派の日乗 洗心会 國士の「神武不殺」
  http://sensinn.exblog.jp/


 國信氏は廣島縣在住。洗心會々長。
 彼れは近所の子供たちと御製を學ぶ傍ら、果敢な抗議行動を行なつたりもする運動家だ。
 日本國家救濟會議加盟。
 時局對策協議會々員。

 眞ん中へんの小太りで優しい顏をした紳士が、彼れだ。↓↓↓
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    ※平成廿三年四月十日、洗心會東京事務所結成式にて。國信兄と、みんな。
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by sousiu | 2012-02-08 00:58 | 報告

くわいちやう雜記 苦笑。 

二月四日、土曜日は、某所で打ち合はせがあつたものゝ、急遽、中止との報せあり。
 結局、一日中ゴロヽヽしてゐた。睡眠報國だ。睡眠報國とは、何ぞや、と思はれる御仁もあるかもわからないので、説明しよう。
 それ則はち、(文章)報國の爲めに休息することだ。これは決して、機關紙が進まないのでフテ寢したのと違ふ。鋭意健筆の前に休息したものだ。謂はゞ、戰鬪的な睡眠であり、然るに間接的な報國だ。だから、野生に向かつて、「宜い大人が一日中、ゴロヽヽと」と馬鹿にしないことだ。

二月五日、日曜日は、所用の爲め、福富町へ。その後は、鎌倉まで演奏會鑑賞。我が次女の發表會だ。音樂を學んでゐる次女の、最後の發表會。しばらく會つてゐない愚妻は、高熱で床に伏してゐるとのこと。よつてひとりで鑑賞して來た。野生の河原家所拂ひもそろゝゝ解除されるかもわからない。反省と改心の情、色薄きまゝ、と云はんよりは、全く無きまゝ。

二月六日、今日。愛倭塾、山口會長の御誘ひで、出雲大社相模分祠へ。
 厄はらひと、祖靈祭を行なふ。今日は相原修命の月命日だ。神主から、彼れの話しが出た。夢に出たといふ。
 彼れは神社に御奉仕し、國學を學び、哥も詠んだ。今更らながら、彼れは同い年と雖も、野生よりずつと先を歩いてゐたことが識れる。
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↑↑↑出雲大社相模分祠。平成廿三年一月、山口秀明さん撮影。

 相原修氏の詠みし哥
 ひたすらに すめらみことの いやさかを 祈り祈りて 我はゆかなむ

 歸りには、山口會長に御馳走となつた。二人會だ。何から何まで、今日は山口會長にお世話になつた。
 山口さんはよい人だ。このタイミングでこの臺詞を云つては、いかにも、といふ感じだが。
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by sousiu | 2012-02-06 19:11 | 報告

虎穴に入つて來ました。  

 昨日は、渡邊文樹氏の映畫を鑑賞。而して、會場で氏と大行社・木川智兄とで鼎談を行なつた。

 意外な企畫だが、これは渡邊氏の申し出によるもの。木川兄も野生も、何ぞ逃げる理由やあらん。いざ、だ。
 愛倭塾の山口、平田兩先輩、大行社湘南支部の仲村女史、銀杏結社(休眠中)河野全責任者も應援に來てくれた。

 野生は、渡邊氏のみならず、今日所謂る反日、反天■を叫ぶ者の殆どは、國賊ではないと信じてゐる。
 では、何か。彼れらは日教組教育や、戰後の誤れる歴史觀の犧牲となつた、未だ皇國の民たる自覺に至らざりし歴とした 天皇の赤子だ。
 野生のなかでは「國賊」とは、敵に與へる最上位の呼稱だと思うてゐる。例すれば、曾我入鹿、弓削道鏡、足利三代などは十分、さう呼ぶに相當する。而して、勤皇家たるもの、これら國賊を認めたとき、如何なる態度を以て接すべきか。そは口舌の徒に齊しき野生が語る能はず、それこそ歴史を開けば、先達が御自らが行爲して、吾人に教へてくれてゐる。
 一方、未だ至らざる人には如何に接すべきか。尊皇家は、既にそれ丈で皇國民としての教師たるべき資格を有してゐると野生は解釋する。資格と云はずんば、自覺だ。よつて兩者は、教師と生徒にも似た關係であると結論する。尤も教師がさうであるやうに、時には叱責せねばならない。時には懇々と説かねばならぬこともあるであらう。どれだけ、皇國臣民として名教師となり得るか、それが又た、日教組教育の汚染擴大を食ひ止める重要な一つであるとも思ふのだ。

 ところで、恥づべきことに右翼の名を用ゐつゝ、マスコミ受けを狙ふ(つまり大衆迎合)のあまり、誇りを捨て、未だ至らざる者の發言に淺はかな同意と理解を以て接する曲學阿世の徒がある。匹夫の勇ならぬ、婦人の仁だ。が、このテの手合ひは、教師たるべき資格を自ら抛棄した者と看做して宜いだらう。抑も、皇國臣民としての、教師たるべき資格を有してゐるのかどうかさへ、野生は怪しむに遅疑しない。
 野生は少年時代、恥ずかし乍ら、學業あまり振はず、持病である面倒臭病が頻々發症して學校も行つたり行かなかつたりであつた。そこで見たものは、教師に二者あり。我れら持病持ち一團に阿る者と、熱血教師との二者だ。今にして前者は名すらも忘れてしまつたが、後者は今も尚ほ鮮明に覺えてをり、成長するにつれて感謝することも少からず、ある。


 さて。渡邊氏には、日本の將來を考へるとき、何故に反天■でなければならぬのか、先づ訊ね、彼れによる冒頭の挑撥的發言にも一切心惑はされず、後半は木川選手と共に忌憚なき意見を呈した。
 野生は、一般に「反天■」を訴へる人達は、もう少し 天皇と皇國史に就て、學ぶべき必要があることを述べた。
 以下は渡邊氏に向かうて云ふのではないが、野生の識る限りに於て、反天■と云ふ人には、總じて歴史的認識が不十分であるといふ弱點を持つてゐる。率直に云へば、大凡、大東亞戰爭批判=先■批判=反天■(野生はこれにも十分な批判を加へたいが今は措く)でといふ思考的作用であつて、列聖に就ては殆ど、知識不足と云はむよりも、無知に均しい。であるから野生の如き淺學輩ではなく、研學を重ねた硬骨漢の尊皇家のまへでは、いとも簡單に論破されてしまふであらう。固よりそれ丈、造詣を深めむとすれば、殆どの者は思想的轉向を餘儀なくされる。左翼から右翼に轉向 -いや“歸結”といふべき、歟- する者は多いが右翼から左翼に轉向する者のほゞ存せぬことがこれを一層物語つてゐる。
 も一つ云へば野生は、「天皇制」といふ言葉も概念も認めない。 ↓↓乞ふ、御一讀。
◆◆呼稱「天皇制」なる言葉の本質。◆◆ http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t7/2

 君民一體の國體は、制度などてふ人工的なものではない。「皇國の眞相」と「天皇制概念乃至理念」の距離は、あまりにも遠い。亂暴に云へば、水油相合せざるの如くに齊しい。よつて、皇國の闡明には、「天皇制」の概念は無用の長物である。さういつた意味では野生も、謂はゞ「反天皇制」の立場だ。説明するまでもなく「反皇國」ではない。然も彼れらは決して「反皇國」とはいはない。日本が、皇國であると、逆説的に認めてしまふことを懼れてゐるのであらうか。或いは、天皇赤子としての本能が、それを口にさせないのであるか。「反天皇制」といふ概念の蒙昧に就て渡邊氏からの反論は無かつた。鼎談を締め括るに際して氏は、我れら二人の意見には、同意しかねるところ少なしとせない旨、申してゐたが、さりとて聽く耳がないでは無かつた。氏も、決して狹小な視野で滿足する人ではなささうだ。客席からヤジの一つでも飛んでくるかと思うたが、案外(・・・と云つたら失禮だ)、聽者も紳士であつた。決して廣いといへない會場であつたが、渡邊氏の宣傳が巧みであつたらしく、會場は滿席。この雰圍氣にあつて木川選手はまだ若いのに、實に堂々として持論を展開してゐた。天晴れなる哉。


 映畫の新作に就ては・・・、十年に一度、映畫を觀るか觀ないかの野生に問ふだけ、無駄だ。
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by sousiu | 2012-01-23 09:54 | 報告

歌道講座  

 今日は、歌道講座へ。二ケ月に一度の樂しみだ。
 和歌は和(こた)ふる歌である、と。歌を通じて學ぶところ多く、野生の樂しみは單に歌の添削のみとしない。 固より、こゝ歌道講座の主旨が、單なる歌に於ける技術的な成長のみを以てよしとするところではないのである。

 今度び、「天」に選ばれた秀歌は、木川智兄のうたであつた。

 木川智兄の哥
 ふるさとの 駅降り立てば 息白く 永き家路も あと僅かなり

 彼れは二首を詠んだのであるが、いづれも良い歌であつた。



 因みに野生も二首を詠んだ。

 壽ぎて 九重仰ぐ 民草の ひたすらにして 絆は深し

 お年玉 せがみし吾娘(あこ)の 面影も 今はなつかし 着物(はれぎ)すがたに

 何だか、半年前、和歌のことに就て何も知らなかつたころを考へると、下手ながらもからうじて詠むやうになつてきた。赤面。

 餘談であるが、眞由美先生の添削と、福永武兄の添削は、ほゞ同じ箇所で同じ内容であるといふ。
 歌の世界では流派といふのか何といふのか分らないが、それを正統に受け繼ぐといふことは、かういふことなのかも識れない。それは偏狹で、窮屈な考へ方といふことでない。自分の信ずる流派に屬するうへで、むしろ當然とさうなつてゆくものなのであらうと思ふ。しかるに、影山正治先生の志操は、今猶ほ面目躍如し後世の我れらに影響を及ぼされてをられるのである。逆言せば、正統なる繼承者の存在ありて、吾人は、影山先生の志操に接すること叶ふのである。
 同樣に、それは、信仰、思想の世界でも云へる。
 況んや、日本人としての、敬神 尊皇に於てをや、だ。
 時代と共に人が變はることは認めても、日本人としての節操や面目が變はつてはならない。


 大東會館を後にして、木川選手と乃木神社社務所二階で行はれた『維新公論會議』に參加。
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by sousiu | 2012-01-21 20:43 | 報告

國語の正統を守る民族派有志の會  

 本日は、新宿區の御苑倶樂部で行はれた、第一囘『國語の正統を守る民族派有志の會』(呼び掛け人、中村信一郎、森田忠明先生)に參加。
 大變、有意義な會であつた。
 森の中では木の葉も隱れる。こゝでは、最早、野生は變はり者ではない。それどころか、參加者はみな、正假名、正漢字の識者。教はることばかりであつた。千兩、千兩。

 當日常で再三再四述べたが、野生は國語の正統表記は傳統護持であり、つまり國防であり、翻つて野生の主張そのものであり、思想そのものである。或る人の曰く、『讀まれなければ意味がない』と、正統な表記が敬遠されることを顧慮するが、敬遠を惧れるならば『國體護持』『皇運扶翼』『承詔必謹』といふことばは總じて、馴染みがない熟語といふそれ丈の理由で、結局は敬遠される。よし、かくなる上は、それをも避けて、簡單明瞭なるこれらの熟語を用ゐず、くどゝゝしくとも普段使用する言葉を組み合せて訴へるとしよう。だが、それで本當に大衆が、復古維新の理想に同意するのか。左まで云はずとも、戰後民主主義を頭から捨て去る能ふのであらうか。
 若しも、我れらの啓蒙が今日、效果なきと云はぬまでも、牛歩遲々と思ふのならば、それ、原因は云ふまでもなく理想が間違つてゐるのではない。固より、今は馴染みがない熟語を用ゐてゐるからでもない。況して占領國語表記(戰後表記)を用ゐてゐないからでもなんでもない。國民の生活に、社會に、斯くなる理想も熟語も正統表記も疏遠となつたが爲めである。而、だからこそ、我れらの運動の必要性が存する。抑も我れら國民は、當時の米國教育使節團や現在の日教組による國語改惡計畫に與する可き理由が無い。
 肝腎なことは、その發信者たる我れらが確乎たる自信を持つことである。それなくして、熟語に、若しくは正統表記に責めありとせば、日蓮の如きに笑はれてしまふことは避けられまい。好むと好まざるは別にせよ、彼れらは「南無妙法蓮華經」と唱へることをやめず今に至つたのだ。
 現代の萬人が我が理想を嘲笑せんとも、上記熟語に苦笑せんとも、國語の正統表記に笑止せんとも、この理解を得られるまで妥協せず、自信と確信を以て善導せむとするの信念が、啓蒙者には問はれるのである。

 ことに興味深き御意見として、一參加者の曰く、是非はともあれ猶太があれだけの力を逞しくさせた一因は、國なくともみな、言葉を忘れず大切に護つて來たことである。一方、領土あれども自國の言葉をおろそかにした民族は頽廢し、やがて滅びる、と。例として埃及はじめ他國や、或いは歴史的にも論證されてゐたが、不覺にもこゝで説明出來るほど、記憶に自信が無い。汗。

 さても隣席の福田邦宏先輩、またゝゝ變態的發言を述べる。このまゝ放つておくと、神代文字のことまで云ひ出しかねず、よつて割つて入つた。お許し、いや、感謝していたゞきたい。

 ともかく、かうした研究や論議する會合があることは宜いことだ。
 ちよつと視野を轉じてみれば、なるほど、色々な運動がある。
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by sousiu | 2012-01-16 23:41 | 報告

平成の奇特な人たち  

 一昨日は時對協の總會竝びに忘年會があり、參加。もう一年が過ぎるのかと思ふ。
 時對協も年々人や團體が増えてゐるが、氣が付けば變な人ばかりとなつてきた。
 この日、新しく、『國賊天誅新聞社』の社主である、渡邊俊幸氏も加盟。
 この人は天下を家としてゐる脱藩人。おそらく名實共に野生の先輩となる可き御方だ。尤も野生の場合、望んで河原家から脱藩するわけではないのであるが・・・吁。
 兎も角、又た一人、奇特な人が入つて來た。

 定例會も忘年會も各地方から同志が上京し、おほいに盛り上つた。野生の坐る前は木川智選手。右は國信隆士選手。右斜め前は坂田昌己選手。左は壁なので、挾み將棋で完全に動けなくなつた「歩」の状態だ。
 彼れら三者はいづれも己だけは常人だと思うてゐるやうだ。特に勘違ひも甚しく思ふのは、坂田選手である。彼れにはいくら親切懇到に説明しても、自分がマトモだといふ認識を改めない。寧ろ、職場でも飲み屋でも自分が人氣者であると信じて疑はない。
 彼れは仕事着のまゝで宮城縣から新幹線に乘り參加。中絞めが終はつてまた仙臺に歸るのだといふ。それは感心であるが、何となく、巧く説明出來ないが、普通ではないことだけは確かである。
 彼れは誰れも聞きたがらない結界の話しをし盡して、そして歸つて行つた。



 さて。『寛政の三奇人』と呼ばれる人がある。
 高山彦九郎、林子平兩先生と、そして蒲生秀實先生の御三方をいふ。
 今日は蒲生秀實先生に就て觸れたい。尊皇の志高き先生は、蒲生君平の名で知られる。

●蒲生先生、能く能く同志に語るに曰く、
『君は八平のことを知つてゐるか。佛法が神洲に入つてから、帝王の葬も亦火葬を以て禮とする。八平は平安に居て、魚を賣るを業としてゐたが、後光明帝の儒學を崇んで佛法を擯け給ふに及んで彼は、火葬の舊例に從ふ事を恐れ、火葬は先帝の意に非ずと云つて泣々公卿に告げ歩いたので朝廷も即ちその儀を止めるに至つた、一魚賣りでありながら尚よくその力によつて帝の神魂を安んじ奉る事が出來たのだ』と(「勤皇烈士に學べ」昭和十八年八月卅一日「建設社」發行)


●「蒲生君平全集」編者、三島吉太郎氏の曰く、
『(蒲生)先生は初め鹿沼の鈴木石橋と云ふ先生に就いて經學を修め、忠義の狗となるとも亂離の人とならずの志を抱かれ、早くより國史舊記を渉獵して古學を興すの心に燃えてゐた
 ~中略~ かくて先生は九志の編述を思ひ立たれたが古の山陵多く荒廢して、その跡すら定かでないものがあるのを慨嘆され、まづ山陵志から着手されたのだ。爾來先生は古圖舊記を參考として、自ら各地を歴巡されたが、先生は貧しかつたので先づ金策で頭を痛めねばならなかつた。先生が親戚に金子十兩の借用方を依頼した書簡が舊宇都宮藩主戸田家に所藏され俗に「柿餠の手紙」と云はれてゐるが、これなど縷々百言、終ひには自分の如きものに金を貸與するのは「是亦天下第一の義擧に御座候」と迄書いて一讀、その赤誠に打たれるものがある』と。※括弧及び括弧内は野生による。


●「維新の史蹟」(昭和十四年六月一日「星野書店」發行)に曰く、
『歌人小澤蘆庵のもとに寄寓した彼(蒲生翁)は、この老歌人より厚き知遇を得て、その厚情の下に仕事(「山陵志」の著述のこと)を進めることを得た。日々山陵を踏査し、暑熱の中を汗にまみれて歸る君平のために、蘆庵が自ら湯を沸して汗を拭はしめ、彼の辭退を許さなかつたとの逸話は、老若彼等二人の交情の美はしさとともに、蘆庵自身の尊王への敬虔さを床しく偲ばしめるものがある。また傳へていはく、一日君平が酒氣を帶びて子の刻(十二時)に至つて漸く歸宅したが、彼を信頼することの厚かつただけに蘆庵の甚しい憤激を買はねばならなかつた。しかしそれに對する君平の辯解は「山陵の搜査を續けて歩き廻るうちにたまゝゝ等持院に至り、足利尊氏の石塔を見出し、逆臣尊氏への憤恨たへがたく杖をもつて鞭ち、懲虐叱咤せしも餘憤なほ去らず、酒をあふるに至つた」と、直情徑行の彼の性格をもつともよく語る好個の逸話であらう』
 而して曰く、
『彼は遂にその死に至るまで世人に容れられず、晩年は專ら著述の中にわづかにその慰めを見出してゐたが、文化十二年七月五日不遇のうちに江戸に歿した。「君平傳」に馬琴は評していふ「奇人にして世事に疎く候ゆゑ、知らぬ人そしる人多かりし」と。推移流轉する時代の歴史の潮流の中に見る時、彼の生涯は來るべき新日本誕生の、維新革命の機運への伏線としての一存在に過ぎなかつた。しかしながら多彩奇行を極めた彼一個の人生は、異端視の中に終始した悲運なりし英雄の一生であつたが、彼が半生の意力を注ぎ粒々辛苦して大成せる「山陵志」は、なにゝも増して報ひられざれし彼生前の名譽を、後世の人々に求めて憚らぬものがあるであらう』と。※仝。

 先月、蒲生秀實先生の著する『山陵志』を拜讀。
 去る夏、大阪の志賀智仁君宅に泊まつた際(餘談であるが、この志賀といふ友人も又た奇特な漢である)も、一度讀んだのであるが、六ケ敷く、容易に解する能はざるものであつた。けれ共、その後、御歴代の御追號を覺えてから、再び讀んでみると、今度は案外親しみ易く、比較的解することが出來た。
 御陵に就て造詣を深めたく、更らに『勤王文庫 第三集 山陵記集』(大正十年七月廿日「大日本明道館」發行)を購入。
 昨夜は松下見林翁の『前王廟陵記』を拜讀した。こちらの方が、淺學非才の野生には入り易い。馬齡を重ねる四十一、遺憾ながら中々頭に入らなくなつてきてゐる・・・。
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by sousiu | 2011-12-03 22:54 | 報告